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歴史上の人物

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堀田正倫とは?下総佐倉藩11万石最後の藩主

幕末から明治時代の大名、華族。伯爵。父・堀田正睦が井伊直弼との政争に敗れて失脚し、家督を譲られ下総佐倉藩11万石の堀田家第2次6代となる。

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堀田正睦とは?江戸末期の幕府の老中首座

堀田正睦は江戸末期の幕府の老中首座。下総佐倉藩11万石の第5代藩主。正俊系堀田家9代。条約勅許問題で知られます。洋学に傾倒し、佐倉は関東の蘭学の拠点となります。
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西郷隆盛とは?「敬天愛人」天を敬い人を愛した幕末・明治の英雄

文政10年12月7日、鹿児島の下加治屋町に薩摩藩下級士族・西郷吉兵衛隆盛の長男。薩摩藩士。西郷吉兵衛は小姓組だった。母・マサ。諱は隆永、のち隆盛。幼名は小吉、吉之介。父の死後吉兵衛を継ぎのち吉之助と改め、名を隆永、明治以後は父と同じ隆盛を称した。通称は吉兵衛、吉之助。号は止水、南洲。変名に大島三右衛門、菊池源吾。少年時代を貧苦のなかに過ごし、少年時代からの友人に大久保利通、伊地知正治らがいる。

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勝海舟とは?江戸城無血開城に尽力した幕末幕臣、坂本竜馬の師匠

勝海舟は江戸幕末から明治時代の武士、政治家。江戸生まれ。文政6年(1823)1月30日-明治32年(1899)1月19日死去。77歳。旗本小普請組・勝左衛門太郎(勝惟寅(これとら)、勝小吉)の長男。勝左衛門太郎は自伝「夢酔独言」で知られる。勝家は石高41石余の貧乏旗本だった。勝家は、勝左衛門太郎が婿養子になる形で同家の旗本株を買ったもの。勝左衛門太郎の生家である旗本男谷(おたに)家も、祖父・男谷検校(けんぎょう)が、金貸しを営んでいた小吉の勝左衛門太郎の父のために買ったもの。従兄に剣術家の男谷信友(精一郎)。男谷信友とは血縁上は又従兄で、信友が海舟の伯父に当たる男谷思孝(彦四郎)の婿養子に入ったことから系図上は従兄になる。

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美福門院(藤原得子)とは?玉藻前(九尾の狐伝説)との関係は?

玉藻前(たまものまえ)とは、平安時代末期に鳥羽上皇の寵姫であったとされる伝説上の人物です。モデルは美福門院(藤原得子)とされます。九尾の狐の化身であり、正体を見破られた後、下野国那須野原で殺生石になったとされます。
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剣聖・塚原卜伝とは?生涯負けを知らなかった鹿島新当流の祖

塚原卜伝は戦国時代の剣豪、兵法家です。剣聖と呼ばれます。鹿島新当流(新当流、卜伝流、墳原(つかはら)卜伝流など)の始祖。卜伝の伝記は巷説が多く、生没年に諸説あることからも明らかではありません。
寺社

宗吾霊堂(鳴鐘山 医王院 東勝寺)の参詣記-歴史や見どころは?(千葉県成田市)義民・佐倉惣五郎が祀られている寺院

京成本線の宗吾参道を降りて、坂道を登ること10分程度です。意外と遠い感じでした。訪れた場所千葉県の訪れた史跡・遺跡・寺社宗吾霊堂(そうごれいどう)の縁起・歴史義民・佐倉惣五郎の霊が祀られていることから宗吾霊堂(そうごれいどう)と広く呼ばれて...
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伊能忠敬(いのう・ただたか)とは?日本地図を作成した測量家

伊能忠敬(いのう・ただたか)。本姓は神保。字は子斉。通称は三郎右衛門、勘解由。号は東河。延享2年(1745年)-文化15年(1818年)。日本地図を作成した測量家。
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久保木竹窓(くぼき・ちくそう)とは?伊能忠敬と交友があった江戸時代後期の朱子学者

久保木竹窓(くぼき・ちくそう)は下総香取郡津宮村出身。名主を務めまるかたわら儒学者・国学者として知られ「下総に過ぎたるものが二つあり、成田不動に久保木蟠龍」とまでいわれた。
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飯篠長威斉家直とは?日本武道の源流の一つ「天真正伝香取神道流」の創始者

