神話時代の年表です。古社の創建年などの調べものにお役に立てば幸いです。
なお、この時代の年表は勉強や試験の役に立ちませんので、ご了承ください。
天地開闢
別天津神(ことあまつかみ)
世界の最初に、高天原に相次いで三柱の神が生まれました。造化の三神と呼びます。
- 天之御中主神(アメノミナカヌシ)
- 高御産巣日神(タカミムスビ)
- 神産巣日神(カミムスビ)
続いて、二柱の神が生まれました。
- 宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂ)
- 天之常立神(アメノトコタチ)
この五柱の神は性別がなく、すぐに身を隠してしまいます。特別な神であり、別天津神と呼ばれます。
神世七代(かみのよななよ)
下記の七組十二柱を総称して神世七代(かみのよななよ)と呼びます。
別天津神に続いて、次の二柱の神が生まれました。
- 国之常立神(クニノトコタチ)
- 豊雲野神(トヨクモノ)
五組十柱の神々が生まれました。五組の神々はそれぞれ男女の対の神々です。
左側が男性神、右側が女性神です。(男性神 / 女性神)
- 宇比地邇神(ウヒヂニ) / 須比智邇神(スヒヂニ)
- 角杙神(ツノグヒ) / 活杙神(イクグヒ)
- 意富斗能地神(オホトノジ) / 大斗乃弁神(オホトノベ)
- 於母陀流神(オモダル) / 阿夜訶志古泥神(アヤカシコネ)
- 伊邪那岐神(イザナギ) / 伊邪那美神(イザナミ)
国生み/国産み
イザナギとイザナミの二神は、漂っていた大地を完成させるよう、別天津神たちに命じられます。
(最初に生まれたのは水蛭子(ヒルコ)、次に生まれたのは淡島(アワシマ)ですが、イザナギ、イザナミの子に数えられません。)
二神は、大八島を構成する島々を生み出していきます。最初の八島から日本を大八島国(オホヤシマノクニ)とも呼びます。
- 淡道之穂之狭別島(アハヂノホノサワケシマ)=淡路島。
- 伊予之二名島(イヨノフタナノシマ)=四国。※1
- 隠伎之三子島(オキノミツゴノシマ)=隠岐島(別名:天之忍許呂別(アメノオシコロワケ))
- 筑紫島(ツクシノシマ)=九州。※2
- 伊伎島(イキノシマ)=壱岐島(別名:天比登都柱(アメノヒトツバシラ))
- 津島(ツシマ)=対馬(別名:天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ))
- 佐度島(サドノシマ)=佐渡島
- 大倭豊秋津島(オホヤマトトヨアキツシマ)=本州(別名:天御虚空豊秋津根別(アマツミソラトヨアキツネワケ))
※1 伊予之二名島は胴体が1つで、顔が4つあります。顔のそれぞれの名は、愛比売(エヒメ)(伊予国)、飯依比古(イヒヨリヒコ)(讃岐国)、大宜都比売(オホゲツヒメ)(阿波国(後に食物神としても登場します))、建依別(タケヨリワケ)(土佐国)
※2 筑紫島は胴体が1つで、顔が4つあります。顔のそれぞれの名は、白日別(シラヒワケ)(筑紫国)、豊日別(トヨヒワケ)(豊国)、建日向日豊久士比泥別(タケヒムカヒトヨクジヒネワケ)(肥国)、建日別(タケヒワケ) – 熊曽国。
続いて6島が産まれます。
- 吉備児島(キビノコジマ)=児島半島(別名:建日方別(タケヒカタワケ))
- 小豆島(アヅキジマ)=小豆島(別名:大野手比売(オホヌテヒメ))
- 大島(オホシマ)=屋代島(周防大島)(別名:大多麻流別(オホタマルワケ))
- 女島(ヒメジマ)=姫島(別名:天一根(アメノヒトツネ))
- 知訶島(チカノシマ)=五島列島(別名:天之忍男(アメノオシヲ))
- 両児島(フタゴノシマ)=男女群島(別名:天両屋(アメノフタヤ))
神生み/神産み
大八洲国やその他の小さな島々を産んだイザナギ、イザナミは次に神々を産みます。
産まれた神は家宅を表す神および風の神・木の神・野の神などの自然にまつわる神々です。
- 大事忍男神(オホコトオシヲ)
「家宅六神(かたくろくしん)」…次の六柱
- 石土毘古神(イハツチビコ)/石巣比売神(イハスヒメ)
- 大戸日別神(オホトヒワケ)/天之吹男神(アメノフキオ)
- 大屋毘古神(オホヤビコ)/風木津別之忍男神(カザモツワケノオシヲ)
- 大綿津見神(オホワタツミ)
- 速秋津比古神(ハヤアキツヒコ)/速秋津比売神(ハヤアキツヒメ)
「速秋津比古神と速秋津比売神の子」
- 沫那藝神(アハナギ)/沫那美神(アハナミ)
- 頬那藝神(ツラナギ)/頬那美神(ツラナミ)
- 天之水分神(アメノミクマリ)/国之水分神(クニノミクマリ)
- 天之久比奢母智神(アメノクヒザモチ)/国之久比奢母智神(クニノクヒザモチ)
- 志那都比古神(シナツヒコ)/久久能智神(ククノチ)
- 大山津見神(オホヤマツミ)/鹿屋野比売神(カヤノヒメ)
「大山津見神と鹿屋野比売神の子」
- 天之狭土神(アメノサヅチ)/国之狭土神(クニノサヅチ)
- 天之狭霧神(アメノサギリ)/国之狭霧神(クニノサギリ)
- 天之闇戸神(アメノクラド)/国之闇戸神(クニノクラド)
- 大戸惑子神(オホトマトヒコ)/大戸惑女神(オホトマトヒメ)
- 鳥之石楠船神(トリノイハクスブネ)(別名:天鳥船(アメノトリフネ))
- 大宜都比売神(オホゲツヒメ)
- 火之夜藝速男神(ヒノヤギハヤヲ)(別名:火之炫毘古神(ヒノカガビコ)、火之迦具土神(ヒノカグツチ))
カグツチを出産したときイザナミは病気になりました。病に苦しむイザナミの吐瀉物などから次々と神が生まれました。
- (吐しゃ物)
- 金山毘古神(カナヤマビコ)
- 金山毘売神(カナヤマビメ)
- (大便)
- 波邇夜須毘古神(ハニヤスビコ)
- 波邇夜須毘売神(ハニヤスビメ)
- (尿)
- 彌都波能売神(ミツハノメ)
- 和久産巣日神(ワクムスビ)
