覚書/感想/コメント
第十三回中山義秀文学賞。
2009年NHK大河ドラマ「天地人」原作。
題名の「天地人」だが、見出しの後に書かれている「北越軍談付録 謙信公語類」から取ったようだ。
『輝虎(謙信)公の曰く。天の時、地の利に叶い、人の和ともに整いたる大将というは、和漢両朝上古にだも聞こえず。いわんや、末代なお有るべしとも覚えず。もっとも、この三事整うにおいては、弓矢も起るべからず、敵対する者もなし』
主人公の直江兼続は、永禄三年(一五六〇)、魚沼郡の政治経済の中心地、坂戸の城下で生を受ける。
坂戸城主の長尾政景は魚野川舟運、上田銀山、青苧(麻)の利権などを背景に、本家の長尾家に対抗するほどの富強を誇る。
樋口惣右衛門兼豊の嫡子で、樋口惣右衛門兼豊は薪炭用人という低い身分から、上田長尾氏の財政の舵取りを任され、家老まで出世した。生母・お藤は上杉謙信の重臣・直江大和守景綱の妹である。
少年の頃から才知並ぶ者なく、将来を見込んだ政景夫人の仙桃院によって、六歳の時に景勝の小姓となる。この時、景勝は十一歳。
もっとも、上記は本書の設定であり、直江兼続の父母の身分については様々な説がある。
また、兼続自身の幼少期についてはよくわかっておらず、本書でもその部分は割愛されている。
後に直江兼続が執政として政務を取り仕切る上杉家だが、上杉謙信の時代の強さの源は抜きんでた経済力にあった。
一つは米。好敵手の武田信玄の生産力が二十二万石に対し、越後は三十九万石の収穫がある。
二つ目には青苧(麻)の収益である。これに関する冥加金(売上税)、青苧(麻)を運ぶ船からの船道前(入港税)が入る。この時代の船運の中心地は日本海側であった。
三つ目は金銀である。当時の最大の黄金産出量を誇ったのは越後だった。
並はずれた経済力があってこそ、関東攻めに北陸攻めの長期の軍事遠征が可能だった。
上杉家に限らず、戦国の強国といわれた大名たちは、それぞれ軍団を支えるだけの経済力を持っていた。その点を小説で言及し始めるようになったのは、ごくごく最近になってからのように思われる。
この上杉謙信の軍団だが、一門衆、譜代衆、国人衆に大別されるそうだ。
一門衆では最大の上杉景勝の上田衆の他に、村上国清、上杉十郎景信、上条政繁、琵琶島弥七郎、山本寺定長という五人の上杉家親族がおり、他に養子の三郎景虎がいる。
譜代衆には直江大和守景綱、河田長親、山吉豊守、吉江資堅らがいる。
国人衆には斎藤朝信、本庄繁長、安田能元、水原親憲らがいる。
さて、上巻で最も詳しく書かれているのは「御館の乱」と呼ばれる上杉景勝と上杉三郎景虎による上杉謙信の跡目を巡る争いである。直江兼続を主人公とした他の小説ではこの部分を詳しく書いているは少ない。
「御館の乱」は詳しく書かれているのはいいのだが、今度は新発田重家の反乱についてはさほど力が入れられておらず、他にも景勝に反攻した人物の様子はずいぶんと省略されているのが残念である。
直江兼続の前立の「愛」についてはいくつかの説があるという。
一つは民を愛する愛民説で、米沢の地で長年にわたって伝えられている。
研究者の間で一般的なのは、軍神の愛宕大権現、あるいは愛染明王への信仰をあらわすという説で、上杉謙信が毘沙門天の「毘」を軍旗に用いたのに習ったというのが論拠である。
筆者は長いこと、後者の説を信じてきていたそうだ。
だが、上杉謙信の「大将の根底とするところは、仁義礼智信の五を規とし、慈愛をもって衆人を憐れみ・・・」という言葉を発見して考えが変わったという。
