上泉伊勢守信綱(かみいずみ・いせのかみ・のぶつな)は黒澤明監督の「七人の侍」の島田勘兵衛のモデルとして知られます。
有名な逸話が映画で使われています。
諸国遍歴の旅の途中。
立ち寄った尾張の村で、浪人が子供を人質に民家に立て籠もりました。それを見た上泉伊勢守信綱は、頭を剃り、袈裟を借り、僧侶の格好をします。
そして、相手を油断させて、一瞬の隙を見て子供を助け出しました。(尾張一の宮の妙興寺の門前だったという説もあるようです。)
この逸話だけでは「剣聖」と呼ばれた理由が分かりませんが、とにかく弟子がすごいのです。錚々たる剣豪が上泉伊勢守信綱を師と仰いでいます。
そして、上泉伊勢守信綱を祖とする「新陰流」は現代につながる流派として、受け継がれています。
上泉信綱を描いた小説
上泉伊勢守信綱の略歴
生誕
生没年は不詳です。戦国時代の武人。永正5年(1508年)頃 – 天正5年(1577年)頃。(没年は天正元年(1573年)や天正10年(1582年)などの説もある)
読みは「かみいずみ」または「こういずみ」。居城のあった前橋市上泉町は「かみいずみ」。「言継卿記」には大胡武蔵守または上泉武蔵守信綱で出ています。伊勢守は通称で、正親町天皇(おおぎまちてんのう)からの受領名は武蔵守。
永正5年(1508年)頃。上野国赤城山麓(前橋市上泉町)の上泉もしくは上泉城で生まれたとされます。
通説では父は大胡城主・大胡武蔵守秀継。大胡氏の出で、上泉は通称ということになります。
大胡氏は藤原秀郷を祖とする家柄です。藤原秀郷は平将門を討伐した武将として知られ、秀郷の子孫は部門の家柄として栄えました。秀郷流の家柄は、清和源氏、桓武平氏の流れと同じく武門の名門に連なります。
ただし、上泉家伝来の系譜では父は上泉武蔵守義綱とされ、一色氏の一族が大胡氏の名跡を継ぎ、上泉氏の祖となったと伝えられています。
祖父は時秀。祖父、父共に武芸を好んでいました。父の代に、陰流の愛洲移香斎が上泉城に立ち寄ったと伝わっています。また、父は常陸の鹿島で松本備前守政信の指導を受けたらしいです。
名は秀長⇒秀綱⇒信綱(永禄8年または9年から)。また、伊勢守⇒武蔵守と変わっていったようです。
幼少のころのことは分かっていません。
剣術修行
十代の前半から半ばころに兵法修のため、鹿島神宮のある鹿島(現在の茨城県)に行っています。永正17年(1520年)13歳の時という。修行は鹿島と、その近くの香取神宮のある香取(現在の千葉県)で行いました。
現在の群馬県の前橋から、茨城県の鹿島、千葉県の香取は遠いです。
どのような旅をしたのかわかりませんが、旧道を通ったのだとしたら、栃木県の南部までは東山道で行き、そこから茨城へ抜ける道を歩いていったのでしょうか。
また、鹿島と香取は地図上では近いです、間には利根川があり、ちょうど川幅が広くなっているところのため、簡単な往来ができるところでもありません。
実際に見に行ってみると、上泉信綱がいかに大変な修行をしたのかが分かる気がします。
さて、これ以前から鹿島及び近くの香取は兵法が盛んだったようです。鹿島には塚原卜伝が、香取には飯篠長威斉家直がいました。
流派
上泉信綱は陰流、神道流、念流を学んだとされます。
修行の地の一つである香取といえば、天真正伝香取神道流(通称:神道流)が有名です。
飯篠長威斎家直が興した流派で、上泉信綱の時代は飯篠長威斎家直の高弟・松本備前守政信が存命でした。
この松本備前守に師事したとされます。他の説としては松本尚勝に師事したというのもあるようです。
松本備前守政信から「鹿島の太刀」を学び、4年後に、松本備前守政信が鹿島家の内紛で戦死する前に、天真正伝香取神道流の奥義を授かりました。
塚原卜伝に教わった可能性もありますが、不明です。
