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山岡荘八の「伊達政宗」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

描かれている時期

伊達政宗誕生から、その七十年の生涯を終えるまでを描いた作品。

戦国時代の武将としての伊達政宗は四分の一程度で終了する。あとは豊臣秀吉の時代になり、そして徳川幕府の江戸時代へとうつっていく。

それにともなって、政宗を取り巻く人物も変わってくる。戦国武将の時分には片倉小十郎景綱、伊達藤五郎成実が重要な脇役。

つづく豊臣秀吉の時分には小粒に描かれる浅野長政、蒲生氏郷。そして、徳川家康の時分には徳川忠輝、柳生又右衛門宗矩が重要な脇役となる。

他の作品との比較

ここで海音寺潮五郎の「伊達政宗」と簡単に比較してみたい。

まずは、その扱っている生涯。山岡荘八は全生涯を描いているが、海音寺潮五郎は徳川家康の時代になる直前までしか描いていない。

また、人物を評して、海音寺潮五郎はずうずうしい人間として政宗を描き、それを「横着者」と言ってのけている。対して、山岡荘八は「臍曲がり」と評している。

両者の政宗の捉え方が、この一語にそれぞれ現れている点が面白い。

本書の読みどころ2点

本書の大部分を占めるといってもよいのが、関ヶ原以降、大坂冬の陣までの期間である。この間に起きた事柄に膨大な枚数を割いている。

その中で、面白いのが2点。

1点目が大坂冬の陣が起きた理由。

大坂に残る豊臣の残党を一掃して、盤石な徳川幕府を築くために家康が無理難題をふっかけた末に起きた出来事とされることが多い。これに山岡荘八は真っ向から反対する立場を取っている。

徳川家康は豊臣秀頼を殺すつもりはなかったという前提で書かれているのだ。殺すつもりなら、関ヶ原の戦いで大坂まで攻め入ったはずだという考えである。

それが、なぜ大坂冬の陣、夏の陣となってしまったのか。その詳しい経緯は本書で語られているので割愛するが、直接の契機は二千枚吹きの黄金の分銅の鋳直しであるとしている。

片桐且元が黄金の分銅を細分化することにより、分銅の金は金貨として流通性を得てしまう。分銅なら流通させることが出来ないので、問題はないのだが、流通できるレベルまで細分化し、一気に流通させると、市場には金が余る。

相対的に金の価値が下落し、物価が上がり、インフレが起きる。農民や町民は悲鳴を上げ、怨嗟の声が街に生まれ、情勢は不安定になる。そこに、多くの金につられた浪人が大坂に流れこむ。結果として、見過ごすことは出来ない状勢が出来上がるというわけである。

ここまで来たら、戦やむなしの状況とあいなり、戦を決断したというのである。

2点目が支倉常長の「慶長遣欧使節」。

一般的には、使節の目的は、スペイン国王に会いメキシコとの直接貿易の許可を得ること、ローマ教皇に会い仙台領内での布教のため宣教師の派遣をお願いすることで、そのため、政宗が幕府と連絡をとり、幕府も認めた正式な外交使節団とされている。

だが、ここで疑問なのが、なぜ伊達政宗でなければならなかったのか?

当時は切支丹の布教禁止が出る直前で、切支丹に縁の深い人物は多かった。切支丹でない伊達政宗よりふさわしい大名はいたはずである。

また、外国との貿易に通じている諸藩は西国に多い。最終的にはスペイン、ローマが目的地であるのなら、西国から出航した方が安全であるし、なにより、通り道である東南アジアなどの海を知っている人間が多い。わざわざ東北から船を出すなぞ馬鹿げている。それなのに、なぜ?

