覚書/感想/コメント
この巻は南伊予と西土佐を扱っている。
司馬遼太郎氏は高浜虚子の「子規居士と余」という文章が好きだったそうだ。これが「坂の上の雲」を書く動機の一つとなっているようである。
江戸時代、伊予にはわずかな天領の他、八つの藩があった。松山、宇和島が代表格で、大洲、今治、西条、新谷、小松、吉田があった。版籍奉還で、八藩は八県となり、明治五年二県に集約される。
松山を中心とするのは松山県と呼ばれたが、時の県令が古くさいというので「石鉄県」としたことがあった。
明治六年には二県が統合され、伊予一国で一県となり、「愛媛県」となる。古事記に伊予は愛比売(えひめ)とあり、文字通り「いい女」という意味だそうだ。
松山城と城下町を作ったのは加藤嘉明である。みずからもっこをかついで土を運んだというのは、他の豊臣期の大名と同じである。
大洲藩は加藤光泰が祖となっている。砥部では砥石がとれる。仕上げ砥石ではなく、中砥とよばれるものである。
この砥石をつかって陶器ができないかと考えた藩主がいた。結局、砥石は材料として不的確だったのだが、執念が実ったのか、陶石が見つかり、これが砥部焼きへとつながることになる。
司馬氏は民芸運動というのが嫌いなようで、民芸風の色がない砥部焼きをみて、ホッとする思いがしたそうだ。
卯之町に開明小学校というのがある。明治十五年に建てられた日本最古の小学校建物だそうだ。今でもあるのだろうか?
明治文明開化期の教科書などが保存、陳列されていたようだ。
こうしたものを見ると、近代革命の多くがそうであるように、言語改革や文字改革に手を付けている。また、教科書のほとんどは西洋の翻訳、翻案であったそうだ。
面白いのは、オトウサン、オカアサンという言葉は、明治政府によって創り出された言葉だそうだ。江戸時代にはどの階層、地方にもなかった言葉だという。
この卯之町には二宮敬作という江戸末期の代表的な洋学者がいた。
江戸末期において、蘭学は宇和島といわれたときがあった。わずか十万石で、江戸や上方からも離れた土地で、新しい学問が花を開いたのだ。こうしたことも、二宮敬作という人物を輩出するのに良かったのではないだろうか。
宇和島藩は伊達家である。奥州の伊達家である。伊達政宗の第一子・秀宗が初代藩主である。
秀宗は豊臣秀吉に拝謁したことにより、伊達家の世継ぎとなっていた。秀吉の手元に置かれ大坂城で育つ。いわば人質だ。
だが、関ヶ原で徳川家康が勝つと、豊臣家にいっている秀宗の始末に困る。結局、次男虎菊丸(後の忠宗)を家康と秀忠に拝謁させ、秀宗はいつの間にか嗣子の座から降ろされた。
秀宗は別家をたてさせられ、伊予宇和島十万石が与えられた。秀宗は五十七騎の士分とその家来達をあわせ、おそらく千人を超える仙台の人間を連れ、宇和島に入る。そのため、伊予は上方語圏にもかかわらず、宇和島はアズマ方言が微妙に入り込んでいるそうだ。
伊達家が入る前は、戸田民部少輔勝隆というのが領していたが、殺人を平気でやるような手合いだったようで、暴政だった。その後、藤堂高虎が五年ほど領主となり、多少回復したものの、冨田信高というのが戸田に似ていたようだ。
こうした時に伊達氏が入ってくるので、伊達政宗はそうとう気を遣ったようだ。
正宗は、山家清兵衛というさほどの身分でもなかったものを、惣奉行という事実上の民政・財務長官に抜擢した。期待に違わず、山家は六年ほどの間で相当な実績を残す。結果として、いまなお神として崇められているそうだ。
が、この山家は筆頭家老の桜田玄蕃が送ったと思われる刺客に殺されることとなる。秀宗の黙認もあったようで、上意とみた方がいいようだ。
第八代藩主・伊達宗城は幕末において四賢侯と呼ばれていたが、旗本・山口相模守の次男で、十二歳の時に宇和島伊達家の養子となった。
養父である宗紀はその後も在世し、明治二十二年に、満九十七歳で死んだ。大名としては珍しく財政家で殖産家であった。
この宗紀には逸話がある。長寿の秘訣をきいた訪客にたいして、それは、女色を遠ざけることだと答える。いつから遠ざけたのかと聞くと、七十の時からだと真顔で答えたという。
本書について
司馬遼太郎
街道をゆく14
南伊予・西土佐の道
朝日文庫
約一九〇頁
目次
南伊予・西土佐の道
伊予と愛媛
重信川
大森彦七のこと
砥部焼
大洲の旧城下
富士山
卯之町
敬作の露地
法華津峠
宇和島の神
吉田でのこと
城の山
新・宇和島騒動
微妙な季節
神田川原
松丸街道
松丸と土佐
お道を