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【式外社】息栖神社(いきすじんじゃ)の参詣記-歴史や見どころは?(茨城県神栖市)鹿島神・香取神の先導の神アメノトリフネを祀る

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息栖神社の社号標
社号標と二の鳥居

息栖神社は茨城県の南東に鎮座しています。

鹿島神宮香取神宮、息栖神社の三社を巡る「東国三社巡り」の一社です。

他の二社に比べてアクセスが良くありません。

電車ですと、JR総武線(成田廻り)小見川駅下車、タクシーで10分、もしくはJR鹿島線の鹿島神宮駅または潮来駅下車、タクシーで20分です。

駅から歩く距離ではありません。

車ですと都内から2時間弱です。鹿島神宮に行く途中にある感覚です。

車であれば、鹿島神宮・香取神宮へはそれぞれ約20分です。

ですので、車が絶対的におススメです。

「東国三社巡り」を終えたあとに水郷の町・佐原に向かって、小江戸の街並みの散策も良いです。

佐原の江戸時代から続く創業およそ300年のうなぎ割烹山田のウナギは美味しいです。

泊まりで行かれるのでしたら、神栖市内も良いですが、佐原駅周辺や鹿島駅周辺も良いと思います。

宿泊旅行なら旅行サイトを利用するのが良いと思います。下記をご参考になさってください。

息栖神社の神様は

天鳥船命 (あめのとりふねのみこと)が主祭神です。

古事記の国譲りで建御雷神(たけみかづち、武甕槌大神)が大国主に迫りますが、その副使が天鳥船命とされます。

建御雷神は鹿島神宮の主祭神です。息栖神社では先導した天鳥船命を祀っています。

日本書紀の国譲りでは、本文の記述によると、經津主神(ふつぬし)を主とし、武甕槌大神(たけみかづち)を副として大己貴神(=大国主神)に国譲りを迫ります。

登場する神が異なります。經津主神(ふつぬし)香取神宮の主祭神です。

日本書紀の本文には天鳥船命が登場しません。

日本書紀の本文注釈に相当する箇所で、一書(=ある書物によるという意味)に記載があります。

經津主神と武甕槌大神に従った大己貴神が自分の代わりに仕えさせたのが、久那戸神 (くなどのかみ、岐神)で、この先導により、周囲の国を平定したとされます。

関東の平定も久那戸神 (くなどのかみ、岐神)の先導によるものとされることから、經津主神(=香取神宮)と武甕槌大神(=鹿島神宮)の先導とされます。

息栖神社は鹿島神宮と香取神宮の黒子のような存在ということになるわけです。

地理的にも、古代の東国経営の最前線は鹿島神宮と香取神宮で、息栖神社は後方支援的な場所に位置します。

先導神は、香取神宮を起点にして西にも配されています。

古社の神崎神社です。こちらはアメノトリフネを祭神としています。同じく利根川沿いにある神社です。

息栖神社の見どころ

一の鳥居と忍潮井(おしおい)

