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池波正太郎「真田太平記」(全12巻)の感想とあらすじは?

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池波正太郎の「真田太平記」の紹介です。

直木三十五賞受賞作『錯乱』が真田信之を主人公にしたものであるのを筆頭に、真田家を舞台にした作品は数多くあります。

その「真田もの」の集大成がこの真田太平記です。

『真田もの』というと、真田幸村・大助父子の活躍と講談本『立川文庫』から生まれた真田十勇士らが有名です。

真田十勇士

  1. 猿飛佐助
  2. 霧隠才蔵
  3. 海野六郎
  4. 穴山小助
  5. 由利鎌之助
  6. 根津甚八
  7. 望月六郎
  8. 筧十蔵
  9. 三好晴海入道
  10. 三好伊三入道

池波正太郎の真田太平記では真田十勇士は登場しません。真田十勇士を彷彿させる忍びは登場します。

真田昌幸から始まり、真田信之が松代に移るまでの真田家の隆盛を丹念に描き、まさに太平記に値する壮大な物語となっています。

さて、真田一族の中では真田昌幸・幸村の評価や人気が非常に高いですが、池波正太郎の一連の真田ものを読むと、好んで取り上げているのが信之や信之を中心にした人物です。鈴木右近忠重などもそうです。

真田昌幸、幸村に対する愛着はもちろんあるのでしょうが、それにも増して池波正太郎にとって魅力的なのが信之なのだろうと思われます。

それは、幾度となく作品中にでてくる幸村の言葉『…真田家の跡取りが兄上(信幸)であることだ。あのようなひとは、めったに、この世に生まれ出るものではない。はきと申すなら、父上(昌幸)など足許にも寄れぬお人だ』という言葉にも現れていると思います。

つまり、池波正太郎は人気のある幸村が自分より信之の方が格上であることを”幸村”の口を借りて述べさせている位、信之を評価している節があるのです。

しかしながら、真田太平記では、真田父子を昌幸・信之・幸村それぞれの立場から描き、信之を中心とした物語の構成にはなっていません。

池波正太郎が真田の物語を太平記として描こうとした魅力とは何なのでしょうか?

物語の終盤に、次のように語っています。

「…いまの天下に、初一念をつらぬく漢たちがどれほどいようか。漢が、武士が思い惑い、迷いぬいて、ふらふらと何度でも、おのれの初一念をわれから覆す世とはなった」
関ヶ原を境にして、昌幸・幸村の真田父子は豊臣家へ、伊豆守信之は父と弟と別れて徳川の傘下に入り、それぞれの決意を微動もさせず、今日に至った。
初一念とは、事にのぞんで一瞬のうちに決意をかためることだ。
その一瞬に、決意した者の全人格が具現されることになる。
口には出さずとも、武士にとって、この初一念ほど大事なものはない。

池波正太郎 真田太平記

つまり、真田昌幸・幸村は豊臣家、真田信之は徳川家に味方し、終始変わることがなかったことが、池波正太郎にとって武士の美として写り、魅力的だったのではないでしょうか。そう思えてなりません。

自分の決めた道を、終生変えずに生きていくことができる人間は、昔も今も少ないは同じでしょうが、それだけに、そういう生き方が清冽にうつったのかも知れません。

本書のもう一つの魅力は『草の者』たちの活躍でしょう。

決して漫画的な忍術を披露する忍びではありません。

あくまでも、厳しい鍛錬によって裏付けられた超人的な体力、肉体を持つ忍びです。

これらの忍びは草の者を中心として、甲賀忍びを交え、随所で本書を魅力的にさせています。

忍びに関しては、『真田太平記』『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』と並んで、池波正太郎のもう一つの連作と言ってよい『忍者もの』で、真田太平記でなじみの向井佐助らを度々登場させています。

ある意味、この『忍者もの』は裏真田太平記と言って良いくらいのものであり、本書と併せて読むと、かなり満足します。

  1. 夜の戦士
  2. 蝶の戦記
  3. 忍びの風
  4. 忍びの旗
  5. 忍者丹波大介
  6. 忍びの女
  7. 火の国の城

なお、真田太平記がさらに楽しめるという意味の他に、すっげーボリュームになるという意味もあります。

それでも併せて読むのがおススメです。

本書に関係する短編
→「闇の中の声」「やぶれ弥五兵衛」(「忍者群像」に収録)

