今回の鎌倉散策の目的の場所の一つです。
ちょうど、北方謙三氏の南北朝ものを読み終えたばかりで、ゆかりの地を訪ねようという目的がありました。
その一つが「大塔宮」こと護良親王の墓所です。
…
墓所を見るつもりだったのですが、階段は急で、なおかつ、手すりもありませんでした。
いやぁ、怖いのなんのって…
登るのを何のためらいもなくあきらめました。
護良親王墓所
南北朝時代の人物、護良親王の墓所です。
護良親王(大塔宮)は後醍醐天皇の第三皇子。皇位継承第一位でした。
護良親王が活躍した時期については「テーマ:鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)」でまとめています。
護良親王の墓は、理智光寺跡の谷にあり、宮内庁が管理しています。
急な階段を上った先に墓所があるようですが、階段の両端には手すりがありません…。
宮内庁管理のため、文化財保護法の適用外になるのでしょうか。
史跡等の指定がされていません。
本来なら史跡の指定がされるべきだろうと思います。
この日のルートは、鎌倉駅から見て北東。イメージとしては鶴岡八幡宮の右上方面を散策しました。
鶴岡八幡宮 ⇒ 源頼朝墓と白旗神社 ⇒ 大江広元墓・毛利季光墓・島津忠久墓 ⇒ 荏柄天神社 ⇒ 鎌倉宮(大塔宮) ⇒ 永福寺跡 ⇒ 瑞泉寺 ⇒ 護良親王墓所
住所と地図
住所 神奈川県鎌倉市二階堂754
護良親王(もりながしんのう/もりよししんのう)
護良親王(もりながしんのう/もりよししんのう)
延慶元年(1308)~建武2年(1335)。
鎌倉時代から南北朝時代の皇族。後醍醐天皇の第3皇子。母は北畠師親の娘・源親子。北畠親房とはいとこ関係。
初め出家して、文保2年(1318)に三千院(梶井門跡)に入室と伝えられます。大塔でもあるので、大塔宮(おおとうのみや)と称しました。
天台座主となる
梶井門主を継いで天台座主となります。
元徳1年(1329)に延暦寺大講堂を修理しました。法名は尊雲。
異例の若さで天台座主への就任は延暦寺の勢力を討幕運動に組み込むための布石でした。
天台座主となり関東調伏の祈祷をし、山門衆徒の収攬に努めました。
還俗して挙兵する
後醍醐天皇の討幕計画に協力して、元徳3年(1331)に元弘の変(第2次討幕運動)に挙兵しました。
僧兵を率いて活躍、この間に還俗して護良と改名。熊野・吉野辺に潜行して国々諸方に令旨を発し勤王の兵を募ります。
当初、弟・尊澄法親王(宗良親王)と共に八王子に布陣したが六波羅軍との合戦に敗れ、楠木正成の籠もる赤坂城へと逃れました。
しかし、赤坂城も落ちたため、幕府の追及を逃れて十津川熊野へと逃れました。再起を期して各地の武士や社寺に反幕府の決起を促しました。
正慶1/元弘2(1332)年、後醍醐天皇が隠岐に流されたころに還俗して護良と改名。
吉野で挙兵し討幕の令旨を各地の反幕府勢力に送りました。令旨に応じて楠木正成が千早城で挙兵し、赤松則村が播磨苔縄城で挙兵しました。
千早城が鎌倉幕府軍に包囲されたとき、護良親王は吉野十津川宇多内郡の野伏に兵糧米が包囲軍の手に渡らないように往来の路を塞ぐことを命じました。
護良親王は河内信貴山に兵を進め、赤松則村の六波羅攻撃を援助しました。
征夷大将軍となる
正慶2/元弘3年に幕府方であった足利高氏(のち尊氏)の寝返りにより六波羅(ろくはら)が落ち、後醍醐天皇が入京しました。
後醍醐天皇の京都還御とともに入洛して、「建武新政」下で征夷大将軍となり兵部卿に任じられました。
しかし、まもなく父後醍醐との疎隔が深まり、征夷大将軍を解任され声望を失います。
謀反の罪で鎌倉へ流される
征夷大将軍の任官をめぐって足利尊氏と反目し、足利尊氏を襲撃しようとしましたが失敗しました。
建武1年(1334)に、足利尊氏と藤原廉子(のちの新待賢門院)の護良親王に帝位を奪う陰謀ありとする讒言を信じた後醍醐天皇が、結城親光、名和長年ら命じて清涼殿の和歌の席で捕縛しました。
謀反の罪で鎌倉に流され、足利直義によって鎌倉二階堂の東光寺に幽閉されました。
建武2年(1335)、北条時行が鎌倉へ侵攻した中先代(なかせんだい)の乱で、形勢不利のため西上する足利直義の命によって、家人・淵辺義博によって殺されました。
非業の最期は、淵辺義博が親王を逃したという伝説を生みました。
墓所は二階堂理智光寺谷。護良親王を祭る鎌倉宮は明治2年(1869)に創建されました。
「梅松論」に「武家(尊氏)よりも君(父天皇)の恨めしく渡らせ給ふ」という言葉が残されています。
大塔宮(護良親王)が登場する小説
北方謙三の南北朝ものがおススメです。
大塔宮(護良親王)縁の地
鎌倉宮(大塔宮)の紹介と写真の掲載。北方謙三氏の南北朝ものを読み終えて、訪ねたくなった場所。護良親王(もりながしんのう)を祭神とする。別名 大塔宮(おおとうのみや)。