慈愛、すなわち仁愛であり、人に対する深い思いやりの精神である。この仁愛の「愛」が、信義を貫く「義」とならぶ武士道の根本精神に他ならないそうだ。
民の安寧を守ることを第一に考え、いかなるときも、民への仁愛の心を忘れてはならぬ。人を慈しみ、思いやり、広い愛を持って国を治める。それこそが己の義である。
仏教では「愛」は愛欲をあらわし、煩悩の原因として否定的な意味に捕らえられた。
だから、軍神説というのが研究者の間で一般的になるのだが、火坂雅志氏は従来とはことなる仁愛という概念で「愛」を捉え、これが「義」にも通ずると述べているところが興味深い。
さて、後半戦となる本書であるが、上巻から続いて、登場理由に疑問符が付く人物がいる。
一人は上巻の最初で登城した「初音」。そして、下巻で登城する「お涼」である。
この二人は一体どういった役回りを受け持たせているのかに苦しむ登場人物である。
登場させるなら、どちらかだけで良かっただろうし、もしくは、登城すらしなくても何の問題もなかった登場人物だったように思う。
単に物語に華を持たせるつもりでということならば余計な登場人物であった。
直江兼続に関するエピソードにも少々不満が残る。
これだけのボリュームであるのだから、兼続のエピソードの中で最も有名なものに一つである、伊達政宗が自慢した小判を、扇子の上で転がしたというものは入れておいて欲しかった。
先ほどの疑問を投げかけた「初音」と「お涼」の部分を削れば十分に挿入できた逸話であろう。
本多正信の次男・政重を自分の娘の婿に迎え、徳川政権との関係を緊密にしたという話しは、有名にもかかわらず、他では余り書かれることがないので、これが書かれているのは良かったのではないか。
他で余り書かれないのは、徳川政権と結びつくにあたり、選んだ相手が本多正信という謀臣だったため、イメージが良くないと言うことも関係しているような気がする。
最後に。これらの有名なエピソードの他にいくつか余り知られていないエピソードを入れてくれれば、とても良かったのにと思う。
内容/あらすじ/ネタバレ
天正四年(一五七六)、盛夏。
山道を十七歳の若者が歩いている。後ろから弟がついている。兄は六尺に近い長身だ。若者の名を樋口与六兼続という。後の上杉家執政の直江山城守兼続である。越後国魚沼郡の雲洞庵で学問を学び、俊秀の名を欲しいままにしてきた。弟は樋口与七実頼。二歳年下である。
二人は十五年前の川中島の合戦のおりに上杉謙信が本陣を敷いた妻女山に登っていた。
天下は劇的に変化している。織田信長が力をつけ、天下統一に向けた戦いを始めている。
こうした状況で川中島での合戦を幾度も重ねたことに兼続は無駄であったと感じることがある。まっすぐに京を目指していれば…、そうした思いがあるのだ。
二人は陽のある内に武田領を抜け出すつもりだったが、実頼が善光寺で母の病気平癒を祈願したいというので、善光寺によることにした。
兄弟の生母・お藤は上杉謙信の重臣・直江大和守景綱の妹であり、坂戸城主・長尾政景の重臣だった樋口惣右衛門兼豊に嫁ぎ、二人を産んだ。その母が病で寝付いていた。
この頃の善光寺は川中島の合戦に巻き込まれ、多くの建物が焼失している。焼けたばかりでなく、本尊は武田信玄が府中に持ち帰り、甲府善光寺に祀ったと言われている。
二人は武田の足軽に見つかり、追いかけられた。兼続は左肩に矢をかすめ、怪我を負った。
危うくなった所に、一人の巫女が現われ、二人を先導した。巫女は土地の者が大峰山と呼ぶ山に連れて行った。
