江戸時代265年の年表です。調べ物や勉強にお役に立てば幸いです。
徳川氏十五代が治めた時代でした。江戸時代は近世、後期封建制時代、幕藩制時代とも呼ばれます。長期間にわたって平和な状況が続いた時代でした。
武断政治
初代将軍 徳川家康 1603-1605
1603(慶長8) 徳川家康が征夷大将軍となる
- 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く
- 長崎奉行設置
- 秋田で仙北一揆
- 郷村掟を定める
- 諸大名に命じて江戸城下の建設を始める
- 出雲の阿国、京都で歌舞伎踊初演
- 2011年東大:江戸幕府が藩に課した城普請役は、将軍と大名の関係、および大名と家臣の関係に結果としてどのような影響を与えたか、また、城普請は、17世紀の全国的な経済発展に、どのような効果をもたらしたかが問われました。
1604(慶長9)
- 糸割符制度(生糸の輸入法を定める)
- 朱印船の制度を定める
- 東海道・東山道・北陸道の諸道を修理し一里塚を築く
1605(慶長10)
- 徳川家康が朝鮮国使と引見する
- 徳川家康が活字版「東鑑」を刊行(活字版印刷の盛行)
二代将軍 徳川秀忠 1605-1623
1605(慶長10)
- 徳川秀忠が2代目将軍となる
1606(慶長11)
- 江戸城大拡張開始、普請は豊臣系西国諸大名が中心
1607(慶長12)
- 徳川家康が駿府城に移る(江戸・駿府両政権時代~1616)
- 江戸城初代天守完成
- 朝鮮使節が初めて江戸に入る
- 林羅山が将軍侍講となる
1608(慶長13)
- 姫路城天守閣を造営
- 伏見の銀座が京に移される
1609(慶長14)
- 島津家久が琉球に出兵し、征服する
- 金銀貨の交換を金1両=銀50匁=京銭4貫文=永楽銭1貫文とする
- オランダが商館を平戸に設置して貿易を始める
- マードレ・デ・デウス号事件が起こる
- 己酉約条(日本と李氏朝鮮との間の貿易再開)
- 豊臣秀頼が方広寺大仏殿の再興を始める
1610(慶長15)
- 細川幽斎没し「古今伝授」絶える
- 名古屋城の築城始まる(西国大名への防御のため)
- 細川幽斎
1611(慶長16)
- 後水尾天皇即位
- 角倉了以が高瀬川を開削する
- 加藤清正
1612(慶長17)
- 岡本大八事件(大八は火刑、有馬晴信が切腹)
- オランダ国王が徳川家康にポルトガルの領土的野心を密告
- 禁教令(江戸・京都・駿府を始めとする直轄領のみキリスト教の禁止)
1613(慶長18)
- 公家衆法度(勅許紫衣・諸寺入院の法度を定める)
- イギリスが平戸で貿易を始める
- 禁教令(全国でキリスト教の禁止)
- 慶長遣欧使節(伊達政宗が支倉常長をヨーロッパに派遣する)
- 西国諸大名が封内の検地目録を進上(各大名領で検地)
- 操り・浄瑠璃・三味線流行
1614(慶長19)
- 方広寺の鐘銘事件が起こり、大阪冬の陣
- 高山右近らキリシタン148名がマニラ・マカオに追放される
- 諸国に伊勢踊流行
- 大久保忠隣が改易
- 角倉了以
1615(元和1) 武家諸法度/禁中并公家中諸法度
- 大坂夏の陣(豊臣氏滅亡)…豊臣秀頼と淀殿が死去
- 一国一城令(一つの国に一つの城)
- 武家諸法度
- 禁中並公家諸法度(禁中并公家中諸法度)(天皇・公家の法令)
- 諸宗本山本寺の諸法度
- 本阿弥光悦、京都に光悦村をつくり、町衆寛永文化の拠点となる
1992年一橋:「禁中並公家諸法度」には徳川幕府の対朝廷政策の特徴がよく表れているといわれますが、豊臣政権と対比して、徳川幕府の対朝廷政策の特徴を問われました。また、公家の官位制と武家の官位制を区別しましたが、幕府がこのような制度を定めたことの意味を問われました。
1616(元和2)
- 中国船以外の外国船の来航地を長崎・平戸に制限する
- 徳川家康が太政大臣になる
- 徳川家康
1617(元和3)
- 徳川家康が東照大権現の神号を受ける
- 吉原遊廓の開設を許可
- 大坂に江戸積み油問屋成立
- 日光東照宮が建立
- オランダ商館に貿易地平戸限定を命ずる
1619(元和5)
- 御三家の成立(徳川頼宣を紀州和歌山に移す)
- 菱垣廻船の初め(境の船問屋が江戸廻船を始める)
- 直江兼続(上杉家の家老)
1620(元和6)
- 諸大名に大阪城の修築を命じる
- 徳川秀忠の娘・和子が後水尾天皇の女御になる(東福門院)
- 桂離宮造営始まる
- 三浦按針(ウィリアム・アダムズ)
1621(元和7)
- 日本人の海外渡航・武器輸出など禁止
- 諸国に伊勢踊流行
1622(元和8)
- 元和の大殉教(キリシタン多数を処刑)
- 江戸城の天守建て替えなど大改修が行われる
- 支倉常長
三代将軍 徳川家光 1623-1651
1623(元和9)
- 徳川家光が3代目将軍となる
- イギリスが平戸の商館を閉鎖し、日本との交易を撤退
- 家康の小姓・原主水などキリシタン50人を江戸の芝で処刑
1624(寛永1)
- スペイン船の来航を禁止する
- イギリス、平戸商館を閉鎖して退去する
- 江戸に猿若座(のちの中村座)できる
- 福島正則
1625(寛永2)
- 狩野探幽、二条城の襖絵を描く
- 関所、伝馬制が改定される
1626(寛永3)
- 人身売買禁止
- 布類の尺度規則制定
- 各大名領の初期専売始まる
- 長崎奉行水野守信が踏み絵を始める
1627(寛永4)
- 紫衣事件の発端(朝廷の紫衣を巡る違反)
- 江戸に女歌舞伎流行
- 吉田光由「塵劫記」
- 土居水也「清良記」
1628(寛永5)
- 平戸オランダ商館を閉鎖する
- 台湾事件(~1632)
1629(寛永6)
- 紫衣事件(沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国へ流罪)
- 武家諸法度を改定
- 風紀を乱すとして女舞・女歌舞伎禁止
- キリスト教の発見の為に踏み絵を導入する
- 柿右衛門、染付白磁始める
- 後水尾天皇が退位
- 徳川秀忠の外孫・明正天皇が即位
- 丸目蔵人佐長恵(剣豪)
1630(寛永7)
- 不受不施派を弾圧
- 寛永の禁書令(キリスト教関連の漢訳洋書の輸入が禁止)
- 寛永飢饉
- 山田長政がシャムで毒殺される
1631(寛永8)
- 海外渡航船に朱印状の他に奉書を交付(奉書船)を定める
- 江戸大坂商人糸割符に加入
1632(寛永9)
- 徳川家光が諸大名を集めて去就を試す
- 旗本諸法度を定める
- 徳川秀忠
1633(寛永10)
- 関東地方大地震
- 第一次鎖国令(奉書船以外の海外渡航を禁止、5年以上の海外渡航者は帰国の禁止)
- オランダと通商再開し、オランダ商館長の江戸参府定例化する
- 六人衆を置く
- 黒田騒動
1634(寛永11)
- 徳川家光上洛
- 寛永政治の時代始まる(~1651)
- 小堀遠州、二条城の茶室を完成
- 大名火消の制を定める
- 第二次鎖国令(長崎商人に出島を築かせる(1636年完成))
- 譜代大名の妻子を江戸に常住させることとする
1635(寛永12) 参勤交替
- 500石積み以上の大船建造禁止
