覚書/感想/コメント
あらすじ紹介は前半三分の一程度部分までを載っけた。この後は様々な小説でも描かれているので、省略とさせて頂く。
佐藤雅美は最新の歴史研究などを丹念に調べ上げ、それを上手く小説の中に散りばめてくれる。それがいつも楽しみなのだが、本書でもその期待を裏切らない。また、独自の解釈も面白い。以下はそれらの一部。
本書を読んで思うのは、佐藤雅美が豊臣秀吉(羽柴秀吉)をあまり高く評価していないようだということである。てっきり、「樓岸夢一定」「幽斎玄旨」で秀吉に近い人物を書いているから、秀吉を高く評価しているのかと思っていた。だが、この二作は本書とのつながりで存在するものだと思った方がよいらしい。
信長は恨みを忘れない。己を裏切った人間にはいつか思い知らせてやろうと思っている。そして、実際にそうした。
弟・勘十郎信行に味方して謀反した林佐渡守通勝、柴田権六勝家。安藤伊賀守守就、佐久間信盛。
この中で、信長の死まで織田軍にいたのは柴田勝家である。だが、この柴田勝家も、無条件で信長の信頼を受けていたのではなかった。越前攻略が済み、越前八郡が勝家に与えられた。
だが、”目付”として佐々成政、前田利家らをつけていた。佐々成政、前田利家らは柴田勝家の寄騎とされることが多いが、そうではなかったのだ。
また、明智光秀や羽柴秀吉には一識進退という干渉されない統治権を与えられていたが、勝家はそれが与えられていなかった。制約された上での越前八郡だったのである。つまり、信長は勝家を本当には信頼していなかったということである。
すると、信長が本能寺で死ぬことがなかったら、柴田勝家はどこかの時点で織田家から放逐されるなどの処分が下された可能性が高い。本書を読むにつけ、そう思わざるを得ない。
長男・信忠、二男・信雄、長女・徳姫は生駒八右衛門の妹・吉乃との間に生まれた子である。道三の娘・帰蝶との間の子ではない。そして、信忠が嫡子となったということは、吉乃が正室であるということである。
帰蝶の記録は途中からなくなっており、どうやら、吉乃が正室となった時点では死んでいたようである。道三の娘・帰蝶の消息がぷっつりと消えてなくなってしまっているとは、意外な思いである。
朝倉攻略で、浅井に裏切られて敗走する信長軍の中で、佐々成政が率いる鉄砲部隊が、二段連打をやって見せたそうである。後年、これが発展して、長篠の戦いの三段連打になる。
朝倉・浅井攻略の中で、武田信玄が上洛の軍を動かし始める。当時の信長は四面楚歌の状態で、対信玄に割ける兵力はなかった。信長は、信玄を動けなくすればよい。
そうすれば、信玄を頼みにしている朝倉・浅井の気力は衰える。そのために、朝倉・浅井の戦線に土塁を作る。はたからは織田軍が朝倉・浅井軍に釘付けされているように見えるが、実はこれは防衛用の土塁である。木下藤吉郎勢だけで、防衛できるようにするための土塁なのだ。
信玄が遠江・三河に入った時点で信長の本隊が美濃・尾張に兵を帰す。すると、地の利があるのは信長であるから、信玄といえどもよくて五分、間違うと破れる。
信玄はそのような危険を冒さないので、立ち往生となり、やがては帰る。だから、信玄は遠江・三河に入ったものの、遅々として兵を進められなかったのである。
これを評して佐藤雅美は「三方ヶ原に向かう信玄の武田軍は行く当てのない旅路を流離うさ迷う軍団だったのである」という。
この土塁は、藤吉郎の墨俣城から学んだものであり、この土塁が後年には備中高松城の城攻めへと応用されていく。
信長は武田勝頼を愚将・凡将とは見ていなかったようである。謙信にいいおくっている中でそのように記されていた。この勝頼を破った長篠の戦い。武田軍の宿老が負けるとわかって、なおも突撃したということになっている。
だが、信長は突撃させるような作戦を実行したのであり、更には武田側も負けるとは思っていなかったはずだと佐藤雅美は述べている。結果として武田軍の死への突撃となる。
“上様”。歴史小説や時代小説の中に何気なく登場する言葉。本来、将軍を指すものである。だから、足利義昭は上様となり、徳川歴代の将軍も上様となる。いつもは気にしないで読んでいたが、これからは気をつけて読もう。
徳川家康の長男・信康。信康の器量が信長の長男・信忠よりも上回るというので、殺させたというのが今までよく言われていた話。
だが、この時の信長にはそれがいえるはずはなかったというのが佐藤雅美の見解。信長が子を殺せと命じれば、家康が牙をむく可能性がある。家康が北条・上杉軍と手を結ぶと、織田の東全面が敵となる。そのような危険を冒すはずがない。
