明治時代から現代までの人口推計は次のようになります。
- 明治6(1873)年 33,300,700
- 明治13(1880)年 35,957,700
- 明治23(1890)年 41,308,600
- 明治33(1900)年 46,540,600
- 大正9(1920)年 55,963,100
- 昭和25(1950)年 83,898,400
- 昭和50(1975)年 111,939,600
- 平成7(1995)年 125,570,200
戊辰戦争
明治元(1868)年、新政府軍(薩摩・長州を中心とする)と旧幕府軍(旧幕臣や会津・桑名藩を中心とする)とで京都近くで鳥羽・伏見の戦いが起こります。
新政府軍が戦いに勝利すると、徳川慶喜を朝敵として追討します。
新政府軍の代表・西郷隆盛と旧幕府の代表・勝海舟との交渉により、明治元年4月、江戸城無血開城となります。
一部の幕臣や会津藩は抵抗し、東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩を助けますが次々に敗れ、明治元年9月、会津藩が降伏します。
明治2(1869)年、五稜郭の戦いで榎本武明らが降伏して、戊辰戦争は終結します。
新政府の方針
新政府の当面の課題は、封建的支配体制を解体し、天皇を中心とする中央集権的国家体制を固めることでした。
明治元(1868)年、新しい政治理念の基本を宣言します。
- 五箇条の誓文
- 公儀輿論の尊重
- 開国和親
一般庶民に対して五榜の掲示を掲げます。旧幕府の教学政策を引き継いだのですが、数年以内にすべてが廃止されます。
- 五輪の道(君臣、父子、夫婦、長幼、朋友の道徳)
- 徒党・強訴、キリスト教の禁止
政体書を発布して太政官に権力を集めて官制をととのえます。
元号を明治に改め、天皇一代のあいだ一年号とする一世一元の制を建てます。
江戸は東京と改められ、明治天皇が京都から東京に移り、翌年には政府の諸機関も東京に移されます。
廃藩置県
明治2(1869)年、版籍奉還により諸大名に命じて領地と領民を天皇に返上させます。
藩主は石高にかわる家禄の支給を受け、知藩事(地方官)として藩政にあたったため、中央集権の実行があまり上がりませんでした。
明治4(1871)年、木戸孝允や大久保利通らは中央の軍事力を固めるために薩長土の3藩から御親兵をつのり、一挙に廃藩置県を断行します。これはこれで倒幕以上の大きな変化でしたが、軍事的な動乱なしに実現します。
知藩事をすべてやめさせて東京に住まわせ、政府の任命した府知事・県令を派遣して府県を治めさせます。
廃藩置県が諸藩の抵抗を受けずに実現したのは、戊辰戦争で財政が窮乏した諸藩に対抗する力がほとんどなかったためでした。
山本博文氏は、幕藩体制が幕府と藩の連合政権だったことがあり、幕府が倒れると多くの藩が自立して領内支配を維持することが困難になった事情があったと見ています。
四民平等
政府は富国強兵を合言葉に、欧米諸国から近代的な制度や技術を導入し、あらゆる分野で改革を行います。
身分制度の改革もその一環であり、異なった身分間の結婚や職業選択の自由、平民の苗字などを認めました。
実質はともかく、身分制による制約がほとんどない平等な社会が形成され始めます。日本の近代の成立です。
経済史的には資本主義社会の成立が近代の画期になりますが、そのためには江戸時代の身分制度の撤廃が必要でした。
- 華族:旧大名や上層の公家
- 士族:武士
- 平民:農工商民など
明治4(1871)年、差別されていた人々もいわゆる解放令によって平民に編入されましたが、被差別部落の人々に対する社会の実際の差別はその後も長く続きます。
徴兵令と士族
長州藩の大村益次郎らが国民皆兵による政府軍を作る軍事上の改革をすすめました。
明治6(1873)年、山形有朋を中心に、徴兵令を交付し、身分にかかわらず満20歳以上の男子に兵役の義務を課しました。一般の国民を基礎にした新しい軍隊が作られたのです。
しかし、新たな負担を負うことになった農民の間には反対する血税一揆がおきました。
明治7(1874)年、東京に警視庁を置きました。
明治9(1876)年、秩禄処分を行います。廃藩置県後も華族・士族には家禄が支給されていましたが、国の総支出の30%を占めたため、国家財政の大きな負担になっていました。政府は整理をすすめ、金禄公債を支給し、年譜で支払うことにして、家禄支給を停止しました。
金禄公債が低額だった士族の打撃は大きく、新しい生活を始めたものもいましたが、士族の商法と言われるように失敗する者も多くいました。
政府は士族授産により、士族に資金を貸したり、土地を安く払い下げて開墾にあたらせましたが、大部分の士族は没落しました。
地租改正
政府の歳入の多くは、人口の多くを占める農民が米で納める租税でした。
しかし、率は地域によってまちまちであり、米の相場が変動するため、歳入が不安定でした。
政府は財政を安定さるため、土地制度と租税制度の改革を行います。
- 田畑永代売買の禁令を解く
- 地下を定めて地券を発行
- 地主・自作農の土地所有権を認める
明治6(1873)年、地租改正条例により、地租を地価の3%と定め、現金で納めることにしました。
地主と小作人の関係は変わらず、小作人はこれまで通りに小作料を現物で地主に納めました。
地租改正は数年かけて全国で行われ、政府は安定した財源を確保できるようになります。
歳入を減らさない方針だったため、地租は重く、地租改正反対一揆がしばしば起きます。
明治9(1876)年、三重・東海大一揆(伊勢暴動)のように、数万の農民が加わる大規模なものもありました。
政府は翌年地租率を2.5%に下げます。この結果、農民の負担は江戸時代から約20%減ることになります。
国際関係
欧米諸国
明治4(1871)年、岩倉具視を大使とした大規模な使節団を欧米諸国に派遣します。岩倉使節団には大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らが加わり、1年9か月にわたって12か国を歴訪します。
