藤原氏の台頭
嵯峨天皇が亡くなると、藤原氏の北家が勢力を伸ばします。
天皇の信任にあつかった藤原冬嗣は皇室との姻戚関係を深めました。
子の藤原良房は太政大臣任じられ、858(天安2)年、清和天皇が幼少で即位すると、外祖父として事実上政治を掌握します。
9世紀後半は大災害が続きました。
- 貞観6(864)年 富士山噴火
- 貞観11(869)年 東北地方での大規模な地震と津波
- 貞観13(871)年 東北地方の鳥海山噴火
- 貞観16(874)年 九州薩摩の開聞岳噴火
応天門の変
藤原良房は承和の変で伴健岑、橘逸勢らを退けます。
866(貞観8)年、応天門の変では伴(大伴)氏、紀氏が中央政界から追われます。
この時期には飢饉と疫病や富士山、阿蘇山の噴火などの自然災害も続き世情不安が高まっていました。
この事件をきっかけに、藤原良房が正式に「天下の政を摂り行はしむ」として摂政となり、摂政制の成立過程の出来事として捉えられています。
平安時代の初期も藤原氏が他氏を退けて権力を握っていく過程として説明されますが、承和の変、応天門の変も真相がよく分かっていません。
また、ヤマト政権以来の豪族の没落の契機にもなりました。
事件そのものについて、放火か失火か、真犯人が伴善男なのか、藤原良房の陰謀ではないか、などが話題になります。
伴善男は名族大伴氏の一族です。聡明でしたが、性格は残忍苛酷だったと伝わります。
この事件では源信に嫌疑がかかりますが、藤原良房の外孫の惟仁が文徳天皇の次に即位できたのは源信のお陰であると、藤原良房がかばうことになります。
応天門の炎上の際、政府は原因を把握できていませんでした。真相は不明なのです。
伴善男の処罰は、最後は天皇の強い政治的判断による断罪でした。冤罪である可能性がある事件でした。
一方で藤原良房の関与は、事変そのものに陰謀を感じさせないのですが、これを機会に、証拠不十分でも伴善男を閣僚から排除することを考え、判断に迷う清和天皇を強く誘導したのかもしれません。
変に関わる人物として注目されるのが、藤原良房の弟の良相です。良相は伴善男と親しく、良房は善男の断罪を行うことで、良相親子の排除を進めたとみる説があります。
事変は後世に影響を与えます。伴善男の御霊化です。
律令国家から王朝国家へ
ここまでの権力闘争は日本の六つの正史に書かれていますが、正史は日本三代実録で終わります。以後国家主体での正史がなくなったのは、国家制度の重要な転換を示していると考えられます。
その意味でも律令国家が王朝国家に移行したと考えても良いのかもしれません。
養子の藤原基経は陽成天皇の伯父で、摂政、太政大臣に任じられますが、天皇を廃し光孝天皇をつけます。
884(元慶8)年に光孝天皇は基経に百官をひきいて政治をとり天皇を助けるよう命じます。
宇多天皇の時代に太政大臣に「関り白させる」こととし、関白の始まりとなります。
宇多天皇の時に殿上人や地下などの宮廷社会の身分秩序が定まり、明治維新まで継承されます。
延喜の治
平安前期にあたるこの時期、900年頃の人口推計は全国で6,441,400人程度でした。10世紀以降になると西日本の人口増加が鈍化し、東日本の人口増加は続いたため東日本が西日本を凌ぐようになります。
藤原基経が亡くなると、宇多天皇は摂政・関白を置きませんでした。菅原道真を登用し、自ら政治を行います。「寛平の治」です。
菅原道真は基経の子・藤原時平とならんで昇進しました。しかし、901(延喜元)年、藤原時平の策謀で菅原道真は太宰府に流さた(昌泰の変)とされます。森公章氏によると、昌泰の変は醍醐天皇の過剰な反応の要因が大きいと考えられています。
宇多天皇の時に殿上人や地下などの宮廷社会の身分秩序が定まり、摂関制度が廃止されるのは、江戸時代が終わる王政復古の大号令が出た時のことです。
醍醐天皇の時代には、国司や戸籍の制度を守る努力がなされ、延喜式格の法典や日本三代実録の国史が編纂されました。
