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江戸城の「大奥」は、どのようなところだったのか

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江戸時代については下記にてまとめています。

  1. 江戸時代(幕府開設時期)
  2. 江戸時代(幕府の安定時代)
  3. 江戸時代(幕藩体制の動揺)
  4. 江戸時代(幕末)

大奥について

「大奥」は諸大名の奥向を指すこともあるのですが、いつの間にか将軍家(柳営)の奥向のみを指すという間違った認識が形成されていったようです。

御三家の尾張徳川家や、御三卿一橋家、越前松平家、薩摩藩島津家、彦根藩井伊家などでは、江戸上屋敷の奥向を「大奥」と呼んでいることが具体的な史料によって確認できるようです。他にもあるにちがいありません。

江戸城の大奥に関して、主は「御台所(みだいどころ)」と呼ばれます。将軍の正室のことです。

御台所と称せられるようになったのは、二代将軍秀忠の正室お江与の方からといわれています。

意外なことに、徳川十五代を通じて、将軍の御台所で次将軍の生母は徳川秀忠の正室・お江ただ一人でした。

ですが、御台所が存在しなかった期間というのは百年にも及びます。

特に七代から九代までは御台所が存在していませんでした。この時期に、奥向を統治するのに御台所の存在は必要不可欠というわけではなかったということです。

将軍家の御台所として嫁いできたのは、三代、四代、十一代、十三代、十四代のみであり、世子と御簾中というのが、九代、十代、十二代、十三代です。

夫君が結果として将軍になったのが五代、六代、十五代であり、御台所として約束されていたわけではありませんでした。

また、将軍家は五摂家筆頭の近衛家から三度御台所を迎えていますが、実子は六代の時の煕子(ひろこ)のみでした。

なお、江戸城の大奥から諸大名の屋敷に勤める女性までを含めて、奥女中と呼びます。

女中の「中」は老中の「中」と同じで敬称だそうです。

また史料にはあまり出ては来ないそうだが、御殿女中という言い方もあるようです。

大奥の職制

分かりづらいのが江戸城大奥の職制です。

「年寄」と書かれていても年齢的なものを指しているわけではありません。職の名です。

奥女中は奉公に上ると職制を与えられました。御年寄や老女が上におり、出自によって最初の職階が決められましたが、出世することができました。

また、女中名が与えられました。職制に従って幕府や大名家で特定の名前が決められていることもありました。出世すると女中名が変わりました。

公家の娘がなり、御目見以上の職

  • 上臈御年寄(じょうろうおとしより)…奥女中の最高職だが実権はありませんでした。将軍や御台所の相談役。中級公家の出身者が多かった。
  • 小上臈(こじょうろう)…上臈の見習い。
  • 御年寄(おとしより)…奥女中の最高権力者。 

旗本の娘がなり、御目見以上の職

  • 御客会釈(おきゃくあしらい)…御三家、御三卿、諸大名からの女使いの接待役
  • 中年寄(ちゅうどしより)…御台所付の御年寄の代理。御台所の献立の指示や毒味役。
  • 御中臈(おちゅうろう)…将軍や御台所の身辺の世話役。将軍付から側室になることもありました。
  • 御小姓(おこしょう)…御台所の小間使い。少女がなります。
  • 御錠口(おじょうぐち)…上之錠口を管理。中奥との取次役。
  • 御表使(おんおもてづかい)…大奥の外交係。下之錠口を管理。御年寄に次ぐ権力者。
  • 御右筆(ごゆうひつ)…日記、書類、書状などの執筆、管理役。
  • 御次(おつぎ)…道具や献上品の運搬、対面所などの清掃、召人の斡旋など。
  • 御切手書(おきってがき)…七つ口から出入りする人びとの改め役。
  • 御坊主(おぼうず)…将軍付の雑用係。剃髪し将軍の命を受け中奥へ出入りができました。
  • 呉服の間(ごふくのま)…将軍、御台所の衣服を作る。
  • 御広座敷(おひろざしき)…御表使の補助。女使いの膳部の世話。 

