平安時代約390年の年表です。調べ物や勉強にお役に立てば幸いです。
平安時代の前期の王朝国家体制を経て、藤原氏による摂関政治、11世紀後期から院政期が始まり、武士の地位が急速に上がったことにより平氏政権が誕生します。
簡単な年表/出来事
- 794(延暦13) 平安京に遷都
- 805(延暦24) 最澄が天台宗を伝える
- 806(大同1) 空海が真言宗を伝える
- 810(弘仁1) 薬子の変
- 842(承和9) 承和の変
- 858(天安2) 藤原良房が皇族以外で初めて摂政となる
- 866(貞観8) 応天門の変
- 880(元慶4) 藤原基経が太政大臣に任じられる
- 888(仁和4) 阿衡の紛議
- 894(寛平6) 菅原道真の建議により遣唐使廃止
- 901(延喜1) 昌泰の変(菅原道真を大宰府へ左遷させる)
- 902(延喜2) 延喜の荘園整理令
- 927(延長5) 「延喜式」撰上される
- 935(承平5) 平将門の乱(承平天慶の乱)
- 939(天慶2) 天慶の乱(出羽で俘囚の反乱)/承平天慶の乱
- 940(天慶3) 平将門が藤原秀郷や平貞盛らに敗北
- 941(天慶4) 藤原純友が小野好古らに敗北
- 967(安和1) 「延喜式」施行
- 969(安和2) 安和の変
- 996(長徳2) 長徳の変(花山院闘乱事件)
- 1016(長和5) 藤原道長が摂政となる
- 1019(寛仁3) 刀伊の入寇
- 1028(長元1) 平忠常の乱
- 1051(永承6) 前九年の役
- 1062(康平5) 前九年の役が終る
- 1068(治暦1) 藤原氏の摂関時代の終焉
- 1069(延久1) 延久宣旨枡制定
- 1083(永保3) 後三年の役
- 1086(応徳3) 白河上皇が院政を始める
- 1087(寛治1) 後三年の役が終わる
- 1108(天仁1) 源義親の乱
- 1111(天永2) 記録荘園券契所設置
- 1129(大治4) 白河法皇崩御⇒鳥羽上皇の院政が始まる
- 1156(保元1) 保元の乱
- 1159(平治1) 平治の乱
- 1167(仁安2) 平清盛が太政大臣となる
- 1177(安元3) 鹿ケ谷事件
- 1179(治承3) 治承三年の政変
- 1180(治承4) 治承・寿永の乱のはじまり
- 1181(養和1) 養和の大飢饉/後白河法皇が院政を再開
- 1184(寿永3) 源頼朝が公文所と問注所を置く
- 1185(文治1) 壇ノ浦の戦い(平氏が滅亡)/(文治の勅許により)守護・地頭の設置
- 1189(文治5) 奥州合戦により奥州藤原氏滅亡
- 1192(建久3) 源頼朝が征夷大将軍になる
論点
平安時代前期
第50代 桓武天皇 781-806
論点
- 2002年阪大:桓武天皇(桓武朝)が展開した政策の特徴と内容について問われました。
794(延暦13) 平安京に遷都
- 桓武天皇が平安京に遷都
論点
- 1991年一橋:京都は、都城としての平安京の造営によって誕生した都市です。地方より上がってきた人々も居住し、律令国家の首都の機能を支えていましたが、具体的に説明が求められました。
795(延暦14)
- 空海、東大寺戒壇院において具足戒を授かり空海と改名
- 雑徭を三十日に半減
- 東国の防人の廃止
796(延暦15)
- 隆平永宝(皇朝十二銭の四)、鋳造される
797(延暦16)
- 国司による不正等を調査するため、令外官の勘解由使を設置
- 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命
- 菅野真道らが「続日本記」を編纂
799(延暦18)
- 遣新羅使
800(延暦19)
- 富士山噴火