- 武家諸法度を改定し、外様大名に参勤交代を命じる
- 寺社奉行設置
- 評定所の条規を制定
- 加賀藩改作法開始
- 第三次鎖国令(外国船の来港を長崎に限定し、日本人の渡航と帰国を禁止する)
- 各大名の初期藩政改革が始まる
- 仮名草子流行
- 2015年阪大:江戸時代における参勤交代制度について、制度の歴史的変遷にも留意しつつ、その具体的内容およびそれが社会に与えた影響について問われました。
- 1983年東大:参勤交代制度が設けられた理由を、戦国末期以来の政治や社会の動きを念頭において問われました。なお、参勤交代が、大名の財政に大きな負担となり、その軍事力を低下させる役割を果したこと、一方で、都市や交通が発展する一因となったことは、参勤交代の制度がもたらした結果であって、理由とは考えられない旨の説明がありました。
1636(寛永13)
- 江戸・近江に銭座を設置(寛永通宝の鋳造開始)
- ポルトガル人を出島に移す
- 諸大名に江戸城の修築を命じる
- 第四次鎖国令(貿易に関わりがないポルトガル人を追放し、貿易関係者は長崎の出島に移住させる)
- 伊達政宗
1637(寛永14) 島原・天草一揆
- 天草四郎らによる島原・天草一揆起こる(~1638年)
- 五人組の規定を明確にする
- 松永尺五、私塾講習堂を開設
- 水戸・仙台で寛永通宝鋳造
- 2005年阪大:天草・島原の乱(島原の乱、島原・天草一揆)の歴史的意義について問われました。
- 本阿弥光悦
1638(寛永15)
- 江戸城の天守完成
- 原城陥落(島原・天草一揆終わる)
- 商船に限り大船建造解禁
- 大老職設置
- お陰参り(伊勢参宮)大流行
- 島津家久
1639(寛永16) ポルトガル人の来航禁止
- 江戸城内に紅葉山文庫設立
- 第五次鎖国令(ポルトガル船の来航を禁止)
1640(寛永17)
- 蝦夷駒ヶ岳が噴火し、津軽では降灰により大凶作
1641(寛永18)
- 鎖国体制の完成(オランダ商館を平戸から長崎の出島へ移す)(オランダと中国は幕府直轄の出島、朝鮮とは対馬藩、琉球は薩摩藩、アイヌは松前藩で貿易が行われた)
- 蘭船舶載の糸に糸割符適用
- 岡山藩が花畠学舎を作る(藩校の初め)
- 芸能界における家元制度ほぼ固まる
- 西日本を含めて長雨・寒冷傾向
1642(寛永19)
- 寛永の大飢饉(大名や旗本に飢饉対策が命じられる)
- 譜代大名にも参勤交代を命じる
1643(寛永20)
- 田畑永代売買禁止令
- 新本田畑へ煙草・木綿・菜種の作付を禁止
- 「寛永諸家系図伝」
- 後光明天皇即位
- 2018年阪大:寛永20(1643)年、幕府は田畑永代売買禁止令を発しました。この禁止令の内容が問われました。また、この禁止令下における農村の土地移動の実態について、農村社会の変化も視野に入れて問われました。
1644(正保1)
- 国絵図、郷帳をつくらせる
- 風説書の初め(海外の情報を集めるため出島商館長に「オランダ風説書」を差し出させる)
1646(正保3)
- 江戸にキリシタン屋敷ができる
- 明の鄭成功が援兵を求めるが幕府は拒絶
1648(慶安1)
- 江戸市中諸法度を定める
- 農民の土地貸借を禁じる
- 松永尺五、尺五堂を開塾
1649(慶安2)
慶安御触書→近年の研究で否定されています- 検地条目制定
- 高野山学侶らの法度を定める
1650(慶安3)
- お陰参り(伊勢参宮)大流行(~1651)
- 中江藤樹「翁問答」
1651(慶安4)
- 慶安事件(由井正雪、丸橋忠弥らによる浪人救済と幕府転覆計画)
- 徳川家光
文治政治
四代将軍 徳川家綱 1651-1680
1651(慶安4)
- 徳川家綱が4代目将軍となる
- 末期養子の禁の緩和
- 2019年阪大:慶安4(1651)年、幕府は末期養子の禁を緩めました。末期養子の禁の内容と、この緩和措置がなされた政治的・社会的背景について問われました。
- 1976年東大:末期養子が許されていなかった理由が問われました。
1652(承応1)
- 承応の変(戸次庄左衛門の乱、承応事件)
- 江戸市中浪人調査
- 江戸に旗本奴・町奴流行
- 若衆歌舞伎禁止
1653(承応2)
- 東国に守随氏の秤、西国に神氏の秤の使用を布達
- 佐倉惣五郎、苛政を幕府に直訴
- 代表越訴一揆が各地で起こる
- 湯女風呂流行する
- 野郎歌舞伎始まる
1654(承応3)
- 後西天皇即位
1655(明暦1)
- 後水尾上皇が京都修学院離宮の造営を始める
- 山崎闇斎、京都に開塾
1656(明暦2)
- 江戸浅草に鋳銭座を設置
1657(明暦3)
- 徳川光圀が「大日本史」の編纂を始める(1906年完成)
- 明暦の大火(振袖火事)(江戸城本丸・二の丸をはじめ江戸の6割が焼失)
- 新吉原遊郭の創設
- 江戸職人賃金を公定にする
- 水野十郎左衛門が幡随院長兵衛を殺す
1660(万治3)
- 伊達騒動(仙台藩の原田甲斐らによる御家騒動)(~1671)
- 佐倉藩主・堀田正信が幕府政治を批判して改易
1661(寛文1)
- 福井藩で銀札が発行される(初の藩札)
1662(寛文2)
- 若年寄設置
- 伊藤仁斎、古義堂を開塾
- 寛文延宝の政治が展開(~1680)
- 陶工の野々村仁清活躍
- 京畿大地震
- 松平信綱
1663(寛文3)
- 武家諸法度改定、殉死を禁止
- 江戸市中の花火が禁止される
- 三都に定飛脚問屋成立
- 大阪・京都を結ぶ町飛脚ができる
- 霊元天皇即位
1664(寛文4)
- 評定所訴訟規定
- 寛文印知
1665(寛文5)
- 水野小左衛門守正が最初の盗賊改(関東強盗追捕)に任ぜられる
- 山鹿素行「山鹿語類」「聖教要録」
- 浅井了意「京雀」刊行
- 越後地震
1666(寛文6)
- 諸国の農村に法度を公布
- オランダ風説書(オランダ商館に提出させた海外事情の書類)
- ヒマワリが中国より伝わる
- 岡山に閑谷黌創設、各藩で藩学創設続く
- 山鹿素行「聖教要録」により処罰
- 林羅山「童蒙抄」
- 諸国風水害
1668(寛文8)
- 諸国の津留・特産物・枡の調査
- 京都町奉行を設置
- 江戸大火
1669(寛文9)
- 斗量制(江戸枡を京枡に統一)
- 不受不施派寺請禁ず
- シャクシャインの戦い(アイヌと松前藩の戦い)
- 山鹿素行「中朝事実」
- 小石川後楽園完成
1670(寛文10)
- 林家「続本朝通鑑」
- 箱根用水がつくられる
1671(寛文11)
- 河村瑞賢が東廻り航路をひらく
1672(寛文12)
- 河村瑞賢が西廻り航路をひらく
- 熊沢蕃山「集義和書」
1673(延宝1)
- 分地制限令(田畑の分割相続の制限)
- 江戸京都越後屋呉服店開設
- 三井高利が江戸と京都に越後屋呉服店を開く
- 初代市川団十郎が江戸で荒事を演じる
- 赤本(草双紙の一)出る
- 談林俳諧流行
1674(延宝2)
- 新銭4貫文=金1両に定め、古銭の通用を禁止
- 関孝和「発微算法」
1678(延宝6)
- 初代坂田藤十郎が大阪で和事を演じる
1679(延宝7)
- 越後騒動(高田藩のお家騒動)(~1681)
五代将軍 徳川綱吉 1680-1709