「和久産巣日神の子」
- 豊宇気毘売神(トヨウケビメ)
火神被殺
イザナギはイザナミの死に嘆き悲しみ、涙から神がまた生まれました。
- 泣沢女神(ナキサワメ)
イザナギはイザナミを出雲国と伯伎国(伯耆国)の境にある比婆(ひば)の山に葬りました。
妻を失った怒りからイザナギはカグツチを十拳剣で切り殺します。
この剣に付着した血から神々が生まれました。
十拳剣の名前は天之尾羽張(アメノヲハバリ)(別名:伊都之尾羽張(イツノヲハバリ))
(十拳剣の先端からの血が岩石に落ちて生まれた三柱)
- 石折神(イハサク)
- 根折神(ネサク)
- 石筒之男神(イハツツノヲ)
(十拳剣の刀身の根本からの血が岩石に落ちて生まれた三柱)
- 甕速日神(ミカハヤヒ)
- 樋速日神(ヒハヤヒ)
- 建御雷之男神(タケミカヅチ)(別名:建布都神(タケフツ)、豊布都神(トヨフツ))
(十拳剣の柄からの血から生まれた二柱)
- 闇淤加美神(クラオカミ)
- 闇御津羽神(クラミツハ)
殺された迦具土神の体からも神々が生まれました。
- 正鹿山津見神(マサカヤマツミ)(頭)
- 淤縢山津見神(オドヤマツミ)(胸)
- 奥山津見神(オクヤマツミ)(腹)
- 闇山津見神(クラヤミツミ)(陰部)
- 志藝山津見神(シギヤマツミ)(左手)
- 羽山津見神(ハヤマツミ)(右手)
- 原山津見神(ハラヤマツミ)(左足)
- 戸山津見神(トヤマツミ)(右足)
黄泉の国
イザナギはイザナミを取り戻そうと黄泉国へ赴きました。
黄泉に着いたイザナギは、戸越しにイザナミに戻ってくるように懇願しますが、黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、生き返れないと言います。
黄泉の国のものを食べると、黄泉の住人になるとされていたので、帰れないのです。これを「黄泉竈食ひ(よもつへぐい)」といいます。
イザナミは黄泉神と相談するので、姿を見ないようにイザナギに告げますが、イザナギはなかなか戻ってこないため、自分の左の角髪(みずら)につけていた湯津津間櫛(ゆつつなくし)の歯を折って、火をともして中を見てしまいます。
するとイザナミには、体は腐って蛆がたかり、蛇の姿をした8柱の雷神(八雷神)がまとわりついていたのです。
(八雷神)
- 大雷(オホイカヅチ)(頭にある)
- 火雷(ホノイカヅチ)(胸にある)
- 黒雷(クロイカヅチ)(腹にある)
- 折雷(サクイカヅチ)(陰部にある)
- 若雷(ワカイカヅチ)(左手にある)
- 土雷(ツチイカヅチ)(右手にある)
- 鳴雷(ナルイカヅチ)(左足にある)
- 伏雷(フスイカヅチ)(右足にある)
驚いたイザナギは逃ましたが、イザナミは自分の醜い姿を見られたことを恥じて、黄泉醜女(ヨモツシコメ)や、8柱の雷神、黄泉軍に追わせました。
イザナギは十拳剣で振り払いながら逃げ、ようやく黄泉の国と地上の境である黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)の坂本に着きます。
イザナミが追いかけてきたので、イザナギは大岩で黄泉比良坂をふさぎました。
イザナミはこれから毎日、一日に千人ずつ殺そうと言い、イザナギは一日に千五百人生ませようと言いました。これが人間の生死の由来を表しています。
このときから、イザナミを黄泉津大神(ヨモツオホカミ)、また坂道を追いついたから道敷大神(チシキノオホカミ)とも呼ぶようになります。
禊祓と三貴子の誕生
イザナギは黄泉の穢れから身を清めるために、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)で禊を行いました。
衣を脱ぐと十二神が生まれます。
- 衝立船戸神(ツキタツフナト)(杖)
- 道之長乳歯神(ミチノナガチハ)(帯)
- 時量師神(トキハカシ)(袋)
- 和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシ)(衣)
- 道俣神(チマタ)(袴)
- 飽咋之宇斯能神(アキグヒノウシ)(冠)
- 奥疎神(オキザカル)(左手の腕輪)
- 奥津那芸佐毘古神(オクツナギサビコ)(左手の腕輪)
- 奥津甲斐弁羅神(オキツカヒベラ)(左手の腕輪)
- 辺疎神(ヘザカル)(右手の腕輪)
- 辺津那芸佐毘古神(ヘツナギサビコ)(右手の腕輪)
- 辺津甲斐弁羅神(ヘツカヒベラ)(右手の腕輪)
中流に潜って身を清めたとき、二神が生まれました。この二神は黄泉の穢れから生まれた神です。
- 八十禍津日神(ヤソマガツヒ)
- 大禍津日神(オホマガツヒ)
次に、その禍(まが)を直そうとすると三神が生まれました。
- 神直毘神(カムナオビ)
- 大直毘神(オホナオビ)
- 伊豆能売(イヅノメ)
水の底で身を清めると二神が生まれました。
- 底津綿津見神(ソコツワタツミ)
- 底筒之男神(ソコツツノヲ)
水の中程で身を清めると二神が生まれました。
- 中津綿津見神(ナカツワタツミ)
- 中筒之男神(ナカツツノヲ)
水の表面で身を清めると二神が生まれました。
- 上津綿津見神(ウハツワタツミ)
- 上筒之男神(ウハツツノヲ)
三貴子
- 左の目を洗うと生まれたのが、天照大御神(アマテラス)。
- 右の目を洗うと生まれたのが、月読命(ツクヨミ)。
- 鼻を洗うと生まれたのが、建速須佐之男命(スサノオ)。
イザナギは三柱の貴い子を得たことを喜びました。
アマテラスには高天原を委任しました。アマテラスの首飾りの玉を御倉板挙之神(ミクラタナ)といいます。
ツクヨミには夜の食国を、スサノオには海原を委任しました。
アマテラスとスサノオの誓約