- 早良親王の怨霊を恐れ、崇道天皇と追称
801(延暦20)
- 征夷大将軍・坂上田村麻呂に節刀を賜る
- 坂上田村麻呂が蝦夷を討つ
803(延暦22)
- 遣唐使(藤原葛野麻呂、最澄、空海らを派遣)
804(延暦23)
- 空海、最澄、遣唐使船で出航する
805(延暦24) 最澄が天台宗を伝える
- 「怨霊に謝する」ために早良親王の命日を国忌に入れる
- 最澄が帰国し比叡山に天台宗を開く
- 坂上田村麻呂が清水寺を建立
- 藤原諸嗣が天下の徳政について意見申し出(都造りの中止)
第51代 平城天皇 806-809
806(大同1) 空海が真言宗を伝える
- 平城天皇即位
- 空海が帰国し真言宗を伝え、高野山に金剛峰寺を建てる
亡くなった人物
- 桓武天皇
807(大同2)
- 伊予親王の変(桓武皇子の伊予親王と藤原吉子、謀反の嫌疑で逮捕され、川原寺で自害)
808(大同3)
- 空海、観心寺に北斗七星を勧請(観心寺寺伝)
第52代 嵯峨天皇 809-823
809(大同4)
- 平城天皇、同母弟の神野親王に皇位を譲る(嵯峨天皇)
- 嵯峨天皇即位
- 平城天皇は上皇となる
- 平城上皇、平城京に向かう
810(弘仁1) 薬子の変
- 初めて蔵人所を置き藤原冬嗣を頭とする(天皇の秘書長官、藤原北家の繁栄の基礎となる)
- 薬子の変(平城上皇と嵯峨天皇との争い、上皇妃・薬子とその兄・仲成が上皇の重祚を謀り失敗、薬子は自害、仲成は誅殺される)
論点
- 2005年東大:嵯峨天皇は、即位の翌年に起きた藤原薬子の変を経て権力を確立し、貴族をおさえて強い政治力をふるい、譲位した後も上皇として朝廷に重きをなしました。その結果、この時期30年余りにわたって政治の安定した状態が続くこととなりました。古代における律令国家や文化の変化の中で、この時期はどのような意味をもっているかが問われました。
812(弘仁3)
- 空海、高野山で潅頂を行う
813(弘仁4)
- 太宰府管内の兵士を削減
- 福寺南円堂建立
814(弘仁5)
- 嵯峨皇子女に源氏姓を与える
815(弘仁6)
- 嵯峨天皇、橘嘉智子を立后する
816(弘仁7)
- 空海に高野山を下賜
818(弘仁9)
- 富寿神宝(皇朝十二銭の五)鋳造
819(弘仁10)
- 空海、高野山に金剛峯寺建立
820(弘仁11)
- 遠江・駿河の新羅人700人が反乱
- 「弘仁格」を施行
822(弘仁13)
- 比叡山に大乗戒壇設立の勅許
亡くなった人物
- 最澄
第53代 淳和天皇 823-833
823(弘仁14)
- 空海に東寺を下賜し、教王護国寺と称する。空海、東寺を密教根本道場とする
- 嵯峨天皇譲位し、淳和天皇即位
論点
- 2002年東大:平安時代に日本に伝来し広まった密教や浄土教の信仰は、人々にどのように受け入れられていったか。10世紀以降平安時代末に至るまでの、朝廷・貴族と地方の有力者の受容のあり方について問われました。
- 1984年一橋:平安時代の宗教について、密教とはなにか、またそれが貴族層の熱心な支持をえた理由が問われました。
824(天長1)
- 勘解由使を複置
825(天長2)
- 葛原親王(桓武天皇の皇子)の子・高棟王に平の姓を賜る(桓武平氏・高棟王流)
827(天長4)
- 京で大地震
- 空海、大僧都に任じられる
- 実恵、観心寺造営に着手
828(天長5)
- 空海、綜芸種智院(私立の教育施設)を創設
830(天長7)
- 薬師寺、最勝会始まる
第54代 仁明天皇 833-850
833(天長10)
- 淳和天皇譲位
- 仁明天皇即位(桓武天皇の第三皇子)
834(承和1)
- 藤原常嗣を遣唐大使、小野篁を遣唐副使に任命
835(承和2)
