紫式部と藤原道長の関係を軸に、藤原道長時代の摂関政治がどのようなものだったかを解説しています。
著者は2024年度の大河ドラマ「光る君へ」の時代考証を担当しましたので、大河ドラマを見る上での基本書となります。
面白いのは、藤原道長が政権の中枢についてから、各種の怪異に見舞われる点です。権勢を誇れば誇るほど、さまざまな霊や怨霊が道長の家族を苦しめます。
この時期については、「平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)はどんな時代?」にまとめていますので、ご参照ください。
また、古瀬奈津子「摂関政治」(シリーズ日本古代史⑤)を併せて読まれるのが良いと思います。
第一章 紫式部と道長の生い立ち
紫式部が生まれ育ったのは、曾祖父の「堤中納言」兼輔が残した敷地内とされます。
その敷地は、兼輔から雅正、そして為頼・為時に伝領されました。
夫の藤原宣孝を迎えたり、女の賢子を育てたり、里下りして「源氏物語」を執筆したのも、この敷地でした。
後に藤原道長が婿入りすることになる土御門第は、南西のはす向かいにあたり、いわばご近所でした。
藤原道長は、藤原兼家の五男として平安時代の康保三年(九六六)に生まれました。
紫式部の生年には諸説ありますが、天延元年(九七三)生まれとすると、七歳年長ということになります。
母は北家魚名流(藤流)の左京大夫藤原中正の娘です。
同母兄に道隆と道兼、同母姉に一条天皇の生母・詮子、冷泉天皇女御の超子がいます
異母兄に道綱と道義、異母妹に居貞親王(後の三条天皇)妃の綏子がいます
生まれたのは兼家の東三条第です。
生まれた康保三年、父兼家は三十八歳で従四位下左京大夫でしたので、まだ公卿に上っていない段階でした。
その兼家の五男でしたので、道長が政権の座に就くことは、誰も考えていなかったでしょう。
皇統は村上の後、冷泉系と円融系に分かれ、交互に皇位に即く迭立状態でした。
村上以降の皇位は、冷泉、円融、冷泉系の花山、円融系の一条、冷泉系の三条、円融系の後一条と、交互に天皇位をつぎました。
当時は、あくまで冷泉系が嫡流で、数々の偶然の積み重ねによって、円融ー一条系が皇統をついでいくことになりました。
藤原氏も、摂関家と呼べるような家系は確立していない時期です。
基経の後、時平・忠平と兄弟で政権を継承し、忠平の後も小野宮流の実頼と九条流の航輔兄弟が政権を争い、つぎの世代では師輔の子の併・兼通、実頼の子の頼忠、師輔の子の兼家と、両家がほぼ交互に摂関を継承しました。
第二章 紫式部と道長の少女・少年時代
道長が古記録にはじめて登場するのは、天元五年(九八二)正月十日に昇殿を申請して聴された際の「小右記」の記事です。
藤原道長は17歳でした。
「小右記」を記した藤原実資は、この年に蔵人頭に補されました。25歳でした。
藤原実資は参議藤原斉敏の子として天徳元年(九五七)に生まれ、祖父である関白・藤原実親の養子になります。
道長より九歳、年長です。
円融・花山・一条と三代の天皇の蔵人頭に補されるなど、有能でした。
忠平嫡男の実頼を祖とする小野宮家の継承者として、朝廷儀式や政務に精通し、その博学と見識は道長にも一目置かれました。
治安元年(一〇二一)、右大臣に上り、「賢人右府」と称されました。
頼通にもあつく信頼され、政務や儀式を主宰し、永承元年(1046)に九十歳で死去しました。
実資の日記である「小右記」は、「野府記」とも称されます。
逸文を含めると、二十一歳の貞元二年(九七七)から八十四歳の長久元年(一〇四〇)までの六十三年間に及ぶ記録です。
当時の政務や儀式運営の様子が、詳細かつ精確に記録されている古代史の最重要史料です。
第三章 花山天皇の時代
紫式部の父である藤原為時は、学問的には文章博士菅原文時(道真の孫)門下の逸材でした。
