上皇が治天の君になれた理由
承久の乱は朝廷対幕府の戦いですが、後鳥羽上皇が仕掛けた戦でした。
朝廷側のトップは天皇ではなく、摂関家でもなく、上皇でした。
この時代は上皇による院政が敷かれていた時代です。
そのため、なぜ上皇が天皇を凌いで「治天の君」として君臨できたのかを知るのが重要です。
自らの皇統の確立のため
坂井孝一氏によると、院政期の始まりとなった白河上皇は、院政を目的として院政を始めたのではなく、自らの皇統の確立のためだったと言います。
地位よりも家父長が重視されたため
本郷和人氏によると、治天の君として君臨する上皇は、家権力、つまりは天皇家の家父長として天皇を凌ぐ力を持っていたと言います。つまりは、地位よりも家の重視です。
天皇や摂政・関白という地位よりも、家が優先され、家父長だった上皇が 「治天の君」として君臨したのが院政ということです。
北条氏の台頭
2022年の大河ドラマ(第61回)は北条義時を主人公とした「鎌倉殿の13人」でした。
北条氏とは
北条氏は出自が謎に包まれている部分が多かったのですが、近年の新史料の紹介もあり分かるようになってきています。
北条氏は北条時政の祖父・時家から始まります。時家は伊勢平氏庶流の出身で北条介の婿になったとみえることから、伊豆に土着して北条氏が成立します。
北条介の一族は平直方の子孫と想定され、熱海に進出を遂げ、勢力を伸ばして伊豆の在庁官人の地位を得て、ここに時家が婿として入り、北条氏を名乗るようになります。時家は都で活動していた京武者で、北条氏に婿入りします。
時政以前に北条氏が分派していないのは、北条氏が北条時政の祖父・時家に始まるため、伊豆への土着が新しく、京の事情にも明るい、新しい武士の家だったからです。
北条氏が京都との関係が深かったことを示すのが、時政が平清盛の継母・池禅尼の姪を後妻に迎えていることです。北条氏が京武者的な一族であり、牧氏との家格が釣り合っていたからこそ、婚姻が成立したと考えられます。牧の方とのあいだに生まれた娘たちが、貴族に嫁いでいることも注目されます。
13人の合議制
鎌倉時代、源頼朝の後を継いだ源頼家が頼朝同様に強大な権力を持つことを御家人は歓迎しませんでした。
そのため、有力御家人は将軍のもつ多くの権限を制限しようとします。
頼朝の死からわずか3か月で北条時政、大江広元、三善康信らは頼家から訴訟(裁判)の裁決権を取り上げて合議制を始めます。
こうして始まったのが13人の合議制です。この制度はのちの評定衆や引付衆に連なります。
従来は頼家の親裁権が停止され、独裁政治に掣肘が加えられたことから、合議制を本質とする執権政治の嚆矢として高く評価されてきました。
しかし近年の研究では、審議の最終判断は頼家が行っていたことから、頼家への訴訟取次を十三人に限定しただけで、合議制が敷かれていたわけではないことが指摘されています。若い頼家の権力を補完するための措置だったといえます。
史料上、十三人全員が合議したことを示す記述はなく、体制はすぐに解体したと考えられます。
頼家の親裁権は停止されておらず、比企氏や梶原氏の意向を重視しつつ独裁政治を主導したといえます。
13人の合議制の構成は次の通りです。
- 武将9人
- 北条時政
- 江間義時(=北条義時)
- 三浦義澄
- 八田知家
- 和田義盛
- 比企能員
- 安達盛長
- 足立遠元
- 梶原景時
- 文官4人
- 大江広元
- 三善康信
- 中原親能
- 二階堂行政
会議の中心にいたのは、頼家の母・政子の実家・北条氏でした。これ以後、北条氏が台頭していきます。
本郷和人氏は、13人の合議制は強くなりすぎた将軍の権力に対する有力御家人たちの危機感の現れとみます。
北条氏による有力御家人の排除
しかし、13人の合議制はすぐに崩れ始めます。北条氏が有力御家人を排除し始め、政争が続くからです。
正治元(1199)年 梶原景時追放
梶原景時が鎌倉を追放され、翌1200年に駿河で滅ぼされます。
梶原景時の失脚により、景時領の分配が行われ御家人たちは大きな利益をあげました。
奪った土地の分配は鎌倉時代の内ゲバを見る上でとても重要です。分け前にあずかりたい武士の心理をつき、北条氏は味方を増やしていきました。
伊藤邦彦氏によると梶原景時の排斥事件には比企能員の関与が指摘されています。
梶原景時は侍所の別当をつとめ、頼家の乳母夫でもありました。頼家を育ててきた比企氏にとっては大きな脅威となります。
比企氏が脅威となった梶原景時を排除するために動いたとも考えられます。
建仁3(1203)年 比企氏の乱(小御所合戦) 源頼家と比企能員の排除