山岡荘八は、これに対する回答を、政宗の娘婿・徳川忠輝、付け家老・大久保長安に絡む事件の枠組みで語っている。この部分は、本書の読み所の一つ。

伊達政宗を描いた小説

伊達政宗ゆかりの地

宮城県の仙台市には伊達政宗をはじめとして、伊達家ゆかりの地が多い。代表的なのが仙台城(青葉城)瑞鳳殿(仙台藩租伊達政宗公御廟)になるが、名門伊達家に関する地は宮城県外にもあるので、伊達家ゆかりの地を巡るのも楽しい。

仙台城

瑞鳳殿

瑞鳳殿(仙台藩租伊達政宗公御廟)の参詣記-歴史と見どころ紹介(宮城県仙台市)豪華絢爛な桃山様式の霊廟
瑞鳳殿(仙台藩租伊達政宗公御廟)の紹介と写真の掲載。「瑞鳳殿」は1636(寛永13)年、70歳で亡くなった伊達政宗の遺命により、翌年に二代目藩主・伊達忠宗が造営した霊屋。

内容/あらすじ/ネタバレ

伊達政宗が生まれた頃。奥州は中央より一歩も二歩も遅れて戦国のまっただ中にあるといってよかった。

政宗誕生の知らせを最上義守に知らせてきたのは伊達家老臣の中野宗時だった。この中野宗時は腹に一物を抱え込んで、義守の娘・義姫と伊達家当主の輝宗の結婚を斡旋していたのだった。

将来、嫡子が生まれた場合自分が育て上げて奥州に君臨するつもりなのだ。そして、この嫁となる義姫も勝ち気な性格で、嫁ぐ折りに一子をもうけたら、その子とともに輝宗の首を添えて戻って来るという。

両者の思惑が重なり、義姫が伊達家に嫁いで、生まれたのが政宗である。幼名を梵天丸という。

梵天丸が生まれる前に、瑞夢があった。それは万海上人という片目の聖徳が現れたのだ。そのため、梵天丸は万海上人の生まれ変わりだとして、城中大いに喜んだ。

義姫の計画に齟齬を来したのは、梵天丸を生んでからすぐに妊娠してしまったことである。梵天丸の弟・竺丸である。

この竺丸が生まれる頃には、梵天丸には後の伊達藤五郎成実と家中の片倉小十郎景綱が小姓として選び出されていた。そして、中野宗時は翻意ありと噂される中、伊達家を去る。

五歳の時、梵天丸は重い疱瘡にかかった。幸い命は取り留めたものの、片方の目の視力を失うことになった。

こうした不幸があったものの、梵天丸は輝宗の類い希なる父愛に包まれ、伊達藤五郎成実と片倉小十郎景綱とともに育った。

梵天丸達には様々な家庭教師がつけられた。中でも人生の師となる虎哉宗乙との出会いは、梵天丸を大きく成長させた。

この虎哉宗乙と梵天丸の付き合いは足かけ四十年のものとなる。素直にすくすくと育つ梵天丸に虎哉宗乙が教え始めたのは、強情我慢と臍の曲げ方であった。

奥州の状勢は梵天丸の元服を早いものにした。それは十一歳の時である。そして元服し、ここに伊達政宗となる。

元服した政宗に必要なのは嫁である。折しも、田村清顕は子が一人、それも姫だけという状況にあった。互いの思惑にすれ違いがあったものの、両者の婚姻が整った。

だが、婿も嫁もまだ幼子同然。実際の夫婦生活はもう少し後のこととなる。まずは、両家が姻戚関係となることにより、同盟関係が生まれた。

その頃、中央に近いところでは、上杉謙信が亡くなり、いよいよ織田信長の勢いが増しているところである。そして、その信長も本能寺で倒れたとの報がもたらされた。天下は急転している。

政宗十六の時初陣。同じく藤五郎成実も初陣となった。一足早く戦場に出ていた片倉小十郎景綱も加わり、堂々とした初陣となった。初陣で、政宗は用兵の機用を実地に学んだ。こうして、戦巧者の伊達政宗が育まれていくことになる。