延喜式の巻9・10の「延喜式神名帳(じんみょうちょう)」に記載された神社を延喜式内社、もしくは式社といい、一種の格式となっています。
延喜2(902)年に荘園整理令を出しますが、律令制的支配は不可能な段階にあり、これは律令制復活最後の試みとなりました。
のちには村上天皇の治世とともに、延喜・天暦の治として理想とされました。しかし地方政治は乱れ、律令体制は崩れつつありました。
延喜・天暦の治は天皇親政の理想的な時代として称えられますが、この呼び方は皇国史観の影響を残したものです。
現在では天皇の親政であったかは、政治構造とは関係ないというのが多くの研究者の見解です。
天皇は皇統に強い関心を持っていましたが、政治は公卿が構成する太政官で行う慣行が成立していたためです。
この時代で重要なのは、藤原北家が一貫して摂政や関白になる時代が始まり、公家の最高の家柄になったこと、争いに武力を用いることがなくなり、世の中が安定した平和な時代だったことです。
この頃に確立した宮廷文化は後世に大きな影響を与えます。下支えしたのが京都の都市的発展でした。
- 貞観11(869)年、疫病により八坂郷で祇園御霊会が開かれ、神輿を神泉苑に送りました。
- 寛平元(889)年、賀茂社で臨時祭が創始され、石清水八幡神社でも臨時祭が開かれました。
昌泰の変(菅原道真左降事件)
901年に右大臣菅原道真が突如として太宰権師に左降します。菅原道真左降事件、昌泰の変です。醍醐天皇を廃位して、異母弟の斉世親王を擁立して起きた事件とされます。
原因は様々な説が唱えられています
- 藤原時平の陰謀
- 廃位は道真ではなく源善らの計画
- 宇多天皇が廃位を考えた
- 道真も源善の廃位計画に参加
- 醍醐天皇の過剰反応
菅原道真は宇多天皇からの信任が厚く、宇多天皇の譲位後も親密でした。これも昌泰の変の一因として考慮する必要があります。
宇多天皇が醍醐天皇に譲位し、藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣になります。醍醐天皇との関係は良好だったと考えられます。
ただし、菅原道真の家系は、公卿を排出する家系ではなく、儒林の出身であり、菅原道真は貴族社会からの批判の眼差しがあることを充分認識していました。
こうした中、以前から因縁のあった三善清行は菅原道真にわきまえて右大臣を辞職するよう勧告します。道真が辞職できないことを見越して、道真を追い詰める策略だったとも言われます。
醍醐天皇は妃が亡くなったので、藤原時平の姉妹を女御に迎えようとしましたが、宇多太上天皇はあくまでも反対でした。
一方で異母弟の斉世親王は道真の娘と婚姻していました。醍醐天皇は道真と宇多太上天皇との関係、かつて自分の立太子・即位を左右した道真の動向に疑念が生じ、藤原時平との関係形成に傾いたのではないかと考えられます。
こうしたことから、道真左降事件で、昌泰の変は醍醐天皇の過剰な反応の要因が大きいと考えられます。
地方政治と国司
国司の中には、国衙に目代を派遣して政治を行い、国司の俸禄をもらうものが現れました。遙任と言います。
国司で最上位を受領と呼び、任国を私領化し富を蓄えます。
受領の支配に対して在地の豪族は中央の貴族・寺社とむすび、荘園をひらいて租税を納めませんでした。
受領は荘園整理令を実行しながら、貴族・寺社と対立しました。
一方で受領は貴族・寺社に寄進して地位を得たり(成功)、地位の再任(重任)の努力をしなければなりませんでした。
目代のもとで地方豪族から登用された在庁官人が実務を握るようになり、在地勢力の進出とともに地方政治は変質していきます。
天慶の乱(承平天慶の乱=平将門・藤原純友の乱)
天慶の乱を舞台にした大河ドラマ
- 1976年の大河ドラマ(第14回)は平将門、藤原純友を主人公とした「風と雲と虹と」でした。
乱の呼称は時代とともに変遷しています。
- 江戸時代から明治20年代頃まで:天慶の乱
- 戦後:承平天慶の乱の呼称が定着
- 近年:天慶の乱が一般化しつつあります
これは日本紀略の記載を重視するか、本朝世紀の記載を重視するかによる違いです。