真田を描いた他の作品
海音寺潮五郎真田幸村

内容/あらすじ/ネタバレ

天魔の夏

話は武田家の滅亡から始まる。

織田家との戦さで瀕死の重傷を負った武田の長柄足軽の子、向井佐平次をともなって、お江は苦心の末、ようやくに真田の領内に逃げ延びることに成功した。

怪我をしていた佐平次は治療に専念するため温泉地で日々を過ごした。ある日、佐平次は真田信繁(後の幸村)と出会い、信繁の家臣となる。

やがて一年が過ぎ、武田が滅亡して織田信長の天下が見えた矢先、明智光秀の謀反により織田信長が急死してしまう。天下の情勢は混沌とし始め、真田昌幸は領土及び家の存続のためにいかように対処すべきか頭を悩ませる。

秘密

徳川家と北条家に挟まれ、北からは上杉家の圧力も受ける真田昌幸は上田の地に城を築くことに心血を注ぎ始める。
父昌幸が上田城築城に心血を注ぎ始めたころ、真田信繁(幸村)は向井佐平次に自身の出生の秘密を告白し、主従の絆をより一層深める。

一方、昌幸の甥の樋口角兵衛が出奔し、いよいよ真田一族の因縁と波乱に満ちた興亡史が幕開けとなる。

上田攻め

まだ完成していない上田城に、徳川軍が襲いかかる。圧倒的な兵力の差があったが、昌幸、信幸の知略の下、真田勢は徳川軍を退けることに成功し、結果、昌幸の実力が天下にとどろくことになる。

上田攻めに失敗した徳川家康は、豊臣秀吉との微妙な力関係から、真田家と縁戚関係を結ぶため、家臣の本多忠勝の娘を自分の養女とし、真田信幸に嫁がせることにする。

一方、北の上杉には次男信繁(幸村)を人質として差し出し、真田家の安泰を図るが、その矢先、秀吉から幸村を大阪へ人質として差し出すようにいわれ、昌幸は困惑する。昌幸が幸村を大阪へ人質として差し出した後、秀吉はいよいよ北条征伐のための謀を巡らせ始める。

甲賀問答

北条を攻め落とし、天下人となった秀吉は朝鮮への進出を企む。度重なる出兵に諸大名はうんざりとしているが、秀吉には逆らうことができない。多くの大名が朝鮮に出兵している中、真田一族は朝鮮へ出兵することなく、秀吉と共に肥前名護屋の地にいた。しかしそんな中、秀吉は相次ぐ身内の不幸に態度を変化させる。

その一方、秀吉の没後を睨んだ忍びの暗躍が始まろうとしていた。真田の草の者お江は、甲賀に忍び込み情報を得ようと目論んでいたが、甲賀の地で瀕死の重傷を負ってしまい甲賀の地から抜け出せなくなった。その様子を知りつつ、甲賀忍びの頭領山中大和守俊房は草の者の隠れ家を探し出すため、お江が回復するのを待って泳がせる。

秀頼誕生

秀吉に待望の子が誕生した。後の秀頼である。しかし、秀吉には死期が近づいていた。自分の亡き後の秀頼を、五大老をはじめとした有力大名に託し、秀吉は逝った。そして、五大老の一人、前田利家も病に冒され、勢力の均衡が崩れ始めていた。

朝鮮への出兵以来、豊臣家臣の文治派と武断派の対立は、睨みをきかせていた前田利家の病状の悪化と共にいよいよ激化する。それを利用して、徳川家康は自身の野心をかなえるため、本格的に行動し始める。
一方、お江に助けられた向井佐平次の息子向井佐助は草の者としての修行を終え、一人前の本格的な忍びの仕事を始めることとなる。

時代は、風雲急を告げ始めていた。

家康東下

五大老の一人上杉景勝が戦の用意をしているという情報が舞い込んできた。徳川家康は豊臣秀頼に楯突くものだという名目で、上杉征伐に乗り出すが、これには別の真の目的があった。石田三成の挙兵を誘い出すことである。家康の目的通り、三成は挙兵をした。家康は自身での上杉討伐を中止し、西へ舞い戻る準備を始めた。

三成挙兵の知らせを受けた昌幸は、長男信幸、次男幸村の三人で、進退を相談するが、それぞれの思いは既に決していた。これ以来、真田の一族兄弟が敵味方に分かれ、別々の道を歩み始める。