イザナキはスサノオに海原の支配を命じましたが、スサノオはイザナミが恋しく、イザナミのいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫びます。
そんなスサノオをみてイザナキは怒って追放しました。
スサノオは、姉のアマテラスに会ってから根の国へ行こうと思い、高天原へ向かいますが、アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たと思い、武具を携えて迎えました。
スサノオはアマテラスの疑いを解くために、宇気比(誓約)をしようと言います。
二神は天の安河を挟んで誓約を行います。
アマテラスがスサノオの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の三柱の女神(宗像三女神)が生まれました。
- 多紀理毘売命(タギリビメ)(別名:奥津島比売命(オキツシマヒメ))…沖津宮に祀られる。
- 多岐都比売命(タギツヒメ)…中津宮に祀られる。
- 市寸島比売命(イチキシマヒメ)(別名:狭依毘売命(サヨリビメ))…辺津宮に祀られる。
スサノオが、アマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の五柱の男神が生まれました。
- 天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)(左のみづらに巻いている玉)
- 天之菩卑能命(アメノホヒ)(右のみづらに巻いている玉)
- 天津日子根命(アマツヒコネ)(かづらに巻いている玉)
- 活津日子根命(イクツヒコネ)(左手に巻いている玉)
- 熊野久須毘命(クマノクスビ)(右手に巻いている玉)
これによりスサノオは疑いを晴らしました。
天岩戸
誓約で身の潔白を証明したスサノオは、高天原に居座りますが、乱暴を働き、他の神々を困らせました。そして、事故が起きてしまい、アマテラスの天の服織女が死んでしまいます。
アマテラスは嘆き悲しみ天岩戸に引き篭ります。高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生しました。
八百万の神々が天の安河の川原に集まり、思金神(オモイカネ)の案により、さまざまな儀式をおこないました。
常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせましたが、アマテラスは姿を現しません。
そこで、鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命(イシコリドメ)に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八尺鏡(やたのかがみ)(三種の神器)を作らせました。また、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)(三種の神器)も作らせました。
そして、天児屋命(アメノコヤネ)と布刀玉命(フトダマ)を呼び占い(太占)をさせ、賢木(さかき)の枝に八尺瓊勾玉と八尺鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持ちます。アメノコヤネが祝詞を唱え、天手力男神(アメノタヂカラオ)が岩戸の脇に隠れて立ちました。
天宇受賣命(アメノウズメ)が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし踊ると、八百万の神が一斉に楽しそうに笑います。
アマテラスが何事かと天岩戸の扉を少し開けると、隠れていたアメノタヂカラオがアマテラスを外へ連れ出しました。そして、すぐにフトダマが注連縄を岩戸の入口に張りアマテラスが隠れられないようにしました。
八百万の神は相談し、ことの発端を起こしたスサノオに罪を償わせるために高天原から追放します。
出雲神話
ヤマタノオロチ
高天原を追放されたスサノオは、出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(奥出雲町鳥上)に降り立ちます。
箸が流れてきた川を上ると、美しい娘と老夫婦が泣いています。老夫婦は大山津見神(オオヤマツミ)の子の足名椎命(アシナヅチ)と手名椎命(テナヅチ)で、娘は櫛名田比売(クシナダヒメ)といいました。
夫婦には8人の娘がいましたが、年に一度、高志から八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまうといいます。
今年もヤマタノオロチの来る時期が近付いたため、最後に残った末娘のクシナダヒメも食べられてしまうというのです。
スサノオは、クシナダヒメとの結婚を条件にヤマタノオロチ退治を請け負います。
ヤマタノオロチがやって来ると、用意していた8つの酒桶に、8つの頭がそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出しました。やがて、ヤマタノオロチが酔って寝てしまうと、スサノオは十拳剣で切り刻みます。
このとき、尾の中から大刀が出てきました。
のちに、この大刀をアマテラスに献上しました。これが草那藝之大刀(天叢雲剣)(三種の神器)です。
スサノオはクシナダヒメと出雲の根之堅洲国(現・島根県安来市)の須賀の地へ行きました。
スサノオの子は数多くいます
- オオトシ(大年神)
- ウカノミタマ(宇迦之御魂神)
因幡の白兎
大穴牟遲神(オオナムヂ、後の大国主神)には兄弟(八十神)がいました。
八十神は稲羽の八上比賣(ヤガミヒメ)に求婚するため、稲羽(いなば)に出掛けます。八十神は大穴牟遲神に袋を持たせました。
「気多(けた)の前」に来たとき、裸の兎(アカハダノウサギ)が苦しんでいました。