さて・・・
地方豪族のなかに弓矢を持って戦い、家子と呼ばれる一族や郎党などの従者をひきいて武士化するものが現れました。
朝廷や貴族は、地方武士を侍として奉仕させ、宮中を警備する滝口の武士に任じたり、諸国の追捕使、押領使に任じて地方の治安維持を分担させました。
東国において桓武平氏の高望王が上総の国司として関東に下ると、土着して地域の支配者になりました。
子孫の平将門が承平年間に同族や他氏と私領をめぐる争いを起こします。
土地や租税をめぐり国司や郡司と対立し、国司に対抗していた豪族と手を結びます。
939(天慶2)年、国府に対する反乱を起こします。将門の乱です。将門は親皇を名乗りました。
同じころ伊予の掾(国司)として赴任して土着した藤原純友が伊予の日振島を拠点に海賊を率いました。
940(天慶3)年、太宰府を攻め落とします。純友の乱です。乱は源経基らによって鎮められました。
かつて、平将門・藤原純友の乱は承平・天慶の乱と呼ばれてきましたが、乱について研究が進み、承平年間は、将門が平氏一族の内紛に明け暮れ、純友も海賊を討つ側にいた事がわかりました。
両者が反乱に立ち上がったのは、天慶年間になってからのことのため、最近は天慶の乱という呼称が用いられるようになってきています。
天慶年間に入ると、自然災害と天候不順が全国を襲いました。各地で群盗や海賊の活動が盛んになりました。
938年に京都で大地震が起きたり大雨で鴨川が氾濫しました。東国では武蔵国で橘近安、伊豆国で平将武の騒乱が起きました。
939年は旱魃に見舞われ、京都では盗賊が多く現れ、東国では群盗の活動が盛んになりました。相模や武蔵、上野に押領使が置かれ、尾張では国守が射殺されます。出羽国では俘囚の反乱が起き、秋田城軍と合戦がされています。瀬戸内海では海賊が再び姿をあらわすようになりました。
全国的騒然とした状況でした。こうした中で将門や純友が反乱に立ち上がります。
立ち上がった直接の理由には不明の点が多いですが、全国的な騒乱状況が影響を与えていたのは間違いないでしょう。
将門純友共謀説がありますが共謀関係にあったとは考えられません。
承平・天慶の乱が舞台の小説。
摂関政治
藤原道長が活躍した時代を舞台にした大河ドラマ
- 2024年の大河ドラマ(第63回)は紫式部を主人公とした「光る君へ」でした。
村上天皇は摂関を置かず政治を改めようとしましたが、一代限りで終わり、その後は藤原北家の中でも藤原忠平の子孫だけが摂関に任じられます。
「摂政」「関白」「内覧」は、官僚制の外にあって、天皇との間に特別な役割をもつ官職として登場しました。
- 「摂政」:摂り従うという意味。天皇に代わって政治を行います。
- 「関白」:関かり白すの意味。天皇へ奏上することも天皇から下す命令もすべてに関与します。
- 「内覧」:内々に覧るの意味。天皇への奏上と天皇からの仰せをあらかじめ覧ます。
摂関は天皇制を前提として成立しましたので、天皇側の要請によって摂関が生まれたとする説があります。
天皇の地位が確立し、権力・権威が拡大したからこそ、生まれたのが天皇直属の令外官としての摂関だったとも考えられます。
摂政が置かれた理由
摂政が置かれたのは政変によるためです。
貞観八(866)年に応天門の変が起きます。太政官内部で散しい対立があり太政官が機能しなくなるという危機的状況の中で、藤原良房に摂政補任の勅が下されました。
これが「摂政」の始まりとされることが多いですが、藤原良房が摂政の始まりと考えられるのは、前例とされたからです。
貞観一八(876)年、清和天皇から購成天皇へ譲位する宣命の中で、良房の養子・藤原基経(陽成天皇の外伯父)を摂政に任ずる時に、良房が前例とされました。
摂政の最も重要な職務は、叙位(位階を与えること)・除目(官職を与えること)などの人事と、官奏という下からの奏上文を天皇に代わって覧ることです。
関白の始まり
関白の始まりは先ほど登場した藤原基経です。
