覚書/感想/コメント
第五回柴田錬三郎賞。
海賊大名の異名もある九鬼嘉隆(くきよしたか)を主人公とする。九鬼嘉隆は織田信長に仕え、豊海秀吉にも仕える。
その後、関ヶ原の戦いで九鬼嘉隆は西軍、息子の守隆が東軍にわかれ、西軍に与した嘉隆は自刃する。親子が東西に別れたというのは、真田家を彷彿させる。本書はこの最期の所までを描いている。
九鬼嘉隆というと、石山本願寺攻めにおける鉄甲船というのが最も華々しい逸話のように思える。鉄甲船は従来の安宅船に鉄板を巡らせたものといわれるが、それがどのようなものだったかは未だにわかっていないそうだ。
というのも、設計図も残っていないので、史料に見え隠れする記述から想像するレベルを逸脱できないということのようだ。
だが、この動く砦のような鉄甲船もあったおかげで、大阪湾経由で石山本願寺への物資の輸送が途絶えることになる。
そして、村上水軍を代表とする毛利水軍が織田水軍に敗れ、石山本願寺の敗北へとつながる。この鉄甲船は、この戦のあとどうなったかということが分かっていないようだ。
この石山本願寺攻めまでの九鬼嘉隆というのはかなり面白い。本書を読んでいると、この石山本願寺攻めあたりが九鬼嘉隆の絶頂だったような感じである。だが、これより後は、徐々に下り坂のような印象を受けてしまう。
また、織田信長の死後、時間の流れが急に速くなる。豊臣秀吉の時代から関ヶ原までは第八章のたった一章分しか割かれていない。
読んでいて、むしろこの第八章はなくしてしまった方が良かったのではないかと思ったくらいだ。つまり、最期の第八章で急につまらなくなってしまう。
さて、織田信長の死後に九鬼嘉隆がパッとしないのは、嘉隆が親しくしていたのが滝川一益だったということがある。本能寺の変後の滝川一益がパッとしなかったのに一蓮托生してしまったかのようである。
九鬼嘉隆が滝川一益と親しかったのは、この一益を経由して信長の知遇を得たからである。そして、一益の寄騎としての時期も長かったことが理由にあるだろう。
織田信長が構築した組織は独特といっていいもののようで、他の大名家における寄騎(与力)とは違う部分が多く見られるようである。
本書でも書かれているが、織田家では食録は信長が与えるものであり、寄騎として他の武将の麾下にあったとしても、直接の上司は信長以外にいないのである。
ようするに他の大名家に見られる封建的な領主制度に成り立った組織とは違うようなのだが、よくわからない。
こうした組織論の観点から信長軍団を描いてみるのも新しい歴史小説の世界を切り開くことになるかもしれない。
内容/あらすじ/ネタバレ
大王崎は志摩半島南東端に突き出た岬の名である。熊野灘と遠州灘の分海点になる。この近く波切一帯を地頭の九鬼家が支配していた。
沖で千石船が座礁した。土佐一条家の船のようだ。船には土佐一条殿衆立石三河の息女・お咲ら三人が乗っていた。漂着船や難破船の荷物や人は、漂着した土地のものとされ、誰も疑いを抱かない時代だった。
九鬼右馬允嘉隆は祖父・九鬼泰隆を訪ねた。いまは隠居して洞に住んで木像を彫っている。
志摩の国は伊勢の国司で公家大名の北畠家の支配下にあるが、時代の風潮で下克上がしみわたっている。小さな国内に十三地頭と称する小豪族が離合集散しては争っている。
九鬼家も志摩十三地頭の一人である。南部の波切の他、北にも田城の砦を構えている。現在の当主で嘉隆の兄・浄隆は波切を嘉隆に預け、田城砦に住んでいる。
その浄隆から甥・弥之助澄隆の元服を行うとの知らせがきた。まだ五歳だ。
浄隆は嘉隆に言う。九鬼一族は志摩の鼻つまみ、嫌われ者だ。九鬼は初代の隆良の時代から志摩の国内で着々と侵略の手を伸ばした。こうしたことが重なり、先祖のために味方はいなかった。
だからこそ弥之助の元服を急ぐのだ。そしてこの日より、三人は幼名を捨てることにした。