旗本の娘がなり、御目見以下の職

  • 御三の間(おさんのま)…御年寄、中年寄、御会釈答、御中臈詰所の雑用係。新規採用者の配属先。 

御家人・陪臣の娘や百姓・町人の娘がなり、御目見以下の職

  • 御仲居(おなかい)…御膳所に詰め、調理を担当。
  • 火の番(ひのばん)…大奥を巡回して火の元を警戒。
  • 使番(つかいばん) 御表使の下役で下之錠口の開閉を管理。広敷役人の取次役。
  • 御半下(おはした)(御末) 掃除・水汲みなどの雑用を受け持つ下女。 

上記の中で、将軍のお手が付いていいのは将軍付の御中臈だけでした。

大奥女中が通常三百人前後いたようです。これに大奥女中が世話をしている部屋子や又者と呼ばれる女中もおり、相当な人数となります。

御部屋様

御部屋様とは側室のうち子供をもうけた者に与えられる尊称です。しかし全てが御部屋様になれるわけでありませんでした。

側室は職制としては中臈であることが多く、側室である限り老女になることはありませんでした。

老女は職制上の最高位で藩の奥女中を束ねて、表との交渉なども行います。

交際費のかさむ大奥の付き合いとへそくり

大奥に上がるとなにかと物入りだったようです。同僚との付き合いなどでかなり出費を強いられたといいます。

大奥に勤めるのは、武士の娘ばかりでなく、主に江戸近郊の多摩郡の出身者が多いようです。

名主クラスの豪農の家から行儀見習いのようなかたちで大奥にあがることがありました。もっともコネがないと大奥へは難しかったようです。

多摩郡の出身者が多かったのは幕領が多く、八王子千人同心もあった関係上、伝で大奥や御三卿の屋敷に奉公することがあったようです。人と物の行き来が活発で密接な繋がりというのも関係したようです。

あがったはいいが、先輩や同僚との交際費がかさみました。これは大奥に限ったことではなく、大名屋敷でもそうだったようです。

時候の品はもちろん、宿下がりをした後のお土産も欠かせませんでした。お寺参りをする場合は神仏への奉納金も必要でした。

その一方で、いろいろ便宜を図ることで賄賂をもらい、へそくりもしこたま貯め込んでいたようです。千両どころか七千両貯め込んだ事例もあったといいます。

役職が上がり、年寄や表使になると、別に町屋敷きが与えられ、その土地からあがる収入を手にすることができました。

大奥でへそくりがここまで貯め込めたのは、大奥が将軍と生活を一体化していたためであり、大奥に賄賂を渡すことで何らかのかたちで政策や人事への反映させることができたからでした。

大奥に出入りできた男

大奥に出入りできた男は将軍以外にもいました。

将軍が日常生活を送る中奥とは銅の塀で仕切られており、二本の御鈴廊下(上下ある)でつながっています。

この大奥にも男の役人も常時詰めていたそうです。

大奥は御殿向、長局向、広敷向の三つに分けられ、広敷向に大奥の事務を処理したり、警護する広敷役人が詰めており、ここだけは男子禁制ではありませんでした。

また、長局向と広敷向の境に七ツ口と呼ばれる空間があり、大奥に生活物資を納入する商人が出入りしていたといいます。

大奥の年中行事

  • 1月1日|年頭の祝い
  • 1月5日|将軍から御酒を賜る、御流れ頂戴
  • 1月7日|七草の祝い
  • 1月11日|鏡開きの祝い
  • 2月の初午|稲荷社での祭である初午
  • 2月15日|涅槃会
  • 3月1~4日|雛祭り
  • 4月8日|灌仏会
  • 5月5日|端午の節句
  • 6月16日|将軍から菓子を賜る、嘉祥の祝い
  • 7月7日|七夕の節句
  • 7月10日|観音様に参詣する四万六千日
  • 8月1日|八朔
  • 9月9日|重陽の節句
  • 10月の初亥|将軍から紅白の餅を賜る、玄猪の祝い
  • 12月1~12日|煤払い
  • 12月28日|注連飾り