- 承和昌宝(皇朝十二銭の六)鋳造
亡くなった人物
- 空海
836(承和3)
- 第19回遣唐使、出航するが、遣唐使船遭難し漂着。大使が藤原常嗣、副使が小野篁。
837(承和4)
- 遣唐使再び出航するが、遭難し漂着する
838(承和5)
- 遣唐使再び出航する
- 同船に入唐八家の円仁、常暁、円行乗船
- 遣唐副使・小野篁、病を理由に乗船拒否。小野篁、乗船拒否の罪を問われ配流される。
840(承和7)
- 遣唐使第二船、大隅に漂着
亡くなった人物
- 淳和上皇
841(承和8)
- 伊豆地震、死者多数
藤原氏の台頭
842(承和9) 承和の変
- 承和の変(嵯峨上皇崩御、伴健岑、橘逸勢らが謀反の疑いで捕らえられる)
- 道康親王立太子(藤原北家の藤原良房の甥)
亡くなった人物
- 嵯峨上皇
843(承和10)
- 文室宮田麻呂の謀反が発覚し、文室宮田麻呂を配流
846(承和13)
- 西大寺講堂が焼失
847(承和14)
- 円仁(入唐八家)、太宰府に帰着
亡くなった人物
- 実恵
848(嘉祥1)
- 長年大宝(皇朝十二銭の七)鋳造
第55代 文徳天皇 850-858
850(嘉祥3/ 仁寿1)
- 文徳天皇即位
- 出羽国地震、死者多数
- 清涼殿を嘉祥寺に移建
亡くなった人物
- 仁明天皇
853(仁寿3)
- 円珍(入唐八家)、唐商船に便乗し渡唐する
854(斉衡1)
- 円仁(入唐八家)、天台座主(第3代)となる
855(斉衡2)
- 地震により東大寺大仏の頭が落ちる
857(天安1)
- 藤原良房、太政大臣に任命
第56代 清和天皇 858-876
858(天安2) 藤原良房が皇族以外で初めて摂政となる
- 清和天皇即位
- 藤原良房が皇族以外で初めて摂政となる
- 円珍(入唐八家)帰国
論点
- 2021年東大:9世紀後半になると、奈良時代以来くり返された皇位継承をめぐるクーデターや争いはみられなくなり、安定した体制になりました。その背景にはどのような変化があったかが問われました。
亡くなった人物
- 文徳天皇
859(貞観1)
- 饙益神宝(皇朝十二銭の八)鋳造
- 八幡神を石清水男山に勧請(石清水八幡宮)
860(貞観2)
- 西大寺の主要堂舎焼失
861(貞観3)
- 東大寺大仏修造終わる
862(貞観4)
- 瀬戸内諸国に海賊を追補させる
863(貞観5)
- 神泉苑で御霊会を行い、祟道天皇、伊予親王ら6人の霊をまつる
- 越中・越後地震、死者多数
864(貞観6)
- 富士山噴火(貞観大噴火)富士山噴火史上最大
亡くなった人物
- 円仁(入唐八家)
866(貞観8) 応天門の変
- 最澄に伝教大師、円仁に慈覚大師の諡号が授けられる
- 応天門の変(応天門炎上し、伴善男が罰せられる)
868(貞観10)
- 播磨国地震、諸郡官舎、諸寺堂塔倒壊する
869(貞観11)
- 貞観三陸沖地震(陸奥で大地震起き、多賀城崩壊)
- 新羅海賊、豊前貢綿船を襲撃
- 「続日本後紀」を撰上
- 「貞観格」施行
870(貞観12)
- 貞観永宝を鋳造(皇朝十二銭の九)
- 太宰府に警備の強化命じる
873(貞観15)
- 皇子・皇女に源の姓を与える(清和源氏)
- 鳥海山噴火(東北地方)
亡くなった人物
- 真紹
874(貞観16)
- 薩摩開聞岳噴火(九州地方)
875(貞観17)
- 「左右検非違使式」を撰進
第57代 陽成天皇 876-884
876(元慶1)
- 大極殿焼失
- 清和天皇譲位
- 陽成天皇即位
- 藤原基経、摂政に任じられる
878(元慶2)
- 元慶の乱(秋田城付近の蝦夷の反乱)
880(元慶4) 藤原基経が太政大臣に任じられる
- 出雲で大地震起こり、官舎、寺社、百姓居宅多数倒壊