十七になった年、祖父が帰らぬ人となった。その前に嘉隆は捕らえたお咲と婚礼を挙げており、藤四郎という息子がいる。
この機を狙って田城砦が攻め込まれた。嘉隆は応援に向かうことにし、この時の応援に滝川市郎兵衛という鉄砲使いが加わった。
国司からの使いが来た。浄隆は国司の北畠家と事を構える気はなかった。
だが、田城砦が孤立してしまう。九鬼家と嘉隆が討ち取った田城左馬之助を除いた十人の地頭がそろって囲んでいる。四百という人数は志摩では大軍と言ってよかった。
砦はよく耐えた。そうした中で浄隆は病を得て起てぬ体となる。そして、浄隆は澄隆の後見を嘉隆に頼んで亡くなってしまう。
永禄八年(一五六五)。二十四になった嘉隆と十四に成長した澄隆は田城の砦を捨てざるを得ない状況に追いこまれ、ただ一つの所領である波切にいた。
九鬼の船団二十艘弱が出陣した。軍船と呼べるのは小型関船一艘と小早船六艘だけである。これでも志摩の海賊衆では屈指の船団だ。対するは北畠海賊衆の小浜民部景隆である。
この戦いに敗れ、嘉隆は志摩を去ることになる。
伊勢と志摩を跨る朝熊山に古刹がある。金剛證寺。創建は五六四年。欽明天皇の二十五年だと言われている。九鬼嘉隆は志摩を追われて以来ここにいる。お咲や二人の男児、甥の澄隆も一緒だ。
嘉隆は滝川市郎兵衛を尾張に行かせていた。縁者がいるのだという。嘉隆は今川義元を討ち取った織田信長に心惹かれるものがあり、できれば仕えたいと考えていた。
その滝川市郎兵衛が戻ってきた。縁者の滝川彦右衛門一益に会ってきたという。そして一益に嘉隆を日本一の船大将だと売り込んできていた。
永禄九年三月。九鬼嘉隆は滝川市郎兵衛らと尾張を目指した。途中で大湊に寄り、造船の現場を見て、実際に作業に加わった。
この年の春、織田信長は清洲城から小牧山に城を移転していた。美濃攻略のためである。織田家の侍大将・滝川一益も小牧山にいた。
一益は嘉隆を連れて信長に面会した。食録三十貫を与えられ、一益の寄騎となった。普通の寄騎の食録はせいぜい五、六貫である。大層気に入られたということであった。
九鬼嘉隆は滝川一益の寄騎として美濃攻めに何度か参陣した。この間に半年近くがすぎている。
一益が難しい顔をしている。美濃の攻略は途中であるが、北伊勢の攻略を命ぜられたのだ。北伊勢は難事でないとしても、南伊勢が問題だ。北畠家が居座っているからだ。嘉隆は目を輝かせ、膝を乗り出していた。
織田信長が美濃を攻略したのは翌永禄十年の八月だった。
岐阜城からの使いで、信長自ら伊勢へ押し出して来るという。この年は成らなかったが、翌永禄十一年二月、四万という当時としては途方もない大軍で北伊勢にやってきた。
信長が獲物と見定めているのは、神戸城の神戸蔵人、安濃津城の長野次郎である。信長は自分の息子を養子に出すことで、ほとんど血を流すことなく北伊勢を平定した。伊勢を去るに当たり、滝川一益を勢州総奉行に任じた。
滝川一益は九鬼嘉隆に金銀と銭を与え、織田家の海賊衆を育てろといってきた。手間暇はかけられない。上洛のあとすぐにでも南伊勢の攻略にかかるだろう。それまでに必要なのだ。
嘉隆は地侍たちを訪ね回り織田海賊衆への参加を呼びかけた。それはぼつぼつと増え、嘉隆は海賊屋敷を造り、さらには安宅船を何艘もつくった。
織田信長は永禄十一年九月に念願の上洛を果たしていた。
信長が南伊勢攻略の意志を示した。北畠の軍勢は一万五千ほど。だが、一族の木造具政は兄・北畠具教と仲が悪い。ここにつけいる隙がある。調略は成功した。
北畠家に内紛が起きた。こうした状況になったにもかかわらず、鳥羽主水をはじめとする志摩の地頭たちは時勢に疎かった。