武家奉公に上る

裕福な町人や農民の娘にとって、武家奉公には高等教育の意味合いがありました。

武家奉公は一生続けるものではなく、結婚前の一時期に数年経験するものでした。

武家奉公を目指す女性たちは歌舞音曲の稽古をしましたが、盛んになったのは18世紀の中頃からです。

氏家幹人氏も指摘していますが、このような現象が起きたのは、大名側が奥奉公の条件として歌舞音曲の素養を求めたからでした。

奉公のつては奉公経験者の紹介や人宿によるものだけでなく、商売によるつながりからもありました。

駆け込み寺と似た機能

武家屋敷への奉公は、駆け込み寺と似た機能を果たすこともありました。そのため、奥女中には未婚女性だけでなく、既婚者や離婚経験者もいました。

江戸時代の離婚は協議離婚が原則で、三くだり半による離縁状での離婚が原則ではありませんでした。

協議離婚で決着がつかない場合、鎌倉の東慶寺と上州の満徳寺への駆け込みでしたが、武家奉公でも同じような手法が取られました。

結婚と離婚という相反する行為を成就させるために女性が利用したのが武家奉公でした。

奥女中は若い娘ばかりではない

奥勤めに採用されるのは若い娘ばかりとは限りませんでした。

何年か奥勤めをした後、結婚はしたけれど離婚した女性が再び奥勤めに戻ったという例もあるようです。年のいった女性が採用されるケースというのもあったようなのです。

経験者が必要だったのではという想像ができます。

将軍が替わっても、大奥の女性は替わらない場合が多く、御年寄が四十歳以上になるということもありました。

例えば十代家治から十四代家茂まで権力を維持したのが御年寄の滝山でした。

十四代将軍家茂は、大奥へ行くと御年寄がうるさいので近寄りがたく、中奥で過ごす方が楽しかったと書き記しているそうです。

奥女中が外に出られるのは、宿下がりか、御台所の代参で墓参りに行くのに従う時しかありませんでした。

宿下がりは大ざっぱに言って三年に一度くらいだったようです。

大奥での権力闘争

御年寄が大奥の最高権力者でした。表の老中と同格だったといわれています。

人事権も握っており、御年寄はこれはと思う娘を自分の部屋子にして大奥に入れました。

しばらくして御次に出し、自分がやめるときに御年寄に引き上げるということもしたようです。自分の後継者をすえるのです。

一方で、後継者争いに負けた場合、結局はやめるしかなかったようです。

奥女中のいる空間

江戸城の西丸が現在の皇居宮殿で、紅葉山に宮内庁の施設、吹上御庭は御苑、本城一帯は公園、田安邸・清水邸跡には北の丸公園があります。

大奥御殿は本丸、西丸、二丸の三か所にあり、三丸は表御殿だけでした。

  • 本丸は将軍と御台所
  • 西丸は世子と御簾中、あるいは大御所と大御台所
  • 二丸は将軍生母や前将軍の側室ら

天保期以降、江戸城はたびたび火災にあい、全部の御殿が揃っている時の方が稀でした。

本丸御殿は表向、中奥、大奥の三つに区分され、表向と中奥は一続きの建物でしたが、中奥と大奥は厳重に区切られていました。

表向は幕府の中央政庁にあたり、儀式を行う部屋や諸大名の控室や役人の詰所などで構成されています。

中奥は将軍が日常生活をおくり政務を司る場所でした。

大奥は御殿向、長局向、広敷向の三つに区分されていました。

御殿向は将軍の家族が生活し、奥女中が働く空間です。

長局は奥女中の住居です。奥女中は長局で暮らし、御殿向に出仕する職住隣接の生活をしていました。

長局は一の側から四の側まであり、一の側右側から職階順に部屋が与えられました。

弘化二年(1845)の建物では大奥は6318坪あり得ない長局は大奥の3分の2をしめる4212坪くらいありました。

将軍の日常空間:中奥

将軍が日常生活をおくる中奥。

その中奥と大奥を連絡する部署として広敷があります。

御広敷御用人、同御用達、同御広敷番之頭、同御広敷番添番衆、両御番格御庭番、小十人格御庭番、同御侍衆 などなどの役職があったようです。

現在でいえば、社長室などに該当するのでしょう。そのトップたる御用人は社長室長といったところでしょうか。

御広敷の御用人は多くの配下を従え、大奥女中との連絡をとり、諸行事を処理する部署として重要でした。

また、御用人は将軍家からの下されものが多い事でも知られていました。

場合によっては御台所などの名代として地方へ赴く事があります。そのときはちょっとした大名の旅行に匹敵する大がかりなものとなったようです。

莫大な出張手当も出たようです。

参考書籍