白河関跡の歴史
白河の関は奈良時代から平安時代頃に機能していた国境の関で、物資の往来を取り締まる機能を果たしていたと考えられています。
また、このルートを使って源義家や源義経が東北へ入ったといわれています。
「歌枕」として能因や西行、松尾芭蕉など歌人・俳人たち多くの歌を残しています。
境内には樹齢800年と言われる「従二位の杉」があります。「新古今和歌集」の撰者の一人である藤原家隆が手植えし奉納したと伝えられます。
奥州三関の一つに数えられる関所
白河の関は、鼠ヶ関・勿来関とともに、奥州三関の一つに数えられる関所です。
8・9世紀頃に機能していたと考えられているようで、律令国家としての機能を失った10世紀頃には機能しなくなっていたようです。そのため、長いことその所在が不明となっていました。
江戸時代の寛政12年(1800)。白河藩主松平定信が調査を命じて、考証の結果、空堀・土塁が残っていることなどから白河の関であると断定して「古関蹟」の碑を建てました。
中世には、丘陵全体が居館として使用されました。その当時に造られた土塁や空堀が残っています。
昭和に入り、ここが白河の関かどうかを確かめる発掘調査が行われました。
昭和34年から5年に渡る調査で白河関跡の条件にかなう点が多く発見され、国指定の史跡となります。
10世紀頃には機能を失っていたとなると、源義経がここを通過したとされる時には関はなかったということになります。
さて、白河の関の場所ですが、道の駅・東山道伊王野から白河方面に向かって最初の信号を右折し、そのまま山道を超えるとたどりつきます。
ようするに義経街道を通ることになるのですが、文字通りの山道です。車の運転に自信がない人は通るのをあまりオススメしません。場所によってはすれ違いに気を使うからです。
非常に穏やかな場所にあり、鎌倉の護良親王墓所の様なたたずまいでした。
東山道に設けられた関所ということなので、道の駅・東山道伊王野からの道が東山道ということになります。
感覚的には294号線を北上して南湖にたどり着く道の方が自然に思えます。
東山道は途中いくつにも枝分かれしていて、総称で東山道と呼ばれていたのではないでしょうか。同じように白河の関も複数あって、総称で呼ばれていたのではないかと思いました。
源氏ゆかりの地
幌掛の楓は源義家が前九年合戦の際に白河の関を通り、この楓に幌をかけて休んだと伝わります。
旗立の桜は源義経が平泉を出発し、途中この白河の関に立ち寄り戦勝祈願をするために源氏の旗を立てて旗揃えをしたと伝わります。
式内社:白河神社
白河の関跡にあるのが白河神社です。式内社の陸奥國白河郡白河神社とされる古社です。
関の明神、二所関明神とも呼ばれます。
社伝によれば、成務天皇5年、白河国造・鹽伊乃自直命(しほいのこじのあたいのみこと)を祀ったのが始まりとされます。
社殿は伊達政宗が奉納したものと伝えられています。
地図
福島県白河市旗宿関ノ森120