面白い話が各所に散りばめられています。興味を惹いたものをいくつか紹介します。
武田信玄の肖像画。有名なのは高野山成慶院(和歌山県)の所蔵しているもので国の姉弟重要文化財になっているものです。
ですが、この肖像画は、太刀の飾り金具の紋が武田の花菱ではないので、信玄ではないという説が有力になってきています。
武田信玄の軍師として有名な山本勘助。信玄の使者としての名前があり、存在が立証されたと書かれていますが、軍師であることの立証にはなっていません。
山本勘助という人物の名があるのは、だいぶ前から知られていましたが、甲陽軍艦に記載されているような軍師としての働きをするほどの人物であるということを意味するものではありません。
えすから「軍師・山本勘助」はいなかったと見るのが正しいように思われまする。このあたりは、書かなくてもよかったのではないかと思います。
馬。日本の在来種は、体高(地面から首の後の少し盛り上がった部分のき甲と呼ばれる部分までの高さ)がだいたい百二十~百三十センチくらいで、サラブレッドやアラブ種に比べてだいぶ低いです。
また、サラブレッドやアラブ種が時速六十キロくらいで走ることが出来るのに対し、在来種は時速十五キロ~二十キロだったそうです。
また、馬の乗り方。現在は馬の頭を前にして、左から乗るのが一般的ですが、江戸以前は右から乗っていました。これは刀を左に差していたことに起因しています。
馬に関しては、多くの人が勘違いをしやすいものらしく、筆者も困ったエピソードを書いています。
槍と弓。織田信長の長柄槍は二間(三メートル六十センチ)くらいあったようです。もちろん、これは集団で使うものであり、個人同士の戦いで使うものではないのは当然です。
また、弓は現在の弓道のように悠長に引くことはありませんでした。そんなことをしていたら、討ち取られてしまいます。これも当然のことです。
座り方。古来から日本では胡座座りを基本としてきました。正座は文字通り「膝を屈する」ことになり、屈辱的な姿勢でした。
ですから、この正座が正式な座り方になったのは、江戸時代になり将軍への絶対服従の意味を込めてからのことだといいます。なるほど、正座はそんなに歴史の深いものではなかったのですね。
履物。古来日本では素足が基本でした。ですから日常的に足袋を履く習慣はありませんでした。
親藩、譜代、外様。明治以降に考えられた歴史学上の分類に過ぎないそうです。わかりやすく区分するための便宜的なものということでしょうか。時代区分と同じということですねぇ。
「御記録本屋」と呼ばれた藤岡屋由蔵という人物。幕府の御触書をはじめ、町で起きた事件や災害、噂、落書きなど、ありとあらゆるものを記録して、情報が欲しい大名に有料で売ることを商売にしていたそうです。
この人物をモデルにして、時代小説が出来そうです。
内容/あらすじ/ネタバレ
内容は詳細な目次によってとても分かりやすくなっている。以下に詳細な目次を掲載。
第一章 武田信玄と上杉謙信が主役の時代
一、信玄と謙信は、どんな顔だったのか?
似ていない肖像画もあるので、注意が必要
二、信玄と謙信は、どんな兜を被っていたのか?
ユニークなデザインの兜で、戦場はファッションショーとなる
三、信玄と謙信の馬印は、どんなデザインだったのか?
武将の勤務評定は、馬印の動きで判定される
四、信玄と謙信は、どんな城に住んでいたのか?
環境の悪い城には住まず、快適な館暮らし
●コラム・城攻めの奇策
五、信玄と謙信は、どんな馬に乗っていたのか?
戦国最強の騎馬軍団は時速二十キロ
六、信玄と謙信の家臣は、どんな人たちだったのか?
足軽は、農閑期の農民たち
●コラム・合戦のベストシーズン
七、信玄と謙信の家臣は、戦場で何を食べていたのか?
酒好きは戦場で、どぶろく造り
●コラム・信玄の法律「甲州法度」
八、信玄と謙信の戦いで犠牲となった人数は、何人か?
合戦の動員数・死傷者数の算出方法
九、信玄と謙信は、水軍を使っていたのか?
水軍は海賊か
十、信玄と謙信が使っていた忍者は、どんな人たちか?
黒尽くめの忍者はいなかった
●コラム・忍者はなぜ刀を背負うのか
第二章 信長・秀吉・家康が主役の時代
一、信長は、どんな戦いをしたのか?
鉄砲だけが信長の勝因ではない
二、秀吉は、どんな大坂城を築いたのか?
秀吉の大坂城、徳川の大坂城
三、家康の妻の名前は、何と言うのか?
女性の名前は残らない
四、信長が狙った堺の富とは、どんなものだったか?
茶人は”死の商人”だった
五、秀吉の黄金の茶室は、どんな部屋だったのか?