頼家が病に倒れるのを契機とします。
時政は政子とはかり、頼家の子・一幡と頼家の弟・千幡を後継者にたてます。将軍の権力を2分割し継承させようとしたのです。
一幡を擁する比企氏にとっては、実朝を擁する北条氏によって半分を奪われる格好になりました。北条・実朝と比企・一幡の対立です。
源頼家と一幡の外祖父・比企能員は、北条時政を討とうとしますが、 比企能員は逆に殺されてしまいます。
この当時、鎌倉には高度な文書行政ができる文官グループはワンセットしかいませんでした。北条時政は文官のトップである大江広元の支持を取り付け比企能員を誅殺し比企氏を滅亡させます。
比企能員に手を下した仁田忠常はすぐに殺されます。北条氏がよく使う手ですが、事件が起きると、敵と実行犯が消されます。
源頼家は修善寺に押し込められ、頼家の弟・千幡が将軍・源実朝となります。
北条時政が実権を握る
北条時政は大江広元とならんで政所別当となり、将軍補佐を名目として実権を握ります。
この時政の地位を執権と呼び、この後は北条氏に伝えられていきます。
時政専制の特徴は単署下知状の発生です。実朝の後見人の立場が可能にしたと考えられますが、政所別当に就くことで政治運営に関与しました。
実朝の親裁権は停止され、実朝の政治的効力は時政の隠棲まで下ります。
当初は執権別当として下知状に署判を加えていましたが、やがて逆転し、下知状に署判を加える役職が執権であり、執権は必ず政所別当に加わるものと認識されるようになります。
しかし、下知状に署判を加える執権の地位を世襲したことが北条氏の権力基盤になったわけではありませんでした。
北条時政の平賀朝雅擁立
北条時政がつまづくのは後継者を決める時でした。
いつの時点か不明ですが、北条時政は牧の方を妻に迎えます。時政は牧の方との間に生まれた北条政範を後継者にしようと考えていたようです。
しかし北条政範が若くして亡くなると、牧の方が産んだ娘の婿である平賀朝雅を重用しはじめます。平賀朝雅は源氏の名門の当主です。
北条義時は江間姓を名乗っていましたので、北条本家の後継者としては認められていませんでした。
元久元(1204)年、時政は頼家を殺害し、翌年には実朝を退けて娘婿の平賀朝雅を将軍にしようとしました。
畠山重忠の乱
権力を固めるために北条時政が狙いを定めたのが武蔵でした。武蔵で邪魔になるのが畠山重忠でした。
畠山重忠の乱は武蔵国を巡る北条氏と畠山氏の対立があったと考えられています。きっかけとされるのは畠山重保と平賀朝雅の口論とされますが、それ以前から両氏の対立は周知されていました。
京でのいざこざを経て北条時政は息子の義時と時房に畠山重忠を討てと命じますが、義時は必死で止めます。しかし、義理の母となる牧の方の兄・大岡時親からの発言を聞いた義時は覚悟を決めます。
義時は畠山重忠を悼むことで流れを変えました。
北条政子と義時の意向を受けた三浦義村らによって、は畠山父子を鎌倉に誘い出した時政と牧の方の娘婿の稲毛重成が誅殺され、非難の矛先を時政夫婦に向けました。
ここにきて北条親子の対立が決定的となります。そして時政は牧の方と企図していた朝雅の擁立に踏み切ります。
牧氏の乱
追い打ちをかけたのが北条時政が牧の方と計って平賀朝雅を将軍にしようとする牧氏の乱が起きます。
平賀朝雅は源氏一門で、門様として特別な扱いを受けてきました。生まれは寿永元(1182)年で、源頼家と同じ年生まれの乳兄弟です。頼朝の猶子になり、鎌倉殿になりうる資格を有していました。
こうしたなか、時政と牧の方は源実朝を暗殺しようとします。
実朝を擁する政子と義時にとって、源頼朝の猶子であり、御鳥羽院とに関係を深める平賀朝雅は政治的脅威でした。実朝暗殺の陰謀が明らかになった以上、時政隠退させ、朝雅を討つしかありませんでした。
元久2(1205)年、時政は出家を余儀なくされ、専制に幕が降ります。朝雅の処罰も迅速に行われました。以後、政子と義時の姉が主導する政治体制が開始します。
平賀朝雅の所領の武蔵は弟の時房に与え、以後、北条氏は相模と武蔵を独占し続けます。
坂井孝一氏はこの事件を重視していませんが、本郷和人氏は重視しています。平賀朝雅の兄・大内惟義も本郷和人氏は重要視しています。
北条義時登場
時政を継いだのは北条義時でした。北条時政から北条義時には順調に引き継がれませんでした。
伊豆時代の北条家の嫡子は長男の宗時と考えられます。義時江間を領有して江間小四郎名乗っていました。しかし石橋山合戦で宗時が命を落とすと、嫡子の選定に迫られます。
