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池宮彰一郎の「遁げろ家康」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

ここまで滑稽でみっともなく格好悪い徳川家康像というのは初めてである。小心者で、危険が迫るとすぐに遁げる。その姿にいくどニヤリとしたかわからない。くすくす笑ったこともしばしばである。

『小心であり、律儀であったがゆえに、家臣団はあるじと仰いだ男にたまらない愛情を持った。』

こうした家康に対して、徳川家臣団は強欲集団として描かれている。これに無理矢理押される形で前に進んでいるのが本書の徳川家康である。

『戦国末期、世に名を成した英雄武将は、例外なく少年期から青年期にかけて逆境に身をおいた。

(中略)

その中で、三河岡崎の松平元康とその家臣団の逆境は凄まじかった。悲惨を超えて滑稽なほどであった。』

後の徳川家康は今川にとっての敵になる織田側に抑留されたため、今川家では松平家を同盟国とは見ず、属邦にしてしまった。松平家の家臣団は俸禄を失い、農民に戻ってわずかな土地を耕して飢えをしのいでいた。

家康が人質となっている以上、やむをえないと納得せざるを得なかったが、その裏には次のような執念を燃やしていたようだと池宮氏は述べている。

『おのれ、今に見よ。自立した暁には、この抑圧された欲望を十倍二十倍に膨らして報ゆるぞ。』

徳川家臣団の強欲はこうして形成されていったのだ。

その家臣団だが、家康に言わせると次のようになる。

『欲と、欲にかられての合戦の強さでは抜群だが、智恵のめぐりがその分遅い。』

にもかかわらず、主を差し置いて勝手に動く癖がある。欲が先に働いてしまうのだ。

この欲に取り憑かれた家臣団と、小心者な主・家康の組み合わせは、何ともでたらめなものである。

だから池宮彰一郎氏はこういう。

『信長は大義名分の美意識で戦い、躍進した。
秀吉は天下統一の野望で戦い、その志を遂げた。
家康は、いい加減さで戦って人心を掌握し、天下を獲った感がある。』

さて、各目次は一風変わった言葉をつかっている。造語もあれば故事から取って付けられているものもある。それぞれの来歴を調べてみるのも面白いだろう。

内容/あらすじ/ネタバレ

永禄三年(一五六〇)五月。今川義元は西方へ軍を発した。前線の整理のため、属将を使うことにした。戦上手の松平元康に二千五百の兵を与え、丸根砦を、朝比奈泰能に鷲津砦の攻略を命じた。

激戦のあった丸根砦では昼を過ぎると倦怠に堕していた。松平勢は休む間もなく大高城に帰り城の修復に忙殺される。

竹千代(元康)は今川で人質生活をおくっている時に太原雪斎のもとに通った。そこで創意工夫の危険を学んだ。古今東西の良き例を真似よと。

雪斎は竹千代に、竹千代の小心の気質を気に入っていると言った。

若干十九歳の元康は募る不安にしきりに貧乏揺すりをし、爪を噛んだ。何の連絡もないことに不安を感じているのだ。すると味方が何の連絡もなく東へ向い始めた。

織田信長の乾坤一擲の紀州が成功したことを松平隊は知らなかったのだ。

その知らせが届いても元康は信じようとしなかった。石川数正らの家臣団は早期撤退を進言したが、拒み続けた。存外な強情ぶりに岡崎衆は呆れた。

万が一誤報だった時のことを考えると、元康は恐かったのだった。

岡崎城では混乱を生じていた。その岡崎城へ松平元康は入ろうとしない。近くの寺に居座った。寺で元康には戦いが終わったことによって、それまでのあらゆる恐怖が襲いかかっていた。

岡崎城には誰もいなくなっていた。捨て城なら遠慮は要らないということで入った。この数日、元康と松平勢の動向を一門衆や国衆、旧臣、土豪らが固唾を呑んで見守っている。今川の属将を続けるか、自立するのか。元康が城に入ったことで沸き立った。

