水戸駅から坂道を登っていくとたどり着きます。
駅前の喧騒から、嘘のように静かなエリアです。
車で行く場合は、弘道館そばに10台程度の駐車場があります。
梅のシーズンでなければ、そんなには混んでいないように思われます。
旧水戸城の一角に位置しており、弘道館入り口の向かいには水戸城の大手門があります。
この時はまだ再建工事中でした。
梅の名所
弘道館は偕楽園同様に梅の名所です。
徳川斉昭の意向で、設立当初から多くの梅樹が植えられました。
敷地跡は梅樹約60品種800本が植えられています。
「種梅記」の碑に徳川斉昭の漢詩「弘道館に梅花を賞す」が書かれており「千本の梅がある」とあります。
梅の時期は偕楽園同様に混むのでしょう。梅の時期に来てみたいです。
弘道館(こうどうかん)歴史
弘道館は、江戸時代後期の1841年(天保12)に水戸藩主9代目徳川斉昭によって作られた藩校です。
藩校は1871年(明治4)廃藩置県まで、およそ30年間続きました。
1841年(天保12)は仮開館。本開館は1857年(安政4)。
当時の水戸藩は財政が潤ってはいませんでしたが、水戸藩が教育に力を入れていたことが良く分かります。
創立を1838年(天保9)とする説があります。
徳川斉昭の命で藤田東湖が教育精神を記した「弘道館記」が1838年に完成しているためです。
長州藩の明倫館、岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つと称されました。
同じく「弘道館」の名の藩校は肥前藩、佐賀藩、福山藩、谷田部藩、彦根藩などにもありました。
青山延于(拙斎)、会沢安(正志斎)を初代教授頭取として開校しました。
建造は戸田蓬軒、経営を担当する学校奉行には安島帯刀が任命されました。
水戸城内に文武2館を設け、15歳から40歳までの藩士の子弟を教育しており、その準備に10歳よりは家塾に入ることとされました。
弘道館では、学問は一生行うものであるという考え方により、卒業を設けず、若者も老人も同じ場で学びました。
生涯学習の先取りと言っていいでしょう。
当時の藩校としては規模が大きかったです。
敷地面積は17万8400㎡。水戸城三の丸にあった山野辺家などの重臣層の屋敷地をほかに移して建てられました。
正庁、至善堂、文館、武館、医学館、調練場などを設け、このうち医学館は領民に対する種痘などを行いました。
館記の「敬神崇儒」の方針により、敷地内には学館のほか、孔子廟、鹿島神社が祀られています。
残念なことに、1864年(元治元年)に大部分が焼失してしまいます。
教育精神は、八卦堂の「弘道館記」の碑に藤田東湖草案のものが漢文で書かれています。
他には「弘道館記述義」にも教育精神を見ることができます。
皇国の道を中心とし、漢学、天文、数学、医薬、歌学、兵学、音楽、礼法などを教えていました。
また、実用用主義の立場から洋学も取入れました。
藩学出席強制日数という形式的な基準が設定されており、文館への入学には一定水準以上の学力を要しました。
武館への入学は無試験でした。
家格と実力が合致する人材を育成する目的から、家柄に基づいた出席日数の制限が行われ、家柄が低い者は出席日数が少なく設定されました。
後期水戸学の尊王攘夷思想の支柱的な役割も果たしました。
水戸学は水戸藩主2代目徳川光圀が編纂を始めた大日本史の影響を受けています。
幕末になると、改革派(天狗党)と保守派(諸生党)が激しく争い、弘道館もその舞台となります。
1868年(慶応4)4月、徳川慶喜は江戸開城の合意に沿って水戸に引き移り、弘道館の至善堂に入りました。
ですが、水戸藩では藩主の徳川慶篤が病没して、藩主不在の混乱状態でした。
徳川慶喜が紛争に担ぎ上げられることが目に見えていたので、同年7月には静岡に移っています。
改元した1868年(明治元)10月には戊辰戦争で敗走した諸生党が水戸に舞い戻って弘道館に立てこもります。
水戸城に入った本圀寺党・天狗党の残党らと大手門を挟んで戦闘する事態となります。
この弘道館戦争により文館・武館・医学館等多くの建物が焼失してしまいます。
明治期には弘道館が有していた蔵書の多くは国有化され、旧制水戸高等学校が引き継がれます。
しかし、1945年(昭和20)の水戸空襲により焼失します。
そのほかの蔵書は、弘道館の伝統を引き継ぐ関係者に引き継がれました。
引き継がれた蔵書は、弘道学舎、水戸塾、水戸学院、茨城中学校・茨城高等学校と続いています。
現在、約1万冊程度の蔵書が現存し、茨城県立歴史館が委託管理しています。
1872年(明治5)に閉鎖され、太政官布告により公園とされました。
水戸城三の丸跡に残る建物と正門は国の重要文化財。遺構は1952年(昭和27)に旧弘道館として国の特別史跡に指定されています。
旧水戸藩の藩校である弘道館(こうどうかん)は、第9代藩主徳川斉昭が推進した藩政改革の重要施策のひとつとして開設されました。
https://www.ibarakiguide.jp/kodokan/about.html
弘道館建学の精神は、天保9年(1838年)に斉昭の名で公表された「弘道館記」に「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の5項目として示されています。弘道館は、天保12年(1841年)8月1日に仮開館式が挙行され、さらに、15年あまりの年月を要し、安政4年(1857年)5月9日に本開館式の日を迎えました。
藩校当時の敷地面積は約10.5haで、藩校としては全国一の規模でした。敷地内には、正庁(学校御殿)・至善堂の他に文館・武館・医学館・天文台・鹿島神社・八卦堂・孔子廟などが建設され、馬場・調練場・矢場・砲術場なども整備され、総合的な教育施設でした。
弘道館では藩士とその子弟が学び、入学年齢は15歳で40歳まで就学が義務づけられていました。卒業の制度はありませんので、生涯教育といえます。学問と武芸の両方が重視され、学問では儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽など、武芸では剣術・槍・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳など多彩な科目が教えられていました。また、医者を養成する医学館では、医学の教授のほか、種痘や製薬なども実施されていました。
その後、幕末の動乱期を経て、明治5年(1872年)の「学制」発布により弘道館は閉鎖され、県庁舎や学校の仮校舎として使用されました。幾度の戦火を免れた正門、正庁及び至善堂は、昭和39年(1964年)に国の重要文化財に指定され、現在約3.4haの区域が「旧弘道館」として国の特別史跡に指定されています。区域内には約60品種800本の梅が植えられており、梅の名所としても有名です。
平成27年4月には、「近世日本の教育遺産群―学ぶ心・礼節の本源―」の構成文化財として、文化庁が創設した日本遺産に認定されました。
2015年4月24日に日本遺産の「近世日本の教育遺産群─学ぶ心・礼節の本源─」に認定されました。
弘道館の見どころ
入口
敷地内
建物内
弘道館の住所と地図
所在地: 〒310-0011 茨城県水戸市三の丸1丁目6−29
電話: 029-231-4725
旧水戸城跡の大手門周辺
弘道館から大手門の間に大手橋が架かっていますが、下は深い堀となっており、この橋を落せば防御できるようになっていました。
大手門の周辺。学校が立ち並んでいます。
茨城師範学校があった場所です。
大日本史編纂の地の碑