巫女は初音と名乗った。信州小県郡、禰津村の歩き巫女だという。禰津のノノウである。禰津のノノウは武田家と縁が深い。それが、なぜ…。兼続の疑念が去らない。
初音の他に鈴音という巫女もおり、二人は兼続のことを知っているようだった。初音は武田のために動いているわけではなく、強いて言えば天下のためだといった。初音はこう兼続に言う。ノノウは兼続の行く末に賭けると。
上杉喜平次景勝が十七歳、兼続十二歳の時に、跡取りのなかった上杉謙信が景勝を養子に迎えたいと言ってきた。同時に上田五十騎と呼ばれる上田長尾家の軍団と、魚沼の経済力も謙信の元に取り込まれた。
元亀二年(一五七一)正月。兼続は生涯の精神の師ともいえる上杉謙信との出会いを果たすことになる。
初秋。兼続は春日山城に戻った。あるじの景勝に戻った旨の挨拶をした。
兼続は相模の小田原も回ってきていた。その事に口数の少ない景勝は反応を示した。
謙信の養子にもう一人、上杉三郎景虎というのがいる。相模の北条氏康の七男だ。それへの強い意識の現われかもしれない。三郎景虎は世に隠れなき美男子である。
三郎景虎は景勝の姉・華姫をめとり、名実ともに上杉家の一門の列に加わっており、越相同盟が破れても謙信は養子として遇し続けた。
景勝の母・仙桃院の口から謙信が上洛の軍を興すことを聞かされた。
この当時、「利」によって求心力を高める者が多かったのに対して、上杉謙信が家臣に示した価値観は「義」というものだった。
義とは儒教で言う所の仁義礼智信の一つであり、人として守るべき正しい道をいう。
越中平定後、上杉軍は快進撃を続けた。十一月に入って能登の七尾城を取り囲んだ。
この七尾の陣でのこと。樋口与六兼続は上田衆の泉沢又五郎久秀と一緒にいた。泉沢はのちに蔵奉行となって兼続を助けることになる。
二人は三郎景虎の陣で、一匹の犬が舞い込み、この犬に喜平次と名付けていたぶっているのを目撃した。あろうことか景勝の名をつけていたぶっているのだ。さらに、三郎景虎があらわれて、これをけしかける。
兼続はあるじが愚弄され、さらには父・樋口惣右衛門兼豊が辱められて、カッとなった。
翌日、兼続は本陣に呼び出された。謙信は、義の心を真の意味で受け継ぐ者がいるとすれば、それは兼続だと言ったが、この薫陶の後に蟄居を言い渡された。
天正五年(一五七七)。上杉謙信は七尾城を包囲したまま動かない。そこに北条氏政北上の報告があり、義を重んじる謙信は手勢を一部残して春日山城に戻った。その後、北条氏政が撤退したのを知り、謙信は閏七月に再び七尾城へと向かった。
これに驚いた七尾城主の長続連は織田信長に救援を求めた。
九月に謙信は七尾城を落とし、怒涛のごとき進撃を開始し、織田軍を破った。
越後上田庄の雲洞庵で樋口与六兼続は座禅を組んでいた。この十ヶ月で兼続の中の何かがかわった。この兼続の前に初音が現われた。
初音は上杉軍が七尾へ引き上げたと告げた。
兼続は母重篤の知らせを聞き、門外へ出た。謙信はすでに春日山城に帰還している。
天正六年(一五七八)。兼続の母が世を去った。この葬儀に与板城主直江大和守景綱の息女・お船(おせん)が来ていた。兼続より三つ上の従姉である。この時、お船は養子として直江家に入った信綱の妻であった。
お船には姉がいる。お悠という。お船はお悠が謙信を慕っていたと話した。
葬儀の後、兼続はお船を途中まで送ることになった。
兼続の蟄居が解かれた。あるじの景勝とは一年三ヶ月ぶりの再開を果たした。