兎は、八十神に嘘の治療法を教えられたのでした。その時に、オオナムヂが現れて何故泣いているのかと聞きます。
菟は隠岐の島から渡ろうとするときに、ワニザメ(和邇)を欺いたため、すっかり毛を剥がれてしまたのです。
オオナムヂが兎に正しい治し方を教えると、すぐに回復しました。これが、稲羽の素兎(しろうさぎ)です。
兎はオオナムヂがヤガミヒメを娶るだろうと予言しました。
八十神の迫害
オオナムヂが因幡国のヤガミヒメと結ばれたため、八十神はオオナムヂを恨みます。
オオナムヂは伯岐国の手前の山麓につれられて、八十神が猪に似た大石を火で焼いて転がし落とし、オオナムヂは石の火に焼かれて死んでしまいます。
オオナムヂの母親・刺国若比売(サシクニワカヒメ)は嘆き悲しみ高天原に上り、カミムスビに救いを求めます。
カミムスビが遣わしたキサガイヒメ(????貝比売)とウムギヒメ(蛤貝比売)によりオオナムヂは生き返ります。
次に、八十神は大木を切り倒して楔の割れ目で打ち殺してしまいます。母親はすぐに木を裂いて生き返らせます。
母親は八十神に滅ぼされてしまうと考え、木国の大屋毘古神(オオヤビコ)の所へ向かわせます。
オオヤビコの所まで八十神が追ってきてオオナムヂの引き渡しを求めました。ですが、オオヤビコはオオナムヂを逃がし、スサノオのいる根の堅州国に向かわせます。
根の国訪問
根の国のスサノオの家で、オオナムヂはスサノオの娘の須勢理毘売命(スセリビメ)と出会い、二柱は惹かれ合います。
スセリビメがスサノオにオオナムヂを紹介しますが、スサノオは醜男なので、葦原色許男神(アシハラシコヲ)と呼び、蛇の室に泊めた。
オオナムヂはスサノオから数々の試練を受けますが、スセリビメの助けもあり、潜り抜けます。
そしてスサノオが寝ている隙にスセリビメを連れて逃げます。気が付いたスサノオは二柱を追いかけますが、葦原中津国(地上)に通じる黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)で、オオナムヂに大刀と弓矢で従わない八十神を追い払えと言います。大国主(オオクニヌシ)の名を与えます。
オオクニヌシとなったオオナムヂは八十神を全て退けました。
そしてスセリビメを正妻にして、宇迦の山のふもとの岩の根に宮柱を立て、高天原に届く様な立派な千木(ちぎ)のある新宮を建てて住み、国づくりを始めました。
ヤガミヒメは本妻のスセリビメを恐れ、オオナムヂとの間に生んだ子を木の俣に刺し挟んで実家に帰ってしまいます。
大国主の妻問い
八千矛神(ヤチホコ、大国主の別名)は高志国の沼河比売(ヌナカワヒメ)をめとろうと出かけます。
妻のスセリビメが大変嫉妬し、困惑したヤチホコ(=オオクニヌシ)は出雲国から大和国に逃れる際にスセリビメに歌をよみます。
スセリビメも杯を捧げて留める歌を返しました。
大国主の国づくり
大国主が出雲の美保岬にいると、小さな神が天の羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って現れました。
カミムスビの子の少名毘古那神(スクナビコナ)でした。
オオクニヌシとスクナビコナは協力して葦原中国の国造りを行いました。ある程度、国造りのめどがたつと、スクナビコナは常世に去いきます。
オオクニヌシが途方に暮れていると、海を照らしてやって来る神がいました。
その神は、オオクニヌシの幸魂奇魂(サキミタマクシミタマ)で、大和国の東の山の上に丁重に祀られ国造りに協力してくれました。御諸山(三輪山)に鎮座する神(大物主)です。
国譲り
天忍穂耳命の派遣
アマテラスは葦原中国を子・正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(アメノオシホミミ)に治めさせるために天降りを命じましたが、手に負えないあきらめました。
天菩比命の派遣
そこで、タカミムスビとアマテラスは天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか相談しました。
オモイカネと神々が相談して天菩比命(アメノホヒ)を派遣することになりました。アメノホヒをオオクニヌシの元へ行かせましたが、オオクニヌシの家来となり3年たっても高天原に戻りませんでした。
天若日子の派遣と死
再び、タカミムスビとアマテラスが八百万の神々に派遣すべき神を相談しました。
天津国玉神の子・天若日子(アメノワカヒコ)に天之麻迦古弓(アメノマカコユミ)と天之羽々矢(アメノハハヤ)と与えて派遣することになりました。
しかし、アメノワカヒコはオオクニヌシの娘・下照比売(シタテルヒメ)と結婚し葦原中国の王になろうと考え、8年たっても高天原に戻りませんでした。
アマテラスは不審に思い雉名鳴女(キギシノナナキメ)を派遣してアメノワカヒコに戻らない理由を尋ねさせました。
アメノワカヒコは鳴女の胸を射抜き、矢はアマテラスと高木神(タカミムスビ)の所まで飛んで行きます。タカミムスビはアメノワカヒコが命令に背いているのなら当たれと念じて矢を下界に投げ返すと、矢はアメノワカヒコを射抜いて死んでしまいます。
建御雷神と天鳥船神の派遣・事代主神の服従
アマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと相談すると、オモイカネと八百万の神々は伊都尾羽張神(イツノオハバリ、天尾羽張神)か、その子・建御雷之男神(タケミカヅチ)を派遣するのが良いと言います。
イツノオハバリはタケミカヅチを遣わすべきと答えたので、タケミカヅチに天鳥船神(アメノトリフネ)を副えて葦原中国に遣わしました。
