中世という時代を思潮という面からとらえた一冊です。シリーズ日本中世史(全4巻)の第1巻になります。
中世(鎌倉時代から室町時代)の約500年を俯瞰し、続く第2巻から第4巻を読む際の土台となります。
本書では中世社会の基本的な枠組みを提示します。
- 第一章では古代史を回顧します
- 第二章では中世の始まりとなる院政時代を扱います
- 第三章と第四章では後三条天皇から後白河院政まで扱います
- 第五章と第六章では中世文化の様相を百年ごとの変化に注目して見ます
中世は百年毎に区切ることができ、67年、68年がメルクマールになります。そして百年毎に「思潮」を見出すことができます。
- 1068 【思潮=家】後三条天皇即位(院政時代)
- 1167 【思潮=身体】平清盛太政大臣(武家政権)
- 1268 【思潮=職能】蒙古の国書到来(東アジア世界の流動)
- 1368 【思潮=型】応安の半済令(公武統一)
他の巻で扱うのは下記の通りです。
- 第2巻:鎌倉時代
- 第3巻:南北朝から室町時代
- 第4巻:戦国時代
- シリーズ日本古代史
- 農耕社会の成立
- ヤマト王権
- 飛鳥の都
- 平城京の時代
- 平安京遷都
- 摂関政治
- シリーズ日本中世史
- 中世社会のはじまり ⇒今ココ
- 鎌倉幕府と朝廷
- 室町幕府と地方の社会
- 分裂から天下統一へ
- シリーズ日本近世史
- 戦国乱世から太平の世へ
- 村 百姓たちの近世
- 天下泰平の時代
- 都市 江戸に生きる
- 幕末から維新へ
- シリーズ日本近現代史
- 幕末・維新
- 民権と憲法
- 日清・日露戦争
- 大正デモクラシー
- 満州事変から日中戦争へ
- アジア・太平洋戦争
- 占領と改革
- 高度成長
- ポスト戦後社会
- 日本の近現代史をどう見るか
はじめに
中世社会が展開するのは後三条天皇による荘園整理令など一連の国政改革からでした。
これにより荘園公領制が成立し、地域権力の形成と成長がなされ、武士や民衆の台頭、宗教者の活動が盛んになります。
第一章 中世社会が開かれる
1 宮廷政治と文化
9世紀後半の平安時代には大災害が続きました。
- 貞観6(864)年 富士山噴火
- 貞観11(869)年 東北地方での大規模な地震と津波
- 貞観13(871)年 東北地方の鳥海山噴火
- 貞観16(874)年 九州薩摩の開聞岳噴火
また貞観年間は飢饉や疫病が流行りました。
こうした中で始まったのが藤原良房による摂関政治でした。
良房は清和天皇を即位させ、年号を貞観に改めて新たな政治を目指したのでした。「貞観交替式」「貞観格式」などを整備します。
貞観8(866)年に応天門の変が起き、伴善男が失脚すると、「天下の政を摂り行はしむ」として摂取の地位が始まります。
跡を継いだ藤原基経も摂取・関白となり、摂関政治が展開してゆきます。
これに伴って天皇を中心とする宮廷政治が確立します。
基経が亡くなると、宇多天皇は親政を行い、菅原道真や藤原保則らを起用した「寛平の治」を行います。
宇多天皇の時に殿上人や地下などの宮廷社会の身分秩序が定まり、明治維新まで継承されます。
次の醍醐天皇は基経の子・時平を重用し、延喜2(902)年に荘園整理令を出します。
しかし律令制的支配は不可能な段階にあり、これは律令制復活最後の試みとなりました。
この頃に確立した宮廷文化は後世に大きな影響を与えます。下支えしたのが京都の都市的発展でした。
- 貞観11(869)年、疫病により八坂郷で祇園御霊会が開かれ、神輿を神泉苑に送りました。
- 寛平元(889)年、賀茂社で臨時祭が創始され、石清水八幡神社でも臨時祭が開かれました。
都城の遷都は無くなり「千年の都」としての京都が生まれました。
2 大地を開いた人々
- 元慶2(878)年 出羽の俘囚が秋田城を攻めた元慶の乱
- 寛平元(889)年 東国の賊首・物部氏永蜂起
- 昌泰2(899)年 僦馬の党(しゅうばのとう)の被害
諸国では富豪の輩が活動を繰り広げていました。富豪の輩は郡司一族や土着国司などが墾田開発、田地経営などを通じて富を集積しました。
富豪の輩は経営者の側面から「田刀」「田堵」として捉えられ、開発は新たな意義を持つようになります。
土地を守るにあたり富豪の輩は武力を利用するようになり、蓄財によって任地に土着した人々も武力を利用し「兵(つわもの)」が生まれてきます。
土地を開発する中で兵の間で争いが起きていましたが、最大の争乱となったのが平将門、藤原純友の承平・天慶の乱でした。
この頃の大陸では唐が滅び、周辺諸国では国風文化への取り組みがあり、日本でも同じく「国風化」の取り組みがありました。
遣唐使の派遣は行われていませんでしたが、大陸との取引は商人たちによって行われていました。