この後も元康は織田方と戦闘を継続した。今川の中では彼だけだ。織田方では元康の義理堅さに目を瞠り、今川でもその律儀さに感服していた。

だが、両者とも勘違いをしている。岡崎松平が肥らなければ食えないから、せっせと領土稼ぎに励んでいたのだ。

岡崎五万石に約三万石を加えた所帯となった。松平家最大の切所に直面していた。今川からの自立をするか否か。

家臣団は今川からの自立を望み目を輝かせる。欲の燃えさかる目である。元康は身震いするほどのおびえを感じた。

長老の酒井忠次が織田信長からの誘いを受けているといってきた。どうも松平の家臣団は、あるじを差し置いて勝手に振る舞う癖がある。

織徳同盟が成り、元康は東三河を攻め、瞬く間に所領は三十万石に増えた。

だが思わぬ副産物があった。それは一向宗徒の一揆である。信長は家康に一向宗徒の弾圧を要請し、家康は実行した。これが意外な結果を生んだ。多くの家来が命令に応じず、家康が頼みとする家臣団が崩壊した。

一揆に勝った場合は家康は寛大に許し味方に組み入れた。負けた時は、まっしぐらに遁げた。遁げ足の速さは抜群だった。未練なく遁げる負けっぷりの良さが元家臣の愛着を誘った。

一揆を平定すると、東三河に残存していた今川の勢力を一掃し、三河一国の領有が確立した。

家康は姓を徳川に変えた。得意になっていると、思わぬところから使者が来た。甲斐の武田信玄だ。武田は駿河をとるから、徳川は遠江をとれ、大井川をもって国境としようという。

家康より先に欲深の家臣団が乗り気になった。

織田信長から招請が来た。京へ行くという。近江坂本を通過した時電撃命令が発せられた。越前朝倉を討つ。

だが、浅井長政の裏切りが起きた。一番の貧乏くじは家康だった。異変を知ってから一日以上過ぎている。前後を朝倉と浅井に囲まれている。死地だ。

家康が発した命令は一言だった「遁げろ」。

越前朝倉攻めは無惨な敗北に終わり、信長もしばらくは逼塞するだろうと思っていたら、二月したら招請が来た。浅井を討つというのだ。

家康は敗戦に備えた布陣で臨んだが、家臣団は張り切っている。

戦いが始まって、家康は織田軍の弱さに腹を立てていた。その中、大久保忠代が榊原康政に目配せをし、康政は本陣の兵の半分を勝手に率いて迂回作戦に出てしまった。

姉川合戦は勝利に終わったが、織田・徳川軍は追撃の余力がなく、朝倉・浅井を滅ぼすのに、あと三年かかることになる。そして、その間に反織田の包囲網が築かれることになる。