1680(延宝8)
- 徳川綱吉が5代目将軍になる
- 酒井忠清失脚
- 堀田正俊が登用される
- 出雲の飢饉
- 徳川家綱
1681(天和1)
- 堀田正俊が大老になる
- 諸国へ巡見使を派遣
- 徳川綱吉が江戸に護国寺を建てる
- 下馬将軍酒井忠清が辞職する
- 畿内・関東飢饉
- 杉木茂左衛門が上州沼田領主の悪政を幕府に直訴する
- 天和の治
1682(天和2)
- 諸国高札立替え
- 勘定吟味役
- 八百屋お七の火事
- 井原西鶴「好色一代男」
1683(天和3)
- 武家諸法度が改定(大名廃絶を防ぐ末期養子が許可される)
- 華美衣服禁止
- 中山勘解由直守(鬼勘解由)が盗賊改・火附改になる。
- 三井高利、江戸に両替店
- 伊藤仁斎「論語古義」
- 近松門左衛門「世継曽我」初演
- 2013年東大:江戸幕府は、支配体制の中で大名と天皇にそれぞれどのような役割を求めたと考えられるか、また、1683年に幕府が武家諸法度を改めたのは、武士の置かれた社会状況のどのような変化によると考えられるかが問われました。
1684(貞享1)
- 大老・堀田正俊が江戸城中で若年寄・稲葉正休に刺殺される
- 貞享書上げ
- 河村瑞賢、淀川治水工事に着手
- 出版取締令公布
- 貞享暦採用
- 佐瀬与次右衛門「会津農書」
1685(貞享2)
- 徳川綱吉が最初の生類憐みの令を出す
1686(貞享3)
- 江戸大伝馬町木綿問屋成立
- 朝鮮貿易制限
- 琉球貿易制限
- 林鳳岡ら「武徳大成記」
- 井原西鶴「好色五人女」
- 熊沢蕃山「大学或問」
1687(貞享4) 生類憐みの令
- 生類憐みの令出す(以後頻発)
- 熊沢蕃山禁固(「大学或問」幕府の忌諱に触れる)
- 東山天皇即位
1688(元禄1)
- 柳沢吉保が側用人になる
- 長崎に唐人屋敷を作る
- 井原西鶴「日本永代蔵」
- 美服禁令
1689(元禄2)
- 松尾芭蕉が奥の細道の旅に出る
1690(元禄3)
- ドイツ人ケンペルがオランダ商館付医師として来日
- 湯島聖堂ができる
- 浮世草子盛行
- 契沖「万葉代匠記」
1692(元禄5)
- 諸役人の役料を制定
- 質物・借金の規則を出す
- 東大寺大仏修復、開眼供養
- 徳川綱吉が「論語」を講義
- 鴨祐之「日本医史」
1693(元禄4)
- 井原西鶴
1694(元禄7)
- 徳川綱吉が生類憐みの令を数度出す
- 柳沢吉保が老中になる
- 松尾芭蕉
1695(元禄8)
- 金・銀貨を改鋳する(幕府財政難に荻原重秀らの主導による貨幣改鋳)
- 武蔵国中野などに犬小屋ができる
- 西川如見「華夷通商考」
- 奥羽・北陸の飢饉
1696(元禄9)
- 改鋳金銀交換規則を出す
- 大阪の商人淀屋辰五郎が驕奢のため闕所となる
- 宮崎安貞「農業全書」
1697(元禄10)
- 旗本知行制改正(地方直し)
- 長崎会所設立
- 酒造高調査5割の運上賦課
- 江戸大火(勅額火事)
1698(元禄11)
- 20年以上の小作地を永小作とする
1699(元禄12)
- 河村瑞賢
1700(元禄13)
- 徳川光圀
1701(元禄14)
- 赤穂藩主・浅野長矩が吉良義央を江戸城中で傷つける
1702(元禄15)
- 改定全国絵図できる
- 赤穂浪士大石良雄ら吉良義央を討つ
- 新井白石「藩翰譜」
- 松尾芭蕉の俳諧・紀行文「奥の細道」ができる
- 奥羽・蝦夷地の飢饉
1703(元禄16)
- 近松門左衛門の「曾根崎心中」が竹本座で初演
- 室鳩巣「赤穂義人録」
- 元禄地震
1704(宝永元)
- 浅間山噴火
1705(宝永2)
- お陰参り(伊勢参宮)大流行
- 生類憐みの令が数回出る
1707(宝永4)
- 大坂で銭相場騰貴
- 幕府、藩札を禁止
- 宝永地震
- 宝永大噴火(宝永山ができる)
1708(宝永5)
- 宝永通宝の大銭発行
- 貝原益軒「大和本草」「大和俗訓」
- 京都大火
正徳の治
六代将軍 徳川家宣 1709-1712
1709(宝永6) 正徳の治(新井白石の政治)
- 徳川家宣が6代目将軍となる
- 新井白石登用(正徳の治始まる)
- 東大寺大仏殿再建
- 幕府、酒屋運上、箔座を廃止
- 新井白石と間部詮房による政治改革
- 生類憐みの令廃止
- 大銭の通用禁止
- 中御門天皇即位
- 密航してきたイタリア人宣教師シドッチを新井白石が尋問
- 熊沢蕃山「集義外書」
- 徳川綱吉
1710(宝永7)
- 金銀改鋳(乾字金など)
- 武家諸法度を改定(新井白石起草)
1711(正徳1)
- 新井白石が朝鮮使節の待遇を改める
- 将軍の称号を日本国王とする
1712(正徳3)
- 萩原重秀が勘定奉行を罷免される
- 徳川家宣
七代将軍 徳川家継 1713-1716
1713(正徳3)
- 徳川家継が7代目将軍となる
- 天領の大庄屋制度廃止
- 長崎の町民ら米商を襲う(打毀の始まり)
- 生糸の生産を奨励する
- 新井白石「采覧異言」
- 貝原益軒「養生訓」
1714(正徳4)
- 江島生島事件(江戸城大奥の年寄、江島(絵島)が流罪となる)
- 柳沢吉保
- 貝原益軒
1715(正徳5)
- 長崎貿易の海舶互市新例出る(長崎貿易を制限して金銀の海外流出を防ぐ)
- 新金銀通用促進のための組合
- 近松門左衛門「国性爺合戦」を竹本座で初演
- 新井白石「西洋紀聞」
享保の改革
八代将軍 徳川吉宗 1716-1745
1716(享保1) 享保の改革
- 徳川吉宗が8代目将軍となる
- 徳川吉宗が新井白石、間部詮房らを罷免
- 享保の改革
- 新井白石「古史通」「折たく柴の記」(自叙伝)
- インフルエンザ大流行
- 2011年阪大:江戸時代、幕政改革の主要課題は財政危機の克服でした。享保改革期から田沼政権期にかけ幕府がとった財政危機打開策のうち、収入増加策について問われました。
- 1997年京大:享保改革期に江戸幕府が行なった農民政策の転換とその結果について問われました。
- 徳川家継(徳川宗家の血筋絶える)
- 尾形光琳
1717(享保2)
- 大岡忠相が江戸町奉行となる
1718(享保3)
- 熊本藩で藩政改革始まる(各藩で中期藩政改革)
1719(享保2)
- 金銀貸借訴訟などを不受理とする相対済し令が出される
1720(享保5)
- キリスト教以外の漢訳洋書輸入を解禁
- 江戸に大火がおこり江戸町火消いろは四十五組が作られる
1721(享保6)
- 分地制限令再令
- 江戸の商人職人組合を結成
- 目安箱設置
- 小石川薬園を江戸に作る
- 田中丘隅「民間省要」
1722(享保7)
- 質流地禁止令公布
- 諸大名に上米を課し、参勤期間を緩和
- 越後に質地騒動起こる
- 出版書籍業者に取締令を出す
- 定免法
1723(享保8)
- 出羽に質地騒動起こる
- 人口調査を6か年ごととする
- 足高の制(幕政に広範な人材登用を図る)
- 質流地禁止令撤回
- 江戸大火のため瓦屋根を奨励
- 情死の罰則を定め、歌舞伎・浄瑠璃の心中物を禁止
1724(享保9)
- 米、水油などの問屋に組合結成を命じる
- 倹約令
- 大坂大火(妙知焼け)
- 近松門左衛門
1725(享保10)
- 新井白石