タケミカヅチとアメノトリフネは、出雲国の伊那佐之小浜に降り至って、十掬剣を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、オオクニヌシに国譲りを迫ります。
オオクニヌシは、自分だけでは決められないので、息子・八重事代主神(コトシロヌシ)に訊ねるよう伝えました。コトシロヌシはすぐに服従を申し出ます。
オオクニヌシはもう一人の息子の建御名方神(タケミナカタ)にも訊くように伝えました。タケミナカタがすぐには服従しなかったので、力競べをしようとなりました。
タケミカヅチの圧倒的な力にタケミナカタが逃げ出しました。タケミカヅチはタケミナカタを追いかけ、科野国の州羽の海で服従させました。
タケミナカタは出雲に戻り、オオクニヌシに再度訊ねると、オオクニヌシは国譲りを承諾します。タケミナカタは葦原中国を平定して高天原に戻ります。
オオクニヌシの子の数は古事記180柱、日本書紀181柱とされます。
- コトシロヌシ(事代主神)
- タケミナカタ(建御名方神)
天孫降臨
葦原中国が平定されたので、アマテラスとと高木神(タカミムスビ)は、子・天忍穂耳命(アメノオシホミミ)に葦原中国を治めさせようとしたが、アメノオシホミミは子・邇邇藝命(ニニギ)が生まれたので、ニニギに治めさせることにしました。
ニニギの天降りをしようとするときに、国津神の猿田毘古神(サルタヒコ)が先導のため迎えに来ました。
そして、ニニギの天降りに、天児屋命(アメノコヤネ)、布刀玉命(フトダマ)、天宇受売命(アメノウズメ)、伊斯許理度売命(イシコリドメ)、玉祖命(タマノオヤ)の五伴緒(イツトモノオ)が従うことになります。
ニニギは高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(クジフルタケ)に天降ります。
ニニギは笠沙の岬で大山津見神(オオヤマツミ)の子・神阿多都比売(別名:木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ))に会い求婚します。
コノハナノサクヤビメの父オオヤマツミに尋ねると大変喜び、姉の石長比売(イワナガヒメ)も差し出しましたが、イワナガヒメがとても醜かったので、ニニギはイワナガヒメを送り返し、コノハナノサクヤビメだけと結婚しました。
オオヤマツミはイワナガヒメが妻になればニニギの命は岩のように永遠のものとなと誓約(うけひ)したのですが、妻にしなかったため、ニニギの子孫には寿命があるのです。
山幸彦と海幸彦
ニニギの子・山幸彦(ホオリ)(火遠理命(古事記)、彦火火出見尊(日本書紀))と海幸彦(ホデリ)(火照命(古事記)・火闌降命(日本書紀))の兄弟が猟具を交換し、ホオリが魚釣りに出掛けます。
そころが、釣針を失くしてしまいます。困り果てていると、塩椎神(シオツチ)に教えられ、綿津見神宮(わたつみのかみのみや)に向かいます。
ホオリは海神の大綿津見神(ワタツミ)に歓迎され、娘・豊玉姫(豊玉毘売命、トヨタマヒメ)と結婚します。
3年たち、ホオリは地上へ帰ることにしました。ホオリは、トヨタマヒメから、失くした釣針と霊力のある玉・潮盈珠(しおみつたま)と潮乾珠(しおふるたま)を貰います。
妻のトヨタマヒメは子・鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)を産みます。ホオリは神武天皇の祖父にあたります。
人代の神話
初代 神武天皇(じんむてんのう)
- 神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこ)。
- 諱は彦火火出見(ひこほほでみ)、あるいは狭野(さぬ)。
- 天照大御神の五世孫
- 日向から大和国への東征を行い畝傍橿原宮(現在の奈良県)に都して、日本国を建国したとされます
神武天皇元年
神武天皇18年
- 香取神宮創建
欠史八代
神武天皇の死後、神武天皇が日向にいたときに生まれた子・手研耳命が反乱を起こしますが、弟神渟名川耳尊が制圧し、皇位を継ぎます。
綏靖天皇以下の8代の天皇(欠史八代)の事跡はほとんど伝わっていません。
- 第2代 綏靖天皇(すいぜいてんのう) 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
- 第3代 安寧天皇(あんねいてんのう) 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
- 第4代 懿徳天皇(いとくてんのう) 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
- 第5代 孝昭天皇(こうしょうてんのう) 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと) … 孝昭天皇3年に大宮氷川神社創建
- 第6代 孝安天皇(こうあんてんのう) 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
- 第7代 孝霊天皇(こうれいてんのう) 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
- 第8代 孝元天皇(こうげんてんのう) 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
- 第9代 開化天皇(かいかてんのう) 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと)
開化天皇28年
- 御間城尊(=崇神天皇)を皇太子とする。
開化天皇60年
- 崩御。享年115歳。
- 春日率川坂本陵(または坂上陵)に葬られた。
第10代 崇神天皇
- 治世時期は3世紀後半?