これから程なく上杉謙信が脳卒中で倒れた。
謙信は景勝と三郎景虎とのいずれに家督を譲るかを言わずに倒れてしまった。謙信の姉・仙桃院の心境は複雑である。
天正六年三月十三日。上杉謙信の魂は天へ昇った。享年四十九才。
後継者を誰にするか。侃々諤々の議論になった。
跡目争いは事実上、景勝と三郎景虎の二人である。議論を続ける内に、それぞれを担ぐ二つの派閥の顔ぶれがはっきりとしてきた。
この中、直江大和守景綱の未亡人・妙椿尼が入ってきて、謙信の遺言を告げた。それは景勝に家督を譲るというものだった。
兼続は耳を疑った。そのような話は全く聞いたことがない。裏には仙桃院の思惑があることを兼続は本人の口から聞かされた。仙桃院は景勝には私心がないという。
三郎景虎を推す柿崎晴家が景勝のいる中城に夜討をかけてきた。この暴挙に関しては汚名を恐れる三郎景虎は知らぬぞんぜぬを通した。
謙信の葬儀の後、兼続が戻ると父・惣右衛門がいた。惣右衛門は実城(みじょう)を乗っ取るといった。実城とは春日山の最も高い所にある本丸で、金蔵がある。決行は今夜と決まった。
三郎景虎方も同じことを考えていたようだが、景勝方が実城を押さえた。
これ以降、景勝は「ご実城さま」と呼ばれるようになる。
二ヶ月後、三郎景虎は戦況打開のため御館に移った。
御館は謙信が関東管領上杉憲政のために建てた居館である。憲政は三郎景虎をやむなく受け入れる形となった。
事態は景勝方に対して有利とはいえなかった。むしろ危険であった。春日山城に近い所の武将は三郎景虎方であり、上田衆の本拠地・坂戸城とは分断され、直江津、郷津の湊は三郎景虎に押さえられている。
しかも兵糧がなかった。
春日山の西方に桑取谷と呼ばれる谷がある。半農半士の郷士たちがいざというときに春日山城を守るためにいる。
兼続はこの郷士たちの協力を得るために単身乗り込んだ。
御館方からも勧誘の手が伸びていたが、兼続は彼らの誇りに訴え信を勝ち取った。
兵糧はこれで目処が立つことになったが、劣勢が解消されたわけではない。
御館の兵を退けたが、今度は外からの脅威が迫った。武田と北条の二大勢力が三郎景虎を支援する姿勢を明らかにしたのだ。北条氏政は三郎景虎の実兄である。
事態を打開すべく、景勝方は直峰城(のうみねじょう)を攻撃目標に定めた。坂戸城との連絡を確保するためである。攻略には兼続の父・惣右衛門が買ってでた。
この直峰城のあとに、景勝方はいくつかの城を落した。
武田勝頼が国境を越えて攻めてきた。春日山城までわずか五里(約二十キロ)。
兼続は武田と手を結ぶべきだと景勝に進言した。卑怯な真似をすることを嫌う景勝であるが、この度は卑怯な詐略とは違う。国を守る大義がある。それに勝頼は長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れてあせっているはずである。思い切った手に景勝は頷いた。
兼続は高坂弾正忠昌信と接触し、同盟の話しは上々の首尾で終わった。
武田軍に不審な動きがあったものの、越甲の同盟が成り、八月二十八日に武田軍が撤退をはじめた。
それも束の間、九月に北条軍が攻めてきた。坂田城が危うくなった。だが、兼続は武田が動くはずだと確信していた。その読みは的中し、雪の季節を嫌った北条軍が撤退した。
上杉と武田の同盟はますます強くなっていった。景勝と武田勝頼の妹・菊姫の婚約が成立した。これを機に、次々と景勝方になびきはじめた。形勢は完全に逆転し、三郎景虎は酒浸りとなった。陥落は時間の問題だ。