ですが、大学出身者は公卿への出世の道はほぼ閉ざされていました。
為時に運がまわってきたのは、藤原義懐、および義懐を外戚とする東宮師貞親王(後の花山天皇)との関係によるものでした。
師貞の生母は伊尹長女の懐子、義懐は伊尹の五男。義懐の妻の一人は文範二男の為雅の女で、為時の妻である文範三男の為の女とは従姉妹です。
花山天皇の時代に為時は六位蔵人に補されました。
花山天皇の新政も進んでいましたが、右大臣の兼家や公卿層は快く思っていませんでした。
特に兼家としてみれば、成人している花山が、新たに皇子を儲け、冷泉皇統内部における超子所生の皇子の比重が低下するのを恐れていたでしょう。
また、個性的な政治を主導しはじめている花山や、異例の昇進をはじめた義懐の存在も気に障っていたはずです。
こうした時期に、紫式部の漢籍の知識は培われてきたものと考えて間違いありません。
花山天皇の退位以来、為時は暇を持て余していたはずです。惟規や紫式部に漢籍を講じる機会も多かったと思われます。
第四章 一条天皇の即位
寛和二年(九八六)六月二十三日の丑剋(午前一時から三時)。
花山天皇が出家入道し、義懐と藤原惟成も後を追って出家しました。
譲位宜命の宣せられない、異例の「譲位」で、七歳の一条天皇が誕生しました。
円融上皇の詔によって兼家は摂政となります。
一方で、花山が退位した後、為時は一気に不遇となります。
道長政権下の長徳二年(九九六)の際まで、十年間も無官のままでした。
花山やその側近に接近しすぎたことが、兼家に疎んじられたのです。
兼家が一条の摂政の座に就くと、道長は急速に昇進をはじめます。
道長はまだ二十一歳。道長は若年で父の全盛期を迎えることができたことが有利にはたらきました。
道長は永延二年(九八九)正月二十九日には参議を経ずに権中納言になります。
正暦元年(九九〇)の五月八日には、兼家が道隆に関白の座を譲り、七月二日に六十二歳で死去しました。
道隆政権がつづけば、道長はたんなる関白の弟の公卿として、脇役を続けているはずでした。
この年の九月十六日に、詮子は出家して東三条の院号を得て、はじめての女院になります。
そして詮子は十一月三日に道長の土御門第に行啓し、ここを御在所として過ごすようになりました。
これにより詮子と道長との緊密な関係が公卿社会に認知され、先々の政権交代に大きな影響を及ぼすことになります。
正暦五年(九九四)八月二十八日、道隆は嫡男の伊周を、三人を超越させて、わずか二十一歳で内大臣に任じました。
道長は権大納言、二十九歳でした。
道長の結婚
道長が左大臣源雅信の長女で、宇多天皇の三世孫にあたる倫子と結婚した日は、長元ニ年(一〇二九)九月二十日です。
倫子は道長より二歳年上で、この永延元年(九八七)、道長二十二歳、倫子二十四歳と、二人とも当時としては晩婚でした。
東家の五男で左京大夫に過ぎなかった道長が、左大臣源雅信の女である倫子の婿となることができた訳はわかりません。
天皇(この年、八歳)も東宮(この年、十二歳)も、倫子と結婚するには若すぎたことも原因と思われます。
雅信は摂関家の男を婿に取りたかったのかもしれないですが、道隆や道兼は倫子が適齢期の頃にはまだ地位が低く、結局は道長まで待たされたということかもしれません。
倫子と結婚したことによって、道長の運は開けます。
宇多源氏の高貴な血と雅信の政治的後見と土御門第を手に入れることができたのです。
二人の男子と四人の女子に恵まれました。
もう一人の配偶者である源明子は醍醐天皇の孫で、父は左大臣源高明です。
明子が五歳であった安和二年(九六九)、安和の変が起こり、源高明は失脚します。
明子は叔父にあたる高明同母弟の盛明親王に養われ、盛明の死後は詮子に引き取られました。
道長よりも一歳年上でした。
道長との結婚も、詮子の縁であることが推定されます。
四人の男子と二人の女子に恵まれます。