父・輝宗が隠居を考えたのはこうした時期である。家中は政宗を中心に回り始めている。もはや自分は隠居する方がよいだろうという判断である。それに、隠居としての仕事もあるだろう。

思わぬ事態が起きたのは、大内定綱の処遇を巡ってである。大内はもともと伊達の被官である。だが、伊達家を裏切り芦名家に寝返っていた。それが再びの帰順を申し出てきた。

そして、再度伊達家を裏切る。このあおりを受けたのが畠山義継。追詰められた畠山義継が取った行動は父・輝宗を誘拐することであった。だが、この過程で輝宗が死んでしまう。政宗にとって衝撃の出来事である。

政宗は怒り狂ったように、畠山を攻めようとするが、畠山を支援する芦名家を中心とした連合軍との戦へと発展する。この戦いは苦しいものになった。

明くる年。徳川家康からの使者がやってきた。豊臣秀吉が関東攻めをする準備が出来たというのだ。関東攻め。つまりは北条氏攻めである。すると、本格的に秀吉が来るまでに、切り取るだけ切り取らなければならない。

秀吉が強く政宗に小田原まで出てこいといってきた。どうやら怒っているらしい。間をとりなしているのは浅野長政である。政宗は小田原まで行かざるを得ないと判断する。

その前夜。政宗は義姫からの招待を受ける。だが、ここで毒を盛られる。すぐに吐いたため命を失うことはなかったが、かわりに弟・小次郎の命を奪うはめになった。政宗といえども母・義姫は斬れなかった。そして、母は実家の最上家へと逃げていった。

政宗はこうした事件の後、小田原に赴いたが、秀吉の機嫌は今ひとつよろしくない。政宗は徳川家康の知恵を借りながら、秀吉に取り入ることになる。

秀吉と政宗。年は離れているが、その気質、考え方、やり方がよく似ている。だが、似すぎて互いに親しくなれない。反発心が生まれてしまうのだ。その点、家康とは気質が違いすぎて、どうにもならない。

政宗は結局、切り取ったばかりの会津を召し上げられることとなる。かわりに会津に入ってくるのは蒲生氏郷。亡き織田信長の娘婿である。氏郷は北の伊達政宗と南の徳川家康の抑止のためにやってきたのだ。

特に伊達政宗には餌をばらまかれている。大崎、葛西、石川などの潰された大名家の後に入ってきた木村親子が上手く治められるはずはない。領内で争乱が起きるのは必至である。だが、この餌に食らいつくわけにはいかない。

当然のこととして、一揆が起きた。蒲生氏郷を先頭に一揆の鎮圧に乗り出すが、氏郷は政宗の協力に不信感を持っている。ここに、政宗の家中が氏郷陣中に飛び込んで訴えてきた。政宗が一揆を煽動していると。

政宗は再びの申し開きを秀吉にしなければならない。政宗は、黄金の十字架をつくり、道中を練り歩くという度肝をぬく行為に出たのだった。

そして、申し開きは、上手くいった。だが、この後、政宗は領地替えを受けるはめになる。

豊臣秀吉から高麗出兵命令が出された。実際に朝鮮半島に送られてはたまらない。政宗は考えたのは秀吉の派手好みに叶うやり方である。

伊達家の一隊を全て派手な衣装にすれば、秀吉は自分の旗本扱いとして伊達部隊を最後まで国内においておくだろう。

果たして予想通り、先発部隊からは外れることを得た。だが、戦況思わしくない中、伊達家も朝鮮半島へと渡ることになる。

いったん帰国することを得た政宗。吉野の花見などの招待を受けたりしていたが、思わぬ事態が待ちかまえていた。豊臣秀次謀反の加担者にされたのだ。

今までの出来事とは訳が違う。全く身に覚えがない出来事である。これを上手くとりなしてくれたのが徳川家康であった。この出来事は政宗にとって大きな危機を脱出したことを意味した。