関ヶ原

真田昌幸、幸村父子が、徳川秀忠軍を上田城で足止めをしている内に関ヶ原の戦いの火蓋が切って落とされた。石田三成は自軍諸将への対応の悪さから自軍の士気を下げてしまい、西軍の結束がはかれない。徳川家康も嫡子秀忠が決戦に間に合わない状態で戦に挑むことになり、兵力は十分ではないが、徐々に家康の政治力がものをいいはじめ、東軍の勝利に終わる。戦の中、草の者は壺屋又五郎らを中心に乾坤一擲の勝負に打って出るが、壮絶な戦いの末、多数の草の者が死んでしまう。

関ヶ原の戦いは徳川家康の東軍の勝利に終わった。敗軍の将となった真田昌幸、幸村父子は、信幸の岳父・本多忠勝の助命により救われ、紀州の九度山へ押し込められることになった。

紀州九度山

真田昌幸・幸村父子が紀州九度山に追われ月日は流れた。徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、徳川体制が徐々に固まりつつあったが、同時に大坂の豊臣家との仲が険悪化しつつあった。

この状況に、豊臣に縁のあるものが険悪化しつつある両者の関係を修復するため奔走する。その動きは、京を舞台に加藤清正を中心として、豊臣秀吉にも重宝され、徳川家康からも多大な援助を受けている当代の才媛小野のお通を交え、行われた。

草の者も、九度山の真田父子と連携を取りながら、京を中心に活動を活発化させ始めた。その折、真田昌幸の体調は悪化しつつあった。

二条城

大坂の豊臣秀頼と関東の徳川家康との間を取り持つため、加藤清正と浅野幸長が奔走する。徳川家康の上洛を前に、二人の思うところは、豊臣家を守ることであった。そのころ、草の者は、徳川家康上洛にあわせて家康を急襲しようと図るが、計画は実行されなかった。

二条城での豊臣秀頼と徳川家康の対面は無事終了した。しかし、加藤清正が急死し、数年後浅野幸長も没する。このように豊臣家を支える大名の数は減っていった。

豊臣家に縁のある寺の再建を行い、大仏の開眼式を行う段になり急遽取りやめになった。徳川家康から大梵鐘に刻まれる文言に文句が付いたのだ。とまどう豊臣家に、徳川家康は頑として譲らない。

急速に緊迫化しつつある関東と大阪の関係のなか、真田昌幸は九度山で静かに息を引き取った。

大坂入城

徳川家康が強引に豊臣家を開戦に追い込んだ。真田幸村は九度山を脱出し、大阪城に入城する。散っていた故昌幸配下の家臣も幸村と合流し、出城として真田丸を築き、徳川勢を待ち受ける。

大坂冬の陣の始まりである。

しかし、開戦当初から豊臣方の重臣達に覇気がない。裏では早くも徳川との調停を画策し始めていた。そんな中、真田幸村は徳川軍をさんざんに打ち破った。これで、父昌幸や兄信之の陰に隠れていた幸村の名が知られるようになる。だが、決戦は行われず、戦らしい戦もないまま、大坂冬の陣は終了してしまう。

大坂夏の陣

大坂冬の陣の戦後すぐに、大坂城の堀が埋め立てられ、大坂城は丸裸となった。その後、徳川家康は豊臣方の動きが不穏であるとして、再び大坂城を攻める事になった。大坂夏の陣である。

決戦の前に、徳川家康より真田幸村を説得し味方につけよとの命を受けた真田信之は、無駄を知りつつ小野のお通の館で幸村と最期の対面を果たす。幸村の説得はできずに兄弟は別れ、最後の決戦へと挑む。

真田幸村は統制のとれない豊臣勢をあてにはせず、自身の戦を展開して真田の兵法を天下に知らしめて、死のうと考えていた。

大坂夏の陣の戦が始まり、真田幸村は乾坤一擲の突撃を試み、あとわずかのところで徳川家康を討ちそびれてしまう。突撃に失敗した幸村は、最期の死に場所を満身創痍の体で求めた。そして、既に死んでいた向井佐平次を見つけ、かつて佐平次に語ったように同じ場所で共に死ぬことになった。

真田幸村、ここに死す。

雲の峰

豊臣家を大坂夏の陣で滅ぼした徳川家康も、ついに寿命が尽きた。徳川家の盤石の体制作りは二代目将軍秀忠に委ねられた。秀忠は諸大名の力を削ぐため、改易・国替えを頻繁に行った。

真田家もそのそしりを免れない。そもそも、秀忠は関ヶ原の戦いの時に真田昌幸・幸村父子に上田城で足止めを食らって、遅参した苦い思いがあり、その思いがそのまま真田家憎しに転じている節がある。真田信之は真田家を守るために、あらぬ疑いをかけられぬように万全の体制で幕府に対処する必要に迫られていた。

その矢先、幕府から呼び出しを受け、幕府の抱く疑惑を晴らす必要に迫られる。信之はその用心深さから、なんとか疑惑を晴らすことに成功するが、必ずしも安泰ではなかった。案の定、理由はさておき、幕府は信之に上田から松代への国替えを命じた。真田家は以後松代で幕末を迎える。

真田太平記の大円団!!!