しかし、倫子の子と明子の子とには明らかな差異がありました。
第五章 それぞれの転機
「紫式部集」に少女時代の恋愛に関する歌が見られません。
しかし、結婚するまで紫式部に恋愛沙汰がまったく存在しなかったわけでもないようです。
恋愛沙汰をほのめかしている事例が唯一残されています。
一方の道長は、伊周に完全に先を越されていましたが、転機が突然に訪れました。
長徳元年(九九五)疫病が蔓延し、関白藤原道隆が四月十日、そして関白を継いだ藤原道兼も五月八日に死去します。
一条天皇は権大納言に過ぎなかった道長に内覧宣旨を賜わります。
道長は、いきなり政権の座に就いたのです。
同母姉・詮子の意向が強くはたらいたとされます。
続いて、道長は右大臣に任じられ、太政官一上(首班)となって、公卿議定を主率しました。
詮子も一条も、道長自身も、長期政権になるとは考えていなかったはずです。
道長自身は病弱であり、子は幼かったため、道長がつぎの世代にまで政権を伝えられると考えた者もいなかったはずです。
長徳二年(九九六)正月二十五日、道長が執筆を務めた最初の除目で、為時は十年ぶりに官を得ました。
長徳の変
為時や紫式部一行が越識に下向する直前、大変な政変が起こりました。「長徳の変」です。
「長徳の変」は長徳二年(九九六)が明けると起こりました。
花山法皇の従者と隆家の従者が闘乱を行い、隆家の従者が花山法皇の従者を殺害して首を持って行ったのです。
伊周と隆家の自滅でした。
罪は、花山法皇を射た事、女院(詮子)を呪詛した事、道長に太元帥法をおこなった事でした。
越前下向
長徳二年(九九六)の秋、為時は越前に赴任し、紫式部は父に従って越前に下向しました。
紫式部には越前滞在で、越前の風物を歌んだ歌はありません。
国内のあちこちに出かけることは、ほとんどなかったのでしょう。
第六章 紫式部の結婚・出産と夫との死別
藤原宜孝は長徳元年(九九五)に筑前守の任期を終えました。
その後、右衛門権笹に任じられました。
その宣孝から、長徳三年(九九七)、紫式部に求婚の書状が届きます。
宣孝の長男隆光は、長保元年(九九九)に二十九歳です。
隆光が仮に宣孝二十歳の時の子とすると、宣孝は長徳三年に四十六歳です。
曾祖父の定方は右大臣にまで上り、醍醐天皇の外威であった人で、父為輔は権中納言にまで至っています。
道長の妻である源倫子とも縁戚にあたる人物です。
紫式部とは又従兄妹にあたり、為時とは元同僚でした。
有能な官人でもありました。
一方では、派手で明朗闊達、悪く言えば放埒な性格だったようです。
紫式部は長徳三年の年末か翌長徳四年(九九八)の春、父を残して単身、都へ帰りました。
長徳四年(九九八)の冬に、紫式部は宣孝と結婚しました。
紫式部は当時、二十六歳前後と考えられます。
初婚だとすると、当時としてはきわめて遅い初婚です。
そのため、二度目の結婚という説もあるくらいです。
婚期が遅れたのは、紫式部の適齢期に為時が無官だったためです。
当時は男性が婿として妻の実家に入る結婚形態でした。
政治的にも経済的にも後見の期待できない為時の媚になろうなどという男は、現われるはずがありませんでした。
宣孝とは二十歳前後の年齢差でしたが、女性が嫡妻でない場合は、あり得ない話ではありませんでした。
宣孝は紫式部と同居しておらず、嫡妻の許で暮らしていますので、紫式部は嫡妻だったわけではありません。
いったいに仮名文学を記した女性は、『蜻蛉日記』の藤原道綱母をはじめ、嫡妻でない人ばかりなのである。いつともしれぬ夫の訪れを待つ女性の生活(を描いた文学作品)を、「当時は妻問婚だった」などと平安貴族一般の結婚形態と勘違いすることは、厳に慎しむべきであろう(夫と同居する嬌妻の描いた日常など、面白くもないであろう)。
倉本一宏「紫式部と藤原道長」 p98
長保元年頃に賢子が誕生します。
