奈良時代
- 陸奥の金
- 周防・長門の銅
- 近江・美作の鉄
708(和銅元)年に、武蔵国で銅が産出されると、年号を和銅と改め、和同開珎という銭貨を鋳造します。
蓄銭叙位令などで銭貨の流通を図りますが、地方では稲や布が交易の手段でした。
鎌倉時代
中世には職人たちによる商品生産が本格化しただけでなく、流通ネットワークの整備も進みました。
荘園制においても交易は不可欠であり、12世紀までに在地の市が成立していたと見られます。余剰分は他の市で交易され、荘園制を基盤に成長しました。
13世紀前半には金属貨幣の使用が広まっていましたが、銭貨は中国の宋銭でした。
日宋貿易でもたらされた宋銭は交換に便利であっため、商人や市での需要に応じて全国に流通します。年貢の銭納も多くなります。
宋銭は一時流通を禁じられたことがありましたが、禁令はあまり効果がなく、13世紀には事実上黙認されて貨幣流通は本格的に発展します。
国家の保証もなく、銅貨という素材価値の低い宋銭が、なぜ信任を得ることができたのか不明です。
渡来銭によって支払・交換手段がコンパクトになりましたが、それでも持ち運びには困難を伴うことがありました。
そこで発達したのが為替送金のシステムでした。一回ごとに取り組む替銭だけでなく、割符と呼ばれる流通手形も存在しました。
こうした仕組みが安定的に機能するためには、資金の流通が著しい不均衡が無いことが必要でした。
高利貸業者の借上が金融機関として増えていきます。
中世には借上・土倉などと呼ばれる金融業者が現れ、14世紀初期の京都には少なくとも300〜400の土倉が営業していました。
室町時代
1333年の鎌倉幕府滅亡をきっかけに製品のコストダウンと量産化の方向へ進みます。15世紀にはさらにハッキリとします。
生産スタイルの変化は流通にも大きな影響を与えます。生産地の周囲に面的な広がりを見せる地域的流通圏が生まれ、京都や鎌倉を媒介しない流通構造が形成されていきます。
モノの量産化の進行に伴いう地域的流通の成長の陰で、京都や鎌倉への物資の流れが次第に細くなり、中世の求心的な経済構造が崩れて、地域経済の分立が顕在化しました。
結果として15世紀には生産・流通・為替・金融など経済のあらゆる面で中世的な構造が解体に向かいました。
中世経済の解体との因果関係を示すのは難しいですが、中世の貨幣の流通も15世紀末期に曲がり角を迎えます。
貨幣が発行されず、輸入の宋銭や明銭の永楽通宝などが利用される程度で、商工業の発展を妨げます。
粗悪な私鋳銭が流通したため、良質の銭を選ぶ撰銭がおこなわれ取引を混乱させました。
幕府や戦国大名は撰銭令をたびたびだし、貨幣間の交換比率を定めたり、流通貨幣の種類の制限を行います。
16世紀になると割符に代わる手段として黄金と呼ばれる金の延べ板の使用が始まり、これを前提に京都で金、次いで銀が交換手段の地位を獲得します。
信長の撰銭令
永禄12年、信長が相次いで出した撰銭令により京都では銭による売買が忌避されます。
悪銭使用強制に京都の商人たちは銭での取引を拒み、米での取引を求めますが、信長は緩和措置をとりながらも米での取引を禁じて改めて銭での取引を命じました。
秀吉の貨幣政策
天正4年頃から精銭(善銭)の三分の一か四分の一の価値しかないビタ銭が姿を見せ、通用銭になっていきます。
同じく金銀の使用が浸透し始めます。
この時期の銭と金銀については、従来、銭の希少化と撰銭による混乱の中で金銀の使用が始まったと語られることが多いです。
これ以上に、織豊期、特に秀吉以降の領主財政の拡大と流通経済の拡大、金銀の増産も見落とせません。
江戸時代
慶長13年。徳川家康は関東を中心に永楽銭の通用を禁じ、ビタ銭による取引を命じました。街道筋における永楽銭とビタ銭の併存による混乱を回避することにあったと思われます。関東の銭通用圏を上方の銭通用圏に統合したのでした。
寛永13年。寛永通宝が鋳造され、交換基準が示され、悪銭の使用が禁止されます。しかし古銭の使用は一時的に認められました。
近世の貨幣の特徴は、江戸幕府などの公権力による貨幣への関与、国内における貨幣の鋳造、金・銀・銭の三貨の使用、流通貨幣の地域性の4つが挙げられますが、いずれも15世紀末から16世紀にベースが整えられました。
元禄時代
元禄時代は経済活動が盛んになり、豪商が現れ始めましたが、幕府や藩の財政は困難になっていきました。
幕府初期には佐渡、伊豆、岩見などの金・銀山など直轄の鉱山のおかげで3代将軍・徳川家光の時代までは財政のゆとりがありました。