また、他に念流を学んだとされますが、誰に学んだのかが分かっていません。念流は念阿弥慈恩を流祖とします。念阿弥慈恩は福島出身とされ、東国(=関東)に良い弟子がいたようなので、その流れで学んだのでしょうか。
陰流は愛洲移香斎(久忠)から学んだといわれます。鹿島から日向(宮崎)の鵜戸神宮に愛洲移香斎を訪ねて弟子入りしたそうです。
晩年、愛洲移香斎は鵜戸神宮の神職を務めていたといわれています。愛洲移香斎は伊勢(現在の三重)出身とされ、西国方面での足跡があります。本当に九州まで行ったのかは不明です。
一説には、移香斎の子・愛洲元香斎小七郎(猿飛陰流)に学んだといいます。
いずれにしても陰流の直系から学んだようです。ちなみに、上泉信綱の弟子・疋田豊五郎によると、愛洲元香斎から学んだことになっています。
のちに、上泉信綱が興した流派が新陰流と呼ばれるようになるので、陰流の影響が大きいのは間違いありません。24歳の時に奥義を授かっています。愛洲移香斎に教えを受けたとしたら、80歳を超える老齢だったと思われます。
こうした兵法修行がどれくらい続いたのか、連続だったのか、断続的だったのかすらわかりませんが、一定の区切りをつけて戻っています。
「中古、念流、新当流またまた陰流あり、その他は計るに耐えず。予は諸流の奥義を究め、陰流において別に奇妙を抽出して新陰流を号す」
武将として
時代が飛びます。故郷に戻ったあと、大胡城主となり、長野業正に使えます。
天文24年(1555年)。上泉信綱は40代になっています。この年に北条氏康の大胡城攻撃に会い開城したとされます。その後、上泉の地に蟄居したといいます。
また、弘治3年(1557)武田軍が長野氏の箕輪城を攻めた際は、長野氏側の将として「上泉伊勢守」の名があります。前述との期間がさほどないが、蟄居が解けたのでしょうか。
上泉信綱は長野業正と子・長野業盛に仕えました。当時、西には武田信玄、南には北条氏康がいるという、ある意味最悪の状況でしたが、長野業正は奮戦しました。
上泉信綱は長野の16人の槍と称えられ、安中城主の安中広盛を一騎打ちで討ち取り、上野国一本槍の感謝状を長野業盛からもらっています。
ですが、長野業正死後の永禄9年(1566)に武田信玄の猛攻にあい、箕輪が落城。長野家はついに滅びます。
滅ぶ際に、武田信玄は上泉信綱を臣下に加えようとしましたが、上泉信綱は仕官を断りました。
これまでに修行してきた剣術に磨きをかけ、「新陰流」を打ち立てていたので、これを機に兵法修行をしたいと言って、諸国遍歴の旅に出ることになったのです。
惜しんだ武田信玄は、諱(信玄の諱は晴信)の一部を与えて、この時に信綱になったという逸話があります。
もしくは、他家へ仕官しないことを条件に諸国遍歴をゆるし、諱を与えたともいわれます。名に晴信の「信」があれば、他家では遠慮するだろう、ということです。
ただ、上記の武田信玄との逸話は少々怪しいようです。
というのも、上泉信綱は永禄7年(1564)には上洛したと考えられ、箕輪落城の永禄9年(1566)には西国に赴いているからです。
上泉信綱はこの時点では当主の座を息子に譲っていたのかもしれません。年齢的に何の不思議もありません。嫡男は秀胤で、その子泰綱の子孫は米沢藩士として存続しました。
剣術家として
仕官を断った上泉信綱は、諸国遍歴の旅に出ます。出立は永禄6年(1563年)、60歳のころです。
おそらく、この時点で「新陰流」は出来上がっていたようです。というのも、諸国遍歴には当初から弟子を連れているからです。
のちに、剣聖と謳われるようになりますが、諸国遍歴の旅に出てからは逸話が多いです。
多くの流派の祖とされ、後世の剣術界に多大な影響を与えました。様々な伝承も各流派に伝わっています。そうしたことの一つに、袋竹刀の発明が上泉信綱によるものというものです。