宮廷文化が繰り広げられる中、都市文化の担い手として登場したのが京童でした。金銀を散りばめた衣装で着飾り、祭礼では様々な芸能を演じました。
京童の活躍の場が、稲荷祭や祇園祭(八坂神社)のような祭礼でした。
3 中世の風景
安和2(969)年、安和の変を機に、政治の実権は藤原氏が完全に握るようになり、後期摂関政治が始まります。
安和の変のきっかけとなる密告をした清和源氏の源満仲は摂関家に密着して仕え、源氏発展の基礎を築きます。
諸国では争乱が少なくなったこともあり、受領が大きな富を得るようになります。また、大名田堵の力を利用して公領の支配を行うようになります。
地方支配は受領に委ねたため、天皇、摂関、公卿は都で政治を進めれば良くなりました。
永観2(984)年に即位した花山天皇は、官人綱紀粛正をはかりました。永観の新制と呼ばれます。
村上天皇が天暦の新制を行うと、時代は格式から新制の時代へ移行しました。
宮廷文化
女性の教養が高まり、仮名による文学が開かれます。
- 藤原倫寧の娘による「蜻蛉日記」
- 清少納言「枕草子」
- 紫式部「源氏物語」
教養文化も形成されました。
- 源為憲「口遊」「三宝絵詞」
- 源順「倭名類聚抄」「作文大体」
- 藤原明衡「本朝文粋」「新猿楽記」「雲州消息」
書では三蹟が活躍しました。
- 小野道風
- 藤原佐理
- 藤原行成
実用書も記されました
- 丹波康頼「医心方」
漢詩文の朗詠のための書物も編まれました
- 藤原公任「和漢朗詠集」
信仰
仏を祀る堂が京の各所に生まれます。
- 空也 市聖 西光寺を建立(中信が六波羅蜜寺に改名)
- 行円 横川の皮仙 行願寺
こうした神仏とともにあったのが遊女や巫女でした。巫女は今様を通じて神と民衆を繋ぎました。
拠点としたのは御霊信仰に基づいて生まれた今宮や若宮、王子でした。
神仏習合の思想も広がりを見せました。(神仏習合については義江彰夫「神仏習合」が詳しいです。)
仏教を受容するにあたり、在来の神と結びついたのが神仏習合の思想でした。神の背後に仏があるという本地垂迹説が浸透していきます。
藤原氏の氏社である春日社に神仏習合の信仰が入る様は「春日権現験記絵」で伝わります。春日社の一宮は常陸の鹿島社の武甕槌命、二宮は下総の香取社の斎主命、三宮は河内の天児屋根命が勧請されていました。
仏教信仰の動くや時代変遷により神の本地とされる仏も変わりました。
やがて阿弥陀仏の信仰が急速に広がります。
- 空也の阿弥陀仏信仰と念仏
- 源信の「往生要集」
「阿弥陀聖衆来迎図」を庭園に映したのが宇治の平等院の庭園でした。
浄土信仰は末法思想とともに深く浸透し、末法の時代が永承7(1052)年に到来すると考えられ、平等院が建立され、浄土庭園が造られました。
この影響は院政期の鳥羽離宮の庭園や平泉の無量光院へつながります。
新たな信仰により浄土庭園み変化していきます。鎌倉近くの金沢にある称名寺は浄土庭園から始まりましたが、律宗が入り、複合的な庭園になります。
このように継承された自然観は鎌倉時代末期の兼好法師の「徒然草」によってわかります。
兵
11世紀になると地方では兵の活動が盛んになります。
寛仁3(1019)年、刀伊の入寇が起こります。女真人が対馬、壱岐襲い、博多まで来襲する事件です。この事件で奮戦した武士の子孫として、九州に原田氏や菊池氏が勢力を広げます。
長元元(1028)年、関東で平忠常の乱が起きます。源満仲の子・源頼信が乱を鎮圧すると、源氏の勢力が関東に拡大します。
第二章 地域権力と家の形成
1 院政の始まり
中世社会の端緒となったのは、永承6(1051)年に起きた前九年の合戦でした。
この合戦を中世の端緒と考えるのは、安倍氏による陸奥の奥六郡の「管領の司」の支配が武家政権に繋がっているからです。
「司」は諸国の郡司とは異なり、辺境の支配のために豪族に管理権を与えたものでした。
奥六郡の「管領の司」を継承したのが平泉の藤原氏で、その地位は源頼朝に継承されました。
源頼朝は東海道惣官と語っていますが、寿永2(1183)年に宣旨によって東国一帯の支配権を朝廷から獲得したことから称したものでした。
この表現は平氏が畿内近国に置いた惣官を踏まえたものでした。
郡司と異なる軍事指揮官としての惣官は、安倍氏の「司」まで遡ることができます。
もう一つ、安倍氏方にあった藤原経清が白符を用いて官物の徴収にあたったことも、武家政権に繋がっています。
国府からは朱印の押された赤符が出されましたが、白符は印が押されていない文書です。
白符の発展形が花押の捺された下文です。
源頼朝は下文を幕府形成に際して用いて支配を広げているので、鎌倉幕府の支配の原型といえます。
前九年の合戦の頃、中央政府でも新たな動きが始まっていました。
生母が藤原氏でない後三条天皇が即位し親政を行いはじめたのです。
