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長谷川平蔵宣以とは?「鬼平犯科帳」の鬼平で知られる火付盗賊改役

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長谷川宣以(はせがわ・のぶため)。通称、長谷川平蔵。父・長谷川宣雄が平蔵(へいぞう)を通称としたため、家督相続後は平蔵を通称としました。

延享2年(1745年)―寛政7年(1795年)。

幼名は銕三郎(てつさぶろう)、あるいは銕次郎(てつじろう)。

「鬼平犯科帳」のモデル

池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として知られます。

江戸時代中期の旗本。火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めました。

息子の宣義も家督相続後は平蔵を称しました。

墓所は東京都新宿区須賀町にある戒行寺。

生涯

本所の銕

延享2年(1745年)に誕生。400石の旗本である長谷川宣雄の長男として生まれます。

母は不詳。研究家の滝川政次郎・釣洋一・西尾忠久は宣雄の領地の農民・戸村品左衛門の娘だったのではないかと推測されています。

長谷川家の祖・正長は徳川家康が武田信玄と戦った三方ヶ原の戦いの際に、武田勢を引き受けて討ち死にしています。

このため、長谷川家は武勲の家系として畏敬されることになります。

宣以の家系は400石ですが分家筋のためであり、本家は1750石の大身旗本です。

本家は「正」、分家は「宣」を使うことになっています。

ちなみに、宣以より36歳年上の本家の長谷川太郎兵衛正直も先手弓頭・火付盗賊改を務めました。長谷川家は典型的な武門の家柄だったのです。

養母は自分が産んだ子に家督を継がせたいと考えていたようで、宣以を虐げていました。

そのため養母と折り合いが悪く、家にはいつかなかったようです。

そうした荒れた生活した時期に「本所の銕」などと呼ばれて恐れられていました。

「本所の銕」のいわれは、19歳のころ父の屋敷替えによって、築地から本所に住むことになったためです。

父・長谷川平蔵宣雄

そうはいうものの、宣以以外に男児が生まれなかったため、明和5年(1768年)の23歳の時に10代将軍・徳川家治に御目見し、長谷川家の家督相続人となります。

時期は不明だが、旗本の大橋与惣兵衛親英の娘と結婚し、明和8年(1771年)に嫡男・宣義が生まれています。

父の宣雄も火付盗賊改役を務めました。火付盗賊改役として相当優秀だった宣雄は、幕閣の信任もあつく、安永元年(1772年)に京都西町奉行に就くことになり、宣以も妻子と共に京都に赴きます。

ですが、翌安永2年(1773年)宣雄が京都で死去します。55歳でした。急死がなければ、町奉行へ進んだと思われます。

家督相続

宣以は江戸へ戻ることになりましたが、その際に父の部下の与力・同心たちに次のように言ったと記録があります。

「各々方御堅固に御在勤あるべし。后年、長谷川平蔵と呼ばれては、当世の英傑と世に言われんことを思う。各々方御用として参府あらば、必ず訪わせらるべく候、と暇乞いいたしける」

江戸に戻ると、30歳で長谷川家の家督を継ぎ、小普請組支配長田備中守の配下となりました。

この時期に父が残した金を使い、遊蕩三昧だったようです。

「大通」といわれた粋な服装をしていたとも伝えられています。7か月の小普請支配ののち、役目に就きます。

宣以が火付盗賊改に就任するのは、十五年の歳月がかかりました。

この間、延べ26人の火付盗賊改が入れ替わりましたた。実数は20名です。多くが半年から1年程度の在職でした。

後年、宣以は足掛け9年在職するが、他に比較的長く在職したのが、贄正寿の5年7か月と、堀帯刀の3年5か月です。

贄正寿が率いたのが先手弓組二番組で、後年、宣以がそのままそっくり受け継ぐ先手組です。

先手組は34組あり、中には1度も火付盗賊改を命ぜられたことのない組もありますが、弓組二番組は10人の火付盗賊改に率いられた精鋭組でした。

栄進、そして火付盗賊改

時代は松平武元、そして田沼意次の時代。栄進が早いが、二人の老中首座に引き立てられたからで、父・宣雄のおかげの部分があると思われます。

安永3年(1774年)31歳で江戸城西の丸御書院番士(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを皮切りに役人の道を歩み始めます。