- 実在した可能性のある最初の天皇。
- 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)
崇神天皇元年
- 即位。
崇神天皇3年
- 磯城瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。
崇神天皇5年
- 疫病が流行
崇神天皇6年
- 疫病を鎮めるため、宮中に祀られていたアマテラスと倭大国魂神(大和大国魂神、ヤマトノオオクニタマノカミ)を皇居の外に移す
崇神天皇7年
- 大物主神(オオモノヌシ)が倭迹迹日百襲姫命(アマトトトヒモモソヒメノミコト)に託宣。
- 倭迹速神浅茅原目妙姫、大水口宿禰(穂積臣遠祖)、伊勢麻績君が同じ託宣を受ける
- 大田田根子を大物主神の神主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神の神主としたところ、疫病は終息。
崇神天皇10年
- 四道将軍(大彦命(オオビコ)、武渟川別命(タケヌナカワワケ)、吉備津彦命(キビツヒコ)、丹波道主命(タンバミチヌシ))派遣
- 武埴安彦の叛乱
崇神天皇11年
- 四道将軍が戎夷を従わせて帰参
崇神天皇12年
- 戸口を調査し、課役を科す
- 天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と称えられる
崇神天皇29年
- 活目命(=垂仁天皇)誕生
崇神天皇48年
- 活目命(=垂仁天皇)を皇太子とする
崇神天皇60年
- 飯入根(イイイリネ)が出雲の神宝を献上。
- 兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、皇軍に誅殺される。
崇神天皇62年
- 依網池を造成。
- 苅坂池と反折池を造成。
崇神天皇65年
- 任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢
崇神天皇68年
- 崩御。享年120才(「古事記」享年168才)。
第11代 垂仁天皇
3世紀後半から4世紀前半ごろの大王。
垂仁天皇元年
- 即位。
- 山邊道勾岡上陵に崇神天皇が葬られた。
垂仁天皇2年
- 蘇那曷叱知が任那に帰国。
- 新羅に下賜品を奪われる。
- 狭穂姫命を立后
- 纒向に遷都。
垂仁天皇3年
- 新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝。
- 富士山本宮浅間大社創建
垂仁天皇5年
- 皇后の兄・狭穂彦王が叛乱を起こす
- 皇后は兄に従って焼死
垂仁天皇7年
- 野見宿禰が当麻蹴速と相撲をとり、蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
垂仁天皇15年
- 丹波道主王の女たちを後宮に入れる
- 後宮に入れた丹波道主王の女たちから日葉酢媛命を皇后とする
垂仁天皇17年
- 大足彦尊(=景行天皇)誕生
垂仁天皇25年
- 天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す(元伊勢伝承)。
- 猿田神社(千葉県銚子市)創建
垂仁天皇27年
- 諸神社に武器を献納し神地・神戸を定める
- 来目(奈良県橿原市久米町)に初めて屯倉を興す
垂仁天皇28年
- 殉死の禁令
垂仁天皇32年
- 日葉酢媛命が薨去
- 野見宿禰の進言に従い、殉死の風習に替えて埴輪を埋納(埴輪の起源説話)
垂仁天皇37年
- 大足彦尊(=景行天皇)を皇太子とする。
垂仁天皇39年
- 五十瓊敷入彦命が剣千振を作り石上神宮に納める
- 五十瓊敷命に命じて、石上神宮の神宝を掌らせる
垂仁天皇90年
- 天日槍の玄孫の田道間守に命じて常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる
垂仁天皇99年
- 崩御。140歳(「古事記」では153歳、「大日本史」では139歳)。
- 菅原伏見陵に葬られた
第12代 景行天皇
4世紀前期から中期の大王。
景行天皇元年
- 即位
景行天皇2年
- 播磨稲日大郎姫を立后
景行天皇4年
- 美濃国に行幸
- 泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市)に滞在
- 八坂入媛命を妃とする
- 大碓命が美濃の美人と密通
- 纒向日代宮に遷都
景行天皇12年
- 熊襲が背き朝貢せず
- 筑紫に親征開始
- 周防国佐波郡で四人の首長を征伐、豊前国京都郡へ
- 豊後国の來田見邑で土蜘蛛征伐
- 日向国へ。仮宮として高屋宮を造営
- 熊襲梟師を征伐
景行天皇13年
- 襲国平定
景行天皇14年
- 稚足彦尊(=成務天皇)誕生
景行天皇17年
- 御刀媛を娶る。子孫は日向国造となる
- 襲国を日向国と名付け、思邦歌を歌う
景行天皇18年
- 夷守(宮崎県小林市)へ
- 熊縣(熊本県人吉市)で弟熊を征伐、葦北(熊本県水俣市)へ
- 八代県(熊本県八代市)の豊村へ。国を火国と名付ける。
- 高来県(長崎県島原市)、玉杵名邑(熊本県玉名市)を経て阿蘇国へ
- 筑紫後国の御木(福岡県大牟田市)、八女県(福岡県八女市)へ
- 的邑(福岡県うきは市)へ
景行天皇19年
- 帰国
景行天皇20年
- 五百野皇女に天照大神を祀らせる
景行天皇25年
- 武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させる。
景行天皇27年
- 武内宿禰が帰還。蝦夷の存在と土地を報告
- 熊襲が再叛
- 小碓尊が熊襲征伐に出発
- 小碓尊が熊襲の川上梟師を暗殺、以後日本武尊と名乗る
景行天皇28年
- 日本武尊が帰国
景行天皇40年
- 大碓皇子に東国遠征を命じるが拒絶、代わりに美濃に封じる
