覚書/感想/コメント
江戸城の明け渡し前後を描いた作品。徳川の代表としての勝海舟と官軍の代表としての西郷隆盛を軸に書かれている。
勝海舟については非常に好意的に書かれている。海音寺潮五郎氏が西郷隆盛が大好きなのは知られる所だが、勝海舟という人間もだいぶ好きなようである。勝海舟の悪評に対する弁護というのがとても多い。
『勝はこの当時の旧幕臣に大へん評判の悪い人であったばかりでなく、明治・大正を通じてずっと旧幕臣の系統にはよく言われていない。今日でも勝をよく言わない人がいる。
(中略)
そういう人々は、この当時の人も、その後の人も、現代の人も、江戸城明渡しをごく表面的に知っているだけで、その後勝がこんなにも熱心執拗に、慶喜のために尽くしたことを知らないのである。勝と慶喜は終始一貫相合わなかったが、それでもこんなに尽くしているのである。』
この勝海舟だが、勤王や佐幕の争いは末の末のことで、国を愛し民を愛することが根本であるというのが勝の終生変わらない信念だったようだ。愛国と愛民を考えない勤王など無意味なものだと明治三十年の時点で言っている。
こうしたところも海音寺氏の好みに合っているのだろう。
江戸城の無勝開城については、この書が出た当時から、西郷と勝との英雄的談合などは、単に表面だけを見た偽りの美談にすぎないという説が多かったようである。
現在でも多い所を見ると、これがある意味通説なのかもしれない。だが、海音寺氏は反論する。
『勝が英国公使パークスと連絡をとったり、パークスの意向が西郷を動かしたりしたため、江戸の無血開城が行われた、西郷と勝との英雄的談合などは、単に表面だけを見た偽りの美談にすぎないという説をなす人は近頃多いが、ぼくの記事をずっと丹念に読んできた人には、そういう結論を下すわけには行かないことがわかるはずである。
西郷は京都出発の時から、最終の段階では慶喜を助命し、徳川家の家名を存し、領地もある程度あたえるつもりであった。それは大久保一蔵と談合し、岩倉の諒解も得てあったのだ。』
なるほど、本書を読むと、氏の言いたいことがよくわかる。
彰義隊について最後の三章をさいているが、これは江戸城の明け渡しだけでは江戸の治安の回復がされなく、彰義隊の討伐があってはじめて江戸に平和がきたので、この時を以て実質的な江戸開城と海音寺氏が見ている所による。
この彰義隊だが、厳しく断じている。
『彰義隊の戦争は、徳川方からすれば全く無益な戦争であった。無益どころか、有害な戦争であった。こんな団体が結成され、馬鹿な抵抗などしなければ、徳川家は大体百万石くらいの領地はもらえたはずであるのに、七十万石となったのは、こんなばかげた反抗とばかげた戦争のためである。』
なお、勝海舟に関しては、この前後のことを含め「さむらいの本懐」でも描かれている。短い短編なので、一読されると勝海舟の理解がいっそう深まると思う。
また、勝海舟に関しては子母澤寛氏の「勝海舟」という大作があるので、こちらも読まれても良いだろう。
海音寺潮五郎の史伝
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中国の史伝
内容/あらすじ/ネタバレ
慶応四年。西郷吉之助は大久保一蔵に宛てた手紙で徳川慶喜に厳しい処置を主張している。西郷の本質は冷厳峻刻になく、温情抱擁にある。
酷いことはきらいな性質である。声を大にすることで、敵を恐れさせ、味方を奮い立たせ、局を結ぶにあたっては寛大な処置をするのは、西郷の手口だったが、この場合には他の理由があった。
明治維新は王政復古という名で行われたが、復古ではない。公家に政治能力のないことは明かであり、王政復古でも、天皇の下に公家・大名・諸藩臣による合議政治を行おうというのだった。
革命にはある程度の血の祭典が必要なのである。血の祭典の犠牲のない革命ほど困難なものはない。
当時の天皇政府は実質的にはまるで権威のないものだった。この政府に力がつき、権威が出てきたのは、鳥羽・伏見の戦争の途中からだった。
この戦争の本質は徳川の先鋒隊と、薩・長軍との衝突である。薩・長軍は全力なのに対し、徳川は先鋒隊だけだから、本来なら徳川が腰を落ちつけて戦いを続ければ負けるはずのないものだった。
ところが、これに勝ち、徳川慶喜が前哨戦にもかかわらず江戸ににげてしまったので、箱根以西の大名はほとんどぜんぶ官軍になびいた。しかし、関東から東北はまだ帰服していない。祭壇にはまだ血の犠牲が必要なのだった。
西郷は厳しいことを言いながらも、適当に効果を上げたなら、慶喜を助命し、徳川家を立てることも考えようという心をもって京都を出ている。