息栖神社の一の鳥居
一の鳥居

息栖神社(いきすじんじゃ)は鹿島神宮香取神宮と並んで「東国三社」の1社に数えられています。

それぞれの神社の一の鳥居は川沿いにあります。

息栖神社の一の鳥居も常陸利根川沿いにあります。

両側には「忍潮井(おしおい)」と呼ばれる2つの井戸があり、1000年以上もの間、清水を湧き出し続けてきたとされています。

伊勢(三重県)の明星井(あけぼのい)、伏見(京都府)の直井(なおい)とともに「日本三霊泉」の1つです。

明星井は斎宮のある伊勢街道沿いの安養寺の境内にあり、伏見の直井については、場所が分からないそうです。

息栖神社の一の鳥居
左が男瓶
息栖神社の一の鳥居
手前が女瓶

忍潮井には、銚子の形をした「男瓶(おがめ)」と、土器の形状の「女瓶(めがめ)」と呼ばれる瓶が据えられています。

見ることができた人に幸運が舞い込むといわれています。

また、縁結びのご利益もあるとされます。

女瓶の水を男性が、男瓶の水を女性が飲むと二人は結ばれるという言い伝えがあるのです。

現在は、忍潮井の水を直接飲むことはできません。

境内の手水舎の奥にある湧き水は、忍潮井と同じ清水で、お水取りをすることができます。

二つの瓶の伝説

息栖神社の一の鳥居
奥から男瓶、一の鳥居、女瓶

大同二年(809)。

かつて息栖神社が下流の日川にあった時、この地に遷座された際に二つの瓶が取り残されました。

二つの瓶は、神のあとを慕って三日三晩哭き続け、自力で川を溯ぼり一の鳥居の下に据えついたという伝説があります。

ですが、この地に着くと、今度は日川を懐かしがり泣いたといいます。

日川地区には瓶の泣き声の「ボウボウ川」と、瓶との 別れを惜んで名付けた「瓶立ち川」 の地名が残されています。

二の鳥居

息栖神社の二の鳥居
二の鳥居

一の鳥居から200メートルくらいの所にあります。

こちらを一の鳥居と勘違いしてしまう方もいると思います。

鳥居の右手に砂利の駐車場があります。

車で訪れる際は駐車場に停めて、少し歩いて一の鳥居を見て、二の鳥居に戻るのがおススメです。

駐車場は無料です。砂利の駐車場で、線引きされていません。

ある程度自由に停められますが、他の車に迷惑にならないようにキチンと停めたいところです。

息栖神社の由緒版

息栖神社の案内板
息栖神社の由来の案内板

流域は香取神宮が支配していましたが、室町時代には鹿島神宮との関係が密になったようです。

応安7年(1374)の頃は、一の鳥居周辺にあったと思われる港(=息栖津)の支配権は香取神宮だっだようです。

香取神宮の影響も強かったのではないかと思います。

息栖神社は、古くは日川に鎮座していた祠を、大同二年、右大臣藤原内麿の命に依り現在地の息栖に遷座したと伝承されている。

史書「三代実録」にある「仁和元年三月十日乙丑篠、授常陸国 正六位上 於岐都説神従五位下」の於岐都説神とは息栖神社のこととされている。(古今類聚常陸国誌・新編常陸国誌)

古来より鹿島・香取との関係は深く、鎌倉時代の鹿島神宮の社僧の記した「鹿島宮社例伝記」、室町時代の「鹿島宮年中行事」には祭例等で鹿島神宮と密接な関係にあった事が記されている。

祭神は、現在岐神・天鳥船神・住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)とされ、海上守護・交通守護の守り神と奉られている。

江戸時代には主神を気吹戸主神と記しているものもあり(木曽名所図会、新編常陸国誌)、さらには現在境内にある芭蕉の句碑「此里は気吹戸主の風寒し」は、その関連を物語っていると思われる。

社殿は享保八年に建替えられたが、それが昭和三十五年十月焼失し、昭和三十八年五月に新たに完成した。末社、高房神社・伊邪那岐神社・鹿島神社・香取神社・奥宮・江神社・手子后神社・八龍神社・稲荷神社・若宮。

神栖市教育委員会
息栖神社の案内板
息栖神社の由緒についての案内板

息栖神社は岐神(くなどのかみ)を主神とし 天鳥船・住吉三神・を相殿の神として祀られており 古くから国史にも見え(三代実録に書かれ てある於岐都説神社)が今の息栖神社です。
鹿島・香取・両神宮と共に東国三社の一社 として上下の信仰の篤い神社です。
岐神(くなどの神)は厄除招福・交通守護の御霊格 の高い神で、鹿島・香取の大神と共にその先頭 に立たれ国土の経営にあたられた。
天鳥船神(あめのとりふねの神)は航海・航空の守護 の御霊格が高く、古事記に(天鳥船を建御雷神 に副えて遣わす云々)とあり、鹿島の大神の 御先導を務められた神であります。
(住吉三神)は海上守護・漁業関係の御霊格 が高い三柱の神様である。
このように五柱の神々を祀られているので 古くは息栖五所明神とも称された。
祭日
一、元旦祭 一月一日
一、白馬祭 一月七日
一、節分祭 二月三日
一、祈年祭 三月六日
一、例祭 四月十三日
一、摂末社祭 五月三日
一、大祓 六月三十日
一、風祭 八月二十七日
一、秋祭 十一月十三日
一、献穀祭 十二月三日
一、大祓 十二月三十一日

