世襲というテーマ
本郷和人氏は形式より実際の状態がどうだったかを重んじています。「動的な観察」と言われる視点です。
動的な観察とは、史料の解釈をもとに様々な状況を考えながら歴史の動きを観察していくものです。
対照的なのが「静的な観察」です。簡単にいえば史料を調べるだけの研究です。
「血」より「家」
さて、本書は日本における「世襲」の歴史をテーマにしています。
「文明としてのイエ社会」(1979)や家族人類学のエマニュエル・トッド氏の知見を取り入れながら展開される内容は興味深いです。
「地位より人、人というのは血、いや血より家」、これが日本の大原則だったのです。
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一方で
「ヤンキー」がもてはやされる文化があります。人々がヤンキーに喝采を送る傾向は歴史を遡っても容易に見つけられて、南北朝時代には「婆娑羅」、戦国期には「かぶき」と呼ばれるヤンキー集団が登場しました。
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もしかすると、日本人がこうした婆娑羅やかぶき、ヤンキーといった「自由」な存在に惹かれるのは、強固な階級社会の裏返しなのかもしれません。
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序章 世襲から日本史を読み解く
源頼朝が征夷大将軍という「地位」を得た1192年に幕府が成立としていたことがありました。
近年、見直され1185年になってきています。
これは文治元(1185)年には、朝廷に守護と地頭の設置を認めさせ、広範な地域での警察権と徴税権を把握し、関東の平定と、木曾義仲、平家の追討を終えています。
全ては源頼朝の実力で成し遂げたものでした。ですので、1185年とするのは真っ当な考えです。
歴史の生々しい動きにこそ注目すべきで、史料は重要ですが、答えが書かれているわけではありませんので、どのような解釈ができるかが大事です。
源頼朝亡き後、後継者になったのは源頼家でした。頼家に将軍宣下が行われたのは3年後のことです。
しかし、この間に頼家の鎌倉殿として正統性を脅かすものは現れませんでした。
理由は頼家が後継者として明確に指名されていたからです。
頼朝は征夷大将軍という「地位」ではなく、源氏の「家」を「世襲」で確実に受け継いだのです。
征夷大将軍を巡っては室町時代に別の例があります。
足利義持亡き後の将軍を決める有名な話です。義持には弟が四人いて、石清水八幡宮のくじ引きで選ばれたのが足利義教でした。
くじ引きで選ばれたのは神意にかなう人ということであり、マイナスの意味はありませんでした。
神様が正統化し、守護大名が義教を足利家の「家」を世襲した人物と認めたので政務を行なったのです。
ここでも征夷大将軍という「地位」ではなく、足利将軍家という「家」が決め手でした。
第一章 古代日本でなぜ科挙は採用されなかったか?
日本における「家」の問題を考える時、「文明としてのイエ社会」(1979)は重要な参考書です。
日本の歴史が二つの大きなサイクルからなるという仮説を提案しています。
一つが「氏社会」で、もう一つが「家社会」です。これらが11世紀から15世紀まで500年にわたって重複しながら、衰退と興隆を交差させていきます。
古代の大和朝廷は天皇氏を頂点とした氏社会でした。氏族間で淘汰や吸収が起こる場合は、相手の氏族の抹殺するのではなく、取り込んでいきました。
そのため系統の異なる神々については工夫がされました。
大和朝廷は有力な氏族集団の連合国家だったと考えられるのです。
マックス・ウェーバーは「支配の社会学Ⅱ」で、インドやロシアなど古代の各所に見られる氏族国家の中でも、律令制国家を形成する以前の日本が純粋系として述べました。
7世紀の奈良時代に入り、天智2(663)年の白村江の戦いでの壊滅的敗戦を機に、大和朝廷は氏族集団の連合体から、単一国家建設への機運が高まります。
中華帝国を範とした律令国家の形成に向かいますが、失敗に終わったことが、氏社会の解体の第一歩となったと「文明としてのイエ社会」の見解です。
日本には律令を運営する官僚を支えるシステムがほとんどありませんでした。また慣習法や道徳律がなかったためです。
そもそも日本には科挙がありませんでした。そのため「家」を基本とした世襲で役人が選ばれていました。
