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鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」の感想と要約は?

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日本史の一般書を読んでいても、その時代に、どれくらいの人が住んでいたのかが書かれていることはめったになく、そういう情報があったらなぁと思っていました。

また、一般書の多くは政治史を中心に書かれているため、政治の中心となった近畿を中心に書かれています。そのため、西日本に人口が集中しており、徐々に東へ広がっていったと、思い込んでいました。

そうした思い込みを修正してくれる本です。

当時の日本の人口を知り、どの地域に人が広がっていたのかを知れば、歴史の見方も変わるかもしれません。

本書は人口歴史学に基づいています。世界的に有名な人口歴史学者はエマニュエル・トッド氏ですが、国内では本書を書いた鬼頭宏氏と、鬼頭氏の師である速水融氏が有名です。

日本の人口には過去1万年に4つの波があったとしています。

  1. 縄文時代の人口循環
  2. 弥生時代に始まる波(弥生時代から10世紀以降にかけて見られる大きい波は、稲作農耕とその普及によるもの)
  3. 14・15世紀に始まる波
  4. 19世紀に始まり現在まで続く波(工業化に支えられたもの)

推定される日本の人口の推移は下記のようになります。

縄文早期 紀元前6100年 20,100
縄文前期 紀元前3200年 105,500
縄文中期 紀元前2300年 261,300
縄文後期 紀元前1300年 160,300
縄文晩期 紀元前900年 75,800
弥生時代 200年 594,900
奈良時代 725年 4,512,200
平安初期 800年 5,506,200
平安前期 900年 6,441,400
平安末期 1150年 6,836,900
慶長5年 1600年 12,273,000
享保6年 1721年 31,278,500
寛延3年 1750年 31,010,800
宝暦6年 1756年 31,282,500
天明6年 1786年 30,103,800
寛政4年 1792年 29,869,700
寛政10年 1798年 30,565,200
文化元年 1804年 30,746,400
文政5年 1822年 31,913,500
文政11年 1828年 32,625,800
天保5年 1834年 32,476,700
天保11年 1840年 31,102,100
弘化3年 1846年 32,297,200
明治6年 1873年 33,300,700
明治13年 1880年 35,957,700
明治23年 1890年 41,308,600
明治33年 1900年 46,540,600
大正9年 1920年 55,963,100
昭和25年 1950年 83,898,400
昭和50年 1975年 111,939,600
平成7年 1995年 125,570,200

人口から読む日本の歴史 p16~17 表Ⅰから作成
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第1の波 縄文時代の人口循環

紀元前3世紀頃までの縄文文化の時代の人口

考古学者の山内清男氏によると

  • 北海道を含む全人口を15万ないし25万
  • 西南に薄く
  • 九州から畿内にかけて3万から5万
  • 中部が3万から5万
  • 関東が3万から5万
  • 東北が3万から5万
  • 北海道が3万から5万

小山修三氏によると

縄文中期の人口は北海道と沖縄を除いて26万

人口の地域差が大きく関東と中部が多く、特に南関東が多かったと考えられています。

しかし縄文後期の人口減少が最も大きく、弥生時代への転換にあたって人口学的な激変があったことがうかがえます。

近畿、中国、四国、九州などの西日本は縄文時代は一貫して人口が少なかったのですが、弥生時代に目覚ましく人口が増加します。

東北地方では縄文後半から弥生時代への変化は穏やかなものでした。

縄文中期では中部以東の東日本では96%を占めており、激減した縄文後期でも86%を占めていました。

4500年前から寒冷化し始め、2500年前には以前の温暖期より平均気温が3度低下します。植生への影響は東日本に強く、高密度人口を支えた暖温帯落葉樹林が著しく減少します。

しかし西日本に照葉樹林が一気に勢力を拡張させます。

関東から中部の人口は80%から90%減少します。一方で西日本では1.5倍から2倍になります。

縄文時代後半の関東・中部の人口減少は異常な大きさでした。及川昭文氏と小山修三氏は気候変動および疫病に原因を求めていますが、今後の研究が待たれます。

縄文時代は短命でした。20歳代での死亡が半数を占め50歳まで生きた人は少なかったようです。自然条件に強く依存する不安定な生活基盤が原因にあったと考えられます。また乳児死亡率も著しく高い水準でした。

第2の波 弥生時代から10世紀以降にかけて見られる大きい波

弥生文化の発展とともに人口が急速に増加し始めます。第二の人口循環が始まるのです。

人口成長は千年ほど続き、8世紀を過ぎる頃から成長が鈍化し、11世紀になると農耕文明の初期における人口循環を一巡させたようです。

この時代には人口調査や人口資料の面においても飛躍的な発展が見られました。

7世紀後半に戸籍制度が始まりましたが、824年を最後に全国一斉の造籍は行われなくなります。現存する最後の戸籍は1004年、計帳は1120年頃です。

戸籍制度が形骸化した9世紀以降の人口はさらに漠然とします。

弥生時代以来の人口増加に伴って人口の地域分布も大きく変化しました。

弥生時代には東西の均衡が大きく変わり、西日本の比重が著しく高まります。

近畿地方の比率が2.7%から16.9%へ増え最も構成比の高い地域になります。

弥生時代に西日本の占める割合は51%になります。

9世紀頃には58%となり、西日本の人口が東日本を凌駕します。

東日本の人口増加以上に西日本の成長が大きかったのです。

10世紀以降になると西日本の人口増加が鈍化し、東日本の人口増加は続いたため東日本が西日本を凌ぎます。

縄文時代、生活の基本は狩猟・採集経済であり、農耕は補助的な手段でした。

弥生時代以降の急速な人口増加は大陸から渡来した人々によってもたらされたイネの栽培に負っていました。 

水田稲作は紀元前100年頃までに西日本一帯に広がり、1世紀には東北南部、3世紀には北海道を除く日本列島のほぼ全域に広がりました。

これによって人口分布が一変します。

8世紀には西日本が主要な生活舞台となり、近畿は全人口の5分の1が集中しました。

しかし気候の温暖化によって稲作が東に広がり、武士団が成長して政権が置かれる12世紀には関東地方が首位に戻ります。

人口の増加は10世紀以降は停滞気味になります。当時の技術による耕地拡大の限界、気候悪化の影響、疫病の蔓延、土地の私有化となる荘園・公領制など4つの要因が重なってのことと考えられます。