延久元(1069)年、延久の荘園整理令を出し、延久4年に宣旨枡や估価法を制定しました。
延久の荘園整理令では審査機関の記録荘園券契所を設けました。摂関家領まで審査の範囲を広げ、大きな影響力を与えました。これにより多くの荘園が撤廃されました。
しかし裏を返せば太政官符によって荘園が認められることを意味し、安定した支配が可能となるため、荘園制はむしろ定着しました。
国司(受領)も荘園以外の土地を公領としてしっかり把握する体制の構築に向かいます。
こうして荘園公領制が生まれます。
後三条天皇の跡を継いだ白河天皇は国政を整えることに力を注ぎました。
法勝寺を創建し王権を象徴するモニュメントとなります。その後、六つ「勝」の字のつく寺ができ六勝寺が成立します。
白河天皇が譲位して幼い堀川天皇を立てたことから院政の起点となります。
天皇が退位して家長権を掌握してゆくなかで成立した政治形態でした。このもとで天皇家の荘園や公領が集積され、継承されていきます。
堀川天皇が若くして亡くなると、鳥羽天皇が即位します。本格的に院政が動きはじめます。
院が選んだ実務に秀でた貴族層を院近臣として組織して政治を推進しました。摂関主導の政治から変わったのです。
2 白河院政と家
白河院は院北面に武士を置き、武力によって対抗勢力を押さえつけました。
行政の面でも特定の家が官司を実質的に経営するようになります。そうして子弟をいくつもの国の守に任じ、経済的に院に奉仕する院近臣が現れるようになります。
天仁2(1109)年の白河院側近の知行国を見ると、主要な国々は院の関係者の知行国になっています。
受領や知行国主は諸国を経営するために目代を派遣しました。
受領が任国に下る必要がなくなると、始めと終わりだけに国内の神社への参拝のためだけに下るようになります。
国内の有力な神社を一宮、二宮以下の格式を与えて組織し、国府近くに国内諸社の神を勧請した惣社を参拝して京へ帰りました。
これにより律令国家によって保護されてきた式内社や国分寺・国分尼寺が衰退します。
受領が下らなくなったことにより、在庁官人は国衙の機構を利用して勢力を広げます。
文化は院を中心に展開します。
造営した鳥羽殿は平等院にならったものでした。また、古典文化の復興を企て、「後拾遺和歌集」「金葉和歌集」を編ませました。他には今様や田楽が広く流行します。
白河院は祇園御霊会に力を入れたため、祇園祭は国王家の祭礼の様相を示すようになります。
院政が我が皇統に皇位を継承させようとした動機から始まったように、家の形成は子孫にその地位の継承をはかるように始まったのでした。
そのため藤原道長の流れを引く御堂流の藤原氏も家の形成に動きました。
藤原忠実は天皇の外戚ではありませんでしたが、白河院からの指名で摂政になりました。ここに娘を天皇の后に据えることなく摂関になる摂関家の形成の道ができました。
また忠実は分散していた荘園を集め、摂関家政所を整備します。
国王の家に始まって摂関家へ続いた家の形成の動きは、上流貴族にも広がります。
家形成の動きは家格秩序の固定化を促し、朝廷はそうした家の集合体の性格を帯びるようになります。
寺院や神社でも同様に寺家、院家や社家の形成へ向かいました。
武士も家を形成していきます。
3 武士の家
後三年の合戦を、朝廷は源義家の私戦とみなし陸奥守を解任しました。
しかし源義家は関東から出征してきた将士に私財から恩賞を与えたため、声望が高まりました。
その義家の家は順調には発展しませんでした。
一方で平氏は平正盛が順調に西国に勢力を広げ、院北面として院のそばで奉仕しました。
前九年と後三年の合戦に加わった兵はその存在を自覚し、子孫は家を形成していきます。
兵から武士へ展開する中で、氏から家への形成が進められていきます。
後三年の合戦後の奥州では藤原清衡が平泉に居を移し勢力を拡大しました。
第三章 地域社会の成長
1 平氏の台頭と鳥羽院政
大治4(1129)年、白河院が亡くなります。継承した鳥羽院は、秩序を求めた祖父とは異なり、諸勢力の統合に力を注ぎます。
すぐさま蔵に封させ宝物の分散を防ぎ、勝光明院付属した宝蔵を設けました。
宝蔵は宇治の平等院宝蔵や延暦寺の前唐院蔵にならったもので、王権を飾ることに腐心しました。
諸国の荘園も院周辺に集中します。一度も荘園整理令を出さず、寄進を受け入れ、荘園には国役の免除や国使不入などの権利を与えました。
集められた荘園は六勝寺や待賢門院、美福門院、皇女の八条院などに所領とされ、荘園の目録は国王のコレクションに性格を有しました。
院は宝物や荘園の他に武士も集めました。
白河院は武士の出世を抑えましたが、その中で出世したのが平氏でした。平氏は京での根拠地を六波羅に置きます。
平清盛が左兵衛佐に任じられた大治4(1129)年、平忠盛は西国に勢力を伸ばし、長承元(1132)年に殿上人になります。