翌年には西の丸仮御進物番として田沼意次へ届けられたいわゆる賄賂の係となりました。

天明4年(1784年)39歳で西の丸御書院番御徒頭。

天明6年(1786年)41歳で番方最高位である御先手組弓頭に任ぜられました。

この年、将軍家治が急死する。田沼意次が失脚し、松平定信が老中となります。

天明7年(1787年)42歳で火付盗賊改役に任ぜられました。

松平定信との関係

松平定信の時代になり、諸奉行は清廉潔白を目安にして選ばれました。そのため、清潔だが、仕事ができない役人が生まれたのです。

例外が、佐渡奉行から勘定奉行になった根岸鎮衛と、長谷川平蔵宣以でした。

宣以が田沼意次の信任が厚かったことは広く知られていたので、「よしの冊子」によれば、長谷川平蔵のようなものをなぜ加役に任じたのだろうかという驚きが広がり、不平を言うものが多かったといいます。

どちらかというと妬み・嫉妬の類での讒言だったのではないかと感じます。

「よしの冊子」は松平定信の元に集まってきた隠密情報を整理した文書です。

定信の幼時からの近習・水野為長が統括役となってまとめたものでした。

水野為長も、松平定信同様に反田沼意次から始まっているため、田沼意次に引き立てられた宣以に対しては厳しかったようです。

また、水野為長の実父・萩原宗固は先手組の与力でしたが、宣以に強い敵意を抱いていたようです。

こうしたバイアスがかかった状態で報告書はまとめられたのです。

讒言の類によって貶められてしまうと、為政者の松平定信の修正が効くわけがありません。

天明の大飢饉の際に江戸で捕らえられた強窃盗犯は288人だが、そのうちの213人は無宿でした。そしてそのうちの164人が13歳から19歳だったといいます。。

宣以は堀帯刀に代わって火付盗賊改の本役に付きますが、助役になるのが松平左金吾定寅でした。

松平左金吾は老中首座の松平定信と同族の久松松平氏のため、それを鼻にかけて、たびたび老中の名を出すので敬遠されていたようです。

松平左金吾は3度の助役を務めるうちに評判も評価も落ちたようで、寛政4年に解任されました。

大盗賊たち

宣以は大事な事件については幕府の裁判記録「御仕置例類集」に記録されています。要するに裁判例です。

宣以が扱ったものが201件おさめられています。全部で2308件なので1割弱が宣以に関連することになります。裁判上手でもあったということです。

大盗賊や大悪党を一人でも捕まえれば、それだけで名を留めるものですが、宣以はたびたび大盗賊・悪党を捕まえました。

寛政元年(1789年)に関八州を荒らしまわっていた大盗、神道(真刀・神稲)徳次郎一味を一網打尽にしました。

御仕置例類集にはありませんが、老中・松平信明が命じた差図が残されています。

同じく寛政元年、江戸で宣以自ら播磨屋吉右衛門を捕らえています。

吉右衛門は北町奉行から十手をあずかる目明しですが、裏の家業があり、町奉行でもどうにもならない勢力をもってしまいました。これを捕縛したのです。

宣以が捕まえた大盗賊で有名なのは、上記に挙げた神道徳次郎のほかに、葵小僧、大松五郎、早飛びの彦がいます。

寛政3年(1791年)に江戸市中で強盗および婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧を逮捕し、斬首しました。