不幸な事件が起き、前関東管領の上杉憲政と三郎景虎の嫡子・道満丸が殺されてしまった。
この後に三郎景虎は死んだ。享年二十六才。だが、越後各地で反景勝派の抵抗が続き、天正八年(一五八〇)に越後の平定を終える。
御館の乱を経て上杉家内部の勢力図が大きく塗り替えられた。上田衆の発言権が増し、景勝は兼続を家老に大抜擢した。二十一才である。泉沢久秀も家老に列した。一門衆の筆頭は上条政繁である。兼続の弟・弥七実頼は小国氏の養子に入り小国実頼と名を変えた。
景勝は組織の大改革を行ったのだ。
城で事件が起きた。そして直江信綱が事件に巻き込まれて命を失った。御館の乱の論功行賞を巡って燻っていた不満が噴き出した結果の惨劇だった。
この天正九年(一五八一)。織田軍は能登一国を制圧した。北陸路は織田家の色に塗り替えられている。
景勝は兼続に直江の家を継げと言った。お船と夫婦になるのだ。兼続は直江兼続と名乗りを改めた。
政情が切迫している。織田が武田を攻める気配を示し、その後は上杉に刃を向けてくるはずだ。
天正十年(一五八二)の正月が明け、織田軍が東へ進みはじめた。武田家の同盟者上杉家は雪に閉ざされ援軍を出せない。そして武田家が呆気ないほどに負け続けた。
越中口では織田の佐々成政がせまっており、越後国内では揚北衆の新発田重家が景勝に叛旗を翻していた。
だが、義のために二千五百の兵を武田の援軍に送り、景勝は兼続に留守をまかせて新発田重家討伐のために出陣した。
景勝が攻めあぐねている所に越中が危ういという知らせが飛び込む。
武田が滅び、上杉は北陸路と信濃路の二方面からの織田の脅威を受け、内部には新発田重家という獅子身中の虫を抱えることになった。
四月半ば。東越中の魚津城が危機を迎えた。柴田勝家率いる織田軍一万五千がわずか千三百で守る城を責め立てた。
北信濃の森長可、上野の滝川一益という脅威を背負いながら、越中の魚津城を救いに行くことになった。この戦に兼続の妻・お船が与板衆を送り込んできた。
五月十三日魚津城救援の軍が発せられた。だが、これは滝川一益と森長可をおびき出す作戦であった。景勝と兼続はこのために越中を諦めるつもりでいた。
兼続は危険を冒しながら魚津城へ入り、籠城している十三将に降伏することを説得した。だが、十三将は城を背に討ち死にするといった。説得は失敗した。
五月二十九日上杉景勝は春日山城に帰還した。兼続が屋敷に戻るとお船が待っていた。
再び出陣である。信州野尻城に入っている上条政繁が救援を求めてきたのだ。この時、兼続の元に織田の明智光秀からの密使がやってきた。
本能寺の変により織田信長が死んだ。この翌日六月三日に柴田勝家は魚津城総攻撃をして落している。だが、翌日に本能寺の変が柴田勝家に知らされ、撤退を開始した。信長の死によって、織田軍団は一夜にしてばらばらになった。
上杉軍は越中、信濃、上野に兵を送り込んだ。無人の野を行くが如しである。
羽柴秀吉が明智光秀を討ったとカラス組の一志大夫が兼続に伝えた。その羽柴秀吉から上杉家への同盟申し入れがやってきた。
この頃、徳川家康は甲斐と信濃を乗っ取ってしまっている。
年が明け天正十一年(一五八三)。上杉景勝は羽柴秀吉と同盟を結んだ。
信州真田郷で一人の若者が空を見上げている。真田源次郎幸村十七才である。
初音が幸村の前に現われた。初音は幸村の父・昌幸がノノウの巫女に産ませた子である。