息栖神社の由緒についての案内板

参道

こじんまりした参道ですが、きれいに整備されています。

息栖神社の参道
参道

神門

息栖神社の神門
神門

鹿島神宮と香取神宮の楼門が大きいので、ギャップを感じるかもしれません。

それもあって、まず最初に息栖神社を参拝するのがおススメです。

また、他の二社の先導神を祀っていることからも息栖神社を最初に訪れのがいいと思います。

手水舎

息栖神社の手水舎
手水舎

拝殿

桜の季節の拝殿
新緑の季節の拝殿

横手から裏手へ。

息栖神社の拝殿
本殿を左側から

同じアングルを桜の季節に撮影しました。

本殿を左側から(桜の季節)
息栖神社の拝殿
本殿の裏側
本殿を右手から

礎石

息栖神社の礎石
5つの礎石

拝殿のわきに置かれています。

本殿が大同二年(807)にこの地に遷宮して以来、数回におよぶ建替えがありました。

5つの石は昭和三十五年(1960)まで礎石として使用されていたものです。

御神木

息栖神社の御神木
御神木

息栖ゆかりの歌碑

息栖神社の息栖ゆかりの歌碑
歌碑
息栖神社の息栖ゆかりの歌碑
説明版「息栖ゆかりの歌碑」

鎌倉時代に編纂された「新和歌集」(藤原為氏撰)の中には、息栖周辺を詠んだ歌が収められています。その歌の表題は「藤原時朝、鹿島のおきす社にまいりて彼社僧に十首歌すゝめ侍りける」とあり、次の歌はそのうちの一首です。

海原や沖つ潮合に立浪の鎮めがたきは心なりけり 理然法師(息栖神宮寺僧)

なお、「息栖の歌」とは別に「新和歌集」には、渡り鳥「ほととぎす」の歌があります。この三つの和歌は、藤原時朝が鹿島詣での際、歌仲間と船中で十首詠んだうちの三首です。

鹿島潟沖洲の森のほととぎす船をとめてぞ初音ききつる 藤原時朝

われのみと待ちつる暮を郭公またたか為に鳴てすくらん 諦如法師

里とをき山のすそのゝほとときすたか為になく初音成らむ 稱佛法師

☆新和歌集十巻

和歌。鎌倉時代に藤原為氏の撰した私撰集。「新式和歌集」「宇都宮打聞新式和歌集」ともいわれ、正嘉元年(1259)8月15日前後までの間に成立したといわれています。

☆藤原時朝(笠間時朝)

鎌倉時代の歌人で、勅撰集にも選ばれており、三十三間堂をはじめ、各地の寺院に奉仏、納経をしています。また、常陸国笠間荘の領主となり笠間氏を称し、初代笠間城主となりました。

平成15年3月 神栖市教育委員会 神栖市歴史民俗資料館

芭蕉歌碑

息栖神社の芭蕉句碑
芭蕉歌碑

この里は 気吹戸主(きぶきとぬし)の 風寒し

貞享4年(1687)年に松尾芭蕉が訪れ、詠んだ俳句です。

鹿島根本寺の仏頂和尚の招きで鹿島の月を眺めるための旅でした。

根本寺・鹿島神宮・潮来長勝寺などを巡ったようです。

芭蕉句碑

この里は気吹戸主の風寒し

俳聖といわれた松尾芭蕉が、水郷地方を訪れたのは、貞享4年(1687)8月14日で、親友・鹿島根本寺の仏頂和尚の招きで、鹿島の月を眺めるためであった。

この旅で根本寺・鹿島神宮・潮来長勝寺と水郷地方を訪ねまわった彼は、息栖地方にも足をのばしたもののようである。この句碑は、小見川梅庵・乃田笙々といったこの地方の俳人らによって建てられたもので、その年月は不明である。

句の意味するもの

いざなぎの尊が、黄泉の国(死の国)から戻ったとき、筑紫日向の橋の小門(おど)で、身体を洗い、きたないものと汚れたもの(罪や穢れ)を、すっかりそそぎ落し、浄め流した。その流れの中から生まれたのが気吹戸主(息栖神社祭神)で、清浄化・生々発展・蘇生回復の神である。

このいわれにあやかって、この神域に身をひたしていると、身も心も洗い浄められて、何の迷いも曇りも、わだかまりもなくなり、体の中を風が吹き抜けるほど透き通って、寒くなるくらいである。といった、息栖神域の醸し出す風趣・威懐といったものを詠みあげたものであろう。

昭和61年3月 神栖市教育委員会

力石

息栖神社の力石
力石

この力石は春秋の祭り、夏の昼休み、夕涼みがてらに集った若者たちの力競べに用いられたもので、外にも幾つかの小振りな石があり、それぞれに手頃の石に挑戦し、体力を誇り、練り、自信を深め、最後にこの石を高々と差し上げた者が力の王者としての栄誉を受けたと云われている。野趣に満ちた極めて素朴な競ではあるが、社の中で行われるだけに神と人間とが一体となって体力と気力の発散に汗みどろになって喜ぶさまが偲ばれる。現代人には程遠くなった祖先たちの青春の遺物の一つである。