そして、豊臣秀吉の死。風雲は急を告げる。

関ヶ原の戦いに至までに、政宗がしたことは、徳川家康との姻戚関係を結ぶことであった。政宗の息女・五郎八姫を家康の六男・忠輝に嫁がせる。

関ヶ原の戦い以後、徳川家康は征夷大将軍となり、名実とともに武家の幕府政治へと移行していく。

政宗は関ヶ原の戦いの折りの見通しの甘さのため、家康との間に出来上がっていた百万石の夢が消え、わずか二万石が加増され、六十万石の大名となった。

その伊達に近づいてきたのは、婿・徳川忠輝の付け家老・大久保長安であった。この長安。金山堀という特殊な才がある人物である。

長安と話している中で、どうも莫大な金が長安経由で忠輝にもたらされるらしい。近いうちに、将軍家よりも忠輝の方が金を持つことになりそうな勢いである。だが、これはまずい。

婿の忠輝は戦国の世であれば一角の人物になったであろう若武者である。だが、状勢が固まってきている中において暴走されては危険な若者でもあった。

その忠輝が執念を燃やしているのは、自らローマへ赴くことであった。自らも切支丹である忠輝は、世の中にいる切支丹の不満を抑えるため代表としてローマ法王に謁見する必要性を感じていた。

関ヶ原以後、巷には浪人があふれ、切支丹の徒も不満を募らせている。そうした人間どもが大坂城に終結し始めている。大乱の兆しが見えてきていた。

政宗はこうした無謀な忠輝と長安の野望を上手くそらしながら、何とか打開策を探し求めていた。それらは、家康や柳生宗矩らとはかり、進められていく。政宗が決断したのは、家臣の支倉常長を使節団として送ることである。

だが、送り出した後、大坂方と徳川の関係が急速に悪化していった。家康には大坂を攻める気がないことを常々いわれ続けている政宗である。家康の本心はそこにあることを知りながらも、政宗は戦を避けられないだろうと判断していた…。

本書について

山岡荘八
伊達政宗
講談社文庫 計約2495頁
戦国時代 主人公:伊達政宗

目次

出生
生きる価値
雪割草
風雲機熟
孤独な竜
人取り橋
さんさ時雨
臥竜血を吐く
両雄競智
黄金十字架
人生勝負
天地演出
伏見の対決
咬竜弄玉
天下風船
慶長三国誌
鯛の見る夢
独眼関ヶ原
売物関ヶ原
清酒濁酒
黄金吹雪
開拓精神
大蛇の小函
羅馬は招く
乱調子切支丹
毛虫焼き
高田築城
心翼空を駆ける
図南鵬翼
ローマの道大坂の道
大坂城
開戦前夜
鐘は鳴る鳴る
戦いの実相
大坂冬の陣
わが持つ鎚
戦と運命
火車
政治のこころ
偃武の装い
忠輝始末
おとぼけ知略
新しき驕児
過不足大悟
泰平の智恵
信仰と政治
時の流れ
旅を終る

登場人物

伊達藤次郎政宗
愛姫
飯坂阿蔦
五郎八姫
マリア
伊達藤五郎成実
片倉小十郎景綱
白石宗直
伊達阿波
支倉六右衛門常長
柳生権右衛門
松平忠輝…政宗の婿
大久保長安
ソテロ
ヴィスカイノ
徳川家康
徳川秀忠
徳川(水戸)頼房
柳生又右衛門宗矩
土井大炊守利勝
本多正信
本多正純
大久保忠隣
お福(春日局)
藤堂高虎
淀君
大野治長
片桐且元
織田有楽斎
高台院
加藤清正
豊臣秀吉
浅野長政
浅野幸長
蒲生氏郷
石田三成
施薬院全宗
今井宗薫
直江兼続
伊達輝宗…父
義姫…母
伊達小次郎…弟
中野宗時…伊達家老臣
政岡…乳母
遠藤基信
虎哉宗乙
田村清顕…舅
大内定綱
畠山義継