賤ヶ岳で羽柴秀吉が柴田勝家に勝った。この後、秀吉と徳川家康との間の小牧・長久手の戦いがあった。
家康は北条氏との融和をはかり、領土の確定してしまう。これに反発したのが真田昌幸だった。
昌幸は初音を呼び、直江兼続とのつながりをただした後、上杉との同盟を結ぶことを決めた。人質として幸村を出す。
上杉家へ人質としておもむく真田幸村の姿が北国街道にあった。幸村のまわりには木猿をはじめとして特殊技術を身につけたものが多い。
この幸村を直江兼続が出迎えた。下馬の礼までとってのことに幸村は驚いた。
義の旗印を掲げることによって、生きることの意味を皆に問うた、という兼続の言葉は十九才の幸村の胸に染み入った。
この幸村のところに、徳川家康が上田城攻めを決断したとの知らせが来る。兼続は幸村を上田に戻した。
この上田攻めとは別に、羽柴秀吉が越中に出陣してくることが石田三成からの知らせでわかった。佐々成政を成敗するための出陣だ。
この天正十三年(一五八五)七月。羽柴秀吉は関白の叙任を受け、同九月豊臣姓を下された。秀吉の天下が刻々と固まりつつある。
富山無血開城の翌日、秀吉から景勝に会いたいとの申し入れがあった。場所は上杉側にまかせるという。会見場所は落水城(おちりみずじょう)になった。
この会見の直前、信州から急報がもたらされた。真田昌幸が徳川家康を敵に回した神川合戦のことであり、真田の奇策が天下に鳴り響いた合戦だ。
秀吉に従うものは二十人もいない。この会見には秀吉に石田三成、上杉景勝、直江兼続の四人が臨んだ。石田三成とは初めて会う。三成と兼続は同じ二十六才であった。
ここで秀吉は上方見物に招きたいという。つまり己に従えということだ。景勝は上洛することを決意する。
天下は秀吉と家康を中心に回っている。
徳川が去ったことによって、真田幸村が春日山城に戻ってきた。幸村は上杉家にとって獅子身中の虫となっている新発田重家攻めに参加したいと言ってきた。
天正十四年(一五八六)、豊臣・徳川の関係が一転して和解の方向へと進んだ。
上杉の上洛は五月と決まった。途中で石田三成の出迎えを受け、六月七日に京へ到着した。同月十四日に上杉景勝は大坂城へ登城した。景勝は秀吉自らの茶でもてなしを受け、兼続と千坂対馬守は千利休のもてなしを受けた。
天下は広い。兼続は上杉家の立場を守っていくことの難しさを感じていた。
兼続は見聞を広めるため堺へ向かった。ここでお涼という娘と出会った。
その足で鉄砲師・和泉屋松右衛門をたずねた。ここでは鎮西(九州)攻めが近いだろうという話が出た。
大坂に戻ると、カラス組の一志大夫が真田幸村が消えたという知らせを持ってきた。兼続は「義」の心が通じる若者と信じていただけに裏切られた気分であった。
天正十四年十月十四日。徳川家康が上洛の途についた。
翌天正十五年、上杉景勝は新発田重家攻めを行い、激戦の末、自刃に追いこんだ。ようやく越後が平定された。
翌年、兼続は景勝に従って再び上洛する。このときに従五位下山城守を拝命し、以後、直江山城守と称されるようになる。
九州平定も終わり、関白秀吉の次の目標は東国である。北条をはじめ、奥州には伊達がいる。
京にいる間に兼続は利休の茶の湯を学びたいと思っていた。ここで出会ったのが、先だって堺で出会ったお涼という娘だった。お涼は利休の娘であった。
この年の秋、景勝は家老職を廃して兼続に国政をまかせると宣言した。兼続の単独執政態勢である。
佐渡平定の準備の間にお船が懐妊した。
佐渡を平定して佐渡金山の開発を積極的に進めることになった。