- 1990年一橋:13世紀の慈円「愚管抄」、14世紀の北畠親房「神皇正統記」、18世紀の新井白石「読史余論」のそれぞれの歴史のとらえ方の特徴について、その時代の思潮や政治動向と関わらせて問われました。
- 1984年東大:新井白石の「読史余論」における時代区分の特色が問われました。
1726(享保11)
- 美作国津山藩の農民が一揆をおこす(山中一揆)
1727(享保12)
- 荻生徂徠「政談」
- ケンペル「日本誌」英語版刊行
1728(享保13)
- 荷田春満「創学校啓」
- 三井高房「町人考見録」
- 荻生徂徠
1729(享保14)
- 相対済し令が廃され、金銀貸借訴訟の受理が再開
- 関東農村に菜種作を奨励
- 石田梅岩が京都で心学の講義を始める
- 浄岸院竹姫(五代将軍徳川綱吉の養女)が薩摩藩に輿入れ
- 天一坊事件が起こる
- 「女大学」(貝原益軒の「和俗童子訓」巻5の「女子ニ教ユル法」を、享保期の教化政策に便乗し簡略化して出版したもの)
- 太宰春台「経済録」
1730(享保15)
- 米価引き上げのため、買米が実施される
- 上米の制をやめ、参勤交代を元に戻す
- 京都の大火で西陣が損害をうける(京都大火(西陣焼け))
- 藩札の発行を再許可
1732(享保17)
- 享保の大飢饉(西日本にイナゴが大発生)
- 西海・畿内蝗害
- 室鳩巣「駿台雑話」
1733(享保18)
- 江戸市民が米問屋を襲撃(各地で打毀が頻発)
- 各藩で専売制広まる
- 徳島藩、葉藍専売
1734(享保19)
- サツマイモを小石川薬園と吹上庭園に植えさせ、青木昆陽に栽培法を広めさせる
- 琉球で蔡温の改革始まる
- 室鳩巣
1735(享保20)
- 桜町天皇即位
- 青木昆陽「蕃薯考」
1736(元文1)
- 正徳金銀を改鋳し、文字(元文)金銀を鋳造
- 米の公定価格を廃止
- 落書、雑説などの政治批判を禁止
1737(元文2)
- 根岸鎮衛生まれる
1738(元文3)
- 大坂に銅座設置
- 西陣織技術、桐生に伝わる
1739(元文4)
- ロシア船が陸奥や安房沖に出没
- 沿岸諸藩に命じ、海防を厳しくさせる
- 石田梅岩「都鄙問答」
- 尾張藩主徳川宗春が奢侈を責められ蟄居となる
1740(元文5)
- 摂津の村々連合し肥料商人を訴える(国訴の始まり)
1742(寛保2)
- 公事方御定書を制定
- 輸出用銅の不足から長崎貿易が制限される
- 関東地方、水害甚大
1743(寛保3)
- 諸国に甘藷栽培が奨励される
1744(延享1)
- 「御触書寛保集成」
- 延享年間、常磐津節始まる
- 神尾春央ら畿内東海の天領を巡察
- 天文台を江戸の神田佐久間町に設ける
九代将軍 徳川家重 1745-1760
1745(延享2)
- 徳川家重が9代目将軍となる
- 長谷川宣以が生まれる
1746(延享3)
- 加賀騒動(加賀藩のお家騒動)(~1754)
- 竹田出雲ら「菅原伝授手習鑑」初演
1747(延享4)
- 桃園天皇即位
1748(寛延1)
- 出羽の寒河江・白岩の農民が江戸で越訴におよぶ
- 竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」竹本座で初演
1749(寛延2)
- 定免法を全面的に施行する
1751(宝暦1)
- 越後高田地震
- 徳川吉宗
- 大岡忠相
1752(宝暦2)
- 宝暦の改革(長州藩の藩政改革)
1753(宝暦3)
- 宝暦の飢饉
1754(宝暦4)
- 山脇東洋・小杉玄通ら、初めて囚人の屍体を解剖
- 郡上藩農民強訴、各地全藩一揆
- 久留米で一揆がおこる
- 宝暦治水事件(薩摩藩が木曾川の堤防工事に着手、治水工事で多くの薩摩藩士が自害する)(~1755)
- 宝暦の飢饉
1755(宝暦5)
- 宝暦飢饉(奥羽地方冷害、餓死者多数)
- 安藤昌益「自然真営道」
1758(宝暦8)
- 宝暦事件(尊王論者の竹内式部の追放)
- 全国的に藩校が広まる
1759(宝暦9)
- 新規銀札発行禁止
- 金札・銭札の全廃
- 松平定信生まれる
- 山県大弐「柳子新論」
十代将軍 徳川家治 1760-1786
1760(宝暦10)
- 徳川家治が10代目将軍となる
1761(宝暦11)
- 上田騒動(上田藩で強訴、打ちこわし)
- 徳川家重
1762(宝暦12)
- 後桜町天皇即位
1763(宝暦13)
- 煎茶道が盛行する
- 本居宣長が伊勢松坂で賀茂真淵に入門
- 平賀源内「物類品隲」
1764(宝暦14/明和1)
- 籾摺騒動(宇都宮藩で打ちこわし)
- 伝馬騒動
- 天狗騒動(関東地方を中心に助郷反対の大百姓一揆)
- 平賀源内が火浣布を作る
1765(明和2)
- 円山応挙「雪松図」
- 賀茂真淵「国意考」
- 鈴木春信、錦絵を完成
田沼時代
1767(明和4)
- 明和事件(尊王論者の山県大弐・藤井右門を処刑)
- 田沼意次が側用人になる(田沼時代のはじまり)
- 上杉治憲(鷹山)が米沢藩藩政改革を行う
- 2020年京大:田沼意次の財政政策について、享保の改革との違いに着目しながら、基本方針と具体的政策について問われました。
- 1991年京大:18世紀の幕藩体制にはさまざまな矛盾が生じたため、幕府政治はそれらへの対応を迫られましたが、田沼意次の政治と松平定信の政治について、それぞれの政治が課題とした点に留意しつつ、その政治の特徴を問われました。
1768(明和5)
- 大阪などで打ちこわしや一揆がおきる
- 新潟湊騒動(新潟で町民が一揆をおこす)
- 関東8か国に綿実買受問屋を設置
- 上田秋成「雨月物語」
1769(明和6)
- 田沼意次が老中格になる
- 兵庫、西宮が幕領となる
- 賀茂真淵
- 青木昆陽
1770(明和7)
- 後桃園天皇即位
1771(明和8)
- 唐津藩で虹の松原一揆がおこる
- 長谷川平蔵宣雄が火付盗賊改になる
- お陰参り(伊勢参宮)大流行
- 池大雅、蕪村合作「十便十宜画冊」
- 本居宣長「直毘霊」
- 杉田玄白、前野良沢らが人体解剖を見学、「ターヘル・アナトミア」の翻訳を開始
- 琉球八重山地震
1772(安永1) 田沼意次が老中となる
- 目黒行人坂火事
- 田沼意次が老中になる
1773(安永2)
- 三浦梅園「価原」
- 川柳・洒落本・黄表紙流行
1774(安永3)
- 前野良沢・杉田玄白らが「解体新書」を出版する
1775(安永4)
- スウェーデンの植物学者ツンベルグが来日
- 長久保赤水「日本輿地路程全図」
- 三浦梅園「玄語」
1776(安永5)
- 平賀源内がエレキテルの器械を完成させる
1777(安永6)
- 「先代萩」初演
- 三原山大噴火
1778(安永7)
- ロシア船厚岸来航、松前藩に通商要求
- 西35か国斗量濫用を戒む
1779(安永8)
- 松前藩で漁民の強訴が起きる
- 松前藩、ロシア船の要求を拒否
- 光格天皇即位
- 塙保己一「群書類従」編纂に着手
- 安永の桜島大噴火
- 平賀源内
1781(天明1)
- 天明絹一揆
- 各藩で藩学が設立される
1782(天明2)
- 下総の印旛沼、手賀沼の干拓に着手
- 天明の飢饉(1782~1787)
