覚書/感想/コメント
重耳なきあとの晋を支えた士会を描いた小説。晋の「武」の側面を描いている感じでもある。なぜなら、士会という人物が優れた戦術・戦略家だったからである。
「武」の側面だけでなく、士会には「信義」というものに対する人一倍の思いがあり、そうした面も描かれている。特に、欺瞞に満ちた趙盾の政治に対する強い批判を込めて、秦に亡命した箇所などにそうしたところを見ることができるのではないか。
物語の始まりは、重耳=文公が晋に戻ってきた直後くらいからであるため、宮城谷昌光氏の「重耳」の続きのように読まれると良いのではないかと思う。「城濮の戦い」については重耳を補完するくらい詳しく書かれている。
さて、重耳の後の政治を長いことリードしたのは趙盾である。この趙盾については趙盾の視点から書かれた「孟夏の太陽(「孟夏の太陽」収録)」というのがあるので合わせて一読することをオススメするが、本書では外から見た趙盾の姿が描かれている。
複数の視点から一人の人物にスポットを当てることによって、違った見え方がするので面白い。
最後に、本書が「重耳」に関連する書の一つであるのと同様に、他に「重耳」に関連する書がある。
本書でも最初に登場した介推を描いた「介子推」、それと上記で述べた「孟夏の太陽」である。
これらをあわせて読まれると「重耳」の世界というのをより深く楽しめるのではないかと思う。
内容/あらすじ/ネタバレ
公宮が炎上している。郤氏と呂氏が乱を起こしたのだ。西暦紀元前六三六年。
駆けつけた士会(しかい)の前に凄まじい棒術を遣う男がいた。介推という。この時の介推は現実から伝説へ移行する境にいた。だが、士会が見たのは介推の影だけだった。
先蔑(せんべつ)が君は辛うじて逃げたらしいといった。士会は従者の弗(ふつ)とともに君の文公を探して回った。この中で士会は一人の男を逃した。士会は知らなかったが、逃がした男は郤缺(げきけつ)であった。
ほどなくして、郤氏と呂氏の乱は終息した。
士氏の家は士蔿の代に君主に信頼され、盛栄の一途をたどるかに思われたが、晋でおきた驪姫の乱で家運に陰が生じた。
文公(重耳)に従っていた臣が廟堂に列座し、いつの間にか士氏の家よりも先氏の家の方が格が上になっている。
生前、士蔿は士会について予言した。士氏を興すのは、会であろうと。その士会は家族からは悍馬と思われている。この家には武に長じた者はおらず、司法をつかさどってきた。
士会はある夕に先軫に呼ばれ、人を王都へ送ることになった。一緒に行くのは狼ジンである。送るのは一人の女で、叔という。
女は周王に仕える貴族の女か、もしかすると、王女かもしれない。この護衛が文公による内命というのが引っかかっている。
この一行が襲われ、士会ははからずも叔の素顔を見た。これほど美しい女は見たことがないと思った。
叔を送り届けて戻った士会は人が変わったように静かに生活した。兄の士穀が見ると読書をしている。
こうした士会に仕えたいといってきた童子がいる。弗の親戚で、筲(そう)という。士会はまだ一家を立てているわけではないが、筲は仕えると吉であるという占いを信じてやってきたのだという。
周の王都が不穏である。この中で、士会らが送り届けた叔姫の行方も知れなくなってしまった。
秦が周王を援助する姿勢を示したが、文公が乱を鎮めてみせると説得し、これを上手く果たすことになる。王室の内訌を鎮めたことにより、晋の版図が広がったばかりでなく、晋兵が軍事に自信を取り戻し、名誉を得た。
宋が楚の盟下から抜けて、晋に親善を求めた。楚は北伐の軍を催し、この北伐が城濮の戦いと呼ばれる大戦につながってゆく。
楚は不敗の軍である。晋にとっても勝つ方法が見つからないでいた。この戦いに際し、士会は兄・士穀から兵車をもらった。
