平安時代。平安京に都が置かれ、鎌倉に幕府が開かれるまでの約400年を指します。
初期は天皇が政治を行うこともありましたが、中期以降は藤原氏の摂関政治が展開されます。平安王朝や王朝文化とも言われ日本史において王朝といえば平安時代を指すのが一般的です。後期は院政の時代になります。
学問上の概念である律令国家変質の時代も王朝国家と言います。
平安初期初期の800年頃の推計人口は全国で5,506,200人程度とみられています。弥生時代に西日本の占める割合は51%になり、9世紀頃には58%となり、西日本の人口が東日本を凌駕するようになります。
平安京
宝亀3(772)年、山部親王(のちの桓武天皇)が皇太子となり、天武系皇統から、天智系皇統へ復活します。
桓武天皇は寺院の旧勢力の強い奈良から、水陸交通の便利な山城都を移すことを考えました。長岡京から、延暦13(794)年に平安京へ遷都します。
平城京から平安京への遷都は、仏教政治の弊害を断つためと説明されることが多いですが、天武系の都であるため捨てたというのが本質でした。
また、畿内では森林資源が急速に失われましたので、以後1,000年に渡って都が変わりませんでした。必要な森林資源がもはや畿内には残っていなかったのです。そして、檜皮葺、漆喰、畳という住居は古代の森林伐採による資源枯渇の産物でした。
光仁天皇の皇后・井上内親王と池戸親王と夫人・高野新笠と皇子・山部親王(桓武天皇)一族との間には、皇位継承を巡る対立があり、呪詛が行われてもおかしくない状況がありました。
桓武天皇となった山部親王は母子の霊をひどく恐れ、怨霊の祟りを鎮めることに大変な神経を使います。桓武天皇が平城京を捨て、長岡京へ都を移そうとした理由の一つが、二人の怨霊の祟りから逃れるためでした。しかし実弟・早良親王の祟りがあり、平安京へ都を移します。
桓武天皇は律令体制を立て直すため、民政の安定に努めます。
徴兵による兵士の質が低下したため、全国の軍団をほとんど廃止します。その代わり弓馬にたけた郡司の子弟を健児(こんでい)とし、国司の役所である国衙を守らせました。
班田収授を励行し、公出挙や雑徭を軽減して農民の負担を軽くしました。
勘解由使をおいて国司の交代を監査し、地方官を厳しく取り締まりました。
平安時代は長期的な傾向としては奈良時代の同様に高温乾燥の気候が続きました。
800年代前半は干ばつが多発しました。840年代後半から長雨による飢饉があり、860年代から870年代に低温傾向が現れています。
797年から799年に全国規模の飢饉が発生しますが、長雨と洪水が関係しているようです。
平安時代初期は平安京の建設と東北地方への軍事遠征により財政的に困窮しました。こうした中で干ばつによる飢饉が何度も起きており、社会不安が生まれていたようです。
干ばつによって飢えた人々が口分田を棄てて逃亡しました。こうした民が初期荘園に流れ込み、班田収授法の実施は干ばつが続く中でゆっくりと崩壊していきます。
- 2014年筑波:平安時代初期の政治の推移について、社会的背景をふまえ、「徳政」「軍事」「造作」の内容を明らかにしながら問われました。
- 2002年阪大:桓武天皇(桓武朝)が展開した政策の特徴と内容について問われました。
律令国家の対蝦夷戦争「三十八年戦争」
奈良時代末から激しくなった蝦夷の反乱に対して、桓武天皇は胆沢地方の蝦夷勢力を制圧しようとしました。
784年には大伴家持を持節征東将軍として征夷軍を立ち上げました。しかしこの計画は家持の死などによって自然消滅しました。
本格的な準備は786年から始まります。788年に紀古佐美将軍らが赴き、789年には多賀城に集結します。
なかなか軍事行動に移せませんでしたが、ようやく軍事行動を始めると、蝦夷側に登場したのがアテルイ(阿弖流為)でした。
そして、アテルイらの巧みなゲリラ戦に大敗をきします。
桓武天皇は次の征夷の準備を始め、征東使幹部に名を連ねたのが、坂上田村麻呂でした。
征夷で成果をあげた田村麻呂は797年に征夷大将軍に任じられ、801年に現地で成果をあげます。
802年にアテルイが磐具公母礼とともに降伏します。
坂上田村麻呂は鎮守府を多賀城から胆沢城に移します。
アテルイらが処刑され、胆沢城が完成した後に、鎮守府を多賀城から胆沢城に移し、北方に志波城が造られました。
次の征夷のための城でしたが、805年に軍事と造作を停止します。
一定の成果を挙げましたが、征討の事業は、相次ぐ征夷と造都による国家財政の窮乏と疲弊のため中止せざるを得ませんでした。
阿弖流為を主人公にした小説。
律令制の変容
平城天皇、嵯峨天皇も律令政治の改革を目指しました。
両者の間に争いが起き、810(弘仁元)年、平城上皇が復位と平城京への復都を企てた藤原薬子の変(平城上皇の変)をきっかけに、嵯峨天皇が改革を行います。
810年に起きた争乱は、かつて「薬子の変」と呼ばれてきましたが、最近では「平城太上天皇の変」とも称されるようになってきています。
争乱は嵯峨天皇と同母兄の平城太上天皇との間の政治権力の対立が原因です。