日本でも試験は行われていたのですが、形骸化していました。
そもそも古代の律令が実際には使われていなかった法令の可能性があります。
借り物であるがゆえ、日本に合わないことがあり、それに対応するための方便の一つが「令外官」です。
官職は律令に書かれていますが、日本では律令に記されていない官職が朝廷内のほとんどを占めていました。
こうして貴族たちを束ねて政治を行うために登場したのが平安時代の摂関政治だったのかもしれません。
この摂関政治もシステマティックなものではなく、治暦4(1068)年の後三条天皇の出現によってたちまち崩壊します。
摂関政治が成り立ったのは、天皇の母方の祖父だからでした。「家」の長として天皇を庇護する立場の人間だから政治を行えたのでした。
しかし、後三条天皇の母親は藤原氏ではありませんでした。
摂関政治は確立はしていませんが、「家」の継承が、中身のない「地位」より重要であることが浮かび上がってきていました。
日本に「家」社会が登場し始めるのは、11世紀の関東地方と考えられています。
摂関政治が倒れたことにより、院政が登場します。院政が始まったことで歴史学では古代が終わり中世が始まったとされます。
理由は院政期の上皇が律令制の根本である公地公民の建前を踏みにじって公然と荘園を皇室の下に集めたためです。
これにより律令制が終焉し、荘園・公領制が実質的な支配システムとなるため、院政の始まりを中世の開始と考えるのです。
筆者は荘園の問題ではなく、政治や経済を行う主体が「氏」から「家」へ変わったことが明らかになったという意味で捉えるべきと言います。
院政のカギは天皇と上皇では、上皇の方が偉いと言い切れる点です。
上皇という「地位」が先にあるわけではなく、天皇の父・祖父だから政治の権力を持つことができるのです。
こうしたことを可能にしたのは、「家」を人々が認識していたからです。そしてこれこそが日本史の肝だと筆者は主張します。
第二章 持統天皇はなぜ上皇になったか?
世界には日本の上皇のような存在はほぼありません。
歴史上、日本の上皇はただの人ではありません。天皇より強い権力を持っていました。如実に現れたのが、路頭礼でした。
史上初めて上皇になったのは持統天皇でした。平安末期の上皇とは異なり、15歳で即位した文武天皇を補佐するためでした。
持統天皇が追及した政治上の使命は、主に二つあったと考えられます。
一つは律令制に基づいた統一国家の建設です。
もう一つが天皇氏の皇位継承を中国に倣って親から子への長子相続の世襲にすることにあったと考えられます。
フランスの歴史人口学者のエマニュエル・トッド氏の説によると次のようになります。
歴史人口学では、最も古い家族形態が核家族だと考えています。子供たちは独立し、遺産は平等に分けられます。子供は年長者が偉いわけではなく、対等の関係になります。
次の形態が直系家族です。子供のなかの一人が跡取りとして指名され、その者が遺産のほとんどを受け継ぎます。多くの場合、男子の最年長者です。親子世代が一対一で縦関係の家族を築きます。
三番目が家父長(共同体)家族です。すべての男子は結婚しても親の世帯に残ります。女子は両親の世帯を出て夫の世帯に合流しなければなりません。遺産は平等主義的に分配されます。豊かでないと成立しない形態です。
天智、天武、持統天皇の時代は氏族社会を脱し、中国式の律令国家へ移行しようとしていました。
つまり、中国という中心部から日本という周縁部へ文化が伝播しようとしていたことでもあります。
先進国の中国の直系家族=長子相続を導入するのは必然だったのかもしれません。
同時期、藤原氏が栄華への礎を築こうとしていました。
氏社会から家社会へ転換する上で重要なのが、律令に加えられた「蔭位の制」です。これにより、父の位階に応じて子に位階を授ける形になります。
藤原不比等の四人の息子は三位以上に昇進し、「家」を持つことになりました。藤原四家の起源です。
日本社会における「氏」から「家」への転換の始まりでした。
藤原氏の繁栄は、親王、内親王、皇太子を自らの「家族」に取り込み、「家族」の長である「外戚」として権力を確立したことにあります。
「家族」における外戚を超える「家」の長として力をふるえるシステムを天皇家が生み出します。それが院政における上皇でした。
第三章 鎌倉武士たちはなぜ養子を取ったか?