諸国遍歴の旅には、神後伊豆守宗治(=鈴木意伯)、疋田文五郎景兼(虎伯)らの弟子と出立したようです。
のちに、弟子となるのが、丸目蔵人佐長恵(タイ捨流)、奥山休賀斎公重(奥山新影流)で、上記2人と合わせて四天王と呼ばれています。
他の有名な弟子(いやむしろこちらのほうが有名だと思いますが)として、柳生宗厳、宝蔵院胤栄がいます。
旅の道程は分かっていません。逸話の類から外れませんが、面白い逸話が多いです。そして、最期の様子も分かっていません。謎に包まれた人生でした。
諸国遍歴の中で、剣豪大名として名高い北畠具教を訪ねています。北畠具教は塚原卜伝から「一の太刀」を許されています。ここでは、疋田文五郎景兼が北畠家の家臣と立ち合い、いずれも圧勝しました。
その後、北畠具教の紹介で奈良の宝蔵院に向かいます。ここで宝蔵院胤栄(ほうぞういん・いんえい)が弟子になっています。宝蔵院胤栄は、興福寺の宝蔵院の主で、宝蔵院流槍術を創設しました。十文字鎌槍を用いる流派です。
宝蔵院胤栄が柳生宗厳を呼び寄せ、疋田文五郎景兼が相手したが、あっさり疋田文五郎景兼に負けたといいます。それでも柳生宗厳はめげずに、上泉伊勢守信綱との試合を臨み、3日間に3度試合が行われ、ことごとく負けたそうです。
この後、請われて柳生の里に向かったようで、柳生で3年間滞在したといわれます。疋田文五郎景兼が柳生家に留まり、上泉信綱は諸国遍歴の旅を続けたとされます。
一説には、永禄7年(1564年)嫡子の秀胤が戦死したとの悲報を受け、柳生の里を離れたというが、これも時間軸が合いません。この辺りは不明だとしか言いようがないのです。
上洛もしています。旅の道程が分からないので、上洛は何回しているのかが分かりません。早い時期の上洛時に丸目蔵人佐長恵を弟子としたようです。
この丸目蔵人佐長恵とともに、永禄7年(1564)剣豪将軍・足利義輝に謁見し、感状をもらっています。嫡子・秀胤の戦死の悲報を受け、公卿の山科言継を頼ったあとの話とされます。
永禄8年(1565)には柳生の里に戻っています。この年に、柳生宗厳と宝蔵院胤栄に印可状を与えています。
この時の逸話になると思われますが、上泉信綱が再び柳生の里を訪れた時、柳生宗厳の兵法が上泉信綱を凌駕していたので、上泉信綱が柳生宗厳を師と呼んだという逸話があります。これは、柳生新陰流への権威づけのための作り話でしょう。
元亀元年(1570)、正親町天皇の御前で剣術を披見しています。正親町天皇から天下随一と称され、従四位下に叙任され「武蔵守」を賜っています。この時、足利義輝の時と同様に、丸目蔵人佐長恵と剣術披露を行いました。
この後、山科言継に暇乞いし、故郷への上泉への帰国を決意したといわれます。
晩年はわかっていません。
後北条氏に招かれ、天正10年小田原にて没したともいい、それよりも前の天正5年に大和の柳生谷で亡くなったともされます。
史料
永禄8年(1565年)4月。柳生宗厳に印可状(現・柳生延春所蔵)。同年8月付で、宝蔵院胤栄に印可状(現・柳生宗久所蔵)。
永禄10年(1567年)2月。丸目蔵人佐に目録と、同年5月に印可状。「上泉伊勢守藤原信綱」と記されています。
永禄12年1月15日 – 元亀2年7月21日。上洛期間。山科言継の日記「言継卿記」。
元亀2年7月21日。京を去り故郷へ向かいました。
諸国遍歴時の逸話
諸国遍歴時の逸話として、疋田文五郎景兼(虎伯)とともに三河牛久保(愛知県豊川市)に訪れた際に、山本勘助と立ち合いました。
立ち会ったのは疋田文五郎景兼で、最初は疋田文五郎景兼が勝ち、次に山本勘助が勝ったが、最初の敗戦だけを喧伝されたため、勘助は面目を失って牛久保の地を離れたといいます。
山本勘助は永禄四年(1561)に死亡しているとされ、時期が合いません。そもそも、山本勘助については、いわゆる軍師「山本勘助」の実在が怪しいです。