この昇殿は平氏による武家政権への第一歩となります。
長承3(1134)年、天下飢饉が起きます。この飢饉はその後続く中世の飢饉の端緒となりますが、同時に海賊や山賊が横行するようになります。
これ以後、飢饉や彗星、代替わりとともに徳政が求められるようになります。
飢饉への有効な対策は特に取られませんでしたが、海賊に対しては追捕がなされました。
平氏は西国の海賊追討使に任じられ、西国の豊かな国の受領となって勢力を伸ばしました。
源氏は為義が畿内周辺に自ら出かけて勢力を広げます。
また源氏は様々な手段を講じて地方に勢力を伸ばしていきました。為義の嫡子・義朝は東国で育ち、為朝は鎮西で育ち、それぞれの地域で力を伸ばしました。
子を各地に派遣して在地の武士と主従関係を築く戦略を取ったのです。
このように源氏と平氏は院に仕えた地位を利用しつつ、地方の武士との間に広く主従関係を築いていきました。
武士独自の慣習が生まれ、国司の統制から自由な活動を繰り広げたので、武士同士の争いが絶えませんでした。法然が父を失ったのはこの頃でした。
特権が与えられた荘園と家産に組み込まれた知行国との紛争も起きていました。
国衙の目代や在庁官人と豪族的武士との対立が合戦に至ることは広く諸国で起きていました。
荘園の免除特権を否定して国の支配を強めようとする受領や国衙と、朝廷や院から免除特権を獲得して荘園支配を強めようとする荘園側の動きが衝突しますが、摂関家の知行国も例外ではありませんでした。
2 家をめぐる葛藤
「家」が生まれる中、家から逃れる動きも起きていました。
その一つに仏道修行の道に入る遁世があります。
浄土への往来を求める動きが人々の心を捉えるようになっていたのです。
ことに文人たちは世人の詩文への関心が衰え、出世の望みも断たれていたので、その動きは強いものでした。
遁世の志を持つ人々に仏道への結縁を勧める勧進聖の動きも活発になります。融通念仏を広めた良忍や東大寺再建に尽した永観らです。
西行は武士の家に生まれて出家を遂げました。西行遁世の影響は大きく、家の形成という時代の流れに衝撃を与えました。
また、出家しないで家をめぐる争いから離れる動きもありました。花園の左大臣・源有仁がその例でした。
風雅の世界に生きる文化人となり、邸宅には百大夫と称される芸能に堪能な人々が出入りしました。
この遺跡を継承したのが後白河院になる雅仁親王でした。
皇位の継承の可能性は低かったのですが、鳥羽院が崇徳天皇に退位を迫って近衛天皇が皇位についたものの子が生まれまかったことから、可能性が出てきました。
この時期、富士信仰が盛んになっていました。
京で鳥羽院の宮廷が展開している時期に、奥州平泉では藤原清衡の跡をめぐって二子が合戦し、基衡が跡をつぎます。
基衡は毛越寺を建立しますが、京の王権へ接近が伺えました。京の王権から明らかに独自の動きをとった清衡とは異なり、列島をめぐる新たな情勢に深く関係した動きをするようになります。
毛越寺の呼称も奥州藤原氏勢力が陸奥・出羽を出て関東や北陸に及んでいたことを考えると、「毛」とは毛の国こと上野と下野を指し、「越」は越の国こと越後、越中、越前を意味していたと考えられます。
下野には秀郷流の同族の藤原氏が広がり、越後から北陸道は京と結ぶルートでした。
基衡の王権は清衡が東方の仏国土の支配者を示したのと異なり、京の王権を模して奥州の支配者を示したものでした。
京では皇位継承をめぐり崇徳院と美福門院が競り合っていました。これに密接に絡んできたのが摂関家の内紛でした。
忠通と頼長の兄弟で争いが生まれ、日本第一ノ大学生と称された頼長が氏長者の地位を奪い取りました。
家の実権をめぐる争いは武士の家でも起きていました。
源氏では源為義と嫡子・義朝との間、平氏では忠盛と兄弟の忠正との間です。
この争いは崇徳・頼長派と美福門院・忠通派に分裂します。
久寿2(1155)年、近衛天皇が亡くなると、法皇は側近を召して新帝の協議をします。そして図らずも即位したのが後白河天皇でした。
中継ぎの立場は歴然としていたため、後をめぐって争いがおきはじめます。
久寿3(1156)年、鳥羽法皇の病気が重くなります。法皇は源義朝・義康らの武士に臣従を誓わせ禁中の警護を命じます。平清盛も美福門院のはからいで警護に入りました。
第四章 武者の世と後白河院政
1 保元・平治の乱
保元元(1156)年、鳥羽法皇が亡くなります。すぐさま崇徳上皇が藤原頼長と軍を発して皇位を奪おうとしていると噂が立ちます。
禁中の警護が強化され、検非違使らが警戒しました。
主導権を握ったのが信西でした。後白河天皇は中継ぎの天皇でしたので、立場を強固にする必要がありました。
摂関家の氏長者を象徴する邸宅が没収され藤原頼長の氏長者の権限が否定されると、上皇・頼長が対処せざるを得なくなります。