律令制では戸籍に基づいて人に課税されていましたが、農民の逃散などにより、早期に崩壊します。
そこで人への課税から土地への課税に移行していきます。
この中で自然発生的に生み出されたのが「職の体系」でした。
土地を開拓して生産する開発領主の子孫が在地領主になります。しかし、彼らの所有権は律令制の官吏である国司に脅かされます。
そこで在地領主は有力者に頼ることで土地を守ることを考えます。在地領主は下司として現地で実務を行い、その上に領家がおり、さらに上には本家がいました。
この連なるシステムを職の体系と呼びました。
職の体系は11世紀頃に現れます。摂関政治の全盛期から院政の向かう時代です。
土地の実効支配権を持っていたのは下司でした。
下司が支配・管理する荘園と、国司が支配する公領が国を二分して並立する状態を、網野善彦氏は「荘園・公領制」と名付けましたが、荘園も公領も実務は下司が担っていましたので実態はほとんど同じでした。
職の体系における権利は、基本的に家単位で受け継がれていきます。つまり世襲です。
摂関政治から院政まで、全国各地、特に東国の在地領主は自らの不安定な地位に対する不満が高まりました。
「文明としてのイエ社会」では、11世紀の東国に「イエの原型」=原イエの基本形が成立したと述べます。
11世紀頃に東国では武士団として一定の勢力を形成したと考えられますが、武士団と原イエとはほぼ同義になります。
源頼朝が短期間で関東を平定すると「所領安堵」を与えます。
そして頼朝は御家人達と一対一の関係である「主従関係」を結びます。武士の時代はこの主従関係が基本となっていきます。
大事なことは主従関係が「家」を単位としたことです
「文明としてのイエ社会」ではイエ型集団の基本特性を四点あげていますが、際立つ特性が「超血縁性」です。
日本における養子制度の広範な活用です。
「血」のつながりではなく、「家」の継続性が重視され、養子が入っても大した問題ではありません。
それによって「家」が栄えるならむしろ歓迎されました。
「血」より「家」が大事という価値観があり、世襲の原理となるのです。
第四章 院家はいかに仏教界を牛耳ったか?
日本においては聖と俗が衝突した様子がほとんどありません。両者はパラレルな関係で、ぶつかり合う関係ではありませんでした。
日本の仏教界に「家」というものが強烈に入り込んでいたからと考えられます。
天皇、上級貴族、中級貴族、下級貴族、一般庶民という秩序が、そのまま寺になだれ込みました。
大寺院には、特定貴族の「家」による別院である「院家」が作られました。
院家は兄から弟、叔父から甥のように世襲で継がれていきました。
院家の中でも有力なものを「門跡」と言います。
日本の仏教界では、徳の高さや学識の高さなどでは高い位に就けませんでした。
高い位は俗界で身分の高い家の出身者に限られました。
出身の「家」が大事で、僧としての地位は二の次でした。
仏教には教義や哲学を担う教相という側面と修行の作法や儀式の進め方や所作を学ぶ事相の二面があります。
事相は覚えるだけなので、世襲と非常に相性がいいのです。ですから、平安時代の仏教において大切にされたのは事相でした。
中世の国家体制については黒田俊雄氏が提唱した権門体制論が有名です。
日本の王は天皇であり、貴族と武士、仏教という宗教が支えたと考えます。
この学説では宗教の役割を高く評価しています。
仏教界は世俗社会と同じ秩序で成り立っていました。
その典型が院家であり、有力なものを門跡と言いました。比叡山系に三門跡がありますが、青蓮院が現在も京都にあります。
寺や神社の運営には「遷代の職」と「永代の職」があります。職は職の体系の職と同じで権利という意味です。
永代の職は古くから受け継がれたものを未来に手渡すような価値に関わるものです。遷代の職は時代の変化に応じて変えるべきものは変えるというものです。
第五章 北条家はなぜ征夷大将軍にならなかったか?