お船が産んだのは娘で、お松と名付けられた。
天正十七年(一五八九)十一月。小田原攻めが決まり、翌十八年に秀吉は京を発した。
東海道を進む部隊とは別に、信州方面から進む別働隊に上杉景勝、前田利家、真田昌幸らがいた。兼続の兜の前立には「愛」の文字をあしらった。
この信州からの部隊は大道寺政繁守る松井田城を攻めたが、持久戦にもつれ込んだ。四月十九日に陥落した。この後、川越城、松山城、鉢形城を攻めた。
石田三成が兼続を訪ねてきた。ここで三成は秀吉を中心とする中央集権の考えを持っていることを兼続にあかした。邪魔になるのは徳川家康のような古強者たちだ。
関東仕置を終え、会津には蒲生氏郷が入り、上杉家は庄内三郡に佐渡両国、酒井湊などを手に入れ九十一万石に膨らんだ。
明けて天正十九年(一五九一)。兼続は景勝に従って上洛した。上洛中に石田三成の紹介で立花宗茂に会った。このときに唐入りの話が出た。朝鮮、明への出兵のことだ。
だが、政権内部で反対者がいる。千利休や秀吉の弟・秀長、徳川家康らなどだ。ここに三成が推し進める中央集権の考えを持つものと、地方分権を考えるものとの意見の対立が起きていた。
この均衡が崩れたのは秀長が死んでからである。政局が一気に動き始めた。利休が追いつめられ、切腹して果てた。娘のお涼の行方は知れなくなった。
五月下旬、景勝と兼続は春日山城に戻った。ほどなく、奥州の葛西と大崎を平定せよとの命が来る。この出羽庄内への出陣と入れ替わるように、景勝夫人・お菊の付き添いという形でお船が上洛の途についた。
出羽の平定で秀吉の天下統一はなったが、愛児・鶴松が病死した。甥の秀次を後継者に指名し、秀吉は太閤を名乗り、唐入りの計画に熱中していく。
明けて文禄元年(一五九二)、朝鮮出兵の軍令を発した。上杉軍は肥前名護屋城で後方支援をおこなった。
文禄三年(一五九四)の正月を兼続は春日山城で迎えた。これが兼続と景勝主従にとって春日山で迎える最後の正月となる。
文禄四年、会津の蒲生氏郷が死んだ。同年七月、秀吉は関白秀次を追放し切腹を命じた。この年にお船は平八景明を産んでいる。
上杉家が会津に移封されることになった。奥州の要に上杉家を用いることにしたのだ。加増され百二十万石となる。増やした石高で、徳川、伊達に備えよということなのか。兼続はそう解釈した。
新たな百二十万石の内米沢三十万石は直江兼続の領する所となる。
会津に移るにあたって、越後にある仕掛けを施すことにした。
豊臣秀吉が世を去った。景勝・兼続主従は会津経営に忙殺されていたが、兼続が一足先に伏見に行くことにした。追って景勝も伏見にやってきた。
徳川家康は豊臣政権の定めを公然と破る閨閥づくりに走り始めていた。政治状況は緊迫の度合いを増していく。石田三成と徳川家康との主導権争いが激しさを増していたのだ。
慶長四年(一五九九)、上杉景勝は徳川家康に面会して会津に帰国した。
帰国の途中で兼続は石田三成を訪ねた。三成は毛利を大将に立て、徳川家康に対抗する決意を示した。
慶長五年(一六〇〇)四月。徳川家康は上杉家に詰問状を発した。詰問状をしたためたのは西笑承兌であり、宛先は直江兼続であった。
この詰問状に対しての返書が、世にいう「直江状」である。
六月、大坂城では上杉討伐の軍議が開かれ、東征軍十万余が東海道を進み始めた。
南からの徳川家康の動きに呼応するかのように、伊達政宗が動いた。
石田三成決起の知らせが届いた。兼続は早すぎると思った。上杉軍が徳川軍の先鋒を叩いて、その後に決起するというのが兼続の描いた図であった。