義時の表記が江間姓と北条姓が混在していること、義時の子・泰時の青年期が江間姓であることから、北条氏の嫡子は義時ではなく、細川重男氏・本郷和人氏は義時の二男・朝時、岡田清一氏は弟の時房を嫡子に想定します。
牧の方の子・政範が一時嫡子として遇されていましたが、若くして世を去り、義時の嫡子の座が決定的となります。
吾妻鏡では時政より義時を初代北条氏とみなしているように思えます。
北条義時は謎の多い人物で、同時代の肖像画や木像などもありません。
若き日の重要なポイントは、北条氏の嫡男でなかったことと、頼朝の側近であったことです。
和田合戦
建保元(1213)年、義時は和田義盛と一族を和田合戦の末に勝利し、政所と合わせて侍所の別当を兼ね、執権の地位を不動のものとします。
和田合戦では、北条軍が和田勢に耐えます。中心で指揮したのが北条泰時でした。次第に御家人が集まり、和田氏は滅亡します。
和田合戦では和田義盛の同族である三浦義村が寝返り、勝利へ貢献しました。三浦一族では三浦義村と和田義盛が族長の座をめぐって競合していました。
義村は北条義時とは母方を通じた従兄弟同士でした。また、実朝を護り支える立場であったとも考えられます。
鎌倉のど真ん中で行われた戦で北条氏は武力で勝ちました。和田氏の所領は分け与えられ、和田義盛が持っていた侍所別当の役職を義時が手に入れ、政所別当と兼務することで、政治と軍事を握る事実上の執権体制が確立します。
義時と政子が最も優先したのは、頼朝が遺した武家政権を安定的に運営することでした。
従来の幕府研究は北条氏の行動を権力掌握に結び付け、将軍と北条氏の対立関係を自明としてきましたが、権力の淵源は将軍の外戚として後見人をつとめることにありましたので、北条氏が将軍に就くことはあり得ず、将軍とは基本的に協調関係にありました。
将軍との対立が表面化するのは鎌倉中期の北条時頼の時代になってからです。
この頃には西国では源平の争乱から復興し、朝廷が勢いを取り戻していました。
北条義時の立ち位置
北条義時をどのように捉えるかが人によって異なるようです。
- 坂井孝一氏 :史料の中で見られるものとして、源実朝が暗殺されたとき、慈円の「愚管抄」では石段より手前の中門でとどまっているように指示されたというので、その程度の地位だった。
- 本郷和人氏:すでに鎌倉一の実力者であったと考えています。有力御家人の排除を終えた北条義時にとって、源氏の棟梁の必要性が薄れており、もはや源実朝は排除の対象となっていたというのです。
源実朝は確固たる影響力を持っていた
従来、源実朝は北条氏の傀儡といわれてきましたが、この従来の常識を覆す見解を示したのは五味文彦氏です。
最近では実朝の政治への取り組みを評価する説が有力となっています。政務に意欲的であり、公家文化を積極的に吸収したというのです。実朝は承元3(1209)年に親裁を開始したと考えられています。
本郷和人氏も、従来の北条氏の傀儡に過ぎないというイメージとは異なり、源実朝は大きな実権をふるっていたと述べています。
坂井孝一氏によると、源実朝は統治者としても次々に政策を打ち出して成果を上げました。
最も重要な御家人役である京都大番役を厳格化し御家人統制策を進めましたが、源実朝の将軍親裁に御家人が従わなかったり、反発したりする形跡が無いことから、確固たる力を持っていたというのです。
しかし、北条氏の強い影響下にあったのは間違いありません。
これまで実朝の身体的問題は、あまり取り上げられてきませんでしたが、承元2(1208)年に天然痘に罹り、かなり重症であったことが分かっています。
注目すべきは、承元2(1208)年から建暦元(1211)年までの約3年間は、幕府祭祀に参加しないという特殊な状況が生じました。代わりに参詣していたのが、義時と大江広元・親広父子でした。
義時がたびたび奉幣使をつとめたのは、参詣できない実朝の代理をつとめた結果であり、自身の存在を際立たせるためではありませんでした。
建保4(1216)年に政所別当が増員されます。五味文彦氏や坂井孝一氏は実朝の将軍権力の拡大とみましたが、増加された別当の顔ぶれを見ると名誉職的な者もおり、北条氏への不満を和らげようとしたのではないかと考えられます。
源実朝暗殺
源実朝は公家文化に親しみ、官位の昇進を望み、武士に似つかわしくない行動をとりました。
また、源実朝は遁世の意思を抱くようになり、朝廷から次期将軍を迎えて兄頼家の娘と結婚させて、出家するという構想を持っていました。
しかし、この構想は政治的にも経済的にも上皇の威勢が高まるなかでの動きだったため、幕府内で危機感を募らせ、起きたのが実朝暗殺事件でした。
承久元(1219)年、実朝は公暁によって暗殺されます。
公暁の黒幕は?