鎌倉時代の北条「家」は将軍という「地位」を傀儡にして幕府の実権を握った家です。
鎌倉初期の北条家は将軍家の親戚として台頭してきました。
やがて北条家は「執権」になりますが、この執権の役職が具体的にどういうものなのか、よく分かっていません。
最初のうちは北条本家が担っていましたが、やがて一門のエリートを執権につけながら、得宗(本家の当主)が実権を握ります
北条家の権力が増大し、執権という「地位」より得宗に権力が移ったのです。
北条家は決して将軍になろうとしませんでした。
将軍は朝廷から与えられる官職のため、厳しい基準を越えることができなかったという見方があります。
しかし北条家は朝廷を抑え、武士の土地に関わる本質的な権利と存在感を担保していましたので、将軍になろうと思えばなれたという見方も多いのです。
ですが何故か北条家は将軍になりませんでした。むしろ避けているような印象があります。
北条家は絶対に三位以上を望まない、公卿にならないことを徹底しました。
中身が空っぽの「地位」より「家」の繁栄を重視する戦略が見え隠れします。
地位は内実がなかったとしても、それを巡って争いになることがあります。
北条家でも、将軍にならなったため起きた問題もありました。北条本家と一族の名越家の対立です。
北条家の成り立ちの中で、北条時政は北条義時を後継として考えていなかったようです。
義時は江間姓を名乗っていましたので、江間家の当主になるはずでした。
跡取りだった宗時が若くして戦死したため、義時が浮上します。その後、時政と牧の方の間に政範が生まれますが、若くして亡くなります。
それでも義時を後継者にしたくなかったようです。代わりに娘婿の平賀朝雅を考えていたようです。
(北条義時は2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公です。)
しかし北条の後継には無理があるので、義時の次男・名越朝時に期待します。理由は不明です。義時の長男・泰時ではありませんでした。
結果的に執権は義時が継ぎますが、朝時は祖父・時政が期待していたのは自分思っていたのでしょう。朝時は生涯北条本家に対抗心を燃やします。
これに4代将軍の藤原頼経や三浦光村が関わり、権力闘争が始まります。
北条本家を継いだ時頼によって名越光時が失脚され、三浦一族は滅亡、藤原頼経は京都に送り返されました。
トマス・ホッブズのリヴァイアサンで、何もルールや決まりがないと、万人の万人に対する闘争状態が生まれざるを得ないと述べられています。
自分がライバルを倒しても、今度は自分がいつ寝首を取られるかわからないためです。
そのため、そうした状態を解決するために、誰かが自分たちを代表して、その人に力を集中させようとすると言うのです。
万人の万人に対する闘争状態が現れたのが「畠山重忠の乱」でした。
義時が時政から畠山討伐を命じられた翌朝には鎌倉周辺の御家人が先を争って由比ヶ浜に駆けつけました。
おそらくパニックに陥り、誅する側に立たなければ、自分に刃が向かってくるという疑心暗鬼だったのでしょう。
騒ぎが収まると、やり口がえげつないと北条時政と牧の方に非難が向かいました。
2ヶ月後、牧の方が時政を焚き付けて実朝うぃ殺して平賀朝雅を将軍に立てようという事件が起きます。
政子と義時の姉弟によって二人は出家・幽閉、平賀朝雅は殺害されます。
己の身を守るために自分より上位の者をいかに確保するかが課題でした。
この重層構造の最上位が将軍であり執権でした。
この上の立場の人間をいかに確保するかが鎌倉時代の合戦を通じて大きな関心事でした。
第六章 後鳥羽上皇はなぜ承久の乱で敗れたか?