晋は周王室の乱を鎮めた時には左右の師しかなかったが、二年半後には三軍をもつことができるようになっていた。五千だったものが三万七千五百になったのだ。
曹を攻めたとき、文公は僖負羈の家に入ってはならないとの命を出した。この家の警備を命ぜられたのが士氏だった。
だが、僖負羈の特別扱いに不満を感じた者の手によって火がつけられた。士会は炎の立上る中で一人の女を助け出した。その姿がかつて王都に送り届けた叔にそっくりだったので驚いた。名も叔というようだが、士会のことを知らないようである。僖負羈の娘なのだという。
いよいよ城濮の戦いが近づいている。晋軍を率いるのは途中で中軍の将となった先軫である。先軫は楚軍を全滅させるにはどうしたらいいかと考えている。
こうした中で行われた戦いで士氏は兵を集団として用いて強さを発揮した。訓練したのは士会である。
戦いは晋軍の勝利で終わった。
士会は僖負羈に会い、叔を妻に迎えたいと申し出た。だが、これに僖負羈は困惑した。というのも、叔には複雑な事情があったからである。
城濮の戦いのあと晋の時代と思われたが、実際は南北抗争の時代に入る。
士会は文公の車右となった。士会は上士となり、一家を立てることになった。この話に僖負羈も喜び、叔を士会に嫁がせた。
出師の噂がある。晋が鄭を攻めるというものである。文公が亡命生活をしていた折、鄭で冷遇されたことがあった。
鄭を攻める前に秦の歓心を買っておくことにし、晋軍と秦軍は鄭都を包囲した。
胥臣(しょしん)が郤缺を見つけ出してきた。文公は嫌な顔をした。だが、文公は郤缺を赦した。
この後程なくして文公が死んだ。在位九年であり、七十才であった。
秦が動いた。この動向を見守っていた晋は秦軍が引き返してくるのを知った。この戦いに文公を継いだ少年の襄公自ら戦陣に立つことになった。
士会が事前に会っていた姜戍氏の首長・吾離も戦線に加わった。吾離は秦に怨みがある。一緒にいた士会は吾離が秦軍を本当に全滅させるつもりでいることを知った。
士会を温かく見ているものがいる。宰相の先軫だ。勇気の本質を知る自分と同じものを士会に見たのだ。おのれを継げるのは士会しかいないだろう。そのために士会の勢力を大きくしておく必要がある。士会に廟堂に登るための足掛かりを用意しておかなければならない。
この先軫が戦死した。
文公を支えた老臣たちが次々と死んでいった。当然、人臣の波瀾を予感させた。士会は四十才となっている。
趙盾(ちょうとん)が中軍の将となり、群臣を驚愕させた。これを知り悔しさにまみれたのが狐射姑(こえきき)であった。
一方で、秦では穆公が死んだ。この後、襄公が急死してしまう。このことが士会の運命を狂わせる。
襄公の急死は朝廷に戻るきっかけを失っていた狐射姑にとって活路の発見であった。狐射姑は趙盾が推す公子を断固としてしりぞけるつもりであった。
趙盾は秦にいる公子雍を迎える準備をした。これに士会と先蔑が遣わされた。二人が秦にとどまっている間に、晋では趙氏と狐氏の凄まじい格闘が繰り広げられていた。この争いに勝ったのは趙盾であった。
この趙盾は公子雍の擁立をやめ、太子を君主にするという。変心したのだ。士会は趙盾の二枚舌を許せなく、耐え難いものと考えた。道義的に許せないのだ。
士会は秦へ亡命することにした。士会の亡命は趙盾への最大の批判となり、士会という大夫の大きさと奥行きの深さを示すことになった。
秦の康公は士会を重用した。北徴を攻める時に、帷幄に士会を招いた。つまり軍事顧問にしたのだ。
士会はつねに次の戦いを念頭に置いて行動する。この士会の異才に気がついていたのは、秦の中では白乙丙だけであった。
士会は秦に来てから抱える家族などの人数が千五百を超えていた。心に平和を感じていたが、秦と晋の間には平和はなかった。