信長による南伊勢攻略が始まった。この攻略の中で九鬼嘉隆は織田海賊衆を率いて長鉄砲を試してみた。嘉隆らは善戦し、北畠の大河内城への輸送を止めることが出来た。だが、肝心の大河内城が落ちず、信長は再び息子を北畠へ養子として出すことにして和議を成立させた。
これで、伊勢のほぼ全土を平定した。残るのは伊勢長島の一向一揆と、南伊勢の新宮領である。
九鬼嘉隆は志摩平定をゆだねられた。時分の才覚で働けということだ。平定の本拠地には鳥羽の泊浦を選んだ。問題となるのは鳥羽監物と鳥羽主水の親子だ。この二人は志摩平定には欠かせない。力攻めに攻めると見せて、和談に持ち込み、味方にせねばならない。
嘉隆は鳥羽監物の娘・忍を正室に迎えることにした。
嘉隆は見せしめの意味もあり、和田大学助と一族郎党を全滅した。この話はすぐに志摩全土に広がり、地頭たちを震え上がらせた。
さらにもう一人見せしめが必要だと感じていた。それは小浜民部景隆である。この小浜民部景隆が嘉隆と忍の婚礼の日にやってきた。そして嘉隆は地頭一同、領土を織田家へ進上せよといった。
元亀元年(一五七〇)。九鬼嘉隆は志摩平定を無事に終え、信長から志摩の旧領の全てが与えられた。
だが、この年から翌年にかけ、織田信長をとりまく環境は厳しかった。頑強な相手は武家ばかりではない。延暦寺と石山本願寺が立ちはだかっている。
伊勢長島の攻略が本格的に始まった。この時までには延暦寺や浅井家などを滅ぼしている。今度はなんとしてでも一向宗門徒を叩きつぶす。
九鬼嘉隆にも出陣の命が下った。河口においては水軍は役に立たないとする信長にたいして、滝川一益が願い出て許されたのだ。嘉隆は手だてを工夫していたのだ。それは安宅船を砦がわりに使うことであった。
天正四年、石山本願寺が和議を破棄して挙兵した。本願寺顕如は信長の兵糧攻めに困窮し、西国の毛利氏に救援を求めた。毛利氏には強力な水軍力がある。この時、嘉隆は熊野海賊衆の討伐に狩り出されて、大坂の戦場にはいなかった。
大坂には嘉隆を除いた織田水軍がいたが毛利海賊衆に完敗してしまう。毛利海賊衆の火攻め一点張りにやられたのだ。その話を聞いた嘉隆は鉄張りの安宅船六艘を建造することにした。つまり甲鉄艦である。
この六艘を率いて、途中で雑賀衆の数百艘の襲撃を苦もなく蹴散らせて、泉州堺に碇をおろした。
毛利海賊衆は前回の大勝で織田水軍をなめきっていた。だが、真逆の結果となる。
この功により九鬼嘉隆は、志摩を追われ、一介の浪人から信長に仕えて十三年目にして、織田家の大名衆に列した。
織田信長が本能寺で明智光秀によって殺された。
九鬼嘉隆が滝川一益と親しかったのも不幸であった。一益は関東管領として上野に赴任しており、清洲会議に遅れてしまい、日に日に家中での地位をすべり落ちていた。
天下は豊臣秀吉のものになり、九鬼嘉隆も臣下となる。度々窮地に立たされるが、秀吉は嘉隆を咎めなかった。嘉隆の水軍は秀吉にとって必要だったのだ。
そして時代は移り、覇権は徳川家康の手に帰そうとしていた。
本書について
白石一郎
戦鬼たちの海 織田水軍の将・九鬼嘉隆
文春文庫 約五〇五頁
安土・桃山時代
目次
第一章 大王崎
第二章 志摩を追われて
第三章 天下布武の人
第四章 織田水軍
第五章 志摩平定
第六章 艦砲射撃
第七章 石山海戦
第八章 船は日本丸
登場人物
九鬼右馬允嘉隆
お咲
藤四郎成隆…お咲との間の息子
彦三郎徳隆…お咲との間の息子
捨丸…犬
忍…正室
九鬼守隆…嫡男
九鬼大和守泰隆…嘉隆の祖父
九鬼弥五郎浄隆…嘉隆の兄
九鬼弥之助澄隆…嘉隆の甥、浄隆の息子
金剛九兵衛…九鬼家家臣
川面右近…九鬼家家臣
滝川市郎兵衛…九鬼家家臣
雨宮勘八…九鬼家家臣
北畠具教…伊勢国司、大名
木造具政
源浄院玄生(滝川三郎兵衛)…僧侶、北畠一族
小浜民部景隆
あぜち
鳥羽監物
鳥羽主水
安楽島左門
田城左馬
織田信長
滝川彦右衛門一益
竹中辰兵衛…船匠
辰五郎…辰兵衛の息子