承久の乱は後鳥羽上皇が執権の北条義時を討つべく起こした事件ですが、武士達は上皇の命令に耳を貸さず、北条義時に味方しました。
後鳥羽上皇は敗北し、隠岐に流されてしまいます。
後鳥羽上皇は武士をかなり味方に引き込んでいました。
しかし、実際に承久の乱が始まると、まるで軍勢が違いました。
朝廷軍2,000に対して、幕府軍は10倍近くです。
上皇側は軍勢編成においても朝廷の重層的な支配構造と同じことをし、上皇と武士の距離が離れて忠誠を得ることができません。
一方、鎌倉側は明確な主従関係に基づいていました。
承久の乱については、次の本が参考になります。
大事なのは一人の主人は複数の家来を持ちますが、一人の家来は一人の主人しか持てないということです。
まさに「家」の構造そのものです。ツリー型のタテの関係です。
ツリーと正反対なのがリゾームと言われる無秩序に多方面に広がっていく非階層性のヨコの関係です。
例えば近畿地方を中心に広がった「惣村」という集団です。
惣村には村落のリーダーがおり、下に自立した百姓がいて、その下に下人の層がありますが、その内部は多対多ヨコの関係で結びついています。
リゾームには惣村の他に、「講」や「一揆」があります。
リゾーム型の組織はタテ結束より平等を尊びますので、一向宗(浄土真宗)と相性が良いのです。
しかしこれは「家」とは正面から衝突する運命にありました。織田信長と一向宗の戦いや島原の乱などです。
承久の乱の後、朝廷は改革を求められます。最大のポイントは税です。
それまで当然だった徴税が武士に負けたことで機能しなくなります。
そこで朝廷が始めたのが「徳政」でした。文字通り徳のある政治です。
二つの柱がありました。
一つが「雑訴の興行」を行うことで政治的な信用を取り戻そうとしました。
もう一つが雑訴の興行に当たらせる人材の抜擢です。
古代から日本には科挙がありませんでした。つまり優れた人材の供給システムが朝廷にはなかったということです。
日本には摂関家、大臣家、羽林家、名家の四つの家柄がありました。そこで活用したのが四番目の名家層にいる実務官達です。
抜擢するのもせいぜい名家まででしたので、結局は世襲でした。
第七章 足利尊氏はなぜ北朝を擁立したか?
2代続いた摂家将軍に代わって6代将軍となったのが、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王でした。
その後、後嵯峨上皇が亡くなり、亀山天皇が後宇多天皇に譲位したところで鎌倉幕府が介入します。
後深草天皇の不満を受けた幕府が、次の皇太子として後深草天皇の皇子・熙仁親王をねじ込んできました。後の伏見天皇です。
後深草天皇の血統を「持明院統」、亀山天皇の血統を「大覚寺統」と呼び、「両統迭立」の状態が生まれます。
幕府が恐れたのは後鳥羽上皇の再来でしたので、両統迭立により互いの系統の牽制が起こり朝廷の力が削がれました。ライバルが身内にいる状態が続いたのです。
後年、徳川家康が本願寺東西に分け、本願寺の力を削ぎましたが、それと同じです。
この両統迭立の中で大覚寺統から後醍醐天皇が登場します。
中継ぎだったのですが、政治に強い意欲を持っていました。
両統迭立では自由に自分の子を天皇にできず、上皇として院政ができないため、両統迭立を破壊すべく倒幕を志します。
後醍醐天皇の重臣に吉田定房がいます。内大臣になりますが、中級貴族のため世襲の強い中では中納言か大納言どまりのはずでしたので異例の出世です。
その吉田定房が倒幕を諌めます。
中国とは異なって易姓革命のない日本では、天皇という王権を相対化することができません。
天皇家は天皇家として世襲によってどこまでも存続しなければならないのです。
万世一系であるが故に、不慮の事故などで次第に先細りしていくのは避けられません。
中興、つまり立て直すことが難しいのです。倒幕に打って出れば滅んでしまう、というものです。
日本には大陸でいうところの「天」がありません。中国の天は天帝ですが、日本のそれは神格がありません。
源頼朝が作った鎌倉政権は在地領主の在地領主による在地領主のための政権でした。
そのため鎌倉政権は在地領主の「家」の集合体であり、北条得宗家も家として経営されてきました。