目的の一つである、不平等条約の改正は成功しませんでしたが、議会、工場、病院、学校、銀行などを視察して西洋文明を観察したことは、日本の近代化に大きく貢献しました。
朝鮮
欧米諸国の朝鮮進出を警戒した日本は、鎖国を続ける朝鮮に開国を迫りましたが拒否されます。西郷隆盛と板垣退助らは武力で朝鮮を開国させようと征韓論をとなえますが、明治6(1873)年に欧米視察から戻った岩倉具視や大久保利通らは国内改革優先を主張して反対し、西郷らは政府を退きます。
明治8(1875)年、江華島事件が起きます。朝鮮西岸の沿海で測量を行っていた日本軍艦が江華島に近づいて朝鮮側から砲撃を受けた事件です。
これをきっかけに日本は朝鮮に圧力をかけ、翌年、日朝修好条規(江華条約)を結んで朝鮮を開国させました。
清
明治4(1871)年、日本と外国の最初に対等条約が結ばれます。日清修好条規(1873年批准)です。
清国とは、琉球の帰属をめぐって対立します。政府は琉球を日本の領土と考え、琉球藩を置きます。
琉球島民が台湾で殺されたことを理由に、明治7(1874)年、征台の役によって台湾に出兵します。
明治12(1879)年、琉球処分により、琉球藩を排して沖縄県の設置を強行します。
ロシア
幕末に日露和親条約で千島列島の択捉島以南は日本領、得撫以北はロシア領と定められました。
明治8(1875)年、樺太・千島交換条約を結び、樺太をロシア領、千島列島を日本領と定めます。
小笠原諸島
所属がはっきりしていなかった小笠原諸島も、国際的に日本の領土と認められました。
殖産興業
政府は幕府や諸藩が経営していた工場や造船所を官営として引き継ぎ、新たに富岡製糸場など官営工場を多く設立しました。
西洋の技師を雇い、留学生を派遣して新しい技術や知識を学び、機械を輸入するなど、近代産業の育成に力を入れます。
こうした産業育成を殖産産業と呼びます。
農業面では品種改良や土地の開拓が進められ、北海道には開拓使という役所がおかれました。
北海道には職を失った氏族などが、開墾して農業に従事するかたわらで、非常時には武器をもって北海道の防備にあたる屯田兵が置かれました。札幌農学校(北海道大学の前身)を開校して、農業技術・経営の改良と発展を図りました。
通信・交通も整備されました。明治4(1871)年、前島密により郵便事業が始まります。郵便事業は三府(東京、京都、大阪)の間で行われ、翌年にはほぼ全国で実施されました。明治6(1873)年には均一料金制度がとられるようになりました。
電信も明治2(1869)年に東京・横浜間で開通し、1880年代には全国規模の電信ネットワークがほぼ完成します。
鉄道は明治5(1872)年にイギリスの鉄道技術をとりいれて新橋・横浜間で開通します。数年のうちに、大坂・神戸間、京都・大坂間にも敷設されました。
海運事業は政府の保護のもと、岩崎弥太郎が創立した三菱会社を中心に発展します。政府・三井系の共同運輸会社との競争が激しくなり、明治18(1885)年、合併して日本郵船会社が設立されます。
松方財政
文明開化
明治初年、様々な分野で文明開化の風潮が高まりました。
- 福沢諭吉
- 加藤弘之
- 津田真道
- 西周
- 中村正道
- 中江兆民
啓蒙思想家らは、著作や講演会・演説会をつうじて、人間の自由と権利、個人の自立を尊重する欧米先進諸国の学問・思想、国民の権利をみとめる政治・社会制度を日本国内に広めました。
福沢諭吉は「学問のすゝめ」「文明論之概略」で青年たちに大きな影響を与えました。
本木昌造による鉛製活字による活版印刷の発達により、出版物が数多く発行できるようになりました。
日本最初の日刊新聞「横浜毎日新聞」ができ、1870年代につぎつぎに新聞が創刊されました。
小学校の始まり
明治5(1872)年、学制を交付しました。近代化を進めるためには、国民の知識水準を高めることが必要だったからです。
すべての国民が自分の身をたてられるように教育することを目標とし、欧米の学校教育制度をとりいれました。
全国に2万以上の小学校が設立され、学校教育が急速に広まりました。
しかし、農村では労働力である子供の通学に反対する声もあり、授業料や学校設立費の負担が重く、小学校の廃止を求めて農民一揆もおこりました。
廃仏毀釈
参考文献
テーマ別日本史
政治史
- 縄文時代と弥生時代
- 古墳時代から大和王権の成立まで
- 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
- 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
- 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
- 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
- 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
- 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
- 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
- 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
- 鎌倉時代(惣領制の成立)
- 鎌倉時代(蒙古襲来)
- 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
- 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
- 室町時代(下剋上の社会)
- 室町時代(戦国時代)
- 安土桃山時代
- 江戸時代(幕府開設時期)
- 江戸時代(幕府の安定時代)
- 江戸時代(幕藩体制の動揺)
- 江戸時代(幕末)
- 明治時代(明治維新) 本ページ
- 明治時代(西南戦争から帝国議会)