家康の軍が西へと動き始めた。これを進撃することを兼続は景勝に進言したが、背後から追い打ちをかけるのは上杉の義ではないといいきり、追撃は成らなかった。
家康がいなくなった間に上杉家は最上と伊達領を切り従えることにした。最上を攻めている間に関ヶ原の戦いが一日で決したとの知らせが飛び込む。
上杉軍は長谷堂城の包囲を解き、撤退戦を開始した。
関ヶ原の戦いの戦後処理が始まった。この時に伊達政宗が動いたが、松川合戦で上杉軍に散々に破られる。
上杉家は徳川と和議をすすめることにした。交渉相手に選んだのが本多正信だった。上杉家は米沢三十万石に減らされることになった。米沢への移住は困難を極めた。
兼続は上洛して本多正信の次男・政重を自分の長女・お松の婿に迎えたいと申しでた。この話は兼続の実弟・大国実頼をひどく傷つけ、徳川に尻尾を振った兼続に失望していた。そして、その実頼が伏見で使者を斬ったとの知らせが届いた。兼続は実頼を厳しく罰することに決めた。
慶長十九年。徳川家康は大坂攻めの陣触れを発した。上杉軍もこれに加わる。この戦いには真田幸村も敵として出てきている。
兼続は部門の意地を示した後に、上杉家を存続させることに義を見いだし、真田幸村は形勢不利な豊臣方につくことで、清冽な義の花を咲かせようとしていた。
直江山城守兼続は大坂の陣から四年後の元和五年(一六一九)十二月十九日に江戸桜田の鱗屋敷で六十年の生涯を閉じた。
本書について
目次
第一章 川中島
第二章 謙信動く
第三章 師と弟子
第四章 雪崩
第五章 遺言
第六章 御館の乱
第七章 秘謀
第八章 華燭
第九章 死中に生あり
第十章 天下動乱
第十一章 兼続と幸村
第十二章 上洛
第十三章 山城守
第十四章 家康
第十五章 男と女
第十六章 会津へ
第十七章 戦雲
第十八章 北の城塞
第十九章 決戦
第二十章 生きる
第二十一章 愛
あとがき
登場人物
直江(樋口)与六兼続(直江山城守兼続)
お船(おせん)…兼続の妻
小国(樋口)与七実頼…兼続の弟
樋口惣右衛門兼豊…兼続、実頼兄弟の父
おふく…惣右衛門の後妻
上杉喜平次景勝…兼続の主君、謙信の養子
菊姫…景勝の妻、武田勝頼の妹
泉沢又五郎久秀
上条政繁…上杉家一門
直江信綱…直江大和守景綱の養子
一志大夫…カラス組
仙桃院…謙信の姉、景勝の母
妙椿尼(お万ノ方)…お船の母
上杉謙信
直江大和守景綱
上杉三郎景虎…謙信の養子、北条氏康の七男
刈安兵庫
華姫…三郎景虎の妻、景勝の姉
道満丸…三郎景虎と華姫の息子
上杉憲政
斎京三郎右衛門…桑取谷の大肝煎
北条氏政…上杉三郎景虎の実兄
武田勝頼
高坂弾正忠昌信
真田幸村
木猿
真田昌幸…幸村の父
初音
鈴音…初音の妹
新発田重家
羽柴秀吉
徳川家康
〇後半の主要人物
直江山城守兼続
お船(おせん)…兼続の妻
お松…娘
平八景明…息子
大国(小国)与七実頼…兼続の弟
樋口惣右衛門兼豊…兼続、実頼兄弟の父
上杉喜平次景勝…兼続の主君、謙信の養子
菊姫…景勝の妻、武田勝頼の妹
泉沢又五郎久秀
上条政繁…上杉家一門
千坂対馬守景親
一志大夫…カラス組
仙桃院…謙信の姉、景勝の母
真田幸村
木猿
真田昌幸…幸村の父
初音
鈴音…初音の妹
新発田重家
羽柴秀吉
石田三成
前田利家
前田慶次郎利太
立花宗茂
千利休
お涼…千利休の娘
徳川家康
本多正信
本多政重…本多正信の次男、直江兼続の娘・お松と結婚し、一時兼続の養子となる
伊達政宗