伊予に着任するまで
藤原純友(ふじわらのすみとも)は、平安時代中期の官人で、のちに海賊になりました。
寛平5年(893年)?~天慶4(941)
藤原長良(ながら)の曾孫。筑前守大宰少弐藤原良範の次男。伊予前司高橋友久の子で良範の養子と記す系図もあります。
藤原氏の宗家である北家出身ですが、父が早死にしたため出世は期待できませんでした。
承平年間(931~938)に伊予掾(いよのじょう)に任じられ、従兄弟の伊予守に従い伊予(愛媛)に向かい、現地の海賊鎮圧に当たりました。
この時期については、「テーマ:平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)」にまとめています。
海賊になる
任終了後も京に戻らず、承平6 (936) 年、伊予国日振(ひぶり) 島(宇和島市)を根拠として瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配して各地を掠奪しました。「南海の賊徒の首」と呼ばれるようになります。
日振島は無人島の沖ノ島、横島、御五神(おいつかみ)島などを属島とし、それらを合わせると5.14k㎡あります。
朝廷は、承平6年、紀淑人を伊予守に任じ追捕使として派遣、海賊らに衣食を与え農業に従事させるという柔軟な対策をとりました。これが功を奏し、2,500余人が投降しました。
「本朝世紀」によると、純友はこの年に追捕海賊の宣旨を被っており、海賊の動きはしばらく鎮静化します。
承平・天慶の乱
天慶2(939)年11月。
藤原純友は、紀淑人の制止を聞かずに再び海賊に立ち戻りました。
まず、報告のため都に向かった備前介藤原子高(さねたか)を捕らえて殺害します。
そして、公私官物の略奪など、東は播磨、西は大宰府まで、ほとんど瀬戸内海全域で活動しました。
天慶3 (940) 年、東国で平将門の反乱が中央に及ぼうとしていたのと時を同じくして、淡路国を襲って兵器を奪い、瀬戸内海に反乱をおこしました。将門の挙兵に刺激を受けたとみられます。
朝廷は純友に従五位下の位階を授けて懐柔し、西海の反乱は一時鎮まります。
940年5月に征東軍が帰洛すると純友士卒の追捕を令し、西海の追討が本格化します。
藤原純友は讃岐、周防、筑前を荒し回るが、しだいに追い詰められ、941年5月に大宰府を襲撃して、追討軍に敗れます。
天慶4 (941) 年追捕使 (ついぶし) 長官・小野好古、次官・源経基以下の軍勢に敗れました。
かろうじて本拠地の日振島に逃げ帰りましたが、翌日、子息とともに警固使・橘遠保に討たれました。
遠保に捕らえられて獄中で死んだとも伝わります。
純友与党の追捕もこの年内に完了しますが、純友与党は九州、四国、中国地方の瀬戸内一帯の広範な海賊組織でしたた。
乱については報告書の「純友追討記」がある程度で「将門記」に匹敵する記録類がありません。
松島(倉敷市)の純友神社にある「楽音寺縁起絵巻」(広島県指定文化財)には、安芸の豪族藤原倫実が純友のいる備前を攻撃した様子が描かれています。
伝説
比叡山の将門岩には、藤原純友と平将門が都を見下ろしながら、天下を二分しようと誓い合ったという伝承があります。