慶長5年(1600)年頃の人口推計は全国で12,273,000人程度とみられています。
ファリス氏は1500〜1700万人、鬼頭教授は1400〜1500万人としています。1721年には3128万人になったとすると江戸時代前期の121年間で人口が倍に増加したことになります。
江戸幕府の成立
天正18(1590)年、豊臣秀吉による小田原・北条氏攻めのあと、徳川家康は豊臣秀吉から関東の地約250万石を与えられ、江戸に移りました。
家康は江戸城の拡大・整備、神田上水を引くなど町づくりを進めました。
秀吉の死後、家康は次第に実権を握るようになります。
秀吉の恩を受けた五奉行の石田三成は小西行長らとはかり、毛利輝元を盟主として家康をしりぞけるための兵を起こしますが、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで敗れます。
関ヶ原の戦いは、実質的には徳川家康の天下取りの戦いでしたが、名分のうえでは豊臣五大老の一人として石田三成らを誅伐する戦いであり、豊臣氏と徳川氏の戦いではありませんでした。
石田三成方についた大名は処刑されたり、領地を没収したり削減されたりしました。豊臣秀吉の子・秀頼も領土を減らされ、一大名となります。
豊臣氏の蔵入地は実質的には60万石に減らされ、家康が論功行賞にあてた石高は783万石にのぼり、当時の日本全体の石高の約42%にあたりました。徳川氏は新たに159万石が蔵入地になりました。
関ヶ原の戦いののち、徳川家康は国内統治を進めます。
1600年の時点では徳川家康は1大名でしたが、1603年に江戸幕府が成立すると、秀吉の直轄地を豊臣家の財産ではなく、武家政権の財産とみなして幕府に接収して行きました。そのため、豊臣秀頼は1大名になります。
関ヶ原の合戦は豊臣対徳川の戦いではなく、豊臣政権内での戦いでした。徳川家康は豊臣政権の代表者として振る舞うことで覇権を握りました。
慶長8(1603)年、征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。260年続く時代を江戸時代と呼びます。
徳川家康は2年で将軍職を子の秀忠に譲りますが、自らは大御所として政治の実権を握りました。
家康は大坂城の豊臣秀頼に不安を感じ、方広寺の鐘銘事件をきっかけに、2度の大坂の役(大阪冬の陣・夏の陣)を起こし、元和元(1615)年、豊臣氏を滅ぼしました。
こうして「元和偃武」と呼ばれる平和の時代が到来します。
朝廷との関係
貿易重視策のもとでキリスト教の布教は黙認されてきましたが、慶長18年、伴天連追放が宣言されます。「大追放」と呼ばれる幕府によるキリシタン禁圧の本格化を示したものになりました。
慶長14年。後陽成天皇に仕える官女と若公家衆との密通が露見し、処罰が家康に委ねられます。この一件を通して家康は武家の手を朝廷奥深くまで入り込ませることに成功します。
慶長18年にいわゆる紫衣法度と五か条の公家衆法度を出します。天皇を介することなく公家衆に出されたもので、最終的には武家が公家を処罰する事を宣言しました。
寛永4年に幕府と朝廷の関係が揺らぎます。紫衣事件です。
禅僧への紫衣・上人号の勅許が家康の定めた法度に違反するとして勅許の無効を命じたのです。幕府法度が天皇の意志に優越することを再確認させる出来事でした。
これに対して後水尾天皇は譲位をします。後水尾天皇の突然の譲位は幕府にとっては痛烈な一撃でしたが、この機会をとらえて朝廷のあり方や院の行動に制限を加えるなどしました。
幕藩体制
江戸幕府の制度は3代目の徳川家光の時代までにはほぼ整いました。
対外的にはいわゆる鎖国体制が固まります。
できあがった国家・社会の仕組みは、将軍と大名が領主権をもって人と土地を支配しましたので、幕藩体制と呼ばれます。
日本の近世国家の本質は幕府と藩の連合国家と見ることができます。幕府と藩という領主権力の結合によって統治するあり方を幕藩体制といい、幕藩体制に基づく国家を幕藩制国家と呼びます。
同じ武家政権でも室町幕府以前と江戸幕府とでは政治機構のあり方がまるで違いました。
領地がここの武士の家の独自財産として存在していた中世社会から、上から給付されるものとみる近世社会へに大きな変化でした。
江戸幕府の成立以後、改易と転封が繰り返され、誰もが認める観念となり、領地は大名の財産ではなく、国の民を養うために大名がいるという観念に発展します。