徳川慶喜は一月六日に大坂城を脱出し、十一日に品川沖につき、翌十二日の未明にお浜御殿に上陸した。
慶喜は幕臣に好かれていなかった人である。
勝安房は慶応二年に慶喜に命ぜられて、泥沼に入った長州征伐の和議をまとめて京都に戻ったものの、慶喜の心境がすっかり変化していた。勝の努力は水泡に帰し、江戸に戻った勝は鬱々として楽しまなかった。
軍艦奉行としての仕事はしつつ、英国公使パークスや書記官アーネスト・サトウらと親しくなっていった。これが後に大いに役立つこととなる。
勝は慶喜からも好かれていなかったし、江戸の中心である小栗上野介らにも好かれていなかった。
慶喜は敵を官軍とはいっていない。薩藩勢だといっており、自分が朝敵になったとは言っていない。朝敵が確定してはならないから、戦をやめて帰ってきたというので、恭順という考えではなかった。
この慶喜の心が変わった。恭順ということを標榜しなければ乗り切れないと気が付いた。変化は静寛院宮に拝謁したことが動機のようだ。
慶喜は札付きの主戦主義者の小栗上野介を免職し、札付きの和平主義者である勝を登庸し、自分は隠居すると宣言することで、恭順の名を得ようとしていた。
鳥羽・伏見の敗卒らが帰ってきた。この連中の屯所もないのに、幕府役人が勝手に兵を募っていた。やがて、兵隊達は脱走する騒ぎを起こす。
二月十一日。慶喜は会議を開いた。今度こそゼスチャーじゃなく、恭順の覚悟を決めたからだ。
慶喜の揺れ動きやすい性質を知っている勝は、持論を上手く展開させた。そして勝が一身の責任を負って大任にあたり、江戸開城の立役者となることになる。
西郷は駿府にいた。
三月になると征討大総督府参謀として西郷がおり、先鋒総督府参謀として海江田武次がいることがわかり、勝はしめたと思った。
勝はなんとかして西郷か海江田と連絡とを取ろうと考えた。その方法を考えている時に山岡鉄太郎が訪ねてきた。勝は山岡鉄太郎を西郷のところへ送った。「無偏無党、王道堂々たり矣」で始まる手紙を添えてである。
山岡は昼夜歩きづめで駿府に着いた。西郷はすぐに会ってくれた。
江戸城に戻り、勝と大久保一翁に、西郷に渡された条件書を示し、西郷が固く約束したことを報告した。
山岡が江戸に戻る前、英国公使パークスらは上方から横浜へ戻ってきた。
西郷は何が何でも江戸城を攻めようと思っていない。できれば平和におさめたいと思っている。そのためパークスに頼んで医師の用意をしようと考えていた。
そのパークスが、どの国でも恭順、つまり降伏しているものにたいして攻撃するということはないはずだ、といったと聞いて、西郷は驚き、強く心を打った。そして、西郷はパークスは内乱がつづくことを臨んでいないことを悟った。
三月十三日。勝は高輪の薩摩屋敷に行った。この日の勝と西郷は談笑の間に終わり、十四日に有名な会見が行われた。
西郷という千両役者、勝という千両役者によってはじめて演出された、最も見事な歴史場面となった。
江戸を焦土から守った二人であったが、官軍の将兵も、徳川家の家臣もかえって憤りを持っていた。
西郷が去ってからの江戸は、さながら発火の危険が迫っている状況だった。勝の苦労は一通りのものではなかった。
四月十一日に城などの受け渡しが決まった。勝は騒ぎが起きる前に、さっさと授受の式を済ませてしまおうとしていた。
この前後に徳川陸軍は、江戸を脱走した。後の海軍はともかくとして、脱走した陸軍はずいぶん官軍を手こずらせた。四月十一日に江戸を脱走して、その月の間、北関東で暴れたのである。
西郷は徳川家に百万石をあたえ、家督を田安亀之助(のちの家達)に継がせ、江戸城を居城として与えるつもりでいたようだ。これに対して、木戸準一郎の案、大久保一蔵の案というのが別にあった。これがなかなか決しなかった。
西郷はだいぶ尽力したようだが、彰義隊の騒ぎなどがあり、百万石という案は消え、駿府で七十万石という事になってしまった。
本書について
海音寺潮五郎
江戸開城
新潮文庫 約三一〇頁
江戸時代末期
目次
革命の血の祭壇
札つきの和平主義者勝安房
官軍先鋒三島に達す
山岡鉄太郎登場
パークスの横槍
西郷・勝の会見
西郷と勝に対する諸藩兵の不平
勝とパークス
開城はあったが
徳川家の処遇問題
勝の慶喜よび返し運動
さまざまな反薩的批判
彰義隊
彰義隊討伐その前夜
彰義隊壊滅
登場人物
勝安房(海舟)
山岡鉄太郎(鉄舟)
大久保一翁
徳川慶喜
天璋院篤姫
静寛院宮(和宮)
田安慶頼
西郷吉之助(隆盛)
海江田武次(有村俊斎)
大久保一蔵(利通)
大村益次郎
江藤新平
パークス…英国公使
アーネスト・サトウ…書記官
レオン・ロッシュ…フランス公使
覚王院義観
竹林坊光映