武田の動きが怪しい。家康にはいい考えが思い浮かんだ。武田信玄の敵の上杉謙信と同盟を結ぶことだ。敵の敵は味方。だが、これは逆に武田信玄に口実を与えることになる。

家康は得意満面である。これを聞き、酒井忠次と石川数正は呆然となった。そして、同盟者の家康が信玄の宿敵と同盟したことは、信長の立場を窮地に追いこんだ。

武田信玄が上洛の軍を動かした。家康の総兵力は一万だが、決戦兵力は六千しかない。

この時、浜松城には茶屋四郎次郎がいた。家康と四郎次郎は似たもの同士だった。ともに小心者である。

信玄が目の前を通過するに及び、岡崎城が心配になった家康は出戦を命じた。そして三方原での激突となる。

武田軍と三河軍の力の差に唖然とし、家康はもう遁げきれん、死ぬぞ、死ぬ、死ぬと喚き遁げた。気が付くと浜松城に帰着していた。

城門は開かせたままだ。敵が突入してきたら、開いている門から遁げの一手だ。遁げるには体力が第一だ。家康はすぐに眠った。

それを見て、周囲は「何と、お肝のふといことよ」と感嘆した。

武田信玄が死んで織田信長は飛翔続けたが、またしても家康は貧乏くじを引いた。信玄の後を継いだ武田勝頼はおのれの威を示そうと盛んに兵を催す。

ために、家康は懸命に闘わざるを得なかった。信玄は死んでも武田軍団は健在なのである。

その武田軍を長篠で破ったものの、武田は一向に立ち枯れしそうにない。

武田勝頼の滅亡は呆気ないほど早かった。

この後、家康は信長の接待をし、お返しにお呼ばれすることになったが、ここで信長が明智光秀に討たれる事件に遭遇する。それを知らせてきたのは茶屋四郎次郎だった。

家康は容易に信じようとしなかった。そして突如惑乱した。死ぬう、死ぬぞと喚き続ける。だが、茶屋四郎次郎に連れられ、家康の一行は伊賀越えをし、辛くも国に戻った。

岡崎自立以来、徳川の背後には常に織田がいた。それが、いなくなった。寄る辺のない身という恐怖が家康を襲っていた。今より正真正銘の自立である。

現実主義に徹した家康が考えた目標は甲州と信州をかすめ取ることだった。そのための大義名分を立てるのに苦労したが、地侍の側から徳川へ帰順するように仕向けた。

世の中はそう甘くない。これに反応したのが、上杉景勝と北条氏政である。

家康は信長の跡目を巡る覇権争いの圏外にいた。誰と組むかは形勢が定まりかけてからと思っている。

家臣団は秀吉と柴田勝家との争いに関しては、勝家派が圧倒的だった。わずかに石川数正が違った意見を持っていた。

その秀吉が勝家を破った。鈍重な三河者が肝を潰す疾風のごときはやさだった。

家康はいずれ秀吉と闘うことを覚悟した。勝てるかわからないが、それまでは韜晦の一手のみである。無視し続けた。

天正十二年、天下の情勢は織田信雄という一人の愚者を中心に動いた。そして小牧・長久手の合戦が始まる。家康・信雄軍三万五千、秀吉は総勢八万。こうなるとさすがの三河者でも手が出せない。

この中で信雄が勝手に秀吉を和解をしてしまう。

秀吉と家康の関係は奇妙なものになっていた。秀吉は九州征伐を迫られており、何としても東方の家康の脅威を取り除かなければならなかった。家康との外交折衝に懸命となる。

家康は殺されると思いながらも秀吉に屈服することにした。京の宿は茶屋四郎次郎のところだ。家康は一人殺されると騒いでいた。

北条征伐にあたって、家臣団の一致した望みは駿河に隣接する伊豆が欲しいというものだった。だが、秀吉がよこしたのは関八州二百四十万石だった。家康はじめ並み居る諸侯は仰天した。

江戸に入った家康はそのみすぼらしさに謀られたと感じた。家臣団に築城を任せ、領地の検分をしたが、北条が滅びるわけを知るのみとなった。

朝鮮出兵が開始されたが、家康はこの出兵を免除された。秀吉にしても、関東の地を開拓するまでに二、三十年はかかると踏んでおり、力を削ぐことに成功するはずと考えている。

秀吉が死んだ。家臣団は騒ぎが拡大して豊臣政権が崩壊すれば、徳川の天下を招来するかもしれないと、途方もない欲をかいている。

本書について

池宮彰一郎
遁げろ家康
朝日文庫 計約六六〇頁
戦国時代安土・桃山時代末期

目次

天機転回
跼天蹐地
国歩艱難
意、自ら通ぜず
甲州崩潰
轍鮒の急
空国の躄音
鶏口牛後
爾為爾我為我
天造草昧
幕天席地
孔丘盗跖倶塵埃

登場人物

徳川家康(松平元康)
酒井忠次
石川数正
高力清長
本多重次
天野元景
大久保忠代
鳥居元忠
榊原康政
本多忠勝
井伊直正
本多正信
築山殿
松平信康
茶屋四郎次郎
織田信長
豊臣秀吉
石田三成
前田利家