略歴
下野国の武人
生年:生没年不詳。
平安時代中期の下野(しもつけ)(栃木県)の豪族です。父は下野大掾村雄、母は下野掾鹿島の娘、藤原北家魚名の子孫とされます。
相模国田原を領有したことから、俵藤太(たわらとうた)とも呼ばれます。下野国佐野の地に唐沢山城を築いて本拠地としていたといいます。
延喜 16 (916) 年、罪により一族 18人(17人ともいう)とともに配流されたこともあり、その後も乱行があって糺勘されますが、のちに下野掾、同国押領使(おうりょうし)となり、六位に叙せられました。
天慶(てんぎょう)の乱で活躍
桓武平氏の武将である平将門が勢力を強め、関東八ヶ国の国府を攻め落として朝廷に反乱を起こします。
藤原秀郷は平将門から助力を求められましたが、その軽率な態度をみて応じませんでした。
そして、平氏の武士で秀郷の甥でもある常陸大掾・平貞盛(将門の従兄弟、貞盛の子孫には平清盛がいる)とともに攻めました。
将門の軍が諸国に分散している隙をついて本拠地の下総国幸島(さしま)に攻め入り、天慶3(940)年2月に滅ぼしました。
この時、朝廷の官軍はまだ関東に到着していませんでした。
同年3月軍功により従四位下、次いで下野守(しもつけのかみ)に任じられました。武蔵守(むさしのかみ)にもなり、東国に勢力をひろげます。後には鎮守府将軍にもなりました。
藤原秀郷は、源経基、平貞盛らとともに軍事貴族として中央に進出する道をひらいた人物です。
将門の乱での活躍は「将門記」「今昔物語集」「平家物語」などに書かれ、鎌倉、室町時代には大百足退治の英雄伝説の主人公として、室町時代には「御伽草子」に取り上げられ、「太平記」「俵藤太物語」に描かれています。
この時期については、「テーマ:平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)」にまとめています。
子孫
子の千晴(ちはる)が安和(あんな)の変(969)に坐して中央政界からは後退します。
子孫は北関東・奥羽の各地に広まり、奥州藤原氏、亘理、武藤、小山、結城、下河辺、足利(源氏系とは別。藤姓足利氏と呼ばれる)などの諸氏は、いずれも秀郷を祖としています。
また西行の祖先でもあります。
佐野市の唐沢山神社に祭られています。
伝説
百足退治伝説
近江の国の瀬田の唐橋に大きな蛇が現れました。
旅人たちは橋に横たわる大蛇を恐れ、何日ものあいだ誰も橋を通ろうとしませんでした。
そこを通りかかったのが藤原秀郷でした。
秀郷は蛇を恐れず、旅人達を置いて平然と大蛇を踏み越えて橋を渡っていきます。
その夜、秀郷が泊っていた宿の部屋に、美しい娘が訪ねてきました。
娘は自分こそが昼間の大蛇で、正体は琵琶湖に住む龍神一族の娘だと名乗りました。
娘が訪ねて来たのには訳がありました。
近江国(滋賀県)の三上山に住む大百足が琵琶湖を荒らすので、一族が苦しんでいるのだといいます。
藤原秀郷はそれを聞いて、三上山へと百足退治に出向きました。
三上山にたどり着くと、目にしたのが山を七巻きもするほどの大百足でした。
秀郷は弓で大百足を射ますが、跳ね返されてしまいます。
秀郷は、百足が人の唾に弱いという噂を思い出し、矢に唾を吐きかけ、南無八幡大菩薩と念じて射ました。
すると、矢は百足の眉間を射抜き、大百足は倒れました。
龍神は喜んで秀郷に百足退治の褒美を授けました。
米の尽きない俵、切っても減らない反物、三井寺(園城寺)に伝わる鐘です。
また矢が嫌って避けていくとされる鎧の「避来矢(ひらいし)」を授かり、戦場で矢を受けることがなくなったとされます。
しかし後年、合戦からの帰りに鎧を河原で脱ぎ捨てたため、鎧が河原の石に化けて判らなくなり、龍神に謝罪して元に戻してもらったといいます。
これにより「避来矢(ひらいし)」を「平石」とも書くようになりました。
後年、秀郷が平将門を討ち取れたのも、龍神の加護があってのことだったといます。
この有名な百足退治伝説は、日光の戦場ヶ原の伝説に因んでいるともされます。
伝説は近江国の話であるが、秀郷の地元の伝説が何らかの形で影響したのかもしれません。
古代、下野国の二荒神と上野国の赤城神が、それぞれ大蛇(男体山)と大ムカデ(赤城山)に化けて戦った戦場が戦場ヶ原とされます。
小松和彦「異界と日本人」によれば、百足退治伝説は、今昔物語の巻26に見える蛇と百足の争いを語った物語の影響を受けていると考えられています。
これに影響されたのが中世に作られた「日光山縁起」の日光の二荒山の神(蛇)と赤城山の神(百足)との争いです。
二荒山の神の助っ人となったのが弓の名人である猿丸太夫でした。
蛇と百足の争いに英雄が介入する物語群の一角を占めるのが藤原秀郷伝説なのです。
百目鬼伝説
秀郷が下野国宇都宮大曾あたりを通りかかった時のことです。
老人が現れ、ここから北西に行った兎田に百の目を持つ鬼が出るといいまし。
秀郷が兎田に向かうと、両腕に百の目、全身から刃のような毛を生やした、身の丈10尺(約3m)もの大鬼・百目鬼が現れました。
そこで、秀郷が鬼の急所に矢を射ると、百目鬼は明神山(臼が峰)へ逃げました。
翌朝、明神山に行くと、百目鬼は致命傷を負いながら、炎と毒煙を吐いてのたうち回っています。
秀郷が困り果てていると智徳上人が通りかかりました。
上人が経文を唱えると百目鬼は鬼から人の姿になり、秀郷は亡骸を丁重に埋葬しました。
以来その周辺は「百目鬼」の地名で呼ばれ、現在も明神山の西には「百目鬼通り」があります。
別の話として、百目鬼は逃げ延びて長岡百穴に400年間身を潜め、悪事を働いたが智徳上人の説得で改心したともいいます。
全国の佐藤姓の御先祖
藤原秀郷の子孫は、後に「佐藤」氏を名乗りました。
「佐」野の「藤」原氏だからとか、「左」衛門尉の「藤」原氏の略だとか諸説あります。
子孫には西行(佐藤義清)、源義経に仕えた佐藤継信・佐藤忠信の兄弟などがいます。
全国に200万人いるとされる「佐藤」姓のご先祖様の一人とされます。