1783(天明3)
- 大坂で打ちこわしが起きる
- 浅間山の大爆発
- 田沼意知が若年寄になる
- 大黒屋光太夫がロシアに漂着
- 司馬江漢、銅版画の製作に成功
- 工藤平助「赤蝦夷風説考」
- 大槻玄沢「蘭学階梯」
- 天明の飢饉(1782~1787)
- アイスランドのラキ火山噴火(天明の飢饉に影響を与える)
- 与謝蕪村
1784(天明4)
- 佐野政言、田沼意知を刺す
- 田沼意次が蝦夷地調査を命じる
- 江戸両替店を643株とする
- 天明の飢饉(1782~1787)
1785(天明5)
- 蝦夷地調査隊を派遣する
- 天明の飢饉(1782~1787)
1786(天明6)
- 印旛沼の干拓が中止される
- 田沼意次が老中から失脚
- 山陽で一揆が頻発する
- 最上徳内ら千島を探検
- 林子平「海国兵談」
- 大槻玄沢、芝蘭堂を江戸に設立(蘭学塾の始め)
- 天明の飢饉(1782~1787)
- 徳川家治
寛政の改革
十一代将軍 徳川家斉 1787-1837
1787(天明7) 寛政の改革
- 徳川家斉が11代目将軍となる
- 松平定信が老中筆頭となり「寛政の改革」がはじまる(~1793)
- 長谷川平蔵宣以が火付盗賊改役となる
- 天明の打ちこわし(米価が上がり、江戸・大阪などで打ち壊しがおこる)
- 天明の飢饉(1782~1787)
- 2008年東大:松平定信は当時の農業や食糧について、どのような問題があると認識していたか、その問題に対処するため、定信が主導した幕政改革では、具体的にどのような政策がとられたかが問われました。
- 2003年阪大:一八世紀後半における都市および農村の変化に留意しつつ、寛政改革の都市・農村政策について問われました。
- 1991年京大:18世紀の幕藩体制にはさまざまな矛盾が生じたため、幕府政治はそれらへの対応を迫られましたが、田沼意次の政治と松平定信の政治について、それぞれの政治が課題とした点に留意しつつ、その政治の特徴を問われました。
1788(天明8)
- 松平左金吾定寅が火付盗賊改方加役(助役)になる
- 朋誠堂喜三二「文武二道万石通」刊
- 大槻玄沢「蘭学階梯」刊行
- 京都大火
1789(寛政1)
- 幕府「孝義録」の編纂開始
- 囲米の制(米価調整や有事の備えのために籾を蓄える)
- 棄捐令(旗本らの債権放棄を命じる)
- 奢侈禁止令
- 広大院茂姫が薩摩藩から十一代将軍徳川家斉に嫁ぎ、正室となる
- クナシリ・メナシの戦い(蝦夷東部で起きたアイヌ人と倭人の戦い)
- 三浦梅園「贅語」
- 中井竹山「草茅危言」
- 恋川春町「鸚鵡返文武二道」
1790(寛政2)
- 江戸で帰村奨励の触を出す
- 猿屋町会所を設置
- 寛政異学の禁(昌平黌において朱子学のほか異学を講義することを禁止)
- 江戸・石川島に人足寄場を作る(長谷川平蔵宣以)
- 洒落本の版行禁止書籍出版取締令
1791(寛政3)
- 男女混浴を禁止
- 囲米奨励
- 異国船渡来処置令
- 江戸町法改正、七分金積立制定
- 米国商船のレイディ・ワシントン号が和歌山県串本町に寄港
- 山東京伝、洒落本「仕懸文庫」などの刊行で手鎖50日の処罰
1792(寛政4)
- ロシアの使節ラクスマンが大黒屋光太夫を護送し根室に来て通商を求める
- 海防を厳重にし始める
- 尊号事件(典仁親王への尊号宣下が幕府により停止)
- 林子平「海国兵談」を絶版にし、林子平に蟄居を命ずる
- 島原大変
1793(寛政5)
- 松平定信失脚
- 大豊作で米価が下落
- 蘭学者が江戸でオランダ正月を祝う
1795(寛政7)
- 長谷川平蔵宣以
- 円山応挙
1796(寛政8)
- 司馬江漢「和蘭天説」
- 「波留麻和解」(江戸ハルマ)刊行
- 浮世絵師の東洲斎写楽が活躍
1798(寛政10)
- 女師匠が男に教えることを禁止
- 諸藩の米札濫発を禁止
- 根岸肥前守鎮衛が南町奉行になる
- 近藤重蔵がエトロフ島に「大日本恵土呂府」の標柱を立てる
- 本居宣長「古事記伝」
- 志筑忠雄「暦象新書」
- 本多利明「西域物語」
1799(寛政11)
- 「寛政重修諸家譜」の編纂開始
- 東蝦夷地を幕府直轄領とし、南部・津軽藩に守備を命じる
- 米価騰貴
- 江戸・大坂で打毀
- 藤田幽谷「勧農或問」
1800(寛政12)
- 伊能忠敬、蝦夷地を測量する
- 女人の富士登山を許可
1801(享和1)
- 「鎖国論」(ケンペルの「日本見聞記」の抄訳)
- 植村文楽軒、文楽座の基礎をつくる
- 本居宣長
文化文政時代(大御所時代)
1802(享和2)
- 蝦夷奉行を箱館奉行と改称
- 諸国洪水・江戸大洪水
- 化政文化時代始まる
- 十返舎一九「東海道中膝栗毛」
1803(享和3)
- アメリカ船が長崎に来て通商を求める
- ハシカ大流行
文化・文政期は文化が1804年から1817年、文政が1818年から1829年までとなる。
将軍は十一代徳川家斉。(ちなみに、家斉は天保八年(1837年)に将軍職を家慶に譲るが、実権を手放さなかった。そのため大御所時代と呼ばれる。)
松平定信が老中を辞職した後だったが、寛政の遺老と称される松平信明(のぶあきら)らにより、寛政の改革の路線が引き継がれた。
1804(文化1)
- ロシアの使節レザノフが長崎に来て通商を求める
- 西35か国の秤を検査
- 絵草紙に対し禁令を出し、喜多川歌麿、処罰される
- 諸国豊作
- 徳川家斉の文化・文政時代始まる
1805(文化2)
- レザノフの要求拒否
- 銀座のほか、灰吹銀・潰銀を売買することを禁止
- 関東取締出役を設置
- 女浄瑠璃を禁止
- フェートン号事件(イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、オランダ人を捕らえる)
- 華岡青洲(随賢)、初めて麻酔剤を用い乳癌を手術
- 北辺警備の強化に力を入れる
1806(文化3)
- 江戸大火(車町火事)
- 喜多川歌麿
1807(文化4)
- 西蝦夷地が幕府直轄領となる
- 「新訂万国全図」
- 加藤民吉、染付磁器開始
1808(文化5)
- 間宮林蔵ら樺太探検
- イギリス軍艦フェートン号長崎で薪水を要求、オランダ商館員をとらえる(フェートン号事件)
- 江戸湾岸に砲台を建設する
1809(文化6)
- 間宮林蔵が間宮海峡を発見する
- 江戸伊勢町に米会所を設立
- 菱垣廻船十組問屋仲間、三橋会所を設立
- オランダ通詞に露語・英語を兼修させる
- 「新編会津風土記」
- 「大日本史」
- 「蕪村七部集」
- 式亭三馬「浮世風呂」
1811(文化8)
- 天文方に蛮書和解御用掛設置
- 入墨を禁止
- ゴローニン事件(ロシア船艦長ゴローニンを抑留)
- 各地で一揆頻発
1812(文化9)
- 高田屋嘉兵衛がロシア船に捕えらえる
- 司馬江漢「春波楼筆記」
- 平田篤胤「霊の真柱」
1813(文化10)
- 高田屋嘉兵衛が解放され、ゴローニンら釈放される
- 十組問屋仲間65組1195人に株札交付、新規加入禁
- 大坂町人に100万両の御用金を賦課
- 中部・北陸各地で打毀
- 海保青陵「稽古談」