後に越後弁として彰子に出仕し、親仁親王(後の後冷泉天皇)の乳母となって「藤三位」「越後弁」「弁乳母」と称されます。
はじめ関白藤原道兼二男の兼隆、ついで大宰大弐高階 成章と結婚して「大弐三位」と呼ばれることになります。
女房・三十六歌側の一人に数えられ、家集に「蘇三位集』(『大弐三位集』)があります。
八十歳を越える長寿でした。
彰子立后と定子崩御
行成は彰子立后を正当化する理屈をたびたび一条に説いている。東三院詮子・皇后宮遵子・中宮定子と三人いる藤原氏出身の后は出家しており、氏の祭祀、特に大野察を務められない。定子は正妃ではあるが出家入道しており、帝の個人的な私恩によって、中宮号を止めずに封戸も支給されているに過ぎない。尸禄素餐の臣(禄盗人)のようなものである。重ねて彰子を后とし、氏祭を掌らせるのがよろしかろう。定子が廃后となったらたいへんであるというものである(『権記』)。
倉本一宏「紫式部と藤原道長」 p109
定子は皇女菓子を出産したものの、死去してしまいます。
定子の死によって、ただ一人の円融皇統の皇子である敦康は、後見も生母もないまま、一人残されてしまいます。
しかし、定子が死去した後にも、一条と彰子の間に皇子懐妊の可能性が生しておりませんでした。
当時はまだ嫡流であった冷泉皇統の東宮居貞親王(後の三条天皇)には三人の皇子が誕生していたため、道長や詮子は、第一皇子敦康を後見するしかありませんでした。
宣孝の死
為時は、長保三年(一〇〇一)に越前守の任を終えて、ふたたび無官となります。
左少発に任じられたのは八年後の覚弘六年(一〇〇九)、越後守に任じられたのはその二年後の寛弘八年(一〇一一)でした。
長保三年(一〇〇一)、宣孝が死去します。紫式部は二年半ほどで寡婦になってしまいます。
そんな紫式部のところに、何と早速の求婚者が現われました。
九州あたりの受領を務めた人物と推定されています。
宣孝の息子の隆光とする説もあります。
第七章 『源氏物語』と道長
「源氏物語」の全体構造は次の3部構成で理解できます。
- 第一部・父桐壺帝の后(藤壺)と密通し、産ませた子が即位する(冷泉帝)という「罪」
- 第二部・妻(女三の宮)が密通を犯し、生まれた子(薫)を光源氏が育てるという「罰」
- 第三部・光源氏の死後、宇治の姫君(大君・浮舟)がそれらを償うという「購」
第一部で、光源氏の物語は完結するはずですが、他者からの要請によるものか、紫式部の熱情によるものか、紫式部は第二部の執筆をはじめました。
執筆の時期は様々な説があります。
- 結婚以前
- 結婚後、宣孝の死去以前
- 宣孝死去後、彰子への出仕以前
- 彰子への出仕後
「源氏物語」には中世以降の写本しか存在せず、増補や改作を除いた紫式部が執筆した原文がわからないという根本的な問題があります。
特定の読者を意識しないでは、あれほどの長編を書きはじめるのは難しいように思われます。
本書では二つの視点が提示されます。
一つは料紙の問題です。当時、紙は非常に貴重でした。
中級官人の寡婦にして無官の貧乏学者である為時の女である紫式部に、これほどの料紙が入手し得たものでしょうか。
紫式部はいずれかから大量の料紙を提供され、そこに「源氏物語」を書き記すことを依頼されたと考える方が自然です。
そして最も考えられるのが道長です。
もう一つが宮廷政治史との関連です。
源氏物語は、王権と宮廷政治の物語でもあり、数々の政治史的要素や後宮闘争を組み入れた作品です。
十世紀未葉という、「源氏物語」執筆直前に起こった変質を鋭敏に物語に取り入れています。
宮廷政治の機微は、とても自邸に籠った寡婦生活のなかから察知できるものではありません。
出仕後に内部に身を置いて見聞した現実の宮廷社会の姿の反映ではないかと思われます。
第八章 紫式部と宮中
紫式部がどの年に一条天皇中宮の彰子の許に出仕したのか、明らかではありません。