飯篠長威斉家直(いいざさ・ちょういさい・いえなお)。名は長意(ながおき)、家直。通称は山城守、伊賀守。日本の剣術は三大流派から始まったとされる。念流、陰流、そして神道流である。その神道流の祖である。正式名は天真正伝神道流(てんしんしょうでんしんとうりゅう)という。

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中山勘解由直守とは?鬼勘解由と称された盗賊改・火附改

中山勘解由は仏心の篤い人物だったそうだが、火附改を命じられると、二人の息子を前に、今日からは慈悲では治まらぬ、と父祖代々の位牌をまつる仏壇を叩き壊したという。中山勘解由の取り締まりは厳しく、庶民だけでなく、武士にも恐れられ、「鬼勘解由」「鬼勘」と呼ばれた。
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水野小左衛門守正とは?最初の盗賊改(関東強盗追捕)

幕府の役職の任命ではなく、盗賊の捕縛という役目を下命されている。江戸市中も盗賊が横行しており、町奉行所が奮闘していたが、常陸での盗賊取り締まりを命じられた。
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松平左金吾定寅とは?松平定信と同族の久松松平氏出身で、鬼平・長谷川平蔵宣以の同僚

  • 堀帯刀のあとを継いで火付盗賊改の本役に就いたのが、それまで助役だった長谷川平蔵宣以だった。その助役として松平左金吾定寅が就いた。本役の長谷川宣以とは確執があった。松平左金吾定寅は老中首座の松平定信と同族の久松松平氏(徳川家康の実弟の家系)であった。
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長谷川平蔵宣雄とは?火付盗賊改から京都西町奉行に栄進した鬼平・長谷川平蔵宣以の父

長谷川宣雄(はせがわ・のぶお)江戸時代の旗本で、鬼平こと長谷川平蔵宣以の父。通称は平蔵(へいぞう)。この通称は息子、孫へと引き継がれました。
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長谷川平蔵宣以とは?「鬼平犯科帳」の鬼平で知られる火付盗賊改役

長谷川宣以(はせがわ・のぶため)。通称、長谷川平蔵。父・長谷川宣雄が平蔵(へいぞう)を通称としたため、家督相続後は平蔵を通称としました。池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として知られます。江戸時代中期の旗本。
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根岸肥前守鎮衛とは?「耳袋」の著者で刺青の噂のあった名南町奉行

根岸肥前守鎮衛(ねぎし・ひぜんのかみ・やすもり)もしくは(しずもり)。通称は銕蔵、九郎左衛門。南町奉行の在位は18年に及び、世情に詳しい町奉行として知られました。
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松平定信とは?寛政の改革を主導した白河藩主、第八代将軍・徳川吉宗の孫

略歴宝暦8年(1759年)-文政12年(1829年)(71歳)江戸時代が慶長8年(1603年)から慶応4年/明治元年(1868年)の265年間なので、江戸時代中期から後期にかけて活躍した政治家です。寛政の改革を主導しましたが、改革内容が緊縮...
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中条兵庫頭長秀とは?「中条流平法」兵法と言わずに平法と言うその心とは

中条流は兵法とはせずに、平法と称した。戦いをよしとはせず、剣はやむを得ない時のものとし、刀術の研鑽は平和を守ることであり、兵法は平法であらねばならないとした。
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丸目蔵人佐長恵とは?「タイ捨流」を興した剣豪

丸目蔵人佐長恵(まるめ・くらんどのすけ・ながよし)はタイ捨(たいしゃ)流の創始者として知られる剣豪です。通称は蔵人佐(くらんどのすけ)、または石見守。丸目蔵人(まるめ・くらんど)の名で広く知られます。
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上泉伊勢守信綱とは?「剣聖」新陰流を興した関東(上野国)の武人

「剣聖」と呼ばれる関東の武人・上泉伊勢守信綱。新陰流の祖。読みは「かみいずみ」または「こういずみ」。居城のあった前橋市上泉町は「かみいずみ」。「言継卿記」には大胡武蔵守または上泉武蔵守信綱で出ている。