今回は城を見に来たわけではなく、千葉県立印旛沼公園に来たら、そこが城址だったというオチです。
せっかくなので、城址を散策。公園として綺麗に整備されていますが、随所に城の名残が見られます。
保存状態がよく、空堀と土塁が確認できます。
師戸城址の歴史
千葉氏の一族であった臼井氏の居城・臼井城の支城として鎌倉時代の14世紀に築城されました。
築城は臼井氏の四天王の一人・師戸四郎によるとされます。
改築を重ね、現在の大きさになったのは16世紀ころと推定されています。
本丸、二の丸、三の丸があり、支城としては立派なつくりです。
臼井城とは渡しで結ばれ、臼井城の防衛に大きな役割を果たしました。
地元では龍ヶ谷城(りゅうがやじょう)と呼ばれていました。
この辺りには、龍の名のつく寺などもあり、龍伝説があちこちにあります。
龍、すなわち大蛇、つまりは大河(この地域であれば利根川)の氾濫による災難に見舞われやすかった地域だったということでしょう。
昭和47年に部分的に発掘調査を行い千葉県立印旛沼公園として整備されました。
戦国時代の永禄九(1566)年の上杉謙信による臼井城攻撃でも活躍したようです。
天正十八(1590)年の小田原の役で落城し廃城となりました。
師戸城の歴史
師戸城は、千葉氏の一族であった臼井氏の居城である臼井城の支城として、一四世紀に築かれたといわれる。その後、何度か改築され、現存するような形になったのは、一六世紀中頃と推定される。
城主については明らかでないが、江戸時代初期に書かれた「臼井家由来抜書」に名前の見える臼井氏四天王の一人である師戸四郎がこの城に関係があったかとも考えられる。
印旛沼の対岸にある臼井城とは「渡」で連結され、臼井城の防衛に大きな役割を果たしたと考えらえる。永禄九年(一五六六年)上杉謙信の臼井攻めにもよくその猛攻を防いだが、天正一八年(一五九〇年)、豊臣氏による下総攻略で落城し、臼井城と命運を共にした。
本丸、二の丸、三の丸、道場台の四つの郭外敵を防ぐために土塁、空濠などがみられ、中世城郭としての様式をよく残すとともに本県の歴史を知る上で価値の高い城跡である。
案内板
師戸城址の見どころ
空堀
本丸のあたりでしょうか?
展望台。目の前に印旛沼が広がっています。
住所と地図
所在地: 〒270-1615 千葉県印西市師戸756−10