安土桃山時代が舞台の大河ドラマ
- 1996年の大河ドラマ(第35回)は豊臣秀吉を主人公とした「秀吉」でした。
- 1992年の大河ドラマ(第31回)は織田信長を主人公とした「信長」でした。
- 1981年の大河ドラマ(第19回)はねね、豊臣秀吉を主人公とした「おんな太閤記」でした。
- 1978年の大河ドラマ(第16回)は呂宋助左衛門を主人公とした「黄金の日日」でした。
- 1965年の大河ドラマ(第3回)は豊臣秀吉を主人公とした「太閤記」でした。
南蛮貿易と倭寇
16世紀半ばにマゼランが世界周航を成し遂げると、世界史が成立します。そして各国の歴史は世界史と密接な関係を持ち始めます。
明の海禁政策により、勘合が無いと貿易ができませんでした。そのため、非合法な中継貿易が行われ、倭寇が活動しました。
南北朝時代の倭寇は前期倭寇と呼ばれ、日本人が主体でしたが、後期倭寇になると日本人主体の海賊ではありませんでした。
天文12(1543)年、九州の種子島にポルトガル人を乗せた中国船が流れ着きました。ポルトガル人を乗せた船も中国人倭寇のものでした。
島主の種子島時堯はポルトガル人のもっていた鉄砲を買い求め、家臣に製法を学ばせ、日本で初めての鉄砲がつくられます。鉄砲は同時期に西日本にも伝来したようでした。
種子島に伝えられた鉄砲の影響は大きく、騎馬戦を主力とする戦法から銃を持った歩兵隊を中心とする戦法に切り替わり、家臣団の編成も変化します。
鉄砲伝来については、宇田川武久氏が海外にも調査を広げて研究したところ、伝来は倭寇によるものとし、村井章介氏は、新たな史料を加え、問題点は残るものの、天文11年を鉄砲伝来の年とするのが蓋然性が高いとしました。
この後、ポルトガルは日本との貿易の利益が大きいことを知り、毎年のように貿易船を九州の諸港に派遣するようになります。
50年ほど遅れてスペイン人が肥前の平戸に来航します。
貿易は肥前の平戸・長崎、豊前の府内などで行われました。
当時、ポルトガル人やスペイン人は南蛮人と呼ばれていましたので、南蛮貿易と呼びます。
鉄砲や火薬、絹布が輸入され、銀や刀剣、海産物などが輸出されました。
キリスト教伝来
キリスト教伝来も日本の社会と文化に大きな影響を与えました。
イエズス会(耶蘇会)のフランシスコ=ザビエルが天文18(1549)年に鹿児島にきて、2年ほど各地を回りました。
宣教師が相次いで来日し、熱心に布教します。
宣教師が社会事業や医療活動などにつとめたこともあり、武士や商人、農民などにひろまり、各地に南蛮寺とよばれる教会堂やコレジオ(宣教師の養成学校)、セミナリオ(神学校)などが建てられました。
おもに西日本に広まり、信者の多くは貧しい人々で数十万人にもおよびました。
貿易を望む大名はすすんでキリスト教を保護し、キリシタン大名と呼ばれるものも現れます。
天正10(1582)年、天正遣欧使節が派遣されます。大友宗麟(義鎮)、有馬晴信、大村純忠らは宣教師ヴァリニャーニのすすめで少年使節をローマ教皇のもとに派遣しました。
織豊政権
織田信長
戦乱のなかで、室町幕府の支配力は全くなくなっていました。
その中で、全国統一の先駆けとなったのが、織田信長でした。
永禄10(1567)年、織田信長は美濃を攻略し、岐阜に拠点を移して「天下布武」の印章を使い始めます。
しかし、近年、織田信長が用いた印章の「天下布武」はとは、室町将軍が治めていた五畿内を中心とする地域の秩序回復を掲げたものという考えが浸透してきました。
「天下布武」「天下静謐」は必ずしも全国統一には結びつかないのです。
織田信長が足利義昭を供奉して上洛した1568年から1582年の本能寺の変までの足かけ15年間のうち、浄土真宗の石山本願寺との石山合戦は足かけ11年にわたりました。
- 永禄3(1560)年 桶狭間の戦いで今川義元を破る
- 永禄11(1568)年 上洛し、足利義昭を将軍にたてる
- 天正元(1573)年 足利義昭を京都から追放し、室町幕府が滅亡する
- 天正3(1575)年 長篠合戦で甲斐の武田勝頼を破る
近江に安土城を築いて、城下に商工業者をあつめて、楽市・楽座の制をおしすすめ、商人が自由に営業できるようにしました。
関所を廃止し、通行税の徴収をやめ、道路を修理し、物資の運搬や旅行が非常に便利になります。
堺を直轄領にしたのも、権力を強めるのに役立ちます。
室町幕府を滅ぼした織田信長が正当性の根拠とし、安定させる役割を果たしたのが朝廷でした。
信長は右大臣まで昇りますが、ほどなく辞任します。この評価を巡って、研究者の意見が分かれます。