葵小僧は大松五郎の異名らしいですが、当時の裁判記録には名が残っていません。「よしの冊子」「宇下人言」に記されているだけです。

どうやら、葵小僧という盗賊がいたことを抹消するために、早々に果断な処理をしたようです。

早飛びの彦は同じく寛政3年に捕まえています。手下は150人ほどおり、定火消の臥煙の頭として、赤坂の火消屋敷に居ついていました。

その大部屋は町奉行所からも火付盗賊改からも治外法権で、常に賭場となっていたのです。

早飛びの彦は、自らは手を出さず、部下に指示をして盗ませていました。

他に定火消屋敷にいた盗人の頭領を10人ほど捕まえています。火消し人足の頭であれば、火事場を利用しての情報収集ができたのでしょう。

人足寄場

寛政元年頃に、宣以に江戸町奉行への昇進の噂が流れました。

その後もたびたび町奉行への昇進の噂が流れますが、すべて立ち消えとなります。

強力な後ろ盾がいなかったというのが痛かったようです。

この場合、松平定信に嫌われていたのが一番の原因のようです。

一方で、寛政二年に加役方人足寄場取扱の兼任を命じられました。

天明の大飢饉後、無宿がますます社会問題となり、松平定信が幕臣に提言を求めたところ、長谷川平蔵宣以ただ一人が献策しました。

それが「人足寄場」(犯罪者の更生施設)の建設でした。

場所は旗本石川大隅守屋敷地と佃島の間の干潟16,000坪を埋め立てた場所でした。

予算が少なかったため、松平定信に予算の増額を訴え出たが受け入れられませんでした。

初年度500両と米500表、次年度からは300両に米300表。これは松平定信が改革の中で人気歌舞伎役者の1年間の上限給金にした額500両と変わりません。300両を上回る、役者は13人いたそうです。

結局は、宣以が独立採算で運営できるように銭相場に投じて資金を稼ぎました。

宣以には経営感覚と財テクの才があったようです。

町奉行への噂

寛政三年ころ、町奉行就任への話が幕閣で議論されましたが、別の候補者として松本兵庫頭、中川勘三郎、根岸鎮衛の名が挙がり、最終的には大坂東町奉行だった小田切直年が北町奉行になりました。

通常、火付盗賊改は出費が多いので、数年務めると実入りの良い遠国奉行に転任させる配慮がなされますが、宣以にはそうした配慮がなされませんでした。

結局は松平定信に嫌われていたからですが、その松平定信は自伝「宇下人言」において「長谷川某(なにがし)」とだけ記して名を書きませんでした。

実績・実力は認めていたようだが、「左計の人(山師的)にあらざれば」と述べ、嫌っていました。

しかし人情味溢れる仕事振りに、庶民からは「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれ、非常に人気がありました。

宣以も出世できないことを愚痴っていることもありましたが、「越中殿(=松平定信)の信頼だけが心の支え」と勤務に励んでいたといいます。

寛政5年(1793年)松平定信が失脚しましたが、宣以は引き続き火付盗賊改の役目に忠実に励みました。

寛政7年(1795年)に8年間勤め上げた火付盗賊改役の御役御免を申し出て、3ヵ月後に死去します。

病気は不明だったが、11代将軍・家斉の耳にも届き、将軍家秘蔵の高貴薬「瓊玉膏」(けいぎょくこう)を下賜されています。

長谷川宣以の住居跡には、数十年後に江戸町奉行となる遠山景元が居を構えました。

略年表

  • 延享2年(1745年)生まれ
  • 明和5年(1768年)長谷川家の家督相続人となる。
  • 明和8年(1771年)嫡男・宣義誕生。
  • 安永元年(1772年)父・宣雄が京都西町奉行の役に就き、宣以も京都に赴く。
  • 安永2年(1773年)父・宣雄が京都で死去。長谷川家の家督を継ぎ、小普請組支配長田備中守の配下。
  • 安永3年(1774年)江戸城西の丸御書院番士
  • 天明4年(1784年)西の丸御書院番御徒頭。
  • 天明6年(1786年)御先手組弓頭。
  • 天明7年(1787年)火付盗賊改役。
  • 寛政7年(1795年)死去。

同時代人

  1. 松平定信
  2. 根岸肥前守鎮衛

主な登場作品

参考文献