なお、この石の一つ(右側の五十貫余)は対岸の侠客・笹川の繁蔵が自らの力を試すために使われ、奉納されたものと伝えられ「繁蔵の力石」とも云われている。

息栖神社

招霊(オガタマ)の木

息栖神社の境内社
4柱合祀社と5柱合祀社
息栖神社の招霊(オガタマ)の木
オガタマの木

摂末社

4柱合祀社と5柱合祀社

4柱合祀社(写真左手)

鹿島神社、伊邪那岐神社、高房神社、奥宮

5柱合祀社(写真右手)

香取神社、手子后神社、八龍神社、江神社、若宮

稲荷神社

息栖神社の稲荷神社
稲荷神社

東国三社巡り

「東国三社」とは鹿島神宮香取神宮、息栖神社の総称です。

三社の鎮座位置は、直角二等辺三角形を描くことが知られています。

三社を巡ると伊勢神宮をお参りしたのと同じご利益があるとされます。

回る順番ですが、鹿島神宮と息栖神社が近いので、この2社を一緒に巡り、香取神宮を別にするのがおススメです。

おススメは息栖神社→鹿島神宮→香取神宮の順です。

三社を巡った証としてのお守り「東国三社守」があります。

三角柱のお守りで、写真は息栖神社の面です。息栖神社の神紋は三つ巴です。

我が家は「東国三社守」が二つ目です。初代は香取神宮へお戻ししました。

写真は初代です。

東国三社守の息栖神社
東国三社守

舟運の歴史

息栖河岸(息栖の津・渡船場跡)

息栖神社の一の鳥居案内板
説明版「息栖神社と河岸」

案内板によると、この一帯は息栖河岸と言われたようです。

元来、利根川は東京湾に流れていたのですが、江戸時代の治水工事によって、現在の利根川となりました。

江戸への船運路なったのが、承応3年(1654)のことだったそうです。

この船運路の開通によって、この辺りも河岸として栄えました。

息栖神社と河岸

江戸時代に入るまでの利根川は一本の川ではなく、直接東京湾に注ぎこみ、現在の利根川中・下流域は常陸川と呼ばれていました。この二つの川が改修工事によって一本の河川となり、江戸への船運路として成立したのが承応3年(1654)のことです。当時の江戸は急激に人口が増え、一大消費地になっていました。商品や農・水産物の多くは利根川を舟運によって上下し、その集積地となったのが川岸に点在する「河岸」でした。

利根川の舟運は物資の輸送に役立っただけでなく、旅行者にも大いに利用されました。この息栖河岸には東国三社参詣の人々や下利根川地方遊覧の人々が各地からおしよせ、大変なにぎわいをみせたのです。これらの人々を乗せて利根川を上下したのが「木下茶舟」と呼ばれた乗合舟・遊覧船でした。木下河岸(現千葉県印西市)から船出する船は、江戸中期には、年間約1万7千人(1日平均約46人)あまりが利用したということです。

男甕・女甕の忍潮井も神社とともに有名になり、伊勢の明星井、山城の直井とあわせて日本三所の霊水と言われ、人々の評判となりました。旅人の中には松尾芭蕉を始めとして、多くの文人・墨客もこの息栖神社をおとずれ、その足跡を残しています。息栖河岸はまさに玄関口であり、物資や人々の往来と共に江戸の文化や情報をもたらしてくれていたのです。

神栖市教育委員会

息栖の津

息栖神社の一の鳥居案内板
説明版「息栖の津・渡船場跡」

また、別の案内板によると、「息栖の津」は古くからあり、応安7(1374)のころには、この流域の支配権は香取神宮でした。

香取神宮は利根川流域の下総側24、常陸側50の津を支配していました。

つまり今の千葉県側で24か所、茨城県側で50か所の小さな船場の権益を握っていたということです。

息栖の津・渡船場跡

「息栖の津」は古い時代からあった。今から約七百年の昔、応安7年(1374)記の香取神社文書「海夫注文」にその名が見える。当時、この流域の支配権を持つのは香取神社で、下総国側の24、常陸国側の50の津を支配した。「息栖の津」も利根川を往来する舟船の船着場とし、また魚労の拠点としての網引・釣魚に大きな役割を果たしていたようだ。この時代には海水が入り、この辺りでもサケは勿論のこと、タイ・ヒラメ・ハマグリ等が獲れていたとの記録が残っている。