吾妻鏡に書かれている内容に不自然な部分があるため、公暁が誰かに操られていたとする黒幕説があります。
北条氏説、三浦氏説などがあり定かではありません。
北条義時説
本郷和人氏は北条義時が状況証拠的に黒幕だろうと考えています。
事件の直前に、心身の不調を訴えて家に帰ってしまうなど、怪しい点がありました。
事件後も背後関係は調べられておらず、そこには最高実力者の北条義時の意図、さらには御家人の総意があり、それをくみ取った義時によって起こされたと考えています。
事件後、公暁の背後関係をろくに探った形跡がありませんでした。
この後、北条氏主導で源頼朝直系の男子次々と殺され、御家人たちにとって源氏の血は必要なくなってきていました。
単独犯説
坂井孝一氏は公暁の単独犯説です。
子がおらず後継者のいない源実朝が親王将軍を考え、良好な関係にあった後鳥羽上皇の親王を時期将軍に考えていました。
公暁にしてみれば、その案が実現してしまうと、自分が将軍になれる可能性がなくなるため、そうならないための襲撃だったと考えています。
黒幕はいなかった説
吾妻鏡の記載に不自然な点があるのは、幕府の不用心に対する批判をかわすために義時不在を偽作したためではないかと平泉隆房氏は指摘しました。
これを踏まえ、山本みなみ氏は、黒幕がいたわけでなく、実朝の暗殺を防ぎきれなかった義時を弁護するために吾妻鏡は脚色を加えたと考えています。
将軍後継問題と摂家将軍
義時は親王を奉じて将軍にたてようと願いますが、後鳥羽上皇はこれを許しませんでした。
後鳥羽上皇は政治的に幕府を従属させるための媒介者を失い、幕府との協調路線が破綻したため、幕府からの皇子下向要請を拒否したのです。
後鳥羽院は信頼関係にあった源実朝の暗殺に衝撃を受け、幕府に対する不信を募らせていましたので、幼少の三寅を下向させたのは、鳥羽院院の非協力的な姿勢を示しています。
そこで幕府は源頼朝の遠縁にあたる摂関家の藤原頼経を迎えました。摂家将軍です。
将軍とは名ばかりで、実権は執権北条氏にありました。
下知状に北条義時が署判するようになるのはこの頃からです。
田辺旬氏によれば、幕府は三寅を次期将軍として擁立しながらも、北条政子が実質的な将軍として政務を取り、弟の義時が執権として補佐する体制をとっていたと考えらえています。
- 2019年京大:執権政治の確立過程における北条時政と北条義時が果たした役割が問われました。
承久の乱(後鳥羽上皇と北条義時の戦い)
承久の乱は戦後の研究では、武士(在地領主)が荘園制に立脚した古典的な貴族政権を打倒することで、中世的な封建社会が成立したと捉えていました。
鎌倉幕府の成立は古代から中世への移行として評価されましたので、武家政権と公家政権の対立による武家政権の勝利は必然的なものとして理解されました。
その後の研究で、荘園制は中世的な土地制度と考えられるようになり、朝廷も鎌倉幕府も中世の政治権力であると評価されるようになりました。
そのため幕府成立以前の平安時代末期には中世社会が成立したと考えられています。
また、幕府と朝廷の関係は対立的ではなく、協調関係にあったと捉えられるようになります。
承久の乱はなぜ起きたのか
武士の勢力が全国に伸びると、朝廷や貴族の反感が強まります。
公家の経済的基盤である荘園が地頭によって侵されたことで危機感を強めました。
そして、幕府を倒そうという動きが生まれました。
倒幕目的ではなかった説
公武政権が協調関係にあったことから、承久の乱における後鳥羽院の挙兵目的は、討幕ではなく、執権北条義時の追討であったとする考えです。
坂井孝一氏は、あくまでも北条義時を排除するのが目的で、倒幕の意志はなかったと考えています。
近藤成一氏も同様です。宣旨が命じるのは北条義時の追討であり、倒幕ではないという見解です。
倒幕が目的であれば、追討の対象は将軍ですが、そうではありませんでした。
三寅が元服前の幼齢であることをいいことに専権を振るっている北条義時の行いが謀反と断じられたのです。
倒幕目的だった説
本郷和人氏は、朝廷が幕府を倒す命令を出すときは、排除すべき指導者の名を挙げますので、倒幕の意志があったと考えています。