将軍は直属の家臣団をかかえ、諸大名をはるかにしのぐ軍事力をもっていました。
- 旗本(1万石未満で、将軍に謁見できました。約5000人)
- 御家人(将軍に謁見ができませんでした。約1万7千人)
財力面でも天領(幕府直轄地)が17世紀末には400万石に達していました。このほかに、江戸、京都、大坂、長崎などの重要都市、佐渡、伊豆、但馬生野、岩見大森などの金・銀山を直轄にして貨幣の鋳造権を握りました。
主な役職は2名以上で月番交代で政務をとらせて、権力の独占ができにくいようにしていました。
- 老中・若年寄などの要職…譜代大名
- 町奉行・勘定奉行など…旗本
大名
1万石以上を大名と呼び、大名が支配する組織・領域を藩と呼びます。
寛永12年に改訂された武家諸法度により1万石以上を大名とし、未満を旗本とする区分がほぼ確定します。
大名は徳川御三家などの徳川一門の親藩、はじめから徳川家臣だった譜代、関ヶ原の戦い前後に臣従した外様に分かれていました。
譜代は関ヶ原の戦い以前は37家にすぎませんでしたが、幕末までには145家までになります。そして、譜代は大老、老中、若年寄などの重職に任じられました。
大名の総数は200人足らずでしたが、中期以降は260~270人になりました。
独自の支配を進めていましたので、幕府は大名の配置に気を配りました。特に外様大名を警戒します。
武家諸法度
元和元(1615)年、豊臣氏が滅んだ年、幕府は大名の居城を一つに限る一国一城令をだし、本城を除くすべての支城を破壊させました。
一国一城令は諸大名の軍事力削減を目的としたとされてきましたが、この政策は大名の有力家臣による城郭を否定し、大名による城郭独占を意味し、大名の権限の強化につながりました。
さらに、徳川家康は金地院崇伝らに命じて起草させた、武家諸法度を定め、大名を厳しく統制しました。
武家諸法度に違反すると、改易(領地没収)、減封(領地削減)、転封(国替)などの処分が行われました。
禁じられていたこと
- 新しく城を築くこと
- 大船を建造すること
- 将軍の許可なく大名同士での婚姻を結ぶこと
武家諸法度における最後の条目である大名城郭に関する規定と政務の器用を撰ぶべしとする内容は、幕府が大名の改易や領内支配に介入する根拠となりました。
参勤交代制
武家諸法度は少しずつあらためられ、3代目の徳川家光の時に参勤交代制が加えられます。
参勤交代制では原則として1年おきに1年江戸にとどまり、妻子は人質として江戸に住むことになりました。
軍役として石高に応じて一定の兵馬を用意し、江戸に屋敷を構えて家臣を常駐させなければならず、領国との往復など、財政上の負担が大きくなりました。
大名は莫大な出費を余儀なくされましたが、街道筋の宿場がにぎわい、交通が発展しました。
また、一定の軍事力が江戸に集結することから、武士階級が持つ強大な軍事力を誇示する役割の一端を担いました。
禁中並公家諸法度
朝廷や寺社も幕府の統制下におかれました。
皇室の領地(禁裏御料)は少なく、元和元(1615)年、禁中並公家諸法度で天皇・公家の行動に規制を加えました。
史上初めて天皇の行動を規制したもので、幕末に至るまで幕府の朝廷支配のもっとも重要な法となります。
京都所司代が監視していましたので、朝廷の政治活動は幕末に至るまでほとんどできませんでした。
寺社も寺社奉行により厳しく統制されます。宗派ごとの本山・末寺の組織をつくらせ、寺院法度を定めて規制します。
キリスト教禁教策の一つとして、寺請制度を設け、すべての人々をいずれかの寺の檀家とし、寺にその証明をさせることにします。いちど定めた寺院を変えることはゆるされませんでした。
寺院の宗教活動は乏しくなり、檀家の葬儀や供養を主とするようになります。
身分制度(士農工商)
近世では村が最小の行政単位でした。中世の村でも農民は祭りや共同作業をつうじて強く結ばれていました。
近世では村民は入会地や用水を共同利用し、田植え、稲刈り、屋根葺き、井戸がえなどのときには、結(ゆい)、もやいなどとよばれる共同作業を行いました。
村の規模は数十戸から百戸前後が多く、灌漑施設や山林などを共有していることが多かったです。
領主は村に名主(庄屋、肝煎)、組頭、百姓代などの村方三役(村役人)をおいて、領主の命令を農民に伝えさせ、年貢米の納入や戸籍など事務をさせました。