複数の説がありますが、寛弘三年説に分がありそうです。
紫式部の出仕が、「源氏物語」のはじめの数巻による文才を認められてのことであるのは間違いありません。
紫式部は内裏女房のような公的な官(命婦など)は持たない中臈女房であったようです。
寛弘五年十一月に彰子が内裏に還御した際に車に乗った序列では、三十人あまりのうちの八番目でした。
増田繁夫氏は第六位の序列と推定しています。
物語好きな一条が「源氏物語」のつづきを読むために彰子の御在所を頻繁に訪れ、その結果として皇子懐妊の日が近づくことが期待されていました。
他の女房のような雑用は比較的免除されて、里下りも許され「源氏物語」の執筆を期待されていた立場は、当然ながら快くは思われなかったはずです。
弟や父の人事にも影響を及ぼしましたのでなおさらでしょう。
この頃、道長が意を注いでいたのは、宇治の北端に、墓所としての浄妙寺を造営することでした。
第九章 御産記『紫式部日記』
道長は寛弘四年(一〇〇七)八月、金峯山詣を決行しました。
この寛弘四年の十二月頃、ついに彰子は懐妊しました。
現状の「紫式部日記」は、戦後に紹介された宮内庁書陵部蔵黒地道旧蔵本が最善本とされます。
しかし、江戸時代に書写されたもので誤写誤脱が著しく、原日記の本文を推想するには限界があるとされます。
現状は記録的部分、随想的部分、息文的部分からなりますが、このうちの記録的部分が、彰子の皇子出産とその後の儀式を詳細に記録しようとしたのは明らかです。
紫式部がその記主として選ばれたのは、それまでの文歴から見て当然ですが、紫式部に料紙を与え、記録を命じた主体として道長を想定するのも、これまた自然なことです。
彰子の御産が近づくにつれて、「御堂関白記」の記事は目立って少なくなってきています。
一方で「紫式部日記」が七月からはじまっていることと、見事に波長が合っています。
彰子が皇子敦成を出産すると、敦康は、道長にとってむしろ邪魔な存在となり、伊間をはじめとする中関白家の没落も決定的になりました。
何者かが彰子と敦成を呪詛していたととが発覚しました。一条が含まれていないことが、摂関政治の本質を物語っています。「玉」である天皇まで失なっては、元も子もないからです。
「政事要略」によると、道長も呪詛の対象になっていたようです。
捕えられたのは伊周らでした。ここに伊周の政治生命は、完全に絶たれてしまいました。
しかし、当の伊周も合め、事件の関与者が皆、翌年までには赦免されました。
このことが事件の本質を語っています。
呪詛の事実自体も、怪しいのです。
紫式部と清少納言
紫式部日記には、清少納言を批判した有名な箇所があり、他の女房たちを地判した箇所がありますが、どのような事情で入り込んだのかは定かでありません。
紫式部が彰子に出仕した時点で、清少納言が仕えていた定子は死去しており、紫式部と清少納言が宮中で直接顔を合わせる機会はありませんでした。
第十章 三条天皇の時代へ
寛弘八年(一〇一一)は一条天皇にとっては最後の年となりました。
敦成の立太子には、かなりの困難が予想されました。定子所生の敦康がいたからです。
一条は側近の行成を召し、敦康の立太子について最後の諮問をおこないました。
一条は、行成が敦康の立太子を支持してくれることを期待したでしょうが、行成は一条に同情しながらも、敦成立太子を進言しました。
しかし、彰子は敦康に同情し、一条の意を汲んでいましたので、一条の意思が道長に無視されたことを怨みました。
譲国の儀がおこなわれ、居貞は践祚して三条天皇となり、東官には彰子所生の敦成が立ちました。
三条天皇と道長の確執
三条天皇は、道長の関白就任を繰り返し要請しましたが、道長は拒否しつづけました。
道長は左大臣・内覧として太政官をも把握したかったのです。
摂政は天皇大権を代行できましたが、関白はたんなる文書の内覧役でした。