この時代には鎌倉幕府という呼び名はなく、徳川幕府のような確立した組織もありません。四代将軍は内定はしているものの、実権はありません。鎌倉に存在する集団は、義時とその仲間たち、でしかありません。そうなると、義時を討て、としか書きようがなくなります。
田辺旬氏も同様に討幕目的だったと考えています。
源実朝の幕府では将軍が最終的判断を下しており、実朝暗殺後も政治は同じ方式で運営されていました。意思決定を行っていたのは北条政子であり、執権義時は補佐する立場でした。義時が専断していたわけではありませんでした。
こうした幕府政治の在り方を踏まえると、後鳥羽院の北条義時追討命令は、政子が主導する幕府政治体制そのものを否定することを目指したもので、討幕であったと考えるべきというのです。
吾妻鏡では、義時が後鳥羽上皇との戦いに気乗りでなかったことをしつこく強調しています。已むに已まれない戦いであることを繰り返し描写されます。世論への配慮と建前づくりのうまさと考える事もできます。
山本みなみ氏は、義時追討と討幕に大きな差は認めれず、後鳥羽院は実朝の死により幕府が存続の危機に見舞われている状況をよく知り、遠からず瓦解すると見て、皇子の下向を拒否し、三寅の下向を不満に思っていたことから、北条氏が牛耳る幕府の存続を望んでおらず、幕府の崩壊、すなわち討幕を目指していた可能性もあると考えています。
承久の乱の根本原因
原因に対しても、坂井孝一氏は大内裏焼失事件に象徴されるように、コントロールのきかなくなった幕府の元凶として北条義時の独断があるため、排除すれば幕府がコントロール下に置けると考えています。
山本みなみ氏は、武士たちを手中に収めることができないことに憤りを感じて、後鳥羽院は追討を決意したと考えます。
一方で本郷和人氏は後鳥羽上皇の「権門体制論」的な考え方と、北条義時の「東国国家論」「二つの王権論」的な考え方のぶつかり合いと考えています。後鳥羽上皇に代表される朝廷の国家像と、北条義時に代表される在地領主の国家像の違いです。
鎌倉幕府の影響力の範囲
本郷和人氏によると、全国に武士の勢力が伸びていたわけではなく、承久の乱より前に鎌倉幕府が影響力を行使できたのは東国が中心だったと指摘します。
具体的には遠江、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽だけだったと述べています。
三河・美濃以西は幕府の動員の外でした。全国に影響力を行使できるようになるのは、承久の乱後のことです。
後鳥羽上皇による院政
後鳥羽上皇が強力な指導力を発揮するようになると、貴族の合議は退けられ、上皇と何人かの寵臣によって政務が行われます。
乳母の卿二位(藤原兼子)をはじめとする上皇の近親者が政治に口を出します。
鎌倉時代前期は女性が政治に大きな力を持った時期でした。摂関家出身の僧・慈円が「愚管抄」で日本は女人入眼の国と評しました。
後鳥羽上皇の権力の源
後鳥羽上皇は分散していた天皇領をまとめて手に入れます。八条院領、長講堂領などの広大な天皇家領です。
これらの土地を恩賞として新たな朝廷の軍事力を編成していきます。北面の武士に加え、西面の武士を設けます。
そして、上皇は源実朝を厚遇し、実朝を介して鎌倉幕府に影響力を行使しようとしたのではないかと考えられます。
しかし、実朝が殺されると、朝廷と北条氏を代表する幕府の関係は不安定になります。
承久の乱勃発
承久3(1221)年、上皇は北条義時追討の院宣を発します。承久の乱の始まりです。
上皇の下には北面・西面の武士となった御家人や北条氏に反発する人が集まりますが、大寺院の僧兵や東国の武士の大多数は上皇の呼びかけに応じず、幕府に結集していきます。
御家人は最初から鎌倉方につくつもりだった?
北条政子による演説が有名ですが、本郷和人氏は御家人たちが鎌倉に集結した時点で、演説の有無にかかわらず鎌倉方に付くことを決めていたと言います。
そうでなければ、叛旗の兵を挙げているはずだからです。
御家人は何が起きているのか分かっていなかった?