- 藤原基経が太政大臣に任じられる
- 山城、京などで大地震あり、大極殿西北隅が崩壊する
亡くなった人物
- 在原業平
第58代 光孝天皇 884-887
884(元慶8)
- 陽成天皇譲位、光孝天皇即位
- 藤原基経、関白に任ぜられる(関白のはじめ)
886(仁和2)
- 菅原道真、讃岐守に着任
第59代 宇多天皇 887-897
887(仁和3)
- 仁和地震(東南海地方で大地震が起こる)
- 宇多天皇即位
- 藤原基経が正式に関白となる
亡くなった人物
- 光孝天皇
888(仁和4) 阿衡の紛議
- 阿衡の紛議(藤原基経、宇多天皇の勅書を撤回させる)
889(寛平1)
- 高望王らに平朝臣姓を賜う。(宇多天皇は勢力拡大の為、桓武天皇の曾孫の高望王に平姓を与えた。桓武平氏・高望王流、いわゆる「桓武平氏」という場合は、高望王流を指す。平将門は高望王の孫)
- 寛平・延喜東国の乱(物部氏永(もののべのうじなが)等が蜂起)
890(寛平2)
- 寛平大宝(皇朝十二銭の十)鋳造
891(寛平3)
亡くなった人物
- 円珍(入唐八家)
894(寛平6) 菅原道真の建議により遣唐使廃止
- 新羅の賊、対馬に来襲
- 菅原道真の建議により遣唐使が廃止
論点
- 1999年阪大:遣唐使が廃止された経緯、およびその歴史的影響について問われました。
- 1989年一橋:近代以前の日本は、東アジア社会の一員として、他の地域と相互に影響を及ぼしあいながら、歴史を展開させてきました。次に掲げた年には、日本の対外関係史上重要な出来事が起きています。そのそれぞれについて、内外の歴史的背景と日本社会への影響を含めて説明が求められました。(1)607年、(2)894年、(3)1401年、(4)1543年
論点
- 1993年京大:東アジアの国際関係を考慮しつつ、天平文化と国風文化のそれぞれの特色が問われました。
895(寛平7)
- 新羅の賊に備えて博多の警備、強化
第60代 醍醐天皇 897-930
897(寛平9)
- 宇多天皇譲位、醍醐天皇が即位
899(昌泰2)
- 藤原時平が左大臣、菅原道真は右大臣に任ぜられる
- 僦馬の党(しゅうばのとう)の被害
901(延喜1) 昌泰の変(菅原道真を大宰府へ左遷させる)
- 「日本三代実録」完成
- 昌泰の変(菅原道真を大宰府へ左遷させる)
902(延喜2) 延喜の荘園整理令
- 延喜の荘園整理令(違法な荘園の停止が命じられる)
903(延喜3)
亡くなった人物
- 菅原道真(太宰府にて没す)
904(延喜4)
- 保明親王立太子
905(延喜5)
- 紀貫之ら「古今和歌集」を撰上
907(延喜7)
- 延喜通宝(皇朝十二銭の十一)鋳造
908(延喜8)
- 「延喜格式」施行。
914(延喜14)
- 三善清行が地方政治の弛緩ぶりを論じた「意見封事十二か条」を上申
論点
- 2019年北大:「意見封事十二箇条」において、三善清行は、仏教がもたらした問題についてどのようなことを指摘しているのかが問われました。
- 1996年東大:914年、醍醐天皇が臣下の意見を求めたときに、三善清行が当時の政治の欠点を指摘し、12か条にわたってその改善策を述べました。三善清行は「国家財政が悪影響を受け、国司の地方政治が妨げられている」と指摘しています。国司の職務の妨げとなるどのような事態が起きているのか、さらにどのような「百姓」の動きがこの事態をひきおこしたのかについて問われました。
917(延喜17)
- 東大寺、講堂、僧坊焼失
921(延喜21)
- 空海、弘法大師の諡号を与えられる
923(延長1)
- 菅原道真の本官を復し正二位がおくられる
亡くなった人物
