最初の盗賊改
水野小左衛門守正(みずの・しょうざえもん・もりまさ)。
江戸時代の500石の旗本。最初の盗賊改(寛文5年(1665年)―寛文11年(1671年))。
小左衛門守正は2代将軍徳川秀忠の小姓組から書院番へ進みました。
万治3年(1660年)先手弓頭に抜擢されます。
寛文5年(1665年)4代将軍徳川家綱から関東強盗追捕として任命されました。
盗賊改の役目
幕府の役職の任命ではなく、盗賊の捕縛という役目を下命されています。
江戸市中も盗賊が横行しており、町奉行所が奮闘していましたが、常陸での盗賊取り締まりを命じられました。
町奉行とは全く別に関東の在方の盗賊追捕を主な役目として始まりました。
また、町奉行の与力・同心とは異なり、賊徒を見つけ次第殺すのが役目でした。
番方(部門の家柄)が代々この職を引き継ぎ、8代将軍徳川吉宗の時代に盗賊改、火附改、博打改が一緒になり、火付盗賊改になります。
先祖
曾祖父の水野忠政は尾張・緒川城主。織田信秀や松平広忠と渡り合った人物です。
水野忠政の四男が祖父の忠守。忠守の兄が水野信元で、妹が家康の生母於大の方(伝通院)。そのため、水野家は家康の生母の家筋になります。
水野信元は織田信長麾下にあったので、祖父・忠守も同様に信長に仕えました。
その後、信長の麾下を離れて家康に仕えました。
父・守重を経て、小左衛門守正となる。
上記のように、水野家は家康の生母の家筋であるため、祖父・忠政の嫡流は大名として継承を重ねました。
分流は大名5系と旗本約10系があります。