1814(文化11)
- 伊能忠敬、沿岸実測全図を完成「大日本沿海輿地全図」
- 東西蝦夷地が松前藩に返還される
- 曲亭馬琴「南総里見八犬伝」
- 葛飾北斎「北斎漫画」の刊行始まる
1815(文化12)
- 杉田玄白「蘭学事始」
- タンボラ火山噴火(夏がなかった年)
1816(文化13)
- 英船、琉球に渡来し貿易を要求
- 武陽隠士「世事見聞録」落語・昔物語、忠孝を説く条件で許可される
1817(文化14)
- 仁孝天皇即位
- 大蔵永常「農具便利論」
1818(文政1)
- イギリス人コンドルが浦賀に来て通商を求める
- 水野忠成が老中になる
- 渡辺崋山「一掃百態図」
寛政の遺老らによる寛政の改革の路線は、文政元年(1818年)に水野忠成(ただあきら)が老中になると大きく転換する事になる。
水野忠成は寛政の改革以来の緊縮財政で行き詰まった政策を、銀の含有量を減らし、品位を落とした文政小判のを鋳造する事によって、550万両の出目を生み出して幕府財政を一時的に潤した。
だが、質の悪い通貨の流通によって、物価が上昇するという問題が起きる。
しかし、商品経済を刺激する事にはなり、都市を中心とした化政文化が花開く事となる。
関東周辺では貨幣経済の浸透とともに、交通・流通の要衝が町場化していた。また幕領と私領が複雑に入り組んでいたため、無宿者や博徒が逃げ込みやすい場所となっていた。それを取り締まるために、勘定奉行の配下として通称・八州廻りとよばれる関東取締出役を設けて取締に当たらせた。
また、補完するために、文政10年(1827年)には幕領と私領の区別なく村々で組合を作らせ治安や風俗の取締にあたらせる寄場組合を作らせている。
1819(文政2)
- 一茶「おらが春」
- 塙保己一「群書類従」正編
1820(文政3)
- 山片蟠桃「夢の代」
1821(文政4)
- 大坂蔵屋敷の空米切手禁止
- 東西蝦夷地を松前氏に還付
- 伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」
- 塙保己一
1822(文政5)
- 英船、浦賀に入港し薪水を求む
- 灯油濫造禁止
- 西国にコレラ流行
- 有珠山大噴火
- 伊予浜子一揆
- 式亭三馬
1823(文政6)
- ドイツ人シーボルトがオランダ商館付き医師として出島に来る
- 摂・河・泉1307か村菜種売買自由を求めて国訴
- 大田南畝(蜀山人)
1824(文政7)
- 南鐐二朱銀を改鋳
- イギリスの捕鯨船が常陸大津浜・薩摩宝島に上陸して乱暴する
- シーボルトが長崎郊外の鳴滝に塾を開く
1825(文政8) 異国船打払令
- 諸大名に異国船打払いを指令 – 中国とオランダ船以外は砲撃などの武力で追い払う
- 会沢正志斎「新論」
- 鶴屋南北「東海道四谷怪談」中村座で初演
- 青地林宗「気海観瀾」
1827(文政10)
- 徳川家斉が太政大臣となる
- 調所広郷が薩摩藩財政改革を始める
- 関東全域取締、改革組合村結成
- 佐藤信淵「経済要録」
- 小林一茶
1828(文政11)
- 越後大地震
- 広瀬淡窓「約言」
- シーボルト事件(シーボルトが帰国時に禁制の日本地図を所持)
1829(文政12)
- 江戸大火(佐久間町火事)
1830(天保1)
- お陰参り(伊勢参宮)大流行
- 江戸商人に御用金を課す
- 薩摩藩で砂糖の専売が強化される
- 水戸藩の改革が始まる
- 喜多村信節「嬉遊笑覧」
- 文政京都地震
- 江戸が竜巻・雷雨・雹に襲われる
1831(天保2)
- 女浄瑠璃再禁令
- 長州天保大一揆起こる
- 葛飾北斎による「富嶽三十六景」ができる
- 良寛
- 十返舎一九
1832(天保3)
- 各藩の天保の改革始まる
- 村田清風、長州藩に国政改革草案を上申
- 為永春水「春色梅児誉美」初・二編
- 寺門静軒「江戸繁昌記」
- 頼山陽「日本政記」
1833(天保4)
- 天保の大飢饉(~1836年)
- 歌川広重「東海道五十三次」
- 大塩平八郎「洗心洞箚記」
- 徳川斉昭「告志篇」
- 関東大風雨・出羽越後地震
- 「ヅーフハルマ」(長崎ハルマ)完成
1834(天保5)
- 水野忠邦が老中となる
- 米価が上がったため各地で一揆や打ちこわしが起こる
- 二宮尊徳「三才報徳金毛録」
- 柴田鳩翁「鳩翁道話」
1835(天保6)
- 鈴木牧之「北越雪譜」このころ滑稽本・人情本盛んになる
- 中米ニカラグアのコセグイナ火山噴火(1836(天保7)年の大凶作へ影響を与える)
1836(天保7)
- ロシア船、択捉に渡来
- 甲斐郡内騒動(甲州一揆)
- 三河加茂一揆
- 「江戸名所図会」刊完了
- 帆足万里「窮理通」
十二代将軍 徳川家慶 1837-1853
1837(天保8) 大塩平八郎の乱
- 徳川家慶が12代目将軍となる
- 大塩平八郎の乱(天保の大飢饉の影響により大塩平八郎が反乱)
- 諸国に疫病流行
- 生田万の乱(飢饉の影響により生田万が反乱)
- モリソン号事件(アメリカ船を日本が砲撃)
- 渡辺崋山「鷹見泉石像」
- 宇田川榕菴「舎密開宗」
天保期は天候が悪く凶作の年が続いた。天保の飢饉である。百姓一揆や打ちこわしが多発した時代でもある。幕領でも一揆が起き、幕府は衝撃を受ける。一般的に、大名などの領地よりも幕領の方が租税率が低く、不満が少なかったはずであるにもかかわらずである。
こうした中で起きたのが、大坂の大塩平八郎による大塩の乱である。大塩平八郎は大坂町奉行所の元与力であり、幕府の元役人による反乱は幕府や諸藩に衝撃を与えた。
同年、国学者の生田万が大塩門弟と称して越後柏崎の代官所を襲う生田万の乱が起きる。
1838(天保9)
- 奥羽飢饉
- 京都で豊年踊り流行
- 緒方洪庵が大阪に適々斎塾を開く(門下生は福沢諭吉・大村益次郎など)
- 村田清風長州藩の改革を始める
- 大原幽学、先祖株組合結成
- 調所広郷が薩摩藩の家老になり藩政を立て直す
- 都々逸流行
- 渡辺崋山「慎機論」
- 高野長英「夢物語」
幕藩体制の行き詰まり
天保期の頃に農業生産を主体とする幕藩体制は行き詰まりを示した。それは商品生産の発展と貨幣経済の浸透によるものであった。
問屋制家内工業が発展し、これが発展するかたちで工場制手工業(マニュファクチュア)が行われることとなる。
(こうした概念は西洋史の中では妥当性を見いだす事ができる事があるだろうが、日本の場合と状況が異なる事もあり、同じような概念として捉えていいのかどうか疑問がある)
商品経済の発展とともに農村が荒廃し、二宮尊徳の報徳仕法や大原幽学の性学のような農村復興を目指す動きも現われた。
天保の改革
幕府をめぐる情勢はよくなかった。国内では大規模な凶作や、大塩の乱、深刻な財政難が続き、対外的にはモリソン号事件やアヘン戦争などが起きている。
そうした中で十一代将軍徳川家斉の死後、十二代将軍徳川家慶の信任を得た水野忠邦を中心として天保の改革が行われる。
享保寛政の御政治への復古を改革の方針とし、倹約令などで風俗統制を行う。高価な菓子や料理、衣装を禁じ、寄席を減らし、江戸歌舞伎三座を移転させた。処罰される者も出た。人情本作者の為永春水や合巻作者の柳亭種彦らである。