坂井孝一氏は北条政子の演説の時点では、何が起きていたのか分かっていなかった御家人たちがおり、不安・動揺を与えていたと言います。
承久の乱の短期決戦と戦後処理
大江広元の意見に従って、北条義時は子・泰時を大将とし、弟・時房を副将として、東海・東山・北陸の3道から京都に進めます。
朝廷軍は木曽川や宇治・勢多で戦いますが、一戦の下に敗れます。
その結果、幕府軍はわずか1か月で朝廷軍を壊滅させ、京都を占拠します。
戦後処理と上皇の配流
乱後、義時は泰時と時房を京都にとどまらせて事後処理をさせます。
後鳥羽上皇の嫡孫・仲恭天皇を退け、上皇の兄の子・後堀川天皇を即位させます。後鳥羽上皇の血縁を嫌ったのです。
後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇を佐渡島、土御門上皇を土佐国に流します。
治天の君が処罰されるのは前代未聞で、朝廷の威信が失墜します。また、何人もの貴族・武士を斬刑に処します。
鎌倉幕府は源頼朝の反乱軍に始まる軍事権力のため、朝廷の意向と関係なく敵を謀反人として認定して軍事行動することが可能でした。
院政の本質が見える後高倉院
幕府の使節として二階堂行盛が入洛し、治世に関する意向が伝えられ、後鳥羽院の兄・入堂行助親王(=後高倉院)が院政を行うことになり、子の後堀川天皇が即位します。
後高倉院は皇位を経験せずに院政を行った唯一の例です。ここに院政の本質が出ています。院政は天皇の直系尊属が政治を主宰することであり、皇位を経験していることは要件ではありません。
承久の乱の影響、六波羅探題設置
幕府の影響力が全国に広がる
上皇方の所領は没収されます。平家の遺領が500か所あまりでしたが、この時は3000にのぼったとされます。
幕府は功績のあった御家人に地頭職を与えます。この地頭を新補地頭と言います。そして新たな給与を定めた基準を新補率法と言います。
これにより以前からの本補地頭をあわせて地頭制度が完成します。
これにより従来の荘園領主との間に多くの紛争が発生しますが、地頭職は鎌倉政権が掌握していましたので、裁決は荘園領主たちにとって大きな影響を持ちました。
全国の土地は鎌倉政権が関与する武家領と、関与しない本所一円地に再編されていきます。
朝廷の軍事力が崩壊した結果、治安維持における鎌倉政権の重要性が拡大します。
上皇方の所領は畿内・西国に多く分布していたため、幕府の勢力は全国に及ぶことになります。
所領の分配は北条氏によって行われたので、北条氏と御家人の関係が変化します。
北条氏も肥大化し、北条家の当主である得宗の重要性が増し、後の得宗専制体制へつながります。
また、北条氏は鎌倉周辺の地名などを冠して一門と他を区別しました。その中には得宗家に逆らう名越流北条氏もいます。
六波羅探題の設置と朝廷監視
乱後の処置を終えたのちも泰時と時房は京都の六波羅に住み、京都守護にかわって京都市中の警備にあたります。
六波羅探題と呼ばれ、執権に次ぐ要職となります。
六波羅探題は北条氏一門が就任する役職となり、二つの例外を除くと、鎌倉から上洛して着任することが原則でした。
在京のまま父子や兄弟で継承することが避けられ、六波羅探題が公家政権と関係を深めて、鎌倉から自立性を高めることを警戒しました。
六波羅探題は朝廷を監視し、尾張以西の西国御家人を統轄し、幕府と連携しながら西国の行政・司法を行います。
幕府は争乱の再燃を恐れ、朝廷を監視します。特に軍事面を留意され、朝廷は独自の軍事行動がとれなくなります。
乱の結果によって、朝廷と幕府の二元的な支配構造は大きく変化しすぎます。幕府は皇位の継承や朝廷の政治の在り方にも干渉するようになります。
院政は行われていきますが、幕府と良好な関係を築いた上皇・貴族が朝廷内での統治行為を行っていきました。
保元の乱から承久の乱までの65年間は戦乱の続いた時代でした。慈円は「愚管抄」でこの時代を「武者(武士)の世」と言いました。
- 2021阪大:承久の乱は、朝廷と鎌倉幕府の関係を大きく変化させる契機となりました。乱後、両者の関係はどのように変化したのかについて問われました。
- 2019年東大:後鳥羽上皇が隠岐に流される原因となった事件について、その事件がその後の朝廷と幕府の関係に与えた影響にもふれつつ問われました。