必ず最初に基経に諮り、基経が受けることになりました。これは「内覧」の職掌で、関白の中核部分です。
光孝天皇の宣命によって、基経は事実上の「関白」となったと見なされます。
基経が没すると、宇多天皇、次の醍醐天皇は摂関を置きませんでした。その後、摂関が設置されたのは、10世紀の醍謝天皇の子・朱雀天皇の時です。
藤原忠平が摂政となり、同じ天皇で、幼帝の時には摂政、成人すると関白に補任するという例が開かれますが、摂関常置ではありません。
後期摂関政治
969(安和2)年、安和の変で源高明が追われると、摂関は常に置かれるようになります。後期摂関政治の始まりです。
安和の変のきっかけとなる密告をした清和源氏の源満仲は摂関家に密着して仕え、源氏発展の基礎を築きます。
安和の変の首謀者は、源高明の次に左大臣になった藤原師尹、冷泉天皇の外成の伊尹・兼家とする説が有力です。
安和の変は、藤原摂関家と天皇の親族である源氏の権力闘争でした。その本質は、藤原氏の他氏排斥です。
摂関家内部における勢力争いは、激しくなり、兄の兼通に退けられた兼家は事件を引き起こします。
花山天皇寵愛の女御・忯子が身ごもったまま没したことにより、花山天皇が突然出家し、皇太子懐仁親王が一条天皇として即位したのです。
背後で暗躍していたのが兼家です。
一条天皇が即位すると、外祖父である兼家が摂政となりました。
しかし、官位では、右大臣の兼家より上に太政大臣頼忠、左大臣源雅信がいました。
そこで、兼家は右大臣を辞職し摂政だけとなり、座次を太政大臣より上になると宣旨得ます。
これで摂政は、太政官から独立した官職となります。
そして、摂関の地位が親から子へと継承される仕組みが定まります。
藤原道長の時代
藤原道長は、摂関にならずに、内覧で一上という立場を二〇年にわたって続け、太政官政務を直接把握し、内実を空洞化しました。
摂関政治のシステムを考える上で忘れてならないのが、天皇の「母后」です。
天皇が幼い場合は後見し、摂関期の天皇は摂関と「母后」によって支えられました。
藤原道長は4人の娘を天皇・皇太子の妃にし、権勢をほしいままにします。
後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇は道長の外孫でした。
道長の場合、天皇が自己の外孫であるという外祖父摂政でした。
平安時代を通じて、外祖父摂政は清和期の藤原良房、一条朝の藤原兼家、後一条朝の道長の三例のみでした。
しかも天皇と摂政とを結ぶ国母(藤原彰子)はまだ存命、政治に口を出すことも多い天皇の父院(一条院)は死去していました。
考えられる限り最高度のミウチ的結合を実現したのです。
道長は一年余りで摂政を辞し、二十六歳の頼通に譲りました。
官職秩序から自由となった道長は、「大殿」「太閤」として、摂政頼通を上まわる権力を行使しつづけます。
子・頼通も約50年摂政・関白を務め、摂関家の最も安定した時代となります。
摂政・関白は令制の大臣職に関係なく、その上に位しました。
もっぱら天皇の外戚が任じられました。天皇の幼少時は摂政、成人後は関白になるのが慣例でした。
摂関になる者は藤原氏の氏長者もかねるようになります。
「氏」と「家」
この時期は、父系の「氏」の中に、父系の一門や一家が成立していく時側でした。ですが、「家」は成立していません。
- 「家」:擬制的な親子関係を含んだ家族で、家職と家産を所有し、親から子へと継承していく社会の構成単位です。
- 「氏」:藤原朝臣のように、氏名とカバネを天皇から賜与された父系の親族集団で、氏神祭祀や寺院における祖先祭祀を共に行うが、摂関期には氏の中にさらに一門や一家という親族集団が生まれた。
「家」は経営体でもありますが、摂関期にはそれが未成立のため、女性は結婚しても夫の氏や一門へは入りません。
この頃の貴族は夫が妻のもとに通う妻問婚が多く、婚姻生活の中心は妻の家にあり、子も妻の家で養育されました。
天皇の外祖父が摂関として権力を握ったのは、こうした生活習慣によるところが大きかったのです。