- 皇太子保明親王死去(菅原道真の祟りと恐れられる)
927(延長5) 「延喜式」撰上される
- 「延喜式」撰上される。
第61代 朱雀天皇 930-946
930(延長8/承平1)
- 清涼殿に落雷(菅原道真の祟りと恐れられる)
- 醍醐天皇崩御、藤原忠平摂政に任じられる
- 朱雀天皇即位
亡くなった人物
- 醍醐天皇
935(承平5) 平将門の乱(承平天慶の乱)
- 紀貫之による日記文学「土佐日記」ができる
- 承平天慶の乱(この時点では、平将門による私戦のため、反乱とは見なされなかった)
938(天慶1)
- 京で大地震おこる
- 京内の舎屋、社寺の堂舎多数損壊
- 鴨川洪水
- 空也、京に入り念仏を広める
939(天慶2) 天慶の乱(出羽で俘囚の反乱)/承平天慶の乱
940(天慶3) 平将門が藤原秀郷や平貞盛らに敗北
941(天慶4) 藤原純友が小野好古らに敗北
- 藤原純友、太宰府を焼き討ちする
- 藤原純友が小野好古らに敗北(小野好古が藤原純友を博多津で純友軍を破り、壊滅的打撃を与える)
第62代 村上天皇 946-967
946(天慶1)
- 朱雀天皇が譲位し、村上天皇が即位
947(天慶2)
- 左右の検非違使庁が併合
- 調庸の粗悪・租税の違期などの取り締まり
- 倹約の励行、贅沢の禁止などの新制が公布
950(天慶4)
- 憲平親王立太子
958(天徳2)
- 乾元大宝の鋳造(皇朝十二銭の最後)
960(天徳4)
- 内裏焼亡(平安遷都後、初めての内裏焼亡記録)
- 経基王は臣籍降下で源姓(源経基)となる。孫の嫡流に源頼朝がいる(清和源氏)
961(応和1)
- 内裏再建
962(応和2)
- 新薬師寺、台風により金堂、講堂倒壊
第63代 冷泉天皇 967-969
967(安和1) 「延喜式」施行
- 冷泉天皇即位
- 「延喜式」施行。(延喜式の巻9・10の「延喜式神名帳」に記載された神社を延喜式内社または式社という。古代社格制度になる。)
第64代 円融天皇 969-984
969(安和2) 安和の変
- 安和の変(皇位継承者争いで、藤原師尹が源高明を大宰府へ左遷)
973(天延1)
- 藤原兼通の娘を円融天皇の皇后となる
974(天延2)
- 祇園御霊会はじまる
975(天延3)
- 藤原道綱の母による日記「蜻蛉日記」ができる
976(貞元1)
- 山城・近江地震(八省院、豊楽院、東寺、西寺など京内の多数の寺社堂舎倒壊)
第65代 花山天皇 984-986
984(寛和1)
- 花山天皇即位
985(寛和1)
- この頃、源信が「往生要集」を著す
第66代 一条天皇 986-1011
986(寛和2)
- 花山天皇が出家し、一条天皇即位
- 天皇の外祖父藤原兼家が摂政となる。
988(永延)
- 尾張国の郡司・百姓ら、国司の非法を訴える
990(正暦1)
- 藤原道隆の娘定子、中宮になる
995(長徳1)
- 疫病が流行し、藤原兼家ら宮中8人の公卿が死亡
- 藤原道長が内覧の宣旨を受けて権力が拡大する
996(長徳2) 長徳の変(花山院闘乱事件)
- 長徳の変(花山院闘乱事件)
- 藤原定子(一条天皇の皇后)に仕えた清少納言による日本最古の随筆「枕草子」ができる
999(長保1)
- 藤原道長の娘彰子が一条天皇の女御になる
1000(長保2)
- 藤原定子が皇后、彰子が中宮になる(一帝二后並立のはじめ)
亡くなった人物
- 藤原定子
1001(長保3)
- 清少納言の「枕草子」が完成
1008(寛弘5)
- 紫式部による「源氏物語」ができる
第67代 三条天皇 1011-1016
1011(寛弘8)
- 三条天皇即位
藤原氏の隆盛
論点