- 日本武尊が東国遠征に出発
- 玉崎神社創建
- 意富比神社(通称・船橋大神宮)創建
- 北口本宮冨士浅間神社創建
景行天皇42年
景行天皇43年
- 日本武尊が帰国中に伊勢国能褒野で病没
- 白鳥陵に葬り武部(たけるべ)を定める
景行天皇51年
- 稚足彦尊(=成務天皇)を立太子
- 佐伯部を定め日本武尊が連れ帰った蝦夷を諸国に送る
景行天皇52年
- 皇后崩御
- 八坂入媛命を立后
景行天皇53年
- 日本武尊を追慕し東国巡幸。伊勢国を経て東国へ
- 上総国の淡水門へ
- 伊勢の綺宮へ戻る
景行天皇54年
- 帰国
景行天皇55年
- 彦狭島王が東国へ赴任。途上の春日穴咋邑で死去、上野国で葬られる
景行天皇56年
- 彦狭島王の子の御諸別王が東国へ赴任
景行天皇57年
- 坂手池を造成
- 田部屯倉を興す
景行天皇58年
- 近江国に行幸
- 志賀高穴穂宮に3年滞在
景行天皇60年
- 崩御。享年は106歳(「古事記」では137歳)
第13代 成務天皇
日本で初めて行政区画を定めたとされます。
4世紀中ごろに在位した大王。
成務天皇元年
- 志賀高穴穂宮で即位
成務天皇2年
- 景行天皇が山邊道上陵に葬られた
成務天皇3年
- 武内宿禰を大臣に任じる
成務天皇4年
- 国郡に首長を任ずる詔を出す
成務天皇5年
- 前年の詔を実施
- 国郡・県邑それぞれに国造・稲置を置き、山河をもって国境とする
成務天皇48年
- 足仲彦尊(=仲哀天皇)を立太子
成務天皇60年
- 崩御、享年は107歳(「古事記」では95歳)
成務天皇60年の翌年(空位年)
- 狹城盾列池後陵に斂葬
第14代 仲哀天皇
日本武尊の子で神功皇后の夫。
仲哀天皇元年
- 即位
- 父の日本武尊を忍び白鳥を献上させる
仲哀天皇2年
- 氣長足姫尊を立后
- 角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。淡路に屯倉を設ける
- 紀伊国の德勒津宮(ところつのみや)へ。同地で熊襲再叛の報を聞き親征開始。
- 穴門の豊浦津へ
仲哀天皇8年
- 筑紫の橿日宮へ
- 皇后が神がかり渡海遠征するよう託宣。無視して熊襲と闘い敗北
仲哀天皇9年
- 崩御。享年は52歳(「古事記」も同じ)
- 譽田別尊(=応神天皇)誕生
神功皇后摂政元年
- 穴門の豊浦宮に移動して天皇の殯を行い、京へと向かう
- 畿内で天皇の第二皇子忍熊王との戦争、勝利
- 摂政に就任
神功皇后摂政2年
- 仲哀天皇が惠我長野西陵に葬られた
神功皇后摂政3年
- 譽田別尊(=応神天皇)を太子に立て、磐余若桜宮に遷都
神功皇后摂政5年
- 新羅からの人質だった微叱己知が本国に逃げ帰る
神功皇后摂政13年
- 譽田別尊が武内宿禰と笥飯大神に参拝
神功皇后摂政46年
- 斯摩宿禰を卓淳国(大邱)に派遣
- 斯摩宿禰が従者を百済の肖古王に派遣
神功皇后摂政47年
- 新羅、百済の朝貢
- 百済の使者である久氐が新羅に貢物を奪われたと訴える
神功皇后摂政49年
- 久氐に荒田別を付けて新羅を征伐
神功皇后摂政50年
- 荒田別が復命
- 千熊長彦に伴われて久氐が来朝
神功皇后摂政51年
- 百済の朝貢使として久氐が来朝
神功皇后摂政52年
- 久氐が来朝、七枝刀一口・七子鏡一面・及び種々の重宝を献上
神功皇后摂政57年
- 大鷦鷯尊(=仁徳天皇)誕生
神功皇后摂政62年
- 葛城襲津彦を派遣して新羅を征伐
神功皇后摂政69年
- 皇后崩御。享年は100歳(「古事記」も同じ)
- 狹城盾列池上陵に葬られる
第15代 応神天皇
4世紀後半。譽田天皇。八幡神として神格化。
応神天皇年間に息栖神社創建
応神天皇元年
- 即位
応神天皇2年
- 仲姫命を立后
応神天皇3年
- 蝦夷に厩坂道を作らせる
- 阿曇連の祖の大濱宿禰に海人を平定させる
応神天皇5年
- 海人部と山守部を定める
- 伊豆国に長さ十丈の船を造らせ、これを枯野と名付ける
応神天皇9年
- 武内宿禰が筑紫を観察。弟の甘美内宿禰が兄を廃しようと讒言
応神天皇13年
- 美人と名高い日向の髪長媛を呼び寄せる
- 来朝した髪長媛を大鷦鷯尊(=仁徳天皇)に譲る
応神天皇14年
- 百済が絹衣工女を献上
- 秦氏の祖の弓月君が来朝を希望したので葛城襲津彦を派遣
応神天皇15年
- 百済が阿直岐を派遣して馬を献上
応神天皇16年
- 阿直岐の紹介で王仁が来朝
- 数々の典籍を伝え、阿直岐と共に菟道稚郎子(後に皇太子となる)の師となる
- 平群木菟と的戸田を派遣、弓月君を来朝させ葛城襲津彦を連れ戻す
応神天皇19年
- 吉野に行幸
- 倭漢直の祖の阿知使主・都加使主が来朝
応神天皇20年
- 麻賀多神社(船形社)の創建
応神天皇22年
- 難波の大隅宮へ行幸
- 妃の兄媛を実家の吉備に返す
- 難波から淡路島、吉備へ行幸
- 兄媛の兄弟と甥たちに吉備の統治権を与える
応神天皇28年
- 高麗から遣使
応神天皇40年
- 弟の菟道稚郎子の立太子について兄の大山守皇子と共に応神天皇から相談を受ける
応神天皇41年
- 崩御。111歳(「古事記」では130歳)
- 阿知使主・都加使主が帰国
- 大山守皇子の反乱
- 菟道稚郎子と皇位の譲り合い
応神天皇43年(空位三年目)
- 菟道稚郎子が薨去。菟道の山の上の陵に葬る
第16代 仁徳天皇
4世紀末から5世紀前半
仁徳天皇元年
- 即位
- 難波高津宮に遷都
仁徳天皇2年
- 葛城磐之媛を立后
仁徳天皇4年
- 人家の煙が無いことに気づき、三年間の課税停止を宣言
仁徳天皇7年
- 課税停止を続行
仁徳天皇10年
- 課役再開、宮殿再建
仁徳天皇12年
- 高麗の朝貢
仁徳天皇30年
- 異母妹の八田皇女を妃にしたため、皇后が山背の筒城岡に別居
仁徳天皇31年
- 去来穗別尊(=履中天皇)を立太子
仁徳天皇35年
