京成本線の宗吾参道を降りて、坂道を登ること10分程度です。
意外と遠い感じでした。
宗吾霊堂(そうごれいどう)の縁起・歴史
義民・佐倉惣五郎の霊が祀られていることから宗吾霊堂(そうごれいどう)と広く呼ばれています。
佐倉惣五郎(さくら・そうごろう)は江戸時代前期の下総国佐倉藩領の義民として知られます。
江戸時代の代表的な義民として名高い。生年不詳–承応2年(1653年)。
史実として確認できることが少ないため、そもそも実在を疑う人もいるようです。
下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は木内惣五郎(きうち・そうごろう)。
通称が宗吾(そうご。惣吾とも)とされます。
堀田氏時代の公津村名寄帳によって「惣五郎」という富裕な農民が実在していたことは確認されています。
惣五郎が一揆や直訴を行ったということを確認できる史料はありません。
領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られます。
惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成され、実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになりました。
縁起
当山は宗吾霊堂と呼ばれ広く知られていますが、正しくは鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂といいます。
境内は木々の緑につつまれ、春の花見に秋の紅葉にと年中人出が絶えません。
約10万平方メートルの広さに、年間参詣者は約250万人の人々が訪れる霊場です。
当山の縁起は桓武天皇の時代に、征夷大将軍 坂上 田村麻呂が房総を平定し、戦没者供養のため建立された真言宗豊山派の寺院です。
我が国の代表的義民として有名な佐倉宗吾(本名 木内 惣五郎)様は、今から350年前に佐倉藩国家老による暴政のため領民の救済を4代将軍 家綱公へ直訴し、その罪により公津ケ原刑場で磔刑(はりつけ)に処せられました。
この時、当山の住僧 澄祐(ちょうゆう)和尚は遺骸を刑場跡に埋葬されました。
現在のお墓がそれで惣五郎様の処刑後、佐倉藩はその失政を悔い、宝暦2年(1752年)、百回忌の時に堀田 正亮(まさすけ)公は宗吾道閑居士の法号を諡号しました。
以来、惣五郎様は宗吾様と呼ばれるようになり、寛政3年(1791年)、堀田 正順(まさなり)公は徳満院の院号と石塔一基を寄進しました。
文化3年(1804年)には堀田 正時(まさとき)公が惣五郎様の子孫に田高5石を供養田として与えました。
長い間、宗吾様をまつる堂宇の建立は許されませんでしたが、現在は本堂・客殿・霊宝殿・仁王門・鐘楼堂・宗吾様の御生涯を66体の等身大の人形により再現した日本有数の大パノラマ式の宗吾御一代記館等の建造物があり、信仰に参詣に多くの人々の人気を博しています。
宗吾霊堂公式サイト
宗吾霊堂の見どころ
駅からの参道
宗吾参道駅を降りたところ
門があります
入口から仁王門
駅から10分ほどして入り口にたどり着きます。
入り口を正面に、手前の道を左手に行くと式内社の麻賀多神社(台方社)があります。一緒に参拝されるのがおすすめです。
さらに進むと奥宮の麻賀多神社(船方社)(同じく式内社)がありますが…わかりにくいので…
仁王門へ
宗吾様御廟
大本堂や鐘楼堂、薬師堂、大本坊など
鐘楼堂
薬師堂
大本堂
大本坊
奥之院
その他の風景
東勝寺の概要
項目 | 内容 |
---|---|
山号 | 鳴鐘山 |
院号 | – |
正式名 | 鳴鐘山 医王院 東勝寺 |
開基 | 坂上田村麻呂(桓武天皇の時代) 中興:澄祐(1662年(寛文2年)) |
宗派 | 真言宗豊山派 |
本尊 | 宗吾尊霊 |
別称 | 宗吾霊堂 |
備考 | – |
文化財
国指定 | 国宝 重要文化財 登録有形文化財 | ー ー ー |
県指定 | 有形文化財 | 梵鐘 |
市指定 | 有形文化財 | 板石塔婆 |
場所など
所在地:千葉県成田市宗吾1-558