今帰仁城は「なきじんぐすく」「なきじんじょう」と読みます。沖縄本島の北部にある城です。沖縄では城を「グスク」と言います。
沖縄本島の旅行は車が便利だと思いました。那覇から途中までは高速を使って後半は下道を使って車で2時間くらいでしょうか。
保存のために努力されているのがよく分かる史跡でした。とても綺麗に整備されています。
世界遺産に登録されている他のグスク同様に、高台の断崖絶壁につくられています。
太平洋を望み、見晴らしがとても良いです。見晴らしがよすぎて、高所が苦手な人にとっては怖いと思います。
この日は、北部の2城を訪問しました。沖縄旅行の鉄板である沖縄美ら海水族館に立ち寄ってから、今帰仁城跡、座喜味城跡を訪ね、那覇に戻りました。ちょうどいい感じのスケジュールでした。
真夏は日差しが強いので、夏に訪問する際は、万全の熱中症対策と日焼け止めは厚めに塗りましょう。
今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡のいずれもジブリの天空の城ラピュタ感が満載でした。
世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成要素
2000年11月30日、日本で11件目の世界遺産として登録されました。
- 今帰仁城跡(なきじんじょうあと)⇐ここ
- 座喜味城跡(ざきみじょうあと)
- 勝連城跡(かつれんじょうあと)
- 中城城跡(なかぐすくじょうあと)
- 首里城跡(しゅりじょうあと)
- 園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
- 玉陵(たまうどぅん)
- 識名園(しきなえん)
- 斎場御嶽(せーふぁうたき)
歴史
三大勢力が争ったグスク時代
14世紀に琉球王国が成立する前の、北山の国王・北山王の居城です。
これまでに発見された城郭跡は12 – 13世紀頃の築城を示唆しています。
14世紀の中国の史書に琉球国山北王「帆尼芝」「珉」「攀安知」の三王が登場します。この頃の沖縄本島は北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山がそれぞれ支配した「三山鼎立の時代」でした。北山王は今帰仁城を拠点に沖縄島の北部を中心に支配下とし、中国と貿易をしていました。しかし1416年(1422年説もある)に中山の尚巴志によって滅ぼされ、北山としての歴史の幕を閉じることになります。
パンフレット
北山から監守時代へ
北山の敗北後、中山は北部地域の管理のために監守を今帰仁グスクに設置し、1422年以後、監守の居城としてグスクを利用します。しかし1609年に薩摩軍による琉球侵攻にあい、城は炎上したとされています。監守が住まなくなって以後は拝所とし精神的拠り所として広く県内から参拝者が訪れています。
パンフレット
今帰仁グスクは琉球が尚氏によって統一される前、沖縄島が北山、中山、山南の三国に分かれていた時代に山北王の居城でした。今帰仁グスクは主郭発掘調査の成果から1200年代後半頃に築城がはじまったことがわかっています。1400年代前半には中山の尚巴志によって攻め滅ぼされ、その後は中山から監守が派遣されました。1609年の薩摩侵攻の際に今帰仁グスクは火を放たれ、1605年の監守の首里への引き揚げにより廃城となります。
城としての特徴は、石積みで区画された10の郭からなる連郭式の山城で、特に高石垣を曲線的に積み上げるところに琉球独自の技術を見ることができます。また、沖縄県内の多くのグスクでみられるような琉球石灰岩と遅い、ねずみ色で非常に硬い古期石灰岩が使用されています。大隅や外郭の大きく蛇行する石垣は優美な曲線を描き、その蛇行する様は、琉球の古謡集「おもろさうし」に「百曲がり」と謡われ、城内には現在でも多くの参詣者が訪れる御嶽・拝所が存在し、沖縄における屈指の名城です。
今帰仁城跡の案内板
今帰仁城の見どころ
大隅の城壁
最初に目に飛び込んでくるのがこの大隅(ウーシミ)の城壁です。