弥生時代の人口増加は日本列島に住み着いていた人々の自然増加だけでなく、海外からの移住にも支えられていました。

海外からの移住にはいくつか波がありました。2200年くらい前に稲をもち北九州に定着した越人、1800年前に漢からの支配から逃れてきた人々、4世紀に高句麗経由で入った騎馬民族、5世紀後半から6世紀における朝鮮からの技術者、7世紀における百済からの移住などです。

こうした人々は弥生時代から奈良時代初期までの1000年で150万人に及びました。

第3の波 14・15世紀に始まる波

第三の波は14・15世紀に始まったと推測されています。400〜500年続き、18世紀まで継続しました。

しかし前半についてはよくわかっていません。11世紀以降の数世紀は全国的な人口調査の空白の時代のためです。

再び調査されるのは16世紀になってからです。戦国大名にとって富国強兵を実現するのは死活問題だったからです。

波は先市場経済から市場経済への転換と結びついていました。

江戸時代になると宗門人別改帳によって豊富な情報がもたらされます。1671年に徹底化がはかられ、1872(明治5)年の壬申戸籍が成立するまで続きました。

全国人口は江戸時代後半に停滞しますが、地域人口の動きは多彩でした。125年間で10%以上減少した国が東北や関東、近畿を中心に9カ国ありましたが、その代わり増えた国が18ヵ国あり、トータルではプラマイゼロになっています。

8世紀以降ほぼ直線的に東北方向へ進んでいた人口重心は西へ傾きます。

江戸時代において大都市は地域人口の増加にマイナスの影響を与えていました。これは前工業化社会に共通な人口学的特徴です。

都市の高い死亡率と低い出生率に原因がありました。その結果、都市内部で人口を再生産することが不可能となり、人口を維持するため周辺農村から不断の人口流入が必要となりました。

都市へ吸い寄せられた人口は農村より高い死亡率の危険に囲まれていました。

経済発展の象徴ともいうべき大都市をかかえる地域ほど、人口増加が起きにくいという皮肉な現象が出現したのでした。

工業化される前の農業社会の死亡率はどこでも非常に高水準でした。高い死亡率をカバーして人工を維持しなければならなったため、多産になりました。

しかし死亡率はいつでも高かったわけではなく、何年かに一度異常年が出現しました。

また、地域差が大きく、局地的な現象が見られました。

身分制社会であることも死亡率に影響していました。死亡率の高さは社会階層と経済的地位に関係していました。

女性の平均余命が短いなど、性や年齢によって現代と大きく異なっていました。

都市の人口再生産力は弱く、一種の蟻地獄として機能していました。

出生率が農村に比べて低く、死亡率が高かったためです。しばしば出生率が死亡率を下回りました。

大都市で大量の人命を奪ったのは、災害と疫病でした。地震や火事、コレラなどです。

コレラほどではありませんが、インフルエンザ、赤痢、腸チフス様の疾病、痘瘡、麻疹の波が次々に襲い、なかば慢性化した梅毒や結核も都市に多い伝染病でした。

「江戸煩い」「大坂腫れ」と呼ばれた脚気や、劣悪な住宅事情や生活環境からくる乳児死亡もまた、都市住民の死亡率を高めていました。

都市の死亡率が農村よりも低くなるのはコレラが沈静化してくる日露戦争以後のことです。

また、都市の「蟻地獄」現象が解消するのは、上下水道をはじめとする近代的な都市設備や疫病に対する防疫体制が整備されるまで待たねばなりませんでした。

前近代の都市が高死亡率のゆえに人口を維持することができなかったことを、ヨーロッパでは都市=墓場説といいます。

しかし日本の場合、農村と比べれば死亡率が高かったのは事実ですが、ヨーロッパほどではなかったと考えられます。

江戸をはじめとする城下町には広大な武家屋敷と寺社が散在しており、庭園として緑地機能を果たしていたからです。

都市内部には武士の乗馬用と荷物を運搬する限られた数の牛馬しかおらず、人糞尿は貴重な肥料として耕地に投入され、あらゆる物資のリサイクルが徹底して行なわれていたことも重要でした。

入浴の習慣と、日常の衣服に頻繁な洗濯が可能な木綿が用いられたことも、清潔を保つうえで効果が大きかったと考えられます。

都市は出生率も低かったことにも注目されます。周辺の農村より低いだけでなく、しばしば死亡率を下回りました。

低かった理由は、性比のアンバランス、低い配偶率、短い有配偶期間、有配偶出生力の低さなどに求められます。

都市は農村人口の不断の流入によって人口を維持することができたのでした。

第4の波 19世紀に始まり現在まで続く波

現代の人口成長が工業化と強い関連を持っていることは明白です。

1920年代が1つの転機となります。人口の近代化が始まったのです。

死亡率が1920年以後着実に低下を続け、改善の速度は人口10万人以上の都市で顕著でした。1930年代には都市の平均余命が他の市町村を上回り逆転します。