こうした家の特質として、「文明としてのイエ社会」では「分裂増殖性」を挙げています。
鎌倉期の家が分割相続を原則としていたことによります。
庶子や女性も一定のルールの下で、比較的平等性の高い相続が行われていました。
しかしこうした特質は元寇によって土地が外国の侵略で脅かされると危機を迎えます。
土地に対する疑念が生まれるとともに生じた現象が商品経済や貨幣経済の活性化です。
こうした人々の生活基盤は土地ではなく、貨幣や流通物資でした。
新たな価値観や文化を身にまとい、土地を基盤とする従来の価値観と一線を画する人々を「悪党」と呼びました。
網野善彦氏は悪党が中世の新しい段階を開いたとして評価します。
同様の存在に鎌倉時代末期から南北朝時代に台頭したのが「婆娑羅」です。
婆娑羅的な振る舞いをする大名を婆娑羅大名と呼びますが、代表格が高師直や佐々木道誉、土岐頼遠です。
典型なのが高師直ですが、天皇について「王だの、院だのは必要なら木彫りや金の像でつくり生きているそれ流してしまえ」と言いはなったと話が太平記に残っています。
高師直は木彫りでも金の像であったとしても必要なのだと言ったのです。
南北朝時代になっても「職の体系」から脱することができなかったため、土地の権利を担保するためには、どうしても天皇の存在が必要だったのです。
南北朝時代は60年も続きましたが、南朝がまともに戦えたのは初期の数年のみで、その後は北朝による放置状態でした。
足利尊氏は早期に解決しようとしなかったのは、その方が良かったからではないかと筆者は考えています。
足利尊氏が建武政権に反乱を起こした時、ギリギリまで征夷大将軍の地位を求めましたが、後醍醐天皇は許しませんでした。
足利尊氏は中先代に乱で鎌倉に駆けつけて弟の直義を救い出さなければなりませんでした。
兵を集めるために足利尊氏は土地の安堵をします。これに対して後醍醐天皇は謀反だと言いました。
この後、足利尊氏は建武政権を転覆させます。
足利尊氏は天皇をしのぐ力を持っていましたが天皇という存在は必要でした。それは武士が職の体系を超える土地支配の論理や力を持っていなかったからです。
足利義満の時代になり、中級貴族を全部自分の家来に編成してしまいます。これにより天皇と上皇は手足がもがれる形になり政治ができなくなります。
天皇と上皇の政権は終わります。中国の易姓革命であれば、皇帝には死が待っているのが普通ですが、地位を重視しない日本では政権が終焉してもトップが死ぬ必要はありませんでした。
鎌倉幕府最後の将軍の守邦親王、室町幕府最後の足利義昭、江戸幕府最後の徳川慶喜、すべてに共通します。
日本の特色が色濃く出ている部分です。
第八章 徳川家康はいつ江戸幕府を開いたか?
天皇家の存続が最も危うかったのが織田信長の時代でした。
その後、豊臣秀吉の時代に移り、土地支配が「職の体系」から「一職支配」へ移行しました。すべて豊臣秀吉が保証してくれる状況になります。
こうした状況下では「職の体系」は不要になりますので、その頂点にたつ天皇も不要ということになります。
土地支配について、秀吉にとって天皇の存在が必要とはなりませんでした。
天下人の条件は主従制的支配権と統治権的支配権の二つの権力をもっていることです。主従制的支配権は軍事指揮権と恩賞です。統治権的支配権は法と政治です。
徳川家康が主従制的支配権を手に入れたのが、関ケ原の戦い(1600)の直後です。そのあと、すぐに大坂城西丸に入り、論功行賞を行っていますので、大名たちはあらたな主従関係を結びなおしたと考えられます。
となると、1600年が徳川幕府成立とみることができるのではないか、というのが筆者の提案です。
終章 立身出世と能力主義
明治政府は、世襲をなくし、個人の才能にかけた政権でした。「地位より家」ではない社会が一時的に存在しました。その合言葉が「立身出世」です。
突然変わったのは、「外圧」の影響でした。このままでは日本は外国の植民地になってしまうという恐怖があったため、根本原理を変えてまで対応したのでした。
日本は古くて遅れた国だという認識が広まり、海外からの合理的なものを学ばなければならないという姿勢が徹底されたのでした。
ですが、能力主義は、敗戦を経て高度経済成長期が終わると、見る影もなくなります。