この手前部分は外郭として、比較的低い石垣がある場所です。屋敷跡が発掘されているそうです。
今帰仁城跡の城壁は、ねずみ色の古期石灰岩で堅牢に築かれています。なたらかな料面地を利用して幾重にも連鎖的に連なっています。城壁の外側に一定の間隔をあけて突出部を築くことで、城壁にせまる敵を横、あるいは斜めから攻撃できるように工夫された造りになっています。さらに、屏風型に波打つ様は沖縄の古謡「おもろさうし」に「もゝまかり、つみ、あけて」とあり、今帰仁城跡の城壁を百曲がりに積み上げてと謡い、蛇行する石積みの様子を伝えています。写真は昭和初め頃の大隅城壁です。戦災を逃れた今帰仁城跡の城壁は、その多くがオリジナルの城壁となっています。この写真は1920年代後半に撮影されました。
大隅の城壁の案内板
平郎門
本門です。今の門は昭和37年の琉球政府時代に修復されました。
琉球国由来記に「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」として登場します。
旧道
平郎門から直線的に伸びる石階段は、1960年代に整備された階段です。本来の登城道は、平郎門から城内へ向かって石階段の右手側にあります。
1980年の発掘調査によって石敷きの小道が発見されています。旧道は、大きな岩盤の谷間を利用して、道幅を狭く造り、敵兵が攻め入っても大勢の兵隊が上の郭まで一気に入れないように工夫されたつくりになっています。
旧道の案内板
大庭(うーみやー)
政治・宗教儀式が行われたと考えられる場所で、首里城の御庭と同様の機能を有していた郭と考えられています。七五三の階段を登ってきて大庭を取り囲むように、正面には正殿(主郭)、右側が南殿、北側の一段高いところに北殿跡があったと考えられます。北殿跡には、建物跡とみられる礎石が今も残っています。
写真は旧暦八月のグスクウイミと呼ばれる年中祭祀で、今帰仁グスクの祭祀を司る今帰仁ノ口によって、村の安全・子孫繁栄・世巣報を祈願します。
大庭の案内板
志慶真乙樽の歌碑
ソイツギ
今帰仁城跡内には御嶽のイベ(最も聖なる場所)が2つあります。大庭の北西にあるソイツキは、「琉球国由来記」(1713年)に「城内ト之獄」、神名「ソイツギノイシズ御イベ」と記され、旧日暦八月のグスクウイミという祭祀の時、今帰仁ノロが五穀豊穣等を祈願します。御内原にあるテンチジアマチジ(「城肉上之御嶽」) や神ハサギ跡と共に祭祀場として拝まれます。
ソイツギの案内板
大隅の景色
テンチジアマチジ
御嶽とは、琉球固有の祭祀施設、琉球の信仰における聖城の総称で、神が存在、あるいは来訪する場所です。テンチジアマチジは御内原の南東側、低い石垣で囲まれる御嶽です。沖縄の古語「おもろさうし」では「今帰仁のカナヒヤブ」と謡われ、今帰仁グスクの守護神として崇められる最も神聖な拝所です。俗にテンチジアマチジと呼ばれ、昔は御内原とこの区域は男子禁制で、城内の女管によって子孫繁栄、国家安泰 五穀豊穣を祈願したと伝えられています。旧暦七月のウプウイミ、八月のグスクウイミでは、今帰仁ノロによって祭祀が執り行われます。
テンチジアマチジの案内板
志慶真門郭
この郭の後門からは、急物記の斜面に沿って下の志慶真川に行くことができ、この川で汲まれた水が城の用水のほとんどを賄っていました。発掘調査で、平坦面に建てられた4棟の建物の遺構が発見されました。瓦が出土しないことから、茅か板で屋根を葺いた掘立柱建物であったと考えられています。明朝時代の陶器の破片も大量に見つかっており、日常的に使われていたことを示していて、当時の経済力の高さと中国との盛んな交易を証明しています。また、矢じりなどの武員が出土しており、建物が家臣の住居であったことを示唆しています。後門を防衛する戦路的な位置どりと、主要な郭との近さおよび行き来のしやすさから、志慶真門郭は王の側近が住んでいた場所であると考えられています。
志慶真門郭の案内板
主郭
城内で最も中心的な建物があった場所で、俗称が本丸です。
公式HPや場所など
所在地: 〒905-0428 沖縄県国頭郡今帰仁村字今泊5101番地