しかし武力は少なく、武力で情勢を覆そうとは考えていなかったと思われますが、崇徳上皇が白河御所に入ると挙兵したものとみなされました。
天皇の御所である高松殿には源義朝、平清盛、源頼政らの軍勢が集められます。
こうして保元の乱が起きます。
藤原頼長は流れ矢にあたって死去し、崇徳上皇は讃岐に流されました。上皇の配流はそれまでにない措置でした。
関白藤原忠通の末子の慈円は「愚管抄」でこれ以後「武者の世」になったと記しました。
この認識は貴族共通のもので、時代は武士に世に着実に動いてゆきました。
保元の乱は後白河天皇方の勝利終わったことから、地位も安定し、信西が天皇を押し立てて政治改革を進めました。
死刑復活を復活させますが、実力によって敵対者を葬る考え方を公的に認めることになりました。
天皇家の直轄領の充実を図り、後白河天皇の経済基盤を広げました。
また、荘園整理令を軸とする保元の新制を出します。鳥羽院政では出されなかった荘園整理令が出されたのは、全国に広まった荘園をめぐって紛争が生じていたからです。
整理の眼目は、久寿2(1155)年7月24日以後に立てられた荘園を停廃止することと、年貢の免除されていた土地以外の加納や出作による荘園を停止することでした。
延久の整理令を基準としてきたこれまでの荘園整理令に比べ、大きな転換となりました。
乱から2年経つと抑えられていた諸勢力が頭をもたげてきます。
後白河天皇に中継ぎの天皇を認めてきた美福門院が退位を求めてきました。美福門院と信西の話し合いの結果、後白河上天皇は譲位し二条天皇が即位します。そして後白河院政が始まります。
天皇親政を求める勢力が台頭するとともに、院近臣の中にも家を興す動きが広がります。
上皇の寵を得ていた藤原信頼は目覚ましい出世を遂げ公卿の仲間入りをします。
一方で信西は人事権を掌握します。「平治物語」では信西が藤原信頼の大将の望みを断ったから恨みを買って平治の乱が起きたとしています。
政治の実権を握った信西に対する院近臣の反発と、二条天皇の親政を求める動きがあわさって政局が進みます。
藤原信頼は武力を源義朝に頼みました。義朝は保元の乱の活躍のわりに信西の評価が低く取り残されていました。
保元4(1159)年に改元され平治元年となりますが、平清盛が熊野詣でに赴いた隙をついて藤原信頼は源義朝と挙兵します。
平治の乱です。
信西が自殺したことから、藤原信頼は官職の任命行いますが、旧勢力の支持を得られませんでした。
平清盛は熊野詣を切り上げ六波羅に戻ると信頼・義朝追討の宣旨が出されるのを機に源平の合戦となります。
乱はあっけなく終わり、信頼は処刑、義朝は家人に討たれました。
乱後の平氏の知行国は五カ国から七カ国に増え、平清盛の政治的地位は不動のものとなります。
2 武家権門の成立
平清盛は上皇・天皇の両勢力から頼みにされ、永暦元(1160)年に公卿になります。
上皇と天皇による二頭政治が行われて、武力の面で平清盛が支え、政治の面で摂関が支えました。
永暦元年に美福門院が亡くなると上皇側と天皇側の対立が深まります。
応保元(1161)年、二条天皇は院政を停止しました。失意の後白河上皇でしたが、平氏や院近臣の仲介等で後白河院領が急増し経済的基盤が拡大しました。
永万2(1165)年に二条天皇が亡くなります。後白河院政が完全に復活し、「治天の君」になりました。
仁安2(1167)年、平清盛は太政大臣になります。平清盛は短期のうちに太政大臣を辞し、政界から形式的に身を引き、平重盛に家督を譲ります。
こうして軍制・官制において部門政権の平氏政権が誕生します。
ただし平氏は直接的には国政に関わらなかったため、院政下での武家政権でした。
平氏は八カ国を知行し、多くの荘園を経済基盤にして、本拠を六波羅にしていました。もう一つの本拠が摂津の福原でした。
日宋貿易の拡大とともに博多や筥崎は国際港湾都市として賑わいます。平氏は太宰府を掌握して日宋貿易に乗り出していました。
博多経由で多くの産物がもたらされましたが、なかでも銭が多く、銭での取引が増えていきます。
3 家の文化
家が形成された時代の文化は家の文化としての色彩が濃いものとなりました。
勝光明院や蓮華王院の宝蔵に象徴される国王の家の文化です。
平家一門によって安芸の厳島社に納められた装飾経もあげられます。
地方の武士の家にも中央の文化が及びました。
各地の武士が基盤においたのは荘園や公領ですが、荘園は鳥羽院政期に増加し、後白河院政期にピークを迎えました。
各地で武士の家が形成され、朝廷は家の集合体化し、やがて武士の家の連合体として鎌倉幕府が形成されます。
鎌倉後期になると家の形成は村々の百姓の世界にまで及ぶようになり、家の観念は広く社会に定着します。
第五章 身体の文化
1 内乱期の文化