秦は晋をせめるべく出師を敢行し、士会もこれに従った。令狐の戦いに報いるための戦いであるが、それならば、と士会はいう。晋軍に勝つべきではないかと。実はそこまで想定しての出師ではなかった。ここからの士会の作戦というのが非凡なものであった。
趙盾は自分が軍事は上手くないということに気がついていた。趙盾はかつて晋にいた士会というものが秦に亡命し、晋を苦しめているということを郤缺から聞いていた。
趙盾は士会を呼び戻す手だてがないかと郤缺に問うた。郤缺はすでにその方策を持っており、騙す形で士会を晋へ連れ戻した。しまった、と思ったのは康公であった。
士会ははじめて二十二年前に助けた男が郤缺であることを知った。この郤缺は、やがて士会に一軍を率いてもらうつもりだといった。自分が隠退する時に上軍の将に推すという。それと、と郤缺は願いをいう。息子の郤克を教育してもらいたいと。
楚王が死んだ。翌年、ぞくぞくと諸侯が晋の盟下に戻ってきた。
楚を継いだ荘王は、どうやらあえて愚昧な姿をさらけだし、心服していない者を見極めようとしているようだ。恐るべき君主といわざるを得ない。
我が君は暗愚らしいという声が士会にも届いた。士会は五十一才になっている。南方では荘王が豹変した。大粛清を行い、その後すぐに軍を発した。
士会の席次はこの時点で、第五位か第六位にいた。
霊公と趙盾の関係は最悪の所まで来ていた。霊公は趙盾を殺そうとした。趙盾は亡命を図ったが、国境付近で、霊公が殺されたと聞き、戻った。だが、かえってこのことが趙盾の評判を落すことになる。
成公が継ぎ、趙盾が政治から退いた。席次に変化が起き、宰相には荀林父(じゅんりんぽ)がなり、次いで郤缺、先穀、士会の順となる。
鄭を攻めることになった。上軍の将は先穀、その佐に士会がなる。士会は鄭城を包囲せずに、南下することによって鄭から降伏の使者がやってくるといった。先穀には全く理解できない作戦である。
士会は楚を侵す姿勢を示す。だが、こうした行動が鄭を恐れさせることになり、士会のいうとおりに降伏の使者がやってきた。この戦いには成公も親征している。
この士会の作戦は天下を驚嘆させたが、すぐさま楚の荘王はこれ以上に驚嘆させることを行った。それは周の天子に鼎の軽重を問うた。つまり、天子の座をうかがったのだ。
郤缺が死んだ。士会の不思議はどの君主にも好意を持たれたことである。
邲の戦いと呼ばれる大戦が始まろうとしている。
鄭を楚の軍が囲んでいる。そろそろ限界に近づいている。晋軍は援軍を出すことにした。中軍の将、つまり全軍の指揮官は荀林父である。士会は上軍の将であった。
この戦いは晋軍にとって不利なことが続き、士会は引き上げるべきだと考えていた。荀林父もそう考えたが、これに反対していたのが中軍の佐である先穀であった。だが、このことがかえって晋軍を窮地に追いこむことになってしまう。
士会は上軍の佐として士会の下にいる郤克に中軍を救うための方策を指図した。伏兵を幾箇所にも設けるのだ。
そして、最後に士会はしんがりをつとめることにした。驚くべきことに、士会は殿軍ばかりか上軍の兵を損なうことなく引き上げさせた。
この戦いが行われたのは西暦でいえば紀元前五九七年のことだった。
晋が覇権を失った。荀林父はおのれの器量が士会に遠く及ばないことを悟っていた。この荀林父が逝去し、士会が宰相となった。
本書について
宮城谷昌光
沙中の回廊
文春文庫 計約七三〇頁
春秋時代 紀元前世紀
前7世紀後半
目次
孤舟
戦雲
城濮
祥雲
離愁
分流
余炎
惜暮
新生
旗鼓
敖山
大法
登場人物
士会
弗…家宰
筲
叔…士会の妻
杜辛
士穀…士会の兄
士渥濁…士穀の子
士缺…士会の父
先軫
先且居…先軫の嫡子
小芭
先蔑
郤缺
郤克…郤缺の子
狼ジン
僖負羈
文公(重耳)
狐偃
胥臣
襄公
霊公
成公
景公
趙盾
狐射姑
荀林父
吾離…姜戍氏の首長
康公…秦公
白乙丙