成田市船形手黒にあります。手黒社とも呼ばれます。台方にある麻賀多神社の奥宮(奥津宮)にあたります。
麻賀多神社は式内社で、成田市内に2か所あります。台方区稷山と、船形区手黒です。
台方神社は稚産霊神を祀り、船形社は奥宮として稚日霊神を祀っています。
麻賀多神社(船形社)の由緒・歴史
日本武尊が東征の際に立ち寄った
麻賀多神社は、日本武尊の東征に縁があります。約1850余年前の第十二代景行天皇の42年6月末日に、日本武尊が利根川、印旛沼を経て当地に上陸したとされます。
相模から上総へ渡り、その後現在の千葉県をグルッと回ってここに寄ったというより、古代面前に広がっていた香取海(かとりのうみ)を渡ったのでしょう。香取海の東には香取神宮や鹿島神宮があります。
さて、日本武尊は「インバノクニタマオキツカガミと崇め祀れば五穀自ら豊穣する」と、大きな杉の幹に御鏡を懸け、この鏡を祭祀することを教えました。これが当社の創始とされます。
伊都許利命
その後約三百年、第十五代応神天皇の20年に、この船形に神武天皇の皇子・神八井耳命八世の孫である印旛国造・伊都許利命が当地にやってきて社殿が創立されました。
そして、御鏡を御霊代としてワカヒルメノミコトを鎮祭しました。
伊都許利命は、ワカヒルメノミコトの御神命によって大杉の下から七つの玉を掘り出しました。
そして、それらを御霊代として、オキツミヤにワカムスビノミコトを併祀します。勾玉がそもそもの麻賀多神社の名前の由来となります。
ワカヒルメノミコト、稚産霊命をマガタマの大神として崇め、七つの玉(勾玉)から麻賀多と改称します。七つの玉にちなんだ地名が周辺に多いです。七台、七坂、七井戸、七干場、七兎田、七人百姓。
応神天皇の27年に、伊都許利命の子・浦長多津命が病で倒れた際、真賀多真大神の神命により、マガタマの二柱の大神に祈祷すると快復しました。
これより、家内安全、病気平癒の神として崇められてきました。
第二十三代推古天皇の十六年に、伊都許利命の第八世の孫・広鋤手黒彦命に再び神命があり、成田市台方に「真賀多真の大神」としてオキツミヤよりワカヒルメノミコトを遷宮し、大宮殿としました。
麻賀多神社へ改称
第六十代醍醐天皇の延喜18年、延喜式神名帳に載せる際、神社の名前が三種の神器の勾玉と同じため、「真賀多大神」と改称しました。その後、麻の名産地に因み、麻賀多神社と改称しました。
麻賀多神社は印旛沼の南を中心に発展し、麻賀多神社十八社が栄えました。この地域は、印旛沼の南側を中心に発展しました。逆に北側の発展は遅れたようです。
御由緒
伊都許利命は神武天皇の皇子神八井耳命の八代目の御孫で応神天皇の命を受けて印旛國造としてこの地方を平定され産業の指導などに多くのご功績を残されています。その昔日本武尊ご東征の折大木の虚に鏡をかけ根本に七つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願されました。命は「この鏡をあがめ祀れば永く豊作が続く」との教をきゝその鏡をご神体としてこの地に稚日霊命を(手里神社)祀り、その後ご霊示によって七つの玉を掘り出して稚産霊命(台方神社)を祀り共に麻賀多眞大神として里人の崇敬を指導されてから益々豊年と楽土が続きました。なお佐倉藩磯部昌言氏の記す佐倉風土記を始め塚上の古建碑等によって治績が広く知られ又明治四十四年大正三年の二回に亘って古墳が保存され近年成田市の史跡に選ばれました。御墳墓は土砂が少しけづられている様子ですが周囲一二〇米高さ七米の方形墳で南の麓には広さ約五平方米の岩屋と西麓には直刀金環鎧片等を納めた石棺とその出土品が現存しています。
伊都許利神社々務所
公津ヶ原
このあたりは公津ヶ原と呼ばれていました。神の港を意味する神津にちなんでいるのではないかと思われます。
船形も台方も印旛沼に極めて近いです。船形という地名からも、古代にはこの周辺に港があったのではないでしょうか。