しかし、鉱山からの産出が減少し、4代将軍・徳川家綱の時代の明暦3(1657)年の明暦の大火の復旧事業、5代将軍・徳川綱吉が寺社の造営を行ったため、財政は窮乏していきました。
徳川綱吉は勘定吟味役・荻原重秀(のちに勘定奉行)の意見を用いて、財政再建の方法として貨幣の改鋳に踏み切りました。
重秀は慶長小判の質を落とした元禄小判を大量に発行し、差益を幕府の収入としましたが、財政危機は一時しのぎとなりました。
悪貨により物価が値上がりし、庶民のはげしい不満を呼び起こします。
貨幣と金融
幕府が発行した貨幣は金、銀、銭の3種で、三貨と呼ばれました。鋳造権は幕府にあり、金貨は大判座と金座、銀貨は銀座、銭貨は銭座でつくられました。
鋳造は商人が請け負っていたため、貨幣の改鋳があると、金座や銀座の商人は利益を得ました。
- 金貨:大判(10両)、小判(1両)、一分金
- 銀貨:丁銀、豆板銀
- 銭貨:真ん中に穴のある一文銭
中期以降になると、財政の窮乏を救うため、藩による藩札(紙幣)が発行されることが多くなります。
貨幣の単位と交換比率が一定しておらず、かつ、改鋳が行われると古いものとの交換比率も変動したため、日常的には不便なことが多かったようです。
銀貨は重量が意味を持ちましたので、取引のたびに秤にかけなければなりませんでした。
こうした状況のため、両替商がうまれ、大きな富を蓄えたものも出ました。
明治時代
貨幣制度の改革をはかり、明治4(1871)年に新貨条例を制定し、貨幣の単位を円、銭、厘に統一します。
明治5(1872)年、渋沢栄一を中心に国立銀行条例を制定し、紙幣の発行ができる国立銀行を民営で各地に作らせ、資金を貸し付けさせました。
松方財政
明治10(1877)年、西南戦争の戦費をまかなうため、政府は紙幣を発行しますが、正貨と引き換えることができない不換紙幣だったため、インフレがおき、物価が上昇しました。そこで政府は財政を安定化するため、不換紙幣の整理にとりかかります。
大蔵卿の松方正義を中心に増税によって歳入の増加を図る一方、財政を緊縮して歳出を切り詰め、余剰金を正貨準備に充て、明治15(1882)年には中央銀行の日本銀行を設立します。
紙幣の発行権は日本銀行のみにみとめ、明治18(1885)年から、銀本位制を導入し、正貨である銀貨と引き換えできる兌換紙幣を発行します。
軍需工場を除く官営工場を民間に払い下げ、政府に近い政商は経営規模を拡大し、のちの財閥を形成していきました。
こうした松方財政によってインフレは収まり、貨幣・金融制度が整備され、民間の近代産業の発展の基礎がつくられました。一方で、不景気となり、米価が下落したため中小農民の生活が苦しくなり自作農から小作農へ転落したり、都市へ貧民として流れ込むなど、没落する者も少なくありませんでした。
参考文献
テーマ別日本史
政治史
- 縄文時代と弥生時代
- 古墳時代から大和王権の成立まで
- 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
- 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
- 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
- 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
- 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
- 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
- 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
- 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
- 鎌倉時代(惣領制の成立)
- 鎌倉時代(蒙古襲来)
- 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
- 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
- 室町時代(下剋上の社会)
- 室町時代(戦国時代)
- 安土桃山時代
- 江戸時代(幕府開設時期)
- 江戸時代(幕府の安定時代)
- 江戸時代(幕藩体制の動揺)
- 江戸時代(幕末)
- 明治時代(明治維新)
- 明治時代(西南戦争から帝国議会)
経済史
- 日本貨幣史(古代~近代) 本ページ