院政期の文化を特徴づけるのは家形成の動きでしたが、続く時代は身体の動きに発する文化の傾向が強くなります。
先駆けとなるのが後白河院が自ら今様を謡って「梁塵秘抄」を編み、猿楽を好むなど身体動かすことで直接文化に関わったことでした。
安元2(1176)年、平家と後白河法皇を結んでいた建春門院が亡くなります。
配流途中の比叡山の悪僧・明雲が大衆に奪われたため、後白河法皇は平清盛に比叡山への攻撃を命じました。
やむなく比叡山への攻撃へ腹を固めた頃、多田源氏の源行綱から藤原成親らの謀議が密告されます。鹿ヶ谷の陰謀です。
鹿ヶ谷の陰謀以後、高倉天皇への皇子誕生が望まれ、平清盛の孫になる皇子が誕生(安徳天皇)しました。
しかし治承3(1179)年、娘の盛子、家督の重盛が相次いで亡くなります。
この年、平清盛の面目が丸潰れとなる人事が発せられ、法皇に裏切られた思いの清盛は強硬な態度に出ます。
院政が止められ、大量の院近臣が解官され、法皇の身柄も鳥羽殿に移されます。
新たな政治を目指した行動ではなく、勢力が拡大したのを見届けると、福原に戻りました。
しかしこの影響は大きく、これを機に武士が積極的に政治に介入する道が開かれ、武士が武力で反乱する事態をもたらします。
安徳天皇即位すると、後白河法皇の皇子・以仁王平家打倒の令旨を出し、治承・寿永の乱が起きます。
寺院の大衆が蜂起したため、平清盛は法皇、高倉上皇、安徳天皇を福原に移します。福原遷都です。
東国では源氏が挙兵すると、平氏は追討に失敗したことから、都を戻して南都北嶺の大衆の鎮圧に向かいます。そのなかで南都が焼き討ちにあい、東大寺の大仏が焼かれます。
後白河法皇は東大寺大仏の再建を重源に託し、重源は奥州の藤原秀衡や鎌倉の源頼朝らの協力を得て、民衆からも喜捨を募って文治元(1185)年に大仏の開眼、建久6(1195)年に大仏殿の供養を行いました。
重源は新たな技術である大仏様と称される建築様式を大陸から導入しました。
同じ勧進でも法然は念仏勧進に邁進しました。承安5(1175)年が浄土宗の立宗に年とされます。
源頼朝は治承4(1180)年に挙兵し、敗戦を経験しながら、鎌倉に入りました。
富士川の合戦で追討の官軍を破ると上洛を諌められ、傘下の武士たちの所領を安堵して支配権を認めました。これにより武家政権の柱が据えられます。
鎌倉では街区を整備して武家政権の根拠地となして「鎌倉殿」が誕生します。
文治元(1185)年に源義経追討を名目に守護地頭を諸国荘園に配置する権限を獲得した武家基盤を形成します。
文治3(1187)年、石清水八幡宮の放生会にならい、鶴岡八幡宮で放生会を開きます。
焼失していた信濃の善光寺の再建を援助し、箱根・伊豆権現を詣でる二所詣を企画して、翌年正月に詣でることで東国の王であることを示しました。
文治5(1189)年、奥州合戦に勝利して源頼朝は名実ともに東国の王となります。宣旨なく追討を実施したことにより、東国における幕府の正統性を広く認めさせました。
この成果をうけ建久元(1190)年に上洛した後、鎌倉に政所をはじめとする幕府機構を整備しました。
2 和歌と仏教の文化
寿永2(1183)年に平氏が三種の神器とともに安徳天皇を連れて西海に下った後、三種の神器無しで即位したのが後白河法皇の孫・後鳥羽天皇でした。
すでに東国は武家に奪われるなど、多くが欠如するなかで育ち、天皇としての資格があるのかという眼に晒されてきました。
そのため欠を克服すべく蹴鞠や武芸などさまざまな芸能を実践して身につけました。
なかでも和歌に力を入れ、藤原定家を大いに認めました。鴨長明も見出された一人でした。そして「新古今和歌集」が編まれます。
文化の領域で王権への統合が進み、その王権の下で芸能の家が確立していきます。
東大寺の再建と並行していた興福寺の再建にも運慶、快慶、定覚、湛慶ら多くの職人が関わりました。
法然が専修念仏を世に問うと貴族や武士の信仰を獲得します。法相宗の貞慶は幅広い社会活動を展開し、栄西は禅宗を広めました。
こうした動きに比叡山や興福寺などが危機感を抱き、建永の法難により法然は讃岐に流されます。浄土宗は建永の法難を経て急速に広まりました。
御所を出奔した鴨長明は、鎌倉で源実朝に大きな影響を与えました。鴨長明とともに実朝に影響を与えたのが栄西でした。
栄西は北条政子や源実朝の信頼と帰依を受け、寿福寺の長老となり、幕府の援助を受けて京都に武家の寺である建仁寺を建立します。栄西は喫茶の習慣を広めたことでも知られます。
承元元(1207)年後半頃から後鳥羽上皇の関心は和歌から詩や蹴鞠、今様に広がります。
後鳥羽上皇は政治の面で統合へ向かいます。土御門天皇を退位させ、順徳天皇を即位させ、建暦2(1212)年に建暦新制を出しました。