- 2010年東大:奈良時代からの変化にもふれながら、10・11世紀の摂関政治期、中下級貴族は上級貴族とどのような関係を結ぶようになったのか問われました。
- 1995年東大:摂政と関白の共通点と相違点と、摂関政治については、9世紀後半から10世紀中頃までの前期と、10世紀中頃から11世紀中頃までの後期の二期に分けて考えることがりますが、前期の特徴を、後期と比較して問われました。
- 1983年東大:1978年の摂関政治と院政に関する問題が改めて問われました。
- 1978年東大:10世紀から12世紀にかけての摂関の地位をめぐる変遷を、摂関政治のころの政治と、院政のころの政治とで比較して問われました。
第68代 後一条天皇 1016-1036
1016(長和5) 藤原道長が摂政となる
- 京都で大火が起き、藤原道長の土御門邸も焼ける
- 後一条天皇即位
- 藤原道長が摂政となる
1017(寛仁1)
- 藤原道長が太政大臣、子の頼道が摂政になり、藤原氏全盛となる
1018(寛仁2)
- 藤原道長、太政大臣を辞任
- 藤原道長の娘・中宮妍子が皇太后に、女御の威子が中宮になる
- 藤原道長の土御門邸ができあがり、源頼光が家具・調度一切を贈る
1019(寛仁3) 刀伊の入寇
- 藤原道長は出家し、法成寺の建立開始
- 刀伊の入寇(女真族の来襲、賊徒五十余船、壱岐島、筑前を襲う、太宰権帥・藤原隆家らによって撃退するも、太宰府管内に甚大な被害を受ける)
1022(治安2)
- 法成寺の金堂(無量寿院)が完成
1026(万寿3)
- 万寿地震(石見国(現:島根県)で大地震)
1027(万寿4)
亡くなった人物
- 藤原道長
1028(長元1) 平忠常の乱
- 平忠常の乱(房総で平忠常が起こした反乱、源頼信が鎮圧)
第69代 後朱雀天皇 1036-1045
1036(長暦1)
- 後朱雀天皇即位
1038(長暦3)
- 延暦寺僧徒の強訴、これ以後強訴盛んとなる
1040(長久1)
- 長久の荘園整理令
第70代 後冷泉天皇 1045-1068
1045(寛徳2)
- 寛徳の荘園整理令(花新立荘園が停止される)
- 後冷泉天皇即位
1051(永承6) 前九年の役
- 前九年の役(安倍頼時が陸奥で反乱を起こし、源頼義が討伐に向かう)~1062まで
1053(天喜1)
- 藤原頼通、平等院鳳凰堂を建立
論点
- 1976年東大:平等院鳳凰堂が造られた事情が問われました。
1059(康平2)
- 菅原孝標の娘により回想録「更級日記」ができる
1062(康平5) 前九年の役が終る
- 源頼義が清原武則の援助で安倍貞任・宗任を破り前九年の役が終る
1063(康平6)
- 源頼義が鎌倉に鶴岡八幡宮を建立
院政時代の前史
論点
- 2007年阪大:後三条天皇・白河天皇の政治について院政段階も含め、その歴史的意義について問われました。
第71代 後三条天皇 1068-1072
1068(治暦1) 藤原氏の摂関時代の終焉
- 栄西、重源ら宋から帰国
- 後三条天皇が即位する(親政に戻り藤原氏の摂関時代の終焉となる)
1069(延久1) 延久宣旨枡制定
- 延久宣旨枡制定
- 延久の荘園整理令(記録荘園券契所の設置)
第72代 白河天皇 1072-1086
1072(延久4)
- 白河天皇即位
1083(永保3) 後三年の役
- 後三年の役(陸奥で藤原家衡と藤原清衡の抗争勃発、源義家が清衡を支援)~1087まで
院政時代及び源平時代
第73代 堀河天皇 1086-1107
1086(応徳3) 白河上皇が院政を始める
- 堀河天皇即位
- 白河上皇が院庁で政務をみる(院政の始まり)
1087(寛治1) 後三年の役が終わる
- 後三年の役終わる
1091(寛治5)