信長と朝廷の関係を対立的に見る立場もあり、有力な学説ですが、山本博文氏は蜜月状態が続いていたとする説を支持しています。
朝廷が右大臣より上の官位を提供する意思を示しますが、態度を保留します。
山本博文氏は信長が朝廷の権威を借りずに武力で天下統一し、その後に何らかの官位に就いて室町幕府のような統治機構を作ろうとしたのではないかと考えています。
天正10年(1582)、本能寺の変で、明智光秀によって攻められて敗死します。
豊臣秀吉
織田信長を継いだのが、豊臣秀吉でした。
- 天正11(1583)年に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、同年、石山本願寺跡に大坂城を築き始めます。大坂には堺の商人も移り、長く日本の経済の中心になります。
- 天正13(1585)年 長宗我部元親を降伏させ四国を平定
- 天正15(1587)年 島津義久を従えます。
信長の後継者になった秀吉も、後継争いに勝つまでは官位にこだわりませんでした。
朝廷が秀吉を信長の後継者として認めると、武家政権を委ねる姿勢をはっきりと示します。
天正13年、秀吉は内大臣に昇進します。その中、近衞信輔と二条昭実との間で関白職をめぐる論争が起き、仲裁に入った秀吉が自ら関白になることを提案します。
秀吉は近衛前久の猶子となり藤原姓の関白秀吉が誕生します。
そして天正14年に太政大臣に任じられ、豊臣の姓を与えられます。
これまでの武家政権は征夷大将軍になることで支配権を確立してきましたが、秀吉は公家の就く官職である関白になって武家政権を運営しようとしました。
かつては、秀吉による全国統合の過程は、軍事力で戦国大名を攻撃・威圧し、服属させていったと見られていました。
しかし、惣無事は秀吉の広域的法令ではなく、織田政権期の状況を秀吉が利用・拡大した外交政策とみられるようになりました。
豊臣政権の統一戦争は、各地の大名を服属させようとする外交施策が第一にあり、延長上に必要があれば大軍を率いた戦争を行うのが基本になっていました。
惣無事令(豊臣平和令)により、地域紛争の停止と紛争解決の裁定権を自分にゆだねることを要求し、従わない場合軍事行動に訴えました。中世社会の慣習だった自力救済権が否定されることになりました。
藤木久志氏が提唱した惣無事令は、喧嘩停止令、刀狩令、海賊停止令などとともに豊臣政権の政策基調をなすものとされました。
「惣無事」は東国における講和の一形態である「無事」を踏まえて、新たに勢力下におくための働きかけの一つであり、「令」ではなく、永続性もなく、関白任官によるものでもありませんでした。
- 天正16(1588)年 京都の聚楽邸に後陽成天皇を迎え、その際に諸大名に忠誠を誓わせました。
- 天正18(1590)年 小田原攻めで北条氏を滅ぼし、伊達政宗ら東北の諸大名を服従させ全国統一をなしとげます。
検地と刀狩
近世の始まりは織豊期からとするのが一般的です。寺社や一向一揆、国人一揆など複数の権力が分立していた中世的支配構造を克服し、一元支配に成功したからです。厳密な議論をすれば、秀吉の刀狩りによって実現した兵農分離が近世の画期と考えられます。
秀吉は征服地を家臣に分け与えました。蔵入地と呼ばれた秀吉の直轄地は222万石余りでした。
山口啓二氏の研究によると、慶長3年時点の日本の総石高は1850万石余です。豊臣家の蔵入地は222万石で、全体の12.2%でした。
京都、大阪、堺、伏見、長崎などを直轄地とし、財政的基盤を固めます。
主な街道を整備し、天正大判などの貨幣を鋳造しました。
金山・銀山からの運上と、金座・銀座などからの運上金銀でした。慶長3年時点の換算で37万石強ありました。
太閤検地では、中央から役人を派遣し、全国ほぼ同一の基準で耕地や宅地の面積、等級を調べ、耕作者とともに検地帳(水帳)に登録しました。
一地一作人の原則により、検地帳に登録された耕作者は、年貢や労役の負担者とされました。これにより、荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なり合う状態が否定されます。支配・権利関係が複雑だった荘園生の名残が最終的に終焉を迎えたのです。
耕作から離れた兵と、武器の使用を否定された農が分離された体制を、近世の本質と考えられます。
秀吉は全国の土地を支配し、大名の配置換えも容易くなり、近世封建制の基礎が固まります。
刀狩では、天正16(1588)年に刀狩令をだし、農民から武器をとりあげました。これにより兵農分離が進みます。