平城太上天皇は平安京から平城京への遷都を強行しようとしましたが、嵯峨天皇は迅速な行動で制圧します。
平城京から東国へ入ろうとした平城太上天皇や藤原薬子らは、先回りして道を封じた嵯峨天皇側に抑えられました。
平城太上天皇は平城京へ戻って剃髪して出家、薬子は毒を仰いで自殺します。
事変は、平城太上天皇の寵愛を受けて権勢を誇った藤原薬子と兄の藤原仲成が張本人として責を負うことになりました。
変によって平安京が千年の都となる基礎が固まったこと、天皇と太政官を結ぶ役職が後宮女官から蔵人に変わったことなどが大きな変更でした。
初代蔵人には藤原冬嗣が任じられ、9世紀の藤原北家台頭の原点となります。
皇位継承の焦点が皇太子の廃位につながることを明示した事件でもありました。
嵯峨天皇は宮廷で大きな力を持ち、のちに太上天皇になったときに、太上天皇が天皇と同等ないしそれを凌ぐ力を持つようになりますが、奈良時代とは異なる天皇制のあり方を開くことになります。
二所朝廷という危機的状況を打開した嵯峨天皇は、礼の秩序を重んじながら事件を収束させました。
その際に、変の首謀者はあくまでも藤原薬子として罪を責め、平城太上天皇には罪を問わず礼遇する方針が貫かれました。
しかし、この変には薬子だけでなく平城太上天皇の意志も存在したと見た方が自然です。
- 2005年東大:嵯峨天皇は、即位の翌年に起きた藤原薬子の変を経て権力を確立し、貴族をおさえて強い政治力をふるい、譲位した後も上皇として朝廷に重きをなしました。その結果、この時期30年余りにわたって政治の安定した状態が続くこととなりました。古代における律令国家や文化の変化の中で、この時期はどのような意味をもっているかが問われました。
律令制の規定にない官職を令外官と言いますが、 令外官が重視されるのは律令国家の変質を示していました。そして律令に規定されている官職も特定の貴族の請負となり、官僚制度が家職化していきます。
令外官で重要な役職に蔵人頭や検非違使がありました。
- 蔵人頭:政務上の機密事項を守る … 藤原冬嗣を任命します
- 検非違使:都の治安を維持する
- 1989年東大:北畠親房が律令制いらいの朝廷官職の大綱を解説した「職原抄」を読んだうえで、検非違使庁と蔵人所の形成過程と、検非違使庁や蔵人所などの令外官が形成される歴史的背景が問われました。
租税制
租税制の維持のために、現状にあわせる政策が多くなります。
823(弘仁14)年、公営田は太宰府の管内に区分田やあまりの田の6分の1を割いて設けました。
公営田は村々の有力者が管理し、農民に労賃等を与えて耕作させ、租・調・庸を引いて、残りを官の収入にしました。
区分田や成人男子を中心に賦課してきた租税の体系を変えるものでした。
このあと各官司の役人の給与にあてるため官田・諸司田などが設けられます。
実際の政治を行う基準として、律令の規定をあらためる格(きゃく)と、施行細則として式が、詔・勅・太政官符などによって発布されました。
これらの格式を整理して三代格式ができ、律令につぐ法典となります。
- 弘仁格式…嵯峨天皇
- 貞観格式…清和天皇
- 延喜格式…醍醐天皇
令の公式の解釈を示した令義解が淳和天皇の時に編集されます。
弘仁・貞観文化
新仏教、空海
参考文献
テーマ別日本史
政治史
- 縄文時代と弥生時代
- 古墳時代から大和王権の成立まで
- 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
- 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
- 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
- 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化) 本ページ
- 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
- 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
- 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
- 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
- 鎌倉時代(惣領制の成立)
- 鎌倉時代(蒙古襲来)
- 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
- 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
- 室町時代(下剋上の社会)
- 室町時代(戦国時代)
- 安土桃山時代
- 江戸時代(幕府開設時期)
- 江戸時代(幕府の安定時代)
- 江戸時代(幕藩体制の動揺)
- 江戸時代(幕末)
- 明治時代(明治維新)
- 明治時代(西南戦争から帝国議会)