村民は五人組と呼ばれる組合を作り、互いを助け合いましたが、年貢の納入の遅れや、犯罪者などが出た場合は、連帯責任をとらされました。
村の秩序をみだす者には村民の協議で村八分などの制裁が加えられました。
村民には、田畑や屋敷を持つ本百姓、他人の田畑を借りて小作で生活する水呑百姓、本百姓に隷属する名子・被官などがいました。
税は田畑と屋敷にかけられる本年貢(本途物成)のほか、山林や副業に課せられる雑税(小物成)などがありました。
宿駅に近い村々には人馬を出す助郷役が課せられました。
幕府は本百姓の維持をはかり、1町歩(約1ヘクタール)の田畑を持つ農民を標準とし、小規模な農民にならないようにする政策をとりました。
- 寛永20(1643)年、田畑永代売買の禁令
- 延宝元(1673)年、分地制限令(分家の制限)
農民の衣食住にも細かい制限を加えました(慶安の御触書)。
身分
近世の社会には武士と農民・職人・商人の別に分けられ、武士は最上位に置かれて苗字・帯刀の特権を許されました。幕府は近世を通じて身分秩序が動かせないものと人々に思い込ませました。
また、近世社会では多くのことが家の単位で考えられていました。相続は通常男性に限られ、男尊女卑の風が強かった時代でした。
離婚したい女性には鎌倉松ヶ丘の東慶寺、上野徳川の満徳寺などへ逃げ込み一定期間すぎると離縁が認められました。
鎖国・対外政策
オランダ・イギリス:慶長5(1600)年、豊後にオランダ船リーフデ号が漂着すると、徳川家康はオランダ人ヤン=ヨーステン、イギリス人ウィリアム=アダムス(三浦按針)を江戸に招いて外交・貿易の顧問としました。
オランダ人、イギリス人は平戸商館の開設と自由な貿易が許されます。ポルトガル人やスペイン人は南蛮人と呼ばれ、オランダ人やイギリス人は紅毛人と呼ばれました。
寛永10年に出された条目は第一次鎖国令といわれてきましたが、鎖国令とするのは必ずしも適切ではありませんでした。内容の多くは従来の政策を確認するものだったからです。
寛永11年に出された肥前国長崎への三か条の禁制は、伴天連の日本渡航禁止、武具輸出の禁止、奉書船制度の確認と日本人の異国渡海禁止を定めたもので、鎖国の基本的な構成要素を備えていました。政策の周知がなされた点でも、この禁制は鎖国令と呼ぶに値しました。
1970年台半ば以降の研究で鎖国を東アジア史、東アジア世界のなかに位置づけることが強調され、豊かな鎖国像が描かれるようになりました。
しかし鎖国という外交体制はキリシタンとの対峙を重要な要素としていたことは見逃せません。
国別等への対応
スペイン
スペインに対しても貿易の振興を図り、スペイン領メキシコ(ノビスパン)に京都の商人の田中勝介を派遣しました。
仙台藩主の伊達政宗は、慶長遣欧使節と呼ばれる、支倉常長をスペインに派遣し、メキシコとの直接貿易を目指しましたが失敗しました。
ポルトガル
ポルトガル商人はマカオを拠点として中国の生糸を長崎にもたらして利益を得ていましたが、慶長9(1604)年に糸割符制度を導入して生糸の輸入を統制し始めます。
これにより糸割符仲間と呼ばれる特定の商人が利益をえました。
海外交易
海外と交易する商人には朱印状を与えて、船は朱印船として海賊船でないことを証明しました。
島津氏ら九州の大名や、長崎、京都の商人は朱印船で貿易を行い、生糸、絹織物、砂糖、鹿皮、鮫皮などを輸入し、銀、銅、鉄などを輸出しました。
海外発展も盛んとなり、東南アジアの各地に日本町と呼ばれる自治の町ができました。中には山田長政のようにシャム(タイ)のアユタヤ朝の王室に重く用いられた者もいました。
朝鮮
慶長14(1609)年、朝鮮との国交回復も実現させます。対馬藩主の宗氏が朝鮮と己酉約定を結びました。将軍の代替わりの際には、朝鮮から慶賀の使節(通信使)が来るようになります。
琉球
慶長14(1609)年、薩摩の島津氏が出兵して支配下におきます。名目上は明の朝貢国とし、琉球を通じて明・清の産物を得ていました。
キリスト教政策
慶長18(1613)年、徳川家康は全国的にキリスト教禁止令を出しました。元大名の高山右近らはマニラなどに追放されます。
禁教政策が強められたのは、オランダ人やイギリス人を通じて、スペインやポルトガルの植民地政策の危険性を聞いたからでした。