後鳥羽上皇の政治的統合は鎌倉幕府にも向けられました。源実朝には遁世の意思を抱くようになり、朝廷から次期将軍を迎えて兄頼家の娘と結婚させて、出家するという構想でした。
しかし政治的にも経済的にも上皇の威勢が高まるなかでの動きだったため、幕府内で危機感を募らせ、起きたのが実朝暗殺事件でした。
幕府は政子が中心に位置して弟・北条義時が支える体制になりました。
後鳥羽上皇は政治的に幕府を従属させるための媒介者を失い、幕府との協調路線が破綻したため、幕府からの皇子下向要請を拒否しました。
実朝のいない幕府に皇子を下すことは皇統の分裂を招き、政治的統合に反するためでした。
この時代を扱ったのが2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でした。
3 身体の文化的広がり
後鳥羽上皇は幕府の混乱を横目で見ながら、承久2(1220)年に焼失した宮城の造営を行うなかで挙兵の意思を固めたようでした。
この意思に対して慈円と藤原長兼が諌めましたが、上皇は倒幕へ進みました。
承久3(1221)年に官軍を集め、北条義時以下の追討宣旨を発しました。承久の乱です。
しかし上皇は破れ配流となります。
承久の乱後に藤原定家が「新勅撰和歌集」の撰集を命じられますが、政治的性格を帯びました。
乱後には軍記物語が記されました。
- 保元物語
- 平治物語
- 治承物語 → 増補されて成ったのが、平家物語です
- 承久記
承久の乱後、仏教信仰はいっそう地方に広がります。東国と北陸に種を蒔かれた新たな仏教の動きは地方社会に広がっていきます。
- 親鸞…浄土真宗
- 唯円…親鸞の弟子で「歎異抄」を著しました
- 道元…曹洞宗
幕府武家政権としての自信と自覚を持ち、六波羅探題の基礎を築いた北条泰時が鎌倉に戻ると、京の政治と文化を以前よりも積極的に摂取していきます。
嘉禄元(1225)年、執権・北条泰時と北条時房が集まり評議始を行いました。執権体制を成立させたもので、鎌倉殿の藤原頼経は排除されていました。
寛喜2(1230)年に始まる飢饉に朝廷が新制を出すと、北条泰時は武家の法典「御成敗式目」(貞永式目)の制定に動きます。
基本的には地頭御家人への徳政を意図したもので、効力は武家に限ると強調しましたが、武家に限定されない規定もあり独自の政権としての法令になっていました。
武家政権が京の政治と文化を積極的に取り入れたことで、幕府の骨格が整えられました。
幕府は禅宗を導入して建長寺を建て、また、撫民政策取るにあたっては、戒律の再興と民衆に救済を勧める律宗の活動を高く評価しました。
全国的な飢饉が起きていたことから叡尊は幕府首脳の帰依を得ていました。
一方、幕府の姿勢を批判したのが日蓮でした。また、鎌倉入りを試みて拒否されたのが一遍でした。
この時代に生まれた浄土宗や禅宗、法華宗などの新たな仏教運動は今につながり日本人の信仰の大多数を占めています。
第六章 職能の文化
1 職人的世界の展開
モンゴルによる文永・弘安の襲来を退けると、合戦の慰霊を慰めるため鎌倉に円覚寺を建立し、開山には無学祖元をあてました。
鎌倉では「仮名法語」によって武士に禅宗を伝える工夫がなされましたので、禅が武士に着実に根をおろしていきました。
承久の乱を経て幕府の求めに応じて始まった後嵯峨上皇の院政は文永9(1272)年、次の治天の君を記さずに亡くなりました。
そのため嫡系を主張する後深草上皇と、皇統の継承は今までの流れで明らかとする亀山天皇との間に争いが生じます。
二人の母・大宮院により、後嵯峨上皇の真意は亀山天皇にあるとされ、亀山天皇による政治が続き、後宇多天皇に譲位すると院政を開始します。
鎌倉では北条時宗が急死して、北条貞時が跡を継ぎました。外戚の安達泰盛や御内人の平頼綱などの補佐を得て「新式目」を制定し、御家人救済策として永仁の徳政令を出しました。
この時期の文化を特徴付けるのが多くの唐物の流入です。北条一門の金沢実時は金沢文庫を設立しました。
唐物の流行に批判的に指摘したのが兼好の「徒然草」でした。同時に多くの職人の話が見えますので、この時期の文化が職能の文化であることを物語っています。
武士の家では家職の意識が生まれていました。
幕府の中心である得宗家は北条時宗、貞時、高時の系統に継承されました。
北条一門では名越、大仏、金沢氏などの得宗を支える家が評定衆、六波羅探題、寄合衆などを歴任しました。
源氏一門の足利、武田、小笠原氏や将軍を支えた三浦、安達、佐々木氏などが有力御家人の家を形成しました。
政所や問注所、引付などの奉行人も二階堂、三善氏らが形成しました。
武士に家職の意識が生まれるなか、継承を巡って嫡子と庶子の対立が起きました。武士の系図が多く書かれるようになったのは、家職に関わる伝統を探っていた結果でした。
