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西津弘美の「高橋紹運 戦国挽歌」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

高橋紹運(たかはしじょううん)。立花宗茂の父である。

大友家末期、大友宗麟が豊臣秀吉に泣きついて軍勢を出してもらい、それが到着するまで、島津家を食い止めたのが、高橋紹運・立花宗茂親子であった。

特に高橋紹運は凄まじかった。

高橋紹運は岩屋城に兵七百余立て籠もり、島津五万を相手にした。最初から勝てる戦いでないのは分かっていた。だが、これだけの兵で二週間島津軍をくぎ付けにしている。

だが、代償は大きかった。七百余の兵もろともの玉砕である。

物語はこの岩屋城の籠城戦から始まり、紹運が高橋家を継いだ時期に戻って話が進んでいく。

そのまま高橋紹運の多くを語るのかと思っていると、途中で大友家や龍造寺隆信などの方に視点が移ってしまい、高橋紹運を描いているというよりは、九州三国志を描いているような印象になる。どうも話が散漫になり、軸がないような感じがしてしまうのが残念だ。

「高橋紹運」の小説として期待して読むと期待外れに終わるのではないかと思う。

内容/あらすじ/ネタバレ

天正十四年(一五八六)。岩屋城に騎馬武者が駆け込んできた。立花統虎からの使者である。島津の侵攻が近い。

高橋主膳兵衛紹運と統虎の命運は豊臣秀吉の上方勢が到着するまで堪えしのぐことである。

統虎は岩屋城を出て宝満城か立花城へ移るように言ってきている。だが、紹運はこれを拒否した。紹運は籠城戦を決意していた…。

永禄十三年(一五七〇)。宝満城の新しい城主に吉弘弥七郎鎮理が就いた。若妻と三歳になった千熊丸を伴っている。

鎮種は高橋家を継ぐにあたり、名を鎮種に改めている。

鎮種は天文十七年(一五四八)に吉弘鑑理の次男として生まれた。大友義鎮(宗麟)の近習として兄・鎮信と仕え、大友家で人目を引く兄弟となっていた。

義鎮が三十三歳で剃髪して宗麟と名乗り、戸次鑑連(立花道雪)も麟白軒と号した。鎮種も天正六年、三十歳の若さで剃髪し、高橋紹運と名乗ることになる。

紹運の生家吉弘家は大友家初代の十二子を祖とする豊後の名家である。豊後国東の屋山を本城としている。父・鑑理の正室は宗麟の父・義鑑の娘で、宗麟と鑑理は義兄弟である。

また、宗麟の嫡男・義統には紹運の妹が嫁いでおり、兄・鎮信は臼杵鑑速の娘を妻にしているが、鑑速の実姉は道雪の養母となった養孝院であった。

吉弘、立花、臼杵の三家は文字通り大友の血を引く名家であった。

筑前地方は永禄九年の飢饉のせいで大友家に反抗する諸将があらわれていた。立花道雪、父・吉弘鑑理、臼杵鑑速の三将を総大将の前に反乱は鎮圧された。

高橋紹運が生まれた翌年、大友家では二階崩れの乱がおきた。この事件は今なお不可解な点があり、謎に包まれている。

吉弘鎮信は戦場往来で、斎藤鎮実と肝胆相照らす仲になっていた。この妹が鎮信の弟・紹運に嫁ぐことになった。永禄八年(一五六五)のことである。

永年の毛利家との確執も静まり、平静を取り戻していた時のことであった。

元亀二年(一五七一)、立花道雪が立花城主として赴いてきた。この一行を紹運がもてなした。五十九歳となっていた道雪だった。

道雪の立花城入りは、兄・吉弘鎮信が大友家を継ぐ義統の近習として帰国を命ぜられたからであった。同時に、歯に衣を着せずに諫言する道雪を宗麟が疎んじたという異動の一因でもある。だが、これが家中の崩壊につながることになる。