- 2015年東大:御家人の所領が全国に分布することになったのはなぜか。鎌倉幕府の成立・発展期の具体的なできごとにふれながら問われました。また、こうした所領を御家人たちはどういった方法で経営したか。また、それがその後の御家人の所領にどのような影響を与えたかが問われました。
- 1999年京大:承久の乱から鎌倉幕府の滅亡にいたるまでの間の公武両政権の関係について問われました。
- 1999年阪大:承久の乱が勃発した原因とその歴史的影響について問われました。
北条泰時による執権政治
承久の乱から3年後に北条義時は62年の生涯を終えます。死因は脚気によるものでした。
現在では、毒殺説が有力視されていますが、山本みなみ氏は新史料から連日の猛暑のなか脚の痛みと食欲不振により床に伏しがちで、前日に容体が悪化し死に至ったと考えています。
義時の死は、北条氏内部に大きな影響を与えます。北条泰時は時房とともに政子のもとにおもむき、執権を継ぎました。
ですが、伊賀の方は娘婿の一条実雅を将軍に擁立し、北条政村を執権として幕政の実権を握ろうとしていました。伊賀氏事件は政子の差配によって事なきを得ますが、弟の名越朝時は泰時の執権就任に憤っていたと想像されます。
六波羅探題の基礎を築いた北条泰時が鎌倉に戻ると、京の政治と文化を以前よりも積極的に摂取していきます。
北条家3代目の北条泰時は、長男でしたが、子供の頃から後継者の扱いを受けてきませんでした。泰時は北条氏の中でも最も優秀なリーダーだったと言えます。
義時の死後、1225年には、11人の評定衆と泰時、北条時房の2人の執権による合議体制を築きます。
評定衆は、かつての十三人衆のような大物御家人のパワーバランスの調整の場ではなく、政務執行機関でした。
北条政子の死後、摂関家から迎えた藤原頼経が将軍(藤原将軍、摂家将軍)になるまえに、政治や裁判を執権と有力御家人からなる評定衆で行う体制を築きます。
鎌倉殿の藤原頼経は排除されていました。
評定衆システムとセットになった本当の意味での執権は泰時が初代と考えられます。
泰時が慎重なのは、執権を自分一人にせず、目上の叔父時房を京都から呼び寄せて二人体制としたことです。二人目の執権を連署と呼びようになります。執権を補佐する連署には北条一族をあて、北条氏による執権政治が完成します。
執権と連署は基本的には同格であり、両者を合わせて「両執権」と呼ぶことがあります。
なお、北条氏が世襲した執権は、政所別当だった北条時政が称したもので、立場は将軍家の家司(家政を司る者)に過ぎませんでした。
山本博文氏は、北条氏は、実力があっても将軍になる資格があるとは周囲の武士が認めず、北条氏もそう認識していたはずと述べています。
御成敗式目の制定
幕府の最大の仕事は土地の安堵であり、不動産トラブルの調停でした。
承久の乱の後、西日本に広がった土地をめぐるトラブルで東国武士の暗黙のルールが通じないことに泰時は頭を悩ませていました。
寛喜2(1230)年に始まる飢饉(寛喜の饑饉)に朝廷が新制を出すと、貞永元(1232)年、北条泰時は武家の法典「御成敗式目」51ヵ条(貞永式目)の制定に動きます。
御成敗式目は、武士社会の慣習や道徳、幕府の先例をとりいれて成文化したものでした。
武士の土地の争いについての裁判の基準などが示されています。守護・地頭などの職権も定められました。
基本的には地頭御家人への徳政を意図したもので、効力は武家に限ると強調しましたが、武家に限定されない規定もあり独自の政権としての法令になっていました。
ただし、対象となったのは、幕府の勢力範囲に限られ、朝廷や荘園領主の支配下では公家法や荘園の法が効力を持っていました。
寛喜の饑饉
寛喜の饑饉は、おそらく日本史上もっとも厳しかったと考えられる冷夏が原因の飢饉です。
寛喜の饑饉が始まる前から天候異変は続いていました。1226年の長雨、1228年には日照りと大雨という極端な天候が相次ぎます。
こうした状況で1230年(寛喜2)の冷夏を迎え、凶作になります。影響は春先以降の深刻な飢饉を引き起こしました。
江戸時代の飢饉と比べても餓死者が多かったと考えられ、寛喜の饑饉は犠牲者の比率から見て日本史上最悪の饑饉であった可能性が高いです。飢饉は1232年(貞永元)秋まで続きました。
この異常気象は日本だけでなく、1220年代後半から1230年代初めまでは世界各地で異常気象の記録が残っています。
原因として火山噴火が考えられます。火山灰などから噴火があったのは分かっていますが、特定できる大規模火山噴火はありません。