この頃から絵師や詞書を書く筆者、清書にあたる能書の名が記されるようになります。絵師が描く絵巻には様々な職人が描かれました。そこからわかることは、職人の成長が時代を動かし始めたことです。
鋳物師や石工も各地で活躍しました。
五輪塔は地、水、火、風、空の五種類の石からなる卒塔婆全国にありますが、律宗の布教地には巨大作品が多くあります。
絵巻は様々な情報の伝達手段として用いられるようになり、多く制作されました。
2 南北朝の動乱とバサラの文化
建治元(1275)年、幕府が後深草院の皇子を皇太子に立てるよう要請し、伏見天皇の即位が約束されると、後深草院の院政も定まりました。
これにより天皇家の分立、皇統の分裂が生じます。
亀山院から始まり、後宇多、後二条、後醍醐と続く系統が大覚寺統といいます。
一方で後深草院から始まり、伏見、後伏見、花園、光厳と続く系統を持明院統といいます。
それぞれの皇統が管理していた御所の名に因みます。
持明院統は朝廷固有の領域を固守しようと動き、大覚寺統は儒学や仏教など大陸の文化に関心を注いで王権に権力を集中しようと動いていました。
二つの流れは互いに競い合いながら、それぞれに党派を作って大きな潮流を形成しました。
皇統対立の背景には家をめぐる分立・対立が広く起きていたことと関係します。
摂関家では近衛、鷹司、九条、二条、一条の五家に分かれて争いました。
和歌の御子左家も藤原定家の孫の代に二条、京極、冷泉の三家に分かれて争いました。残ったのは幕府に仕えた冷泉家だけで、二条、京極は没落します。
貴族の家では職能が家職として継承され、皇統の分立も天皇家の家職の継承に基づくものと指摘できます。
職人も自らの職能の来歴を語り、神話や伝承に求めました。
この時代に多くの縁起が著されたのも関係しています。
文保2(1318)年、後醍醐天皇が即位して後宇多法皇の院政が始まりますが、法皇が花園天皇の譲位を強く求め、幕府を動かして実現させたものでした。
元亨元(1321)年に後醍醐天皇の親政が始まると意欲的に政治を推進します。
熱心に学問に取り組み、日野資朝などの有能な学者を置き、儒教の談義を繰り返し、承久の乱前の体制に戻すことを念頭に綸旨万能を主張し、他の権威・権力を否定しました。
後醍醐天皇は次の皇位が自分の皇子ではなく、両統迭立の原則により兄・後二条の系統になることが幕府によって定められていたため、幕府に不満を持ちます。
そして、実力で皇位を我が皇統にするため倒幕の謀を巡らします。
しかし、正中の変で計画が漏れ、元弘の乱で再び計画が漏れ隠岐に流されます。持明院統の光厳天皇が立てられます。
後醍醐天皇の配流で一件落着するかに見えましたが、楠木正成などの新興の武士や、悪党により、また足利高氏の反旗によって情勢が一変し、幕府が倒壊しました。
建武政権では摂関を停止し、律令制への回帰を図りましたが、政治機能は変質しており天皇の考えの通りには機能しませんでした。
建武2(1335)年、中先代の乱が起きると、足利尊氏は鎌倉にいた弟・直義を助けるために勅許なしで下りました。
そして反旗を翻し、持明院統の光明天皇をたて、建武政権は崩壊します。南北朝時代が始まります。
文化面では、連歌が広く定着し、和歌の時代から連歌の時代へ転換していきました。
連歌とともに田楽も大いに流行しました。田楽は広く神社に奉納する芸能になっていきます。
田楽と並ぶ演劇の猿楽は座を形成して発展していました。
観阿弥は様々な芸能を取り入れて能の芸術的な基礎を築き、「風姿花伝」を著します。
観阿弥・世阿弥の親子は佐々木道誉や足利義満に認められていました。
3 型の文化
足利義満の時代になると室町幕府に体制が整えられます。
華やかな武家の王権により文化的統合が進められ、朝廷の諸権限を接収します。出家すると院政と同じような政治体制をしきました。
祇園祭は南北朝時代末期に新たな展開を見せていました。下京を中心に形成された町の自治組織を母体に鉾や山が出されるようになったのです。町の共同体が生まれつつあったのです。
足利義満の時代に正式に鎌倉と京都に五山が定められました。この五山を中心に行われたのが五山文学でした。
足利義満期の文化は金閣があった北山にちなんで北山文化と呼ばれます。
こうした文化状況の背景には日本列島における経済的繁栄がありました。日明貿易でさかえた兵庫のように湊町は活気に満ちていました。
湊町が栄え、村が自立し始めたこの時代の動きは「庭訓往来」に記されています。
「庭訓往来」では各月の行事などが記され、宗教・社会・文化の定型が記されています。
この時代に室町幕府の年中行事や儀礼が整えられ、伊勢流や小笠原流などの武家の故実の型も整えられていきました。武家の制度も型として整備されたのです。
中世の文化は家の文化を起点とし、身体の文化、職能の文化を経て型として定着しました。