天下一の茶匠の悲劇
六、信長が食べたのは、どんな菓子だったのか?
南蛮貿易で入ってきた白砂糖
七、一豊の馬は本当に、ちよの黄金で買ったのか?
金より、銭の時代
●コラム・砂金から小判へ
●コラム・信長の旗印となった銭
八、秀吉の前で家臣は、どんな座り方をしたのか?
正座は江戸時代から始まった
九、信長はどうして、草履のあたたかいのに気づいたか?
信長は足袋を履いていなかった
十、家康の関ヶ原の本陣は、どんな様子だったのか?
戦場のルポルタージュだった合戦図屏風
●コラム・鉄砲と南蛮胴具足
第三章 水戸黄門が主役の時代
一、黄門様の正しい呼び方は、どうすればいいのか?
光圀公と呼んではいけない
二、黄門様の屋敷の表札は、どのように書くのか?
大名屋敷に表札はない
三、黄門様は、どんな料理を食べたのか?
膳の数が料理の豪華さを表す
四、黄門様は、どんな旅をしたのか?
駆け足で走り過ぎた大名行列
五、黄門様は、どんな宿屋に泊まったのか?
旅籠は人間より馬の宿賃の方が高かった
●コラム・庭園の中の東海道
六、黄門様はなぜ、足を洗わないのか?
足袋の履き替えは、忘れずに持って行く
七、黄門様のひげは、お洒落なのか?
助さん格さんの髪型は幕末風
八、黄門様は、長寿の代表だったのか?
武士は七十歳定年制
九、黄門様は、入れ歯だったのか?
町人も愛用した入れ歯と眼鏡
十、越後屋は、どうして悪徳商人になったのか?
日本橋越後屋は伊勢国松坂の出身
●コラム・越後屋の出世コース
第四章 大石内蔵助と赤穂浪士が主役の時代
一、内匠頭は、大名ランキングの何位だったのか?
石高以外にもある大名ランキング
二、内匠頭はいつ、江戸城に登城したのか?
江戸城の大手門は登城渋滞
三、内匠頭が事件を起こした松の廊下とは、どんな所なのか?
松の廊下は全長六十メートル
●コラム・大奥三千人は本当か
四、内蔵助は、どんな仕事をしたのか?
藩主より楽な城代家老
五、赤穂浪士の懐具合は、どうだったのか?
藩士の年俸の計算
六、赤穂浪士は、どんな食事をしていたのか?
単身赴任の武士の味方、煮売り屋
●コラム・江戸の初物食い
七、赤穂浪士が討ち入りしたのは何時?
江戸の夜は真っ暗闇
八、赤穂浪士が討ち入り前に食べたそば屋は、どこにあったのか?
元禄時代に、そば屋はなかった
九、赤穂浪士はどんな衣装で、討ち入りをしたのか?
時代劇が創作したウソ衣装
十、紀伊国屋文左衛門は何で、大儲けをしたのか?
バブル景気で生まれた豪商たち
第五章 徳川吉宗と大岡越前が主役の時代
一、吉宗が住んでいた江戸城は、どんな城だったのか?
三度建築され、三度消えた天守閣
二、吉宗の顔を知っていた幕臣は、何人いたのか?
幕臣の半数は、毎日が休み
●コラム・二人二百人の台所役人
三、大岡越前がいた町奉行所は、どこにあったのか?
町奉行は職住一体
四、大岡越前は、どんな仕事をしたのか?
裁判ばかりが仕事ではない町奉行
●コラム・大岡政談の真実
五、目明かしの親分は、どんな活躍をしたのか?
大岡越前は目明かしをリストラした
●コラム・江戸の交番「自身番」
六、お代官様は、本当に悪人だったのか?
代官は下っ端役人
七、町火消VS定火消、どちらがかっこいいのか?
江戸の「三男」と言えば、火消と力士と与力
八、江戸の庶民は、本当に字が読めたのか?
関西の寺子屋、関東の手習い
九、瓦版売りはどんな方法で、瓦版を売っていたのか?
田舎で喜ばれた瓦版
十、吉宗は居酒屋で、どんな酒を飲んでいたのか?
燗徳利と、お猪口のない居酒屋
NHK「大河ドラマ」一覧
主な「忠臣蔵」映画
本書について
山田順子(時代考証家)
時代考証 おもしろ事典 TV時代劇を100倍楽しく観る方法
実業之日本社 約二五〇頁
解説書
目次
第一章 武田信玄と上杉謙信が主役の時代
第二章 信長・秀吉・家康が主役の時代
第三章 水戸黄門が主役の時代
第四章 大石内蔵助と赤穂浪士が主役の時代
第五章 徳川吉宗と大岡越前が主役の時代