原田了栄との確執がある臼杵紹冊を呼び、立花道雪は相談していた。了栄は宗麟に争いの原因は紹冊だと直訴している。

道雪は宗麟の周りにいる田原紹忍ら佞臣どもの行状に我慢がならないものがあった。

龍造寺隆信は大友と島津の勢力が及ばない足元の肥前から領土の拡大を図ろうとしていた。

大友と龍造寺に挟まれている筑紫廣門は大友につくのか龍造寺につくのかで悩んでいた。そして龍造寺の膝下に屈することとなった。

天正六年(一五七八)。大友宗麟は伊東義祐を支援すると称し、四万五千の兵で進撃した。だが、この時の闘いで大友軍は完敗する。紹運の兄・吉弘鎮信も戦死した。そして数多くの大友家の重鎮や、軍師・角隈石宗も戦死している。

龍造寺隆信にとってこれは大きな時代の転機に見えた。

翌年、龍造寺隆信は立花城と宝満城を避け、筑後に攻め入った。大友家も援軍を出したが、途中で引き返したため、筑後の諸将は隆信の旗下に屈した。

大友家が日向で大敗して一年後、龍造寺隆信は肥前一国に加え筑後、肥後北部、筑前の一部を切従えていた。

龍造寺隆信は立花道雪のいる立花城を攻略する軍議を開いていた。筑前の大友五城の内、残っているのは道雪の立花城と高橋紹運の宝満・岩屋の両城だけであった。

立花道雪と高橋紹運にとって、豊後からの援軍は期待できなかった。

岩屋城でも高橋紹運を悩ます問題が持ち上がっていた。

秋月種実と通じた家臣の北原鎮久は紹運に足元を見直す時も近いと謎めいた言葉を残していた。謀反の企てていたのだった。

龍造寺隆信は柳川城を手に入れるため、非情な手段に訴えて蒲池家を滅ぼしたため、旗下の人心は次第に離れつつあった。そして権勢を誇った隆信も、日々身を持ち崩し酒色におぼれるようになっている。

立花道雪は高橋紹運の嫡男・統虎を気に入っていた。そして頼み込んで統虎を娘・誾千代の婿として迎えた。

天正十二年。鍋島信生ら重臣の進言を無視して龍造寺隆信は五万七千の兵で有明海を渡り島原半島北部の神代に上陸した。

対するは島津軍である。島津義弘は末弟ながら智勇に優れた島津家久を大将に送りこんでいた。兵はわずか三千。

この戦いで、龍造寺隆信は自刃するまで追い込まれた。時に五十六歳だった。

龍造寺隆信を討った島津の勢いが増し、大友宗麟の足もとまで及ぼうとしていた。この時には立花道雪は亡くなっていた。

大友宗麟には関白秀吉に豊後の窮状を訴えるしか手段は残されていなかった。

天正十四年。筑後の高良山に島津忠長が着いた。ここを本陣とする。

迎え撃つ大友勢は高橋紹運のいる岩屋・宝満の両城に、息子・立花統虎の立花城、筑紫廣門の肥前勝尾城などしかなかった。

紹運の決意はただ一つ。関白秀吉の兵が到着するまで岩屋城を死守すること。

岩屋城には七百余りの手勢しかいない。対する島津は五万以上いる。

高橋紹運は上方からやってくる途中の黒田官兵衛の説得にも、島津忠長の度々の説得にも、息子・立花統虎の説得にも応じず、岩屋城に立て籠もった。

そして天正十四年(一五八六)七月二十七日、現在の九月十日を迎えた。

本書について

西津弘美
高橋紹運 戦国挽歌
人物文庫 約二八五頁

目次

立待月
筑紫野
守護代
女の茶会
春雷
肥前の熊
謀臣
蛇苺
獅子の子
龍の首
道雪の死
大坂城
筑紫の姫
薩摩の嵐
義烈の将
落城譜

登場人物

高橋紹運(吉弘鎮種)
立花統虎(千熊丸、立花宗茂)…嫡男
吉弘鎮信…実兄
屋山中務少輔…高橋家宿老
立花道雪
誾千代
由布雪下
臼杵紹冊(新介)
大友宗麟
筑紫廣門
龍造寺隆信
鍋島信生(直茂)
北原鎮久
島津義弘
島津家久
島津忠長
黒田官兵衛孝高
快心和尚