院政につながる政治
道長にとっては待望の外孫の後一条天皇が即位しました。
道長は外祖父として摂政となり、二〇年間にわたり保持してきた左大臣の官を辞します。
ところが、翌年、道長は摂政を辞し、息子の顔通が代わって摂政となります。
道長が摂政だったのはわずか一年。
道長は「大殿」として隠然たる力を振るっていくことになります。
「大殿」とは貴人の当主の父の意味で、道長は公的な役職を自らは保持せず、周囲の人間を動かすことで実権をにぎりました。
従来は、 摂関政治が衰退して、白河上皇以降院政になるので、 摂関政治と院政の間には断絶があると考えられてきました。
しかし、最近の研究で、藤原道長の権力形態が院政へと継承されているという指摘がされています。
社会の不安定化
藤原氏の台頭と繁栄は、社会のバランスを崩し、表面的な平和とは別に、隠然たる怨念がどす黒い底流となっていきます。そのせいか、藤原一族は代々他の貴族よりも多く鬼との出会いが記録されました。
鬼と言えば、羅城門の鬼が有名です。羅城門は弘仁7年(816年)に大風で倒壊(「日本紀略」)し、再建されましたが、天元3年(980年)の暴風雨で倒壊(「百錬抄」)して、以後再建されませんでした。倒壊以前にすでに荒廃しており、上層では死者が捨てられているありさま(「今昔物語集」)でした。
- 2021年東大:9世紀後半になると、奈良時代以来くり返された皇位継承をめぐるクーデターや争いはみられなくなり、安定した体制になりました。その背景にはどのような変化があったかが問われました。
- 2019年東大:10世紀から11世紀前半の上級貴族にはどのような能力が求められたか、また、この時期には、『御堂関白記』(藤原道長)や『小右記』(藤原実資)のような貴族の日記が多く書かれるようになりました。日記が書かれた目的を問われました。
- 2010年東大:奈良時代からの変化にもふれながら、10・11世紀の摂関政治期、中下級貴族は上級貴族とどのような関係を結ぶようになったのか問われました。
- 2002年筑波:8世紀末から9世紀前半における国政の展開について、「藤原冬嗣」「教王護国寺」「健児」「弘仁格式」の語句を用いて回答することが求められました。
- 1995年東大:摂政と関白の共通点と相違点と、摂関政治については、9世紀後半から10世紀中頃までの前期と、10世紀中頃から11世紀中頃までの後期の二期に分けて考えることがりますが、前期の特徴を、後期と比較して問われました。
- 1995年筑波:「太閤」「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることも無しと思へば」「余」の人物や和歌を具体的に説明しながら、この時期の政治の特質について問われました。
- 1983年東大:1978年の摂関政治と院政に関する問題が改めて問われました。
- 1978年東大:10世紀から12世紀にかけての摂関の地位をめぐる変遷を、摂関政治のころの政治と、院政のころの政治とで比較して問われました。
外交
894(寛平6)年、菅原道真は遣唐使に任じられながらも中止を求め、遣唐使は廃止されます。
菅原道真の奏上によって遣唐使の廃止がされたと考えられていましたが、道真は、この回の遣唐使の可否を問題にしているだけでした。
唐使はなし崩し的に停止に至ったと考えられるようになってきています。
遣唐使が派遣されなくとも、僧侶や新羅商人・唐商人らによって唐の情報や文物が入手可能な状況になってきていたからです。
東アジアの国際変化による影響もありました。
- 10世紀前半には唐、新羅、渤海が滅びます。
- 中国は五代十国を経て宋がおこります。
- 朝鮮では高麗、北方は遼(契丹)がおこります。
すでに行われていた私貿易は10世紀になると、貿易を目的とした商人の活動が活発になります。
- 商人はアラビアやインド、南海の諸国とも貿易します。
- 貴族や太宰府の土豪、商人、荘園領主とも私貿易が行われました。