基本的に道長の意志を尊重してきた一条に比べて、三条は積極的な政治姿勢を見せました。
一方で、紫式部の職務はつづきました。道長と三条の関係が悪化し、皇太后となった彰子の政治的役割が増加していたためです。
三条は実資を頼りにしていましたが、実資は紫式部を彰子との取り次ぎ役として使ったのです。
道長、三条天皇に退位を要求
道長は、眼病を患った三条天皇に対し、退位を要求しました。
長和四年(一〇一五)には、道長をはじめとする公卿層からの退位工作が激しくなります。三条はそれに対抗します。
藤原公任と源俊賢が、道長を促して、三条に譲位を迫らせました。
後世、「寛弘の四納言」と称されることになる良識派の彼らが譲位を促したのは、道長の権勢欲のみに起因しているわけではないことを示しています。
三条は皇位へ執着しましたが、譲位はこれに対する公卿社会の集約された声でした。
ついに三条は道長に、譲位をおこなうということを申し出ます。
時期は判然とはしませんが、敦明を新東宮に立てることが決まったようです。
三条・道長の両者にとっても、全面勝利とは言えませんが、決着がつきます。
第十一章 道長の世
長和五年(一〇一六)正月、ついに道長が権力の頂点に立ちます。
長く政権の座にありましたが、内覧兼一上(太政官首班の左大臣)としての政権運営でした。
摂政となると、天皇の政事を幼少の天皇に代わって行使できます。
摂政は天皇と同じく最終決定(勅定)を下し、天皇大権を代行します。
道長の場合、天皇が自己の外孫であるという外祖父摂政でした。
平安時代を通じて、外祖父摂政は清和期の藤原良房、一条朝の藤原兼家、後一条朝の道長の三例のみでした。
しかも天皇と摂政とを結ぶ国母(藤原彰子)はまだ存命、政治に口を出すことも多い天皇の父院(一条院)は死去していました。
考えられる限り最高度のミウチ的結合を実現したのです。
寛仁元年(一〇一七)、道長は一年余りで摂政を辞し、二十六歳の頼通に譲りました。
ただし、官職秩序から自由となった道長は、「大殿」「太閤」として、摂政頼通を上まわる権力を行使しつづけます。
道長の権力の源泉が、官職秩序とは別の原理にあったことを示しています。
この頃、疫病で三条院が亡くなります。それにより敦明親王が東宮を遜位し、敦良が立太子することが決定します。
新東宮敦良は後に後朱雀天皇となり、皇統を嗣いでいきます。
寛仁二年(一〇一八)、道長の栄華が頂点を極めます。
外孫の後一条を元服させ、これに四女(倫子所生では三女)の威子を入内させ、中宮に立てたのです。
立后の儀式が終わり、土御門第での本宮の儀の穏座(二次会の宴席)で、この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば、と詠みます。
この和歌が悪しき政治体制としての摂関政治というイメージを増幅させ、天皇を蔑ろにする尊大な悪人道長のイメージを定着させました。
史料というものの面白さと怖さが象徴的に表われた事例です。
第十二章 浄土への道
浄土信仰は、現世での栄達が望めない文人貴族からはじまったのですが、道長のような権力者が信仰することで、広く浸透していきます。
摂関政治そのものに内包された不安な私的隷属関係が、無常の発達をもたらしたものと推測されます。
天皇は摂関の保護によってその地位を保つことができ、摂関の身分もまた天皇の外戚としての資格を条件としていたからです。
摂関の権力は後宮に入れた子女が皇子を出産するか否かによって左右されるという不安定なものでした。
道長でさえも、浄土信仰に傾斜していきました。
道長は、晩年に子女を次々と喪い、自分はいくつもの病気が治らず、数々の怨霊に悩まされつづけました。
法成寺の阿弥陀堂に九品の極楽を象徴する九体阿弥陀像を造顕し、それぞれから伸ばした五色の糸を手にして、死去したのです。