- 皇后崩御
仁徳天皇38年
- 八田皇女を立后
仁徳天皇40年
- 雌鳥皇女と隼別皇子の反乱
仁徳天皇53年
- 上毛野竹葉瀬と田道の兄弟に新羅征伐を命じる
仁徳天皇55年
- 上毛野田道に蝦夷征伐を命じる
仁徳天皇58年
- 呉と高麗が朝貢。
仁徳天皇67年
- 陵墓地を定め百舌鳥耳原と名付ける
仁徳天皇87年
- 崩御。110歳(「古事記」では83歳)
- 住吉仲皇子の反乱
第17代 履中天皇
5世紀前半
履中天皇元年
- 即位
- 葛城黒媛を立后
履中天皇2年
- 弟の瑞歯別皇子(=反正天皇)を立太子
- 磐余に遷都
履中天皇3年
- 都を稚桜宮と名付ける
履中天皇4年
- 諸国に国史(ふみひと)を派遣
履中天皇5年
- 筑紫三神の祟りで皇后崩御
- 皇后を埋葬
- 筑紫からの徴税を中止
履中天皇6年
- 草香幡梭皇女を立后、蔵職と蔵部を興す
- 讃岐国造の鷲住王を呼び寄せようとするが無視される
- 崩御
- 百舌鳥耳原陵に葬られる
第18代 反正天皇
兄弟継承した初の天皇
5世紀前半
反正天皇元年
- 即位。
- 津野姫(大宅臣祖・木事の娘)を皇夫人とする
- 丹比柴籬宮に遷都
反正天皇5年
- 崩御
- 允恭天皇が群臣達に天皇として推挙される
第19代 允恭天皇
5世紀前半
允恭天皇元年
- 即位
允恭天皇3年
- 新羅から医者を招聘、天皇の病気を治療
允恭天皇4年
- 諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施
允恭天皇5年
- 葛城玉田宿禰の叛意が露顕し、これを誅殺
- 反正天皇が百舌鳥耳原陵に葬られる
允恭天皇7年
- 皇后の妹の弟姫(衣通郎姫)が入内、藤原宮に住まわせる
允恭天皇23年
- 木梨軽皇子を立太子
允恭天皇42年
- 崩御。78歳(「古事記」では80歳)
- 河内長野原陵に葬られる
- 新羅王から弔使が送られる
- 兄の木梨軽皇子が廃太子され自害、伊予に流されたとも言われる
- 安康天皇即位。石上穴穂宮に遷都
第20代 安康天皇
殺害されたと明確に記された最初の天皇
安康天皇元年
- 根使主の讒言を信じ大草香皇子を誅殺
安康天皇2年
- 大草香皇子の妻であった中蒂姫を立后
安康天皇3年
- 安康天皇が皇后と大草香皇子の子である眉輪王に殺害される
第21代 雄略天皇
5世紀末頃
仁徳天皇の孫
雄略天皇元年
- 即位
- 安康天皇の暗殺を疑い、多くの皇子を殺害
雄略天皇2年
- 百濟の池津媛を石川楯と通じた罪により処刑。
- 百済蓋鹵王即位し、百済が美女を送る
雄略天皇3年
- 安康天皇が菅原伏見陵に葬られる
- 皇女が流言により自殺
雄略天皇7年
- 吉備下道前津屋の乱
- 吉備上道臣田狭を任那国司に任命する
雄略天皇8年
- 呉に使いを出す
- 新羅が任那に救援要請し、新羅を救援する
雄略天皇9年
- 新羅が貢物を送らず、高麗の貢物を邪魔し百済の城を取るため、新羅を攻める
雄略天皇13年
- 文石小麻呂を攻める
雄略天皇14年
- 根使主の讒言が発覚
- 身狹村主靑らが呉國の使と共に、呉の獻った手先の工人、漢織・呉織及び衣縫兄媛・弟媛等を率いてもどる
雄略天皇15年
- 秦氏重用
雄略天皇18年
- 伊勢朝日郎を征伐する
雄略天皇20年
- 高麗王が百済を滅ぼす
雄略天皇22年
- 白髮皇子をを立太子
雄略天皇23年
- 百濟の文斤王、亡くなる
- 天皇崩御
- 星川皇子の乱(吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠するが、大伴室屋・東漢直掬ら誅される)
第22代 清寧天皇
后妃なし、皇子女なし
清寧天皇元年
- 即位
清寧天皇2年
- 市辺押磐皇子の子・億計王(=仁賢天皇)・弘計王(=顕宗天皇)兄弟を播磨で発見
- 勅使を立てて明石に迎えさせる
清寧天皇3年
- 億計王を東宮に、弘計王を皇子とする
清寧天皇5年
- 崩御。41歳(もしくは39歳)
飯豊青皇女が執政
- 皇太子の億計は弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否する
- 皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政
第23代 顕宗天皇
皇子女なし
顕宗天皇元年
- 即位
- 引き続き億計が皇太子を務める
顕宗天皇3年
- 崩御。古事記で38歳(「一代要記」で48歳)
第24代 仁賢天皇
顕宗天皇の同母兄
仁賢天皇元年
- 即位
仁賢天皇3年
- 石上部(いそのかみべ)舎人を置く
仁賢天皇5年
- 佐伯造(さえきのみやつこ)を置く
仁賢天皇6年
- 高麗(こま)へ日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招く
仁賢天皇7年
- 小泊瀬稚鷦鷯尊(=武烈天皇)を皇太子に定める
仁賢天皇11年
- 崩御。「水鏡」で50歳、「帝王編年記」で51歳
- 大臣の平群真鳥が国政をほしいままにし、大伴金村などの反感を買う
第25代 武烈天皇
暴君として伝えられています。「日本書紀」には天皇による悪逆非道の記述がありますが、「古事記」には一切見られません。
武烈天皇元年
- 物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子平群鮪(へぐりのしび)と通じていた
- 大伴金村に鮪を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させる
- 真鳥大臣を討伐する
- 即位
- 泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とする
武烈天皇8年
- 崩御。「扶桑略記」「水鏡」などでは18歳。
- 仁徳天皇からの皇統が途絶える