他に想起されるのがエルニーニョ現象です。ナイル川下流の水位の古い記録をたどることで、エルニーニョ現象の発生年を推測する研究があり、それによるとエルニーニョ現象の可能性を示唆しています。
寛喜の饑饉の対する執権・北条泰時の危機意識は早く、1231年には贅沢禁止令が正式に発せられます。また、出挙米の貸出への逡巡に対して処罰を念押ししています。
飢饉に入って3年目の1232年(貞永元)に御成敗式目を制定しますが、寛喜の饑饉をきっかけに地頭による年貢の取り立てが苛酷になり、不法行為が横行したことが、制定へ影響を与えたと考えられます。
寛喜の饑饉の最中、人身売買を巡るトラブルが頻発していました。寛喜の饑饉の間、幕府は御成敗式目の追加法で人身売買を容認していたことがうかがえます。
寛喜の饑饉の惨状に接し、北条泰時は餓死で死ぬのを待つだけなら、奴隷身分に落ちても生き残る選択肢を超法規的措置で乗り切ろうとしたのでした。
その後、人身売買は禁止されましたが、実態では人身売買が実施され続け、その中で1257年に始まる正嘉の飢饉が到来します。
御成敗式目の性質
また、古代の律令とは異なり法を網羅的に規定するものではなく、極めて重要な法理についての応用や例外を規定されているように見受けられます。法理そのものの規定はどこにもないものでした。
御成敗式目は一定の体系性を備えていましたが、新しい法が規定されたわけではなく、既に存在すると認識されていた法についての最大公約数的理解をまとめたものといえます。
幕府の権力拡大にともない、御成敗式目の効力の範囲は広がっていきます。
北条泰時から北条時頼へ
北条泰時の晩年に天皇の人事に関わる大きな事件がありました。九条道家が、後鳥羽上皇が可愛がった順徳天皇の子を即位させようとします。
泰時は順徳天皇の血統は認められなかったので、土御門上皇の子・邦仁王を即位させます。
これが幕府が天皇を決める前例になりました。
北条泰時を継いだのは孫の北条経時でしたが、病弱のため4年で引退して、すぐに亡くなります。
この間に幕府の本質にかかわる重要な事件が起こります。北条家による将軍解任事件です。
執権・経時が就任した時には四代将軍九条頼経は在位16年になっていました。長く在位する事で、権力と権威を持つようになり、得宗家に不満を持つ北条一門の名越朝時や御家人の三浦泰村・光村の兄弟らが頼経に近づきます。
経時が執権に就任して、1244年に頼経は将軍職から引きずり下ろされます。しかし、頼経は鎌倉に留まり大殿と呼ばれて、多くの支持者を集めていました。
北条泰時の政策は5代目の北条時頼に継承され、裁判の公正とともに迅速をはかるため、引付衆がおかれました。
時頼は評定衆とは別に少数の幹部による意思決定機関を作り、深秘御沙汰と呼ばれました。のちに寄合衆へ発展します。
1246(寛元4)年に北条経時が亡くなると、宮騒動が起こります。
時頼が一気に動き、名越家のなかの将軍派や御家人で将軍派の者を片づけ、前将軍の九条頼経を京都に追放しました。
1249(建長元)年には評定衆の下に引付衆を新設して裁判の迅速化をはかります。
京都では幕府との連絡役である関東申次を頼経の父・九条道家から西園寺実氏に変更されます。
九条道家系の排除は続き、幕府は貴族の主要人事も動かすようになります。
残る反執権勢力は三浦一族になりますが、前将軍の九条頼経が京都に追放になったため、後ろ盾が無くなり、緊張感が高まったタイミングで、安達勢が三浦泰村の館を攻撃し、三浦氏を滅ぼします。宝治合戦と呼ばれます。
1252年、将軍の九条頼嗣が追放されます。前将軍の九条頼経が関係するとされる謀反事件がありました。
将軍も藤原将軍から皇族将軍の宗尊親王が迎えられました。
撫民の思想
北条時頼の治世で、為政者は民を慈しむべきだという撫民の思想が明白に語られるようになります。
本郷和人氏は三つのポイントがあるとします。
- 京都で朝廷が始めた徳政の影響
- 浄土宗で顕著な平等の思想
- 御家人が地頭として荘園の人々を統治する立場に立ったこと
北条時頼は禅宗を保護しました。鎌倉の建長寺を開き、蘭渓道隆を師と仰ぎました。
また、北条時頼の時代は日蓮宗の勃興期でした。興味深いのは、日蓮の教団には北条家との闘争に敗れた一族が集まっていました。幕府が日蓮の教団を危ないと考えたのも頷けます。
参考文献
- 五味文彦「中世社会のはじまり」(シリーズ日本中世史①)
- 近藤成一「鎌倉幕府と朝廷」(シリーズ日本中世史②)
- 坂井孝