とすると、これは家康と信康の親子間の中で生じた問題がもたらした結果だろうというのが佐藤雅美の結論である。説得力がある。
“御馬揃え”。西洋の凱旋パレードからヒントを受けたもののようである。てっきり戦国以前からある風習だと思っていた。
関連するところで、尾張・美濃平定の過程で度々登場する蜂須賀小六が「樓岸夢一定」で書かれている。
また、足利義昭・明智光秀との関係において登場する細川藤孝は「幽斎玄旨」で書かれている。
あわせて読まれるとよいと思う。
最後に苦言を言わせてもらいたい。
本書の前半部では、信長の家系が紐解かれている。それが詳細であり、他ではあまりお目にかかれないので面白いのだが、実はこれこそが曲者である。というのも、人物関係がわからなくなるのである。常松系と常竹系の家系図を載っけてもらえると非常に楽しめたはずである。
また、これにともなって尾張の地図を載っけてもらいたかった。常松系と常竹系がそれぞれどこを拠点としているのかが分かりづらかった。
内容/あらすじ/ネタバレ
織田信秀は壮年にして死に神に取り憑かれた。枕元に跡取りの三郎信長を呼び、遺言を述べ始めた。
織田家は織田常松という人物が尾張の守護代に任ぜられたことによって尾張に根を生やした。が、実際に尾張に赴任したのは弟の常竹であり、ここに常松家と常竹家が守護代を巡って激しく争う原因となる。
やがて、常竹系が尾張一円をほぼ支配するに至った。信長の織田家中興の祖、治郎左衛門常英は常竹系である。
この後、一門が後見して常竹系を支えていくことになるが、信長の父・信秀はこの後見人の家系となる。だが、あくまでも後見人であり、今まで言われているような家老の立場ではなかった。血筋から言えば遜色のないものであった。
信秀の代になり、支配する領土を拡大することに成功したが、まさかの死の病である。他の織田一族を完全に勢力下に置いたわけでもなく、信秀が死ねば求心力が落ちるのは目に見えている。そんなことは信長もわかっていた。
父・信秀の話が終わり信長は辞した。その心の内にはある決意が秘められていた。父は盟主にすぎなかった。そのため、肝心の戦いではいつも負けた。だから、自分は盟主ではなく主君になろう。尾張の者をことごとく従え、意のままに動かせるようにするのだ。
家督を継いだ信長を待ち受けていたのは、果たして予想された通りの事態であった。それぞれの織田一族が牙をむいてきたのだ。苦境に立たされている最中、美濃の斎藤道三から招かれる。この時の立場は既に婿と舅になっている。
もっとも、妻になるべき帰蝶は嫁いで来てはいなかったが。この会見で、信長は道三の認識を改めさせることに成功する。これで道三の虎の威を借りることが出来るかもしれない。
だが、依然として苦境に立たされていた。この苦境の中で、信長は何とか勢力を維持していた。だが、美濃では道三が殺され、また足許では弟・勘十郎信行と、重臣柴田権六勝家らが不穏な気配を見せる。信長はこれらの窮地を何とか脱出することに成功する。
尾張を制圧したら、次の目標は美濃である。そう思っていたら、東の今川が上洛の軍を動かしたのとの報告が入ってきた。兵力が違う。どう戦う?
信長は囮の砦をつくり、そこを敢て攻略させて地形的に有利な場所に今川軍を誘い出す作戦に出た。上洛軍の報告を受けたが、すぐに出立するわけではない。この考えが浮かんでから、今川軍が実際に軍を動かし始めるまでに一年の時間があった。
桶狭間の戦いは、撒き餌の砦を用意し、今川軍を手許に引き寄せた信長の勝利に終わった。
今川軍を破った後、信長は本格的に美濃攻略に乗り出した。だが、稲葉山城は堅城である。容易には落ちない。さて、どうするかと思っていたら、稲葉山城が落ちたとの報告が届く。
なにィ!。ありえない。一体誰が?聞いてみると竹中半兵衛という若造が少人数で稲葉山城を占拠したらしい。
もっけの幸いとばかりに、信長は交渉に出るが、竹中半兵衛は主への意趣返しに行ったまでであり、交渉が成立する前に城を明け渡してしまった。信長はまた新たに稲葉山城攻略を練らなければならなくなった…
本書について
佐藤雅美
信長
文春文庫 計約七三〇頁
戦国時代
目次
遺言
不覚の涙
勘十郎謀反
岩倉破却
会心の笑み
越後からの音問
待ちに待った客
公方の胸中
首のこと更に校量を知らず
庚申の夜の戯れ歌
必勝の妙案
さ迷う軍団
六条河原での梟首
長島殲滅
止まらぬ笑い
最後の戦場
村重謀反
信康生害
御かへり事よろしくて、めてたし
甲州平定
是非に及ばず
登場人物
織田信長
織田信秀…父
織田信行…弟
柴田勝家
羽柴秀吉
蜂須賀小六
明智光秀
細川藤孝
林佐渡守通勝
荒木村重
太田牛一
足利義昭
徳川家康