キリスト教禁止に伴って、海外貿易も徐々に制限されます。イギリスがオランダとの貿易競争に負けて平戸の商館を閉じると、寛永元(1624)年、スペインとの関係を断ち切ります。
寛永10(1633)年、海外渡航にも制限を加え、朱印状のほかに老中奉書という別の許可状を受けた奉書船に限られるようになります。
寛永12(1635)年には日本人の海外渡航と国外にいる日本人の帰国の両方が全面的に禁止されました。
島原の乱
鎖国政策が強化されていく中、寛永14(1637)年、九州で島原の乱がおきました。
島原・天草地方には多くにキリスト教徒がいましたが、徹底した禁教政策と厳しい年貢の取り立てのため、農民は天草四郎時貞を総大将として一揆を起こします。一揆は島原半島の原城跡で行われ、半年近く幕府軍と戦いました。
島原の乱の後、幕府は禁教政策をさらに厳しくし、寛永16(1639)年、ポルトガル船の来航を禁止します。
キリスト教禁止を徹底するため、信徒の多かった九州北部などで絵踏を行わせました。全国的には寺請制度を設け、宗門改めを実施し、キリスト教に対して監視を続けました。
長崎の出島
日本に来る外国船は朝鮮、琉球、オランダ、中国のみとなり、来航地も長崎だけとなります。
平戸のオランダ商館は長崎の出島に移され、幕府は出島を窓口としてヨーロッパ文化などを吸収しました。
オランダ船が来るたびに商館長が提出するオランダ風説書により、海外事情を知ることができました。
中国からも来航が続き、生糸をはじめとする輸入額が増え続けたため、しだいに制限を加えるようになり、元禄元(1688)年、中国人も居住区を唐人屋敷だけになりました。
寛永の大飢饉
寛永15年頃から九州で牛疫の被害がでて、蝦夷駒ヶ岳の噴火で津軽では大凶作となり多くの餓死者が出ました。
寛永19年になると関東、信濃、西国も飢饉と言われるようになります。
飢饉の被害が拡大していくなか、倹約を中心とした幕府の飢饉対策は百姓成り立ちへ展開します。
田畑永代売買禁止令は独立した法令ではなく、寛永20年に出された飢饉対策のための二つの郷村仕置定のそれぞれの一か条にすぎませんでした。
また田畑永代売買禁止令は全国を対象にしたものではなく、極めて限定的でしたが、貞享4年に全国令になります。
1990年代までの教科書には「慶安御触書」が取り上げられていましたが、現在は教科書から姿を消すか、「百姓への御触書」「百姓の生活心得」と表現を変えて使われています。
近年の研究で慶安御触書を慶安2年に幕府が出したものとすることは許されなくなっています。
寛永文化
参考文献
テーマ別日本史
政治史
- 縄文時代と弥生時代
- 古墳時代から大和王権の成立まで
- 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
- 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
- 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
- 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
- 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
- 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
- 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
- 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
- 鎌倉時代(惣領制の成立)
- 鎌倉時代(蒙古襲来)
- 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
- 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
- 室町時代(下剋上の社会)
- 室町時代(戦国時代)
- 安土桃山時代
- 江戸時代(幕府開設時期) 本ページ
- 江戸時代(幕府の安定時代)
- 江戸時代(幕藩体制の動揺)
- 江戸時代(幕末)
- 明治時代(明治維新)
- 明治時代(西南戦争から帝国議会)