また、農村からの流入を減らすため、人返しの方をだして、江戸の住民となる事を禁じた。
物価高騰に対しては株仲間の解散を命じ対処しようとしたが、そもそも物価高騰の原因が品位の劣る貨幣の改鋳と商品流通の構造変化にあるため、効果がなかった。
- 2020年阪大:天保改革の背景の一つに対外的危機がありました。当時の幕府が抱いていた対外的危機の内容と天保の改革の中で打ち出された危機打開策について問われました。
1839(天保10)
- 水野忠邦、老中首座となる
- 蛮社の獄(高野長英、渡辺崋山らが鎖国政策を批判して捕縛)
1840(天保11)
- 遠山景元が江戸町奉行となる
幕府の実力の低下
天保11年(1840年)に川越藩松平家を庄内へ、庄内藩酒井家を長岡へ、長岡藩牧野家を川越へ移す、三方領地替えを命じたが、庄内藩領民の反対運動などもあり撤回される事になる。
この幕府が命じたにもかかわらず転封を実行できなかったことは、幕府の実力の低下を示す結果となる。
1841(天保12) 天保の改革
- 水野忠邦による天保の改革開始
- 御触書天保集成
- 囲米布令
- 昌平黌に庶民の聴講許可
- 株仲間解散令
- 高島秋帆が江戸・徳丸原で洋式銃隊の訓練を行う
- 奢侈禁止令
- 渡辺崋山
1842(天保13)
- 物価引下令
- 絵草紙などの出版を統制
- 異国船打払令をやめ薪水食糧の給与許可
- 諸大名の専売を禁止
- 外国船打ち払い令をゆるめ、薪水・食料の給与を許す(薪水給与令)
1843(天保14)
- 老中・水野忠邦が罷免される
- 人返令
- 上知令
- イギリス・フランス・オランダ・アメリカ船が来航して通商などを要求するが幕府は拒否する
- 中台芳昌「老農夜話」
- 平田篤胤
- 為永春水
1844(天保15・弘化1)
- オランダ国王の親書幕府に届く
- 江戸城が火事で本丸御殿を焼失
- 帆足万里「東潜夫論」
- 間宮林蔵
1845(弘化2)
- 阿部正弘が老中筆頭となる
- 外国船対策に海防掛を常設する
- 漂流民を浦賀に送ってきたアメリカ船を鎖国を理由に帰らせる
1846(弘化3)
- 伊豆韮山の代官・江川英竜が伊豆7島を巡視し、海防に関する意見書を出す
- イギリス船・フランス軍艦が琉球に来る
- アメリカ東インド艦隊司令長官ピッドルが浦賀に来て国交を求める
- 幕府、朝廷に外国船渡来の状況を報告
- 孝明天皇即位
- 大原幽学「微味幽玄考」
- 藤田東湖「弘道館記述義」
1847(弘化4)
- オランダが再び開国を勧める
- 善光寺地震
1848(嘉永1)
- 鉛活字をオランダより購入
- 橋本左内「啓発録」
1849(嘉永2)
- イギリス測量船が浦賀に来航し、江戸湾を測量する
- 成島司直ら「徳川実紀」
- 葛飾北斎
1850(嘉永3)
- 軍艦製造
- 佐賀藩が反射炉を作る
- 江川英竜が韮山に反射炉を作る
1851(嘉永4)
- 土佐の漁師・中浜万次郎がアメリカ船に送られて琉球に来る
- 十組問屋ほか株仲間の再興許可
- 島津斉彬が鹿児島に製錬所を作る
1852(嘉永5)
- オランダ商館長が明年アメリカが来航して開国を要求することを伝える
積極的な藩政改革
各藩では藩営専売制や藩営工場の設立を行い積極的な藩政改革に乗り出していた。
深刻な財政難に見舞われていた薩摩藩では、調所広郷が改革に着手して藩財政を建て直した。島津斉彬の時代になると積極的な殖産興業政策がとられ、反射炉などが作られる。
洋式の工場も造り、集成館と命名される。島津忠義は日本最初の洋式紡績工場を建設し、イギリス人貿易商グラヴァーから武器を購入して軍事力を図る。
長州藩では村田清風を登用し、下関に越荷方という役所を設け、藩財政の再建に成功する。
佐賀藩でも鍋島直正が均田制を実施し、本百姓体制の再建を図った。また日本で最初の反射炉を築いた。
土佐藩では改革派が登用され、山内豊信の時代に軍事力の強化が図られた。
他には伊達宗城の宇和島藩、松平慶永の越前藩なども藩政改革を遂行した。
一方で水戸藩のように徳川斉昭の主導で行われた藩政改革がうまく行かなかった例もある。
幕末
1853(嘉永6) ペリ-来航
- 関東地震
- アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀に来る
- アメリカの国書を諸大名に見せ意見を聞く
- ロシア艦隊司令長官プチャーチンが軍艦四隻を率いて長崎に来る
- 黒船来航による対策の為に幕府はアメリカから帰国したジョン万次郎を旗本の身分で登用する
- 徳川家慶
十三代将軍 徳川家定 1853-1858
1853(嘉永6)
- 徳川家定が13代目将軍となる
- 幕府、菱垣廻船問屋仲間株の制度を廃止
- 瀬川如皐「与話情浮名横櫛(切られ与三)」初演
1854(安政1) 日米和親条約
- ペリーが軍艦七隻を率いて再び浦賀沖に来る
- ペリーと日米和親条約を結び、下田・箱館の2港を開く
- 下田踏海(吉田松陰と金子重之輔が吉田松陰がアメリカへの密航を企てて捕らえられる)
- 日米和親条約(下田・箱館(函館)の開港及び補給など(鎖国廃止))
- 日章旗を日本国総船印に定める
- 日英和親条約(長崎・箱館の開港及び補給)
- オランダに下田・箱館を開港
- 安政東海地震 – 東海地震
- 安政南海地震 – 南海地震
- 日露和親条約(国境線、箱館・下田・長崎の開港及び補給など)
- 各地で打毀・強訴など農民騒擾起こる
1855(安政2)
- 全蝦夷地収公
- 長崎に海軍伝習所をつくる
- 安政の大地震(江戸で大地震がおこる)
- 日仏和親条約を結ぶ
- 日蘭和親条約(長崎での行動が自由となる)
- 村田清風
安政の大地震
安政二年(一八五五)十月二日の夜十時。直下型の地震が江戸を襲った。
元和の地震(一六一五)、慶安の地震(一六四九)、元禄の地震(一七〇三)以来百五十年以上たってからの地震だった。
当時の江戸の人口は百三十~百四十万くらいと推定されている。
被害が大きかったのは、老中の役宅が並ぶ御曲輪内、それと小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川などの低いところだった。
比較的被害の少なかったのは、青山、麻布、本郷といった高台だった。
江戸では火事が多発したせいもあり、安普請の家が多かった。また、火事の延焼を防ぐため瓦葺きの屋根が増えており、屋根が重い構造となっており、地震には弱かった。
当時の老中四人の内、阿部正弘、牧野忠雅、内藤信親の役宅でそれぞれ死者が二十人以上出た。
家屋倒壊などの被害にあって死者が出た大名家は百二十一家。死者の数は二千六十六人にのぼった。
南北町奉行所は被害を免れ、町奉行が陣頭指揮をとることができた。混乱が最小限に抑えられたのである。
火事による死傷者を除くと、死者は四千二百九十三人、負傷者二千七百五十四人、倒壊家屋が約一万五千などであった。
1856(安政3)
- 蝦夷人を土人とよび、日本語の習熟、内地人との同化を奨励
- アメリカ総領事ハリスが下田に着任し、玉泉寺を領事館にする
- 篤姫(天璋院)が薩摩藩から十四代将軍徳川家定に嫁ぎ、正室となる