後書きで、池波正太郎は滝川三九郎一績のその後を簡単に紹介している。

本書について

真田太平記
新潮文庫

目次

第1巻:天魔の夏
春の雪崩
脱出
岩櫃の城
草の者
真田の庄
天魔の夏

第2巻:秘密
上田築城
角兵衛出奔
襲う
秘密
戦雲
湯けむり

第3巻:上田攻め
上田攻め
華燭
闇の声
密書
落城
小田原攻め
行方も知れず

第4巻:甲賀問答
甲賀問答
隠し径
佐平次の子
地の底
肥前・名護屋
地下蔵
遁走
大政所の死

第5巻:秀頼誕生
秀頼誕生
伏見の城
追跡
慶長元年
落日
角兵衛と佐助
利家の死
風雲

第6巻:家康東下
地炉の間
慶長五年
乱雲
家康東下
犬伏の陣
闘志
進撃

第7巻:関ケ原
家康西上
長良川
夜雨
関ヶ原
処断

第8巻:紀州九度山
別離
戦後
戸棚風呂
主計頭清正
霜夜
紀州九度山

第9巻:二条城
料理人・永井養順
遠州・中山峠
三方ヶ原
二条城
急変

鐘銘紛乱

第10巻:大坂入城
且元退去
大坂冬の陣
真田丸

第11巻:大坂夏の陣
兄弟

婚礼
大坂夏の陣
血戦
落城

第12巻:雲の峰
戦後
上田城にて
雲の峰
笹井丹之助
対決
遺品
告白
時勢
初雪
別れゆくとき

登場人物

真田安房守昌幸
山手殿(典子:正室)
真田壱岐守信尹(実弟)
真田伊豆守(源三郎)信幸(後:信之、長男)
小松殿(稲姫:信幸の妻:本多忠勝の娘)
まん姫(信幸の長女)
真田河内守信吉(孫六郎)(信幸の長男)
真田内記(信幸の次男)
真田左衛門佐(源二郎)幸村(次男:信繁)
於利世(幸村の妻:大谷吉継の娘)
真田大助幸昌(幸村の長男)
於喜久(幸村の長女)
矢沢薩摩守頼綱(叔父)
矢沢但馬守頼康(頼綱の子)
樋口角兵衛(甥)
於国(村松どの)(長女)
小山田壱岐守茂誠(於国の夫)
お徳
お菊(昌幸とお徳の娘)
滝川三九郎一績(滝川一益の孫)
鈴木主水
鈴木右近(小太郎)忠重(主水の子)
池田長門守綱重
馬場彦四郎
小川治郎右衛門
向井佐平次(幸村の家来)
(草の者:伊那忍び)
もよ(佐平次の妻)
向井佐助(佐平次の子)
橫沢余七(もよの叔父)
壺屋又五郎
お江(馬杉市蔵の娘)
奥村弥五兵衛
小助
姉山甚八
鞍掛八郎
大滝伍平
五瀬の太郎次
佐久閒峰蔵
宮塚才蔵
おくに
中原丈助
豊臣秀吉
北政所(高台院:秀吉の正室)
豊臣秀頼
淀殿(秀吉の側室)
石田治部少輔三成
大谷刑部少輔吉継
加藤主計頭清正
飯田覚兵衛
鎌田兵四朗行種
片山梅春
浅野左京太夫幸長
永井百助(養順)
後藤又兵衛基次
渡辺勘兵衛
長宗我部盛親
徳川家康
徳川秀忠
本多平八郎忠勝
慈海和尚
上杉景勝
直江兼続
北条氏政
北条氏直
小野のお通
柳生但馬守宗巌(石舟斎)
柳生五郎右衛門宗章
(甲賀忍び)
山中大和守俊房
山中内匠長俊(俊房の又従兄弟)
伴長信
猫田与助
杉坂重五郎
柏木吉兵衛
心山和尚
住吉慶春(酒巻才蔵)
田子庄左衛門
下口半兵衛
お才
池ノ脇藤左
迫小四朗

池波正太郎の真田もの

池波正太郎 池波正太郎の真田もの。「真田太平記」を筆頭にして、数多くの「真田もの」が書かれています。