江戸時代になると、江戸の文人墨客、庶民の、東国三社(鹿島神宮・香取神宮・息栖神社)を巡拝する旅が盛んになった。日本橋小網町を小船で出発し、途中徒歩もあるが、下総国木下河岸(千葉県印西市)より木下茶船に乗り、利根川を下って三社に向かった。記録には木下河岸を出る船数は、安永年間(1854~)には年平均4,400~4,500隻にも達している。単純計算で1日12隻もの船が出航している。香取神社から鹿島神宮へ向かう途上、息栖神社へ立ち寄る慣例であった。名のある文人墨客が息栖の地を踏んでいるが、芭蕉は、当時の息栖神社の主神を

「この里は 気吹戸主の(いぶきどぬし) 風寒し」

と詠っている。また「東海道膝栗毛」で有名な十返舎一九も訪れ、

「いつまでも 息栖の神の名にめでて 水にうききの 瓶ぞ久しき」

と詠っている。

明治時代に入っても三社詣の旅は盛んであった。明治の徳冨蘆花は明治33年(1900)に「自然と人生」を刊行した。その中「利根の秋暁」と題する随筆で、息栖河畔の柏屋に投宿し、朝がた村人が

「河水を掬(く)んで嗽(くちそそ)ぎ、顔を洗い、それから遥かに筑波の方を向いて、
掌を合わせて拝んでいる。あ々実に好い拝殿、と自分は思った。」

と清流が流れる当時の息栖河岸を描いている。さらに明治期からは日用雑貨品の購入、また莚や干鰯等出荷等で、対岸の小見川との経済交流がますます盛んになってきた。

明治13年(1880)の記録によると、人・牛馬・車ともに5銭の渡し賃で、息栖、小見川両岸でそれぞれ渡船を経営したと言われている。昭和7年(1932)には両岸有志の共同出資による「水郷息栖小見川渡船株式会社」が設立され渡船業務を行っている。

昭和28年(1953)には同者の営業権の譲渡を受けて、小見川町町営渡船となり、1日8回の運行を行った。この年度の乗客延人数は19万6千人と記録されている。昭和30年代は、第一小見川丸から第六小見川丸まで六隻を保有し、経済交流だけではなく、千葉県側の高校への登校の交通手段としても大きな役割を果たしていた。
昭和48年(1973)小見川大橋の完成により、幾世紀にわたる水上交通の拠点としての津・渡船場の役割を終えた。

平成22年 神栖市教育委員会

おきすの津(港)と碇

息栖神社の案内板
「おきすの津(港)と碇」の案内板

おきすの津(港)と碇

大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物思わざらむ(柿本人麿)

今よりはぬさとりまつる船人の 香取の沖に 風向うなり(藤原家隆)

広大な内海であったために、香取の海といわれた古代の水郷の中で、おきすの社と呼ばれた水の神、息栖神社の所在する息栖の地は、おきすの津(港)と呼ばれて、周辺の陸地との交通上の船着場として、大きな港としての役割を果たしていた。

徳川時代になると、幕府の拠点江戸と東北との交流が盛んになり、その水上輸送路は、江戸川・利根川・水郷地帯・銚子川口から鹿島灘といった航路が選ばれていた。これらの長距離輸送には、当然大型船舶が用いられ、その往復途上、息栖の津に立ち寄っては、息栖の神々に航路の安全と、家族の安泰とを祈願した。この碇はそうした祈りをこめて、息栖の神に献納された物であろうが、それが何船によってのことかさだかではない。けれども潮に晒され、鉄片のはがれ落ちた碇の姿から、道の奥(東北)と板東(関東)との間にたって、物資輸送に励まされた船人の、遠い昔を偲ぶ手がかりとなっている。

帆柱ぞみをつくしなる大船の かとりの浦の見るめからねど(利根川図誌より)

神栖市教育委員会
「おきすの津(港)と碇」の案内板はもう一つある。こちらの方が新しい。

息栖神社の概要

創建第15代応神天皇の代
主祭神久那戸神 (くなどのかみ、岐神)
相殿神天鳥船命 (あめのとりふねのみこと)
住吉三神 (すみよしさんしん)…上筒男神、中筒男神、底筒男神の3柱の総称。
神紋三つ巴
古代社格制度式外社(国史見在社)
中世社格制度
近代社格制度県社
現代の制度

息栖神社のホームページ

息栖神社
水郷をひらいた息栖の神々

住所&地図

所在地:〒314-0133 茨城県神栖市息栖2882
電話:0299-92-2300

駐車場あり 約20台 砂利駐車場

周辺の食事処

駅から離れており、神社の周りも栄えていません。

どこかで一休みするとか、昼食を摂りたいということが難しいエリアになります。

この日の昼食は、車でそば処松栄に向かいました。息栖神社からは5分ちょっとの距離にあるお店です。