- 源義家が兵を率いて入京することや諸国の百姓が義家に田畑を寄進することの禁止
1095(嘉保2)
- 白河上皇が院に北面の武士を置く(武士の台頭)
1096(永長1)
- 永長地震(東海、東南海の地震)
- 白河上皇が出家して白河法皇となる
1097(承徳1)
- 平正盛が伊賀国の私領を六条院に寄進
1098(承徳2)
- 源義家が院昇殿を許され、源氏の勢いが高まる
1099(承徳3)
- 康和または承徳地震(南海地震)
1105(長治2)
- 藤原清衡が中尊寺を建立(金色堂)
第74代 鳥羽天皇 1107-1123
1107(嘉承2)
- 鳥羽天皇即位
1108(天仁1) 源義親の乱
- 延暦寺僧徒の強訴を源平両氏が防ぐ
- 源義親の乱(源義親が略奪、乱暴を働いた為、平正盛に討たれた)
1111(天永2) 記録荘園券契所設置
- 記録荘園券契所設置
1113(永久1)
- 興福寺と延暦寺の僧兵が紛争、両僧兵、強訴するが、平忠盛らがこれを防ぐ
第75代 崇徳天皇 1123-1141
1123(保安4)
- 延暦寺僧徒が入京を企てるが、平忠盛、源為義らが退ける
- 崇徳天皇即位
1124(天治)
- この頃に良忍が融通念仏を始める
1126(大治1)
- 藤原清衡が中尊寺金色堂・三重塔を建立
1129(大治4) 白河法皇崩御⇒鳥羽上皇の院政が始まる
- 平忠盛が山陽・南海の海賊を従える
- 白河法皇崩御
- 鳥羽上皇の院政が開始する
1132(長承1)
- 平忠盛が鳥羽法皇のために得長寿院千躰観音像(三十三間堂)を建てる
- 平忠盛は内昇殿を許され、平氏の勢いが源氏を上回る
第76代 近衛天皇 1141-1155
1141(永治1)
- 覚鑁が「五輪九字明秘密釈」を著す
- 崇徳天皇が鳥羽法皇の意により近衛天皇(当時三歳)に位を譲る
1143(康治1
- 興福寺三重塔建立
1147(久安3)
- 平清盛の従者が祇園社神人と争う
- 延暦寺僧徒が平忠盛・清盛親子の流罪を要求
第77代 後白河天皇 1155-1158
1155(久寿2)
- 後白河天皇即位
1156(保元1) 保元の乱
- この頃から末法意識が広まる
- 保元の乱(後白河天皇方(平清盛・源義朝ら)が勝ち、崇徳上皇方(源為義・平忠正)が敗れる。上皇は讃岐に流される)
1157(保元2)
- 藤原頼長らの所領を没収し、後院領とする
第78代 二条天皇 1158-1165
1158(保元3)
- 平清盛が太宰大弐に任じられる
- 二条天皇即位
- 後白河天皇の院政が開始
1159(平治1) 平治の乱
- 平治の乱(源義朝・藤原信頼、挙兵するも平清盛に敗れる)
1160(永暦1)
- 源義朝は尾張で殺害され、子の頼朝は伊豆に流される
亡くなった人物
1164(長寛2)
- 平清盛とその一族が法華経を書写し、厳島神社に納める(平家納経)
第79代 六条天皇 1165-1168
1165(永万1)
- 六条天皇即位
1167(仁安2) 平清盛が太政大臣となる
- 平清盛が太政大臣になる
- 日宋貿易が盛んになる
- 平時忠「平家にあらずんば人にあらず」と発言する
論点
- 2006年東大:中央政界で武士の力が必要とされた理由と、平氏が権力を掌握する過程と、その経済的基盤について問われました。
第80代 高倉天皇 1168-1180
1168(仁安3)
- 高倉天皇即位
- 平清盛出家
1171(承安1)
- 平清盛の女徳子が後白河法皇の猶子として入内し、高倉天皇の女御になる
1175(安元1)
- 法然が浄土宗を伝える(念仏、南無阿弥陀仏、極楽浄土)
1177(安元3) 鹿ケ谷事件
- 安元の大火(樋口富小路付近で出火し平安京のおおよそ三分の一が焼き尽くす 大内裏の大極殿、八省院、応天門、朱雀門も焼亡)