- 宋の商人の中には博多津に住む者も現れます。
- 日本の僧の中にも宋船で宋に渡るものも出てきます。
刀伊の入寇
1019(寛仁3)年、刀伊の来襲がありました。北方の刀伊(女真人)が対馬・壱岐・筑前を襲いました。
太宰府と周辺土豪によって退けられましたが、朝廷や貴族に衝撃を与えました。この事件で奮戦した武士の子孫として、九州に原田氏や菊池氏が勢力を広げます。
国風文化の成立
遣唐使が廃止されたことによって唐風文化が衰退し国風文化が生まれたと長く考えられてきました。
近年では中国や朝鮮半島の文化を受容しそれらに基づいて国風文化が生まれたと考えられるようになってきました。
- 2015年阪大:古代において日本は中国とさまざまな関係を持ちました。9・10世紀における日中間の交流について問われました。
- 1999年阪大:遣唐使が廃止された経緯、およびその歴史的影響について問われました。
- 1997年東大:吉備真備は二度にわたり唐にわたった経験をもちますが、古代の遣唐使が日本にもたらした制度や文物について問われました。多くの政治的争乱がくりかえされた中で、地方豪族出身の吉備真備は、なぜ長期にわたって政界で活躍し、右大臣にまで上ることができたのかが問われました
- 1989年一橋:近代以前の日本は、東アジア社会の一員として、他の地域と相互に影響を及ぼしあいながら、歴史を展開させてきました。次に掲げた年には、日本の対外関係史上重要な出来事が起きています。そのそれぞれについて、内外の歴史的背景と日本社会への影響を含めて説明が求められました。(1)607年、(2)894年、(3)1401年、(4)1543年
- 1985年東大:7世紀から9世紀にかけての遣隋使や遣唐使が、当時の日本の政治および文化に与えた影響が問われました。
国風文化
怨霊信仰、浄土信仰
参考文献
- 鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」
- 倉本一宏「紫式部と藤原道長」
- 五味文彦「中世社会のはじまり」(シリーズ日本中世史①)
- 佐藤信編「古代史講義【戦乱篇】」
- 古瀬奈津子「摂関政治」(シリーズ日本古代史⑤)
- 山本博文「歴史をつかむ技法」
テーマ別日本史
政治史
- 縄文時代と弥生時代
- 古墳時代から大和王権の成立まで
- 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
- 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
- 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
- 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
- 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化) 本ページ
- 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
- 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
- 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
- 鎌倉時代(惣領制の成立)
- 鎌倉時代(蒙古襲来)
- 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
- 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
- 室町時代(下剋上の社会)
- 室町時代(戦国時代)
- 安土桃山時代
- 江戸時代(幕府開設時期)
- 江戸時代(幕府の安定時代)
- 江戸時代(幕藩体制の動揺)
- 江戸時代(幕末)
- 明治時代(明治維新)
- 明治時代(西南戦争から帝国議会)