古墳の多さも、この周辺に人が住むだけの環境が整っていたことを示している。
(古墳時代については「テーマ:古墳時代から大和王権の成立まで」にてまとめていますので、ご参照ください。)
なお、公津ヶ原という地名にピンとくる人もいるかもしれませんが、平将門の乱(承平天慶の乱)の際に、朝敵降伏のために都から遣わされた寛明が護摩を焚いて二十一日間の修法を行った地が、公津ヶ原です。
成田の不動塚の周辺がその地とされます。ここからは少し距離があります。
役目を終えた寛明が京へ戻ろうとする際に、不動像を引き上げようとしますが、像は動かず成田の不動塚に留まって朝敵降伏の為に働くとの御託宣がありました。
それで建立されたのが成田不動(のちの成田山新勝寺)です。成田不動はもともと成田の不動塚の周辺にありました。ですが、正確な場所がどこだかわかっていないそうです。
成田市と言えば、成田山新勝寺。ここまで来たらぜひ参拝したい。
成田山の参道は鰻の名店が並んでいるので、立ち寄ってご賞味あれ。 川豊、近江屋 などの老舗が並んでいる。少し離れたところの新川も穴場でおすすめ。
麻賀多神社(船形社)の見どころ
鳥居から本殿
一の鳥居。
二の鳥居。木製の両部鳥居。台方同様、鳥居の両サイドに巨木がそびえています。
手水舎。
拝殿。
本殿を右手から撮影。
御神木の大スギ。
摂社・末社
左から高津神社、栗生日神社、世直神社、熊野神社、菅原神社
左から八代稲荷神社、加志波比賣神社
左から香取神社、祓戸神社。
麻賀多神社の概要
創建 | 応神天皇20年 |
主祭神 | 稚日霊命 |
備考 | ー |
社格等
古代社格制度 | 式内社(小 ) |
中世社格制度 | ― |
近代社格制度 | ― |
現代の制度 | ― |
その他 | ー |
文化財
国指定
国宝 | ー |
重要文化財 | ― |
登録有形文化財 | ― |
県指定
有形文化財 | ー |
---|
市指定
有形文化財 | ― |
---|
天然記念物
国指定 | ― |
---|---|
県指定 | ― |
市指定 | ― |
古墳
公津原古墳群(39号墳 分墳)と呼ばれ、本古墳は「先代旧事本紀」の中の「国造本紀」に見える「印波国造伊都許利命」の墳墓と伝えられています。
墳丘の大きさは、東西辺約35m、南北辺約36 m、高さ約5mの方形墳。
遺体埋納施設は、後期古墳の主体部に多く見られる凝灰質系軟質砂岩の切石積みによる横穴式石室(南側裾部)と、絹雲母片岩の板石を組み合わせた箱式石棺の二つがあります。
(古墳時代については「テーマ:古墳時代から大和王権の成立まで」にてまとめていますので、ご参照ください。)
金毘羅神社
境外社でしょうか?
他の麻賀多神社
印旛には麻賀多神社が18社あります。成田市に3社、佐倉市に11社、酒々井町2社、富里市2社、八千代市1社の計18社とされますが、実際はもっと数が多いようです。
麻賀多神社(稷山)(成田市台方)
麻賀多神社(手黒)(成田市船形)…当社
麻賀多神社(成田市米野→中台)
麻賀多神社(佐倉市飯田)
麻賀多神社(佐倉市飯野)
麻賀多神社(佐倉市岩名)
麻賀多神社(佐倉市江原新田)
麻賀多神社(佐倉市大佐倉)
麻賀多神社(佐倉市大篠塚)
麻賀多神社(佐倉市大蛇)
麻賀多神社(佐倉市太田)
麻賀多神社(佐倉市鏑木)
麻賀多神社(佐倉市城)
麻賀多神社(佐倉市高岡)
麻賀多神社(佐倉市高崎)
小麻賀多神社(駒形神社)(佐倉市内田)
麻賀多神社(富里市新橋)
麻賀多神社(富里中沢)
小麻賀多神社(駒形神社)(富里市久能)
小麻賀多神社(駒形神社)(富里市大和)
小麻賀多神社(駒形神社)(八千代市勝田)
小麻賀多神社(駒形神社)(八千代市上高野)
麻賀多神社(八千代市神野)
小麻賀多神社(駒形神社)(酒々井町上岩橋)
麻賀多神社(酒々井町酒々井)
麻賀多神社(酒々井町下台)…
地図等
所在地: 〒286-0001 千葉県成田市船形834
電話: 0476-93-8034