- 鹿ケ谷事件(平清盛が平氏打倒陰謀鹿ケ谷の陰謀を察知し、藤原成親・成経・師光ら後白河院の近臣を捕らえ処罰する)
1178(治承2)
- 治承の大火(平安京七条東洞院から出火し、朱雀大路までの三十数町を焼き尽くす)
1179(治承3) 治承三年の政変
- 治承三年の政変(平清盛が摂政基房を解任、近衛基通(清盛の娘婿)に替え、院の近臣39人を解官。後白河法皇を幽閉する)
第81代 安徳天皇 1180-1185
1180(治承4) 治承・寿永の乱のはじまり
- 以仁王が諸国の源氏に平氏討伐の命を伝える
- 源頼政と以仁王が挙兵、宇治の平等院で平氏の軍に敗れて死ぬ
- 平清盛が天皇と上皇を連れて福原に遷都
- 治承・寿永の乱のはじまり(源頼朝が平氏討伐の兵を挙げる)
- 源義仲が木曾で挙兵
- 平清盛が都を京都に戻す
- 南都焼き討ち(平重衡が奈良の東大寺・興福寺などを焼き討ち)
- 安徳天皇即位
- 石橋山の戦いで源頼朝が大庭景親に敗れる
- 源頼朝は敗走中に梶原景時に発見されるが見逃される
- 源頼朝は鎌倉へ行き本拠地とする
- 富士川の戦いで源頼朝と平維盛が対峙するが平維盛は敗走する
- 源頼朝は弟の源義経(牛若丸)と対面する
- 源頼朝が侍所を設置
- 平清盛は後白河法皇の幽閉をとく
1181(養和1) 養和の大飢饉/後白河法皇が院政を再開
- 養和の大飢饉(干ばつによる数年来の大飢饉よって京都で多数の餓死者でる)
- 重源が造東大寺大勧進に任じられ大仏再建にとりかかる
- 後白河法皇は院政を再開
亡くなった人物
- 平清盛
第82代 後鳥羽天皇 1183-1198
1183(寿永2)
- 源義仲が礪波山で平維盛の軍を破る
- 後鳥羽天皇即位
- 十月の宣旨(後白河法皇が源頼朝に東国沙汰権を与える)
- 倶利伽羅峠の戦いで源義仲(木曾義仲)は火牛の計で平維盛に勝利
- 平氏が都を捨て西国へ敗走
- 源義仲が入京(都で乱暴をはたらく)
- 水島の戦いで源義仲は平氏に敗れる
1184(寿永3) 源頼朝が公文所と問注所を置く
- 宇治川の戦い(源範頼と源義経が源義仲を破り京に入る 同月、源義仲が近江国粟津にて討ち死にする)
- 源頼朝が公文所(別当・大江広元)と問注所を置く
- 当麻寺金堂再興
- 源義仲が征東大将軍
- 一の谷の戦いで源範頼・源義経が勝利
- 平氏の敗走
1185(文治1) 壇ノ浦の戦い(平氏が滅亡)/(文治の勅許により)守護・地頭の設置
- 屋島の戦いで源義経が勝利
- 壇ノ浦の戦いで源義経が勝利
- 平氏の滅亡
- 源頼朝が従二位
- 文治地震(宮中の建物一部損壊、京内の寺社や民家が倒壊、鴨長明「方丈記」に記述)
- 東大寺の大仏開眼供養
- 源義経が源頼朝に腰越状を送る
- 後白河方法が源頼朝に源義経追捕の命を出す
- 源頼朝が諸国に守護・地頭の設置と兵糧米の徴収を朝廷に認めさせる(文治の勅許により)
1189(文治5) 奥州合戦により奥州藤原氏滅亡
- 奥州合戦により奥州藤原氏滅亡
論点
- 2013年東大:奥州藤原氏はどのような姿勢で政権を維持しようとしたか。京都の朝廷および日本の外との関係にふれながら問われました。また、頼朝政権が、全国平定の仕上げとして奥州藤原氏政権を滅ぼさなければならなかったのはなぜか。朝廷の動きを含めて問われました。さらに、平氏政権と異なって、頼朝政権が最初の安定した武家政権(幕府)となりえたのはなぜか。地理的要因と武士の編成のあり方の両面から問われました。
1191(建久2)
- 栄西、南宋から帰国、臨済宗を伝える
- 飛鳥・川原寺炎上
1192(建久3) 源頼朝が征夷大将軍になる
- 源頼朝が征夷大将軍
その他の時代