天正19(1591)年に人掃令(身分統制令)を出し、武士、農民、町人などの身分や職業を固定する方策が進められます。
人掃令は、武士一般にまで及ぶものではなく、武家奉公人、町人、農民の身分の移動を禁じたものでした。
翌年、この令をもとに全国の大名に戸口調査を命じます。目的は朝鮮出兵に際しての陣夫を調達するための調査でした。結果として、これが身分を固定化する統制令の性格を持つようになります。
支配組織が整ったのは、晩年のことで、石田三成らの五奉行、徳川家康をはじめとする五大老の制度が軌道に乗ります。
秀吉の対外政策
はじめキリスト教を認めていましたが、信者の増加とともに、神社や寺院が破壊されることも多くなりました。
天正15(1587)年 九州出兵の際に博多でバテレン追放令を出し、宣教師を国外追放とし、不況を禁止します。
大名のキリスト教信仰も禁止されますが、信仰を捨てなかった高山右近は領地を没収されます。
一方で、一般の武士や庶民の信仰は禁止されませんでした。
発令の直接の原因が、長崎が教会領となっていたことで、スペインやポルトガルがキリスト教の布教を通じて植民地化を進めているという危機感を強めたためと考えられます。
外交面では、倭寇などの海賊的行為を禁じ、日本人の海外発展を助け、日本船の東南アジア方面への進出が盛んになりました。
唐入り、文禄・慶長の役
豊臣政権の最大の謎は唐入りです。
文禄・慶長の役が起こった16世紀の東アジアでは、東シナ海での物流が拡大し、後期倭寇が最盛期を迎えていました。大航海時代が始まっており、東アジアもその波にのみ込まれていました。
明の制服を企て、まずは朝鮮に対して国王の入貢を明への先導を求めましたが、朝鮮が応じなかったため2度にわたって出兵を行います。
しかし、文禄・慶長の役では明の援軍や、朝鮮民衆の抵抗にあって苦戦を強いられます。
近世外交史が専門の武田万里子氏によれば、秀吉の目的は明の征服ではなく、明を屈服させて大明四百余州のうち百カ国を割譲させようとしたものでした。寧波を中心とする中国沿岸部と周辺地域と推測しています。
この説によれば、秀吉は東アジア海域の中継貿易の主導権を握ろうとしたと考えることができます。
一方、中野等氏は、明帝国の打倒を目的とし、当初から征明であり、役を大陸侵攻と称しました。
しかし、慶長の役に関しては明制服の意図は大きく後退し、朝鮮侵略を主眼とした戦争と位置付け、役は徐々に意味合いを変化させたと主張しました。
諸大名の軍事行動を検討すると、慶長の役は朝鮮侵略を主眼にした戦争と判断されるので、この変遷論は説得的です。
教科書では慶長の役で日本側は苦戦して朝鮮南部の占領のみに留まったという説明もありますが、そもそも目的が朝鮮南部の征服であり、駐屯支配も観察されています。
慶長3(1598)年、豊臣秀吉の死によって全軍が撤退します。
桃山文化
参考文献
テーマ別日本史
政治史
- 縄文時代と弥生時代
- 古墳時代から大和王権の成立まで
- 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
- 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
- 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
- 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
- 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
- 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
- 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
- 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
- 鎌倉時代(惣領制の成立)
- 鎌倉時代(蒙古襲来)
- 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
- 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
- 室町時代(下剋上の社会)
- 室町時代(戦国時代)
- 安土桃山時代 本ページ
- 江戸時代(幕府開設時期)
- 江戸時代(幕府の安定時代)
- 江戸時代(幕藩体制の動揺)
- 江戸時代(幕末)
- 明治時代(明治維新)
- 明治時代(西南戦争から帝国議会)