海音寺潮五郎氏は「天正女合戦」「武道伝来記」で第3回直木三十五賞を受賞しました。
その受賞作品の一つである「武道伝来記」が収録されている短編集です。
「元禄侍気質」は堀部弥兵衛・堀部安兵衛の物語です。池波正太郎氏の「堀部安兵衛」を合わせて読むと面白いと思います。
「戦雲」は戊辰戦争下の会津若松が舞台です。白虎隊も出てきます。会津若松城や飯盛山などを思い出しながら読みました。
内容/あらすじ/ネタバレ
武道伝来記
松平石見家の間宮和三郎は、幼いころ獅子舞見物の際に、的場仙太郎の供をしていた中間に軽くあしらわれてしまいます。
くやしい和三郎が中間を斬ろうとしたところ、父の織部から制止されます。
しかし、この出来事のせいで和三郎を臆病者とみられるようになってしまいます。
月日が経ち・・・。
成人した和三郎が剣術の試合で的場仙太郎と戦い、引き分けに終わります。
父・織部が病に伏し、亡くなる間際、なぜ和三郎を制止し、恥を忍んだのかを語りました。
和三郎は父の心を知り、身が石に化するかと思いました。
江戸屋敷の若殿付を命じられた和三郎は、若殿が親戚の脇坂家からの帰り道、細川家の門前で起きたいざこざを収集するために細川家に乗り込みました。
元禄侍気質
白井隼人に嫡男・弥一郎を斬り殺された堀部弥兵衛金丸は、隼人を討ち取り、息子の敵討ちをしました。
弥兵衛は赤穂の浅野家の家臣でした。嫡男を失った弥兵衛には娘のおほりがいました。
ある日、武林唯七から、越後新発田溝口家の浪人で、馬庭念流を遣う中山安兵衛の話を聞きました。
中山安兵衛が高田の馬場で、叔父の敵を討った話でした。四人を相手に、傷ひとつ負わなかった言います。
それを聞いた弥兵衛はがぜん安兵衛に興味を持ち、ぜひ自分の養子になってもらいたいと思うようになります。
安兵衛にそのことを直談判しますが、安兵衛も嫡男であることから、これを断ります。
しかし、弥兵衛はあきらめきれません。考えに考え抜いた弥兵衛は奇策を思いつきます。
戦雲
戊辰戦争を扱った作品です。舞台となるのは会津若松です。
甚吾とお澪は許嫁でしたが、甚吾の父・簗瀬甚兵衛とお澪の父・手代木久右エ門は、些細なことで仲違いし、ついには義絶してしまいます。
甚吾とお澪はそれを悲しみました。お澪の妹・お雪と弟・久馬も悲しみました。
しかし、双方の感情が雪解けしそうな折り、時世の渦が二つの家を巻き込みました。主君、松平容保に京都守護職が任命されたのです。
甚吾は松平容保について京へ行くことにしました。お澪との婚姻が流れてしまったことで、会津から離れたかったのです。
お澪はやせ細っていき、喀血してしまいます。体調が少し良くなり、那須の塩原に湯治に向かいました。
一時は良くなったお澪でしたが、体調は戻らず、亡くなってしまいます。
時世はさらに激動の度合いを増し、明治元年、会津に西軍諸藩の兵が攻めてきました。
会津は明日をも知れぬ状態となり、お雪はあることを思いつきます。これを逃したら、両家の縁は永遠に分かれたままになってしまいます。
法皇行状録
花山天皇は出家し、花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれました。平安時代の人物です。
出家したのは、寵愛していた忯子が死去し、これにショックを受けたためです。
出家して入覚と名乗っていた花山天皇が都に戻ってきて太政大臣関白藤原伊尹の末姫九の君を訪ねるところから話が始まります。
生来、好色である法皇は、乱れに乱れていきます。
やがて藤原氏のなかで関白職をめぐった熾烈な争奪戦が始まります。藤原道隆が重体になったからです。
そして、長徳2年(996年)、中関白家の内大臣藤原伊周・隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件が起きます。
これらの事件を乗り越えて藤原の長者になったのが藤原道長でした。
しかし、花山法皇にとっては関係のないことでした。
さくら太平記
室町時代、後南朝の始まりの時期から終わりまでを描いています。
話は禁闕の変(きんけつのへん)から始まります。
禁闕の変は後花園天皇の禁闕(皇居内裏)への襲撃事件です。
南朝復興を目指す勢力(後南朝)が御所に乱入し、三種の神器のうち剣璽の二つを奪い比叡山へ逃げますが、すぐに鎮圧された事件です。
室町幕府は宝剣は取り戻しましたが、神璽は奪い去られてしまいます。
これらの出来事は、吉野の黒滝郷の若い猟師・与藤次を通じて語られます。
兵部少輔父子
田中兵部少輔長政(初名吉政)が農民から成り上がり、大名になっていく様子を描いた短編です。
宮部善祥房に仕え、次には豊臣秀次、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠と仕える主を変えていきました。
蝦夷天一坊
蝦夷地を支配した武田信広の物語です。武田信広は若狭武田氏の出身と言われていますが、詐称とする説もある人物です。
この短編では詐称説を採用しています。どのように詐称したのかが、この短編の肝になります。
武田信広はアイヌのコシャマインの戦いで知られる人物です。
コシャマインの戦いは室町時代の1457(康正3/長禄1)年に起きました。