- 江戸の大風水害
- 二宮尊徳
1857(安政4)
- 蕃書調所開校
- クルチウス、アロー号事件を通告
- 下田条約
- 江戸に箱館産物会所
- ハリスが将軍家定に会い、ピアース大統領からの国書を渡す
- 大坂町奉行、問屋仲間に対し冥加金を命じる
- コレラ流行
- 吉田松陰が松下村塾を引き継ぐ
- 凶作、米価騰貴農民騒動頻発
- 長崎奉行所、横文諸書を蘭製鉛活字で印刷
- 「虎狼痢治準」出版
1858(安政5) 日米修好通商条約
- 日米通商条約の勅許を得るため、老中堀田正睦を京都に派遣する
- 大坂に箱館産物会所
- 井伊直弼が大老になる
- ハリスとの間で日米修好通商条約・貿易章程に調印する
- 井伊直弼は勅許を得ずに条約に調印
- 井伊直弼(南紀派)と一橋派・尊皇攘夷派の対立する
- 水戸斉昭らが登城して大老井伊直弼を責める
- オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修交通商条約を調印する
- 外国奉行設置
- 徳川斉昭・慶恕・慶永らに謹慎を命じる
- 戊午の密勅(孝明天皇が幕府より先に水戸藩に勅諚)
- 安政の大獄
- 飛越地震
- コレラ大流行
十四代将軍 徳川家茂 1858-1866
1858(安政5)
- 徳川家茂が14代目将軍となる
- 島津斉彬
- 大原幽学
1859(安政6)
- オールコック来日
- 神奈川、長崎、箱館を開港する
- 露仏英蘭米の5か国に貿易が許可される
- 桐生35か村、生糸輸出の禁止を江戸町奉行所に請願
- 寺子屋の開設が隆盛
- 大蔵永常「広益国産考」
- 吉田松陰
- 橋本左内
- 梅田雲浜
1860(万延1) 桜田門外の変
- 遣米使節・新見正興らがアメリカ軍艦ポーハタン号で出発する
- 勝海舟・福沢諭吉が咸臨丸で渡米する
- 桜田門外の変(井伊直弼が暗殺される)
- 五品江戸廻送令
- 遣米使節が帰国する
- アメリカ人ヒュースケンが三田で斬殺される
- かっぽれ、すちゃらか節流行
- 河竹黙阿弥「三人吉三廓初買」初演
- 横井小楠「国是三論」
1861(文久1)
- 長州藩士長井雅楽が「航海遠略策」を藩主に出す
- 水戸浪士らが高輪東禅寺でイギリス公使を襲撃する
- 遣欧使節竹内保徳らが出発する
- ロシア軍艦対馬占領事件
- 東禅寺事件 – 攘夷派がイギリス公使館を襲撃
1862(文久2)
- 坂下門外の変(老中安藤信正を襲撃事件)
- 公武合体
- 皇妹和宮と将軍家茂が結婚する
- 寺田屋事件(島津久光により薩摩藩の尊皇攘夷派が鎮圧)
- 文久の改革(島津久光らによる改革)
- 将軍後見職、政事総裁職、京都守護職が新設される
- 生麦事件(島津久光の配下がイギリス人を殺傷)
- 高杉晋作、久坂玄瑞らがイギリス公使館を焼き打ちする
- オランダに留学生派遣
- 佐久間象山、幕府の夷狄観を批判
- 諸国で重税、特産物買上げ反対の騒擾
- 「官板バタヒヤ新聞」
- ハシカ・コレラ大流行
1863(文久3)
- 徳川家茂が上洛
- 近藤勇らが新撰組を作る
- 攘夷の期限を5月10日とすることを上奏する
- 下関事件(長州藩がアメリカ・フランス・オランダの船を砲撃)
- 高杉晋作らが奇兵隊を作る
- 薩摩藩がイギリス艦隊と戦う(薩英戦争)
- 天誅組の変(尊皇攘夷派の中山忠光による天誅組が大和で襲撃)
- 八月十八日の政変(公武合体派がクーデターを起こし、三条実美ら尊攘派の七公卿は長州に逃げる)
- 生野の変(平野國臣らが但馬生野で挙兵する)
- 長崎・江戸・京都市中に天誅の張紙
- 緒方洪庵
1864(元治1)
- 天狗党の乱(水戸藩の尊皇攘夷派が筑波山で挙兵)
- 池田屋事件(新撰組が池田屋にいる尊皇攘夷派の志士を襲撃)
- 佐久間象山、開国論を唱え暗殺される
- 長州藩が京都を攻めて禁門の変(=蛤御門の変)が起こる
- 徳川家茂が長州征伐を命令する(第一次長州征伐)
- 四国連合艦隊下関砲撃事件(英仏蘭米が下関を砲撃して占拠する)
- ヘボン夫人、横浜に女塾を開く(キリスト教女子教育の初め)
- 京都・大坂に物価騰貴・征長・外国貿易非難の張紙
- 功山寺挙兵(高杉晋作がクーデターで長州藩の藩政を倒幕とする)
1865(慶応1)
- 高杉晋作が馬関を占領し長州藩の藩論を幕府との対決にまとめる
- 物価引下げを命ず
- 横須賀製鉄所を作り始める
- 条約を勅許
- 津田真道訳「西洋各国盛衰強弱表」
1866(慶応2)
- 薩長連盟の密約が成立(薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の桂小五郎、土佐藩の坂本竜馬・中岡慎太郎らにより実現した薩摩藩と長州藩の同盟)
- 生糸蚕種改印令
- 米価が暴騰して全国的に一揆・打ちこわしが多発する
- 第二次長州征伐(長州藩と幕府の戦いで、幕府の全面的敗北で権威が失墜)
- 大坂富商に御用金
- 外国米輸入可
十五代将軍 徳川慶喜 1866-1867
1866(慶応2)
- 徳川慶喜が15代目将軍となる
- 各地に世直し一揆が空前の勢いで広まる
- 西周「万国公法」
- 福沢諭吉「西洋事情」
1867(慶応3) 大政奉還/王政復古の大号令
- 明治天皇が即位
- パリ万国博覧会に参加
- 大政奉還の薩土密約(坂本竜馬の仲介による薩摩藩(西郷隆盛・大久保利通など)と土佐藩(後藤象二郎など)の政治同盟、2ヵ月半で解消された(公議政体))
- 薩摩藩が洋式紡績所を作る
- 坂本竜馬が土佐藩の参政である後藤象二郎に船中八策を提示する
- 名古屋地方に「ええじゃないか」がおこる(翌月より各地に広がり始める)
- 嘉永4年の仲間再興の際登録した以外の者の営業中止
- 近江屋事件(近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺される)
- 薩摩・長州両藩に倒幕の密約がくだる
- 土佐藩が徳川慶喜に大政奉還を建白する
- 徳川慶喜が政権を明治天皇に返上する(大政奉還)
- 大政奉還により江戸幕府は崩壊し、薩摩藩・長州藩に下った討幕の密勅が取り消される
- 摂政・関白・幕府などが廃止されて、新たに総裁・議定・参与の三職を天皇の直下に設置する
- 三職からなる小御所会議を開き戊辰戦争の発端となる
- 王政復古の大号令
1867(慶応3)
- 徳川慶喜の将軍職辞職
- 天皇主体の明治政府が誕生する
1868(慶応4・明治1)
- 戊辰戦争
- 三職八局の制
- 新政府、京都で機関紙「太政官日誌」を創刊
- 勝海舟と西郷隆盛の会談、五か条の誓文、江戸城無血開城
- 神仏判然令、以後廃仏棄釈の運動起こる(参考:安丸良夫「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―」)
- 七官両局の制に改正
- 福沢諭吉、塾を芝に移し慶応義塾と改称
- 奥羽越列藩同盟
- 新政府、新紙幣(太政官札)を発行し歳出を補い、合計2188万両余を製造発行
- 江戸を東京とする詔書
- 明治と改元、一世一元の制を定める
- ヘボン、日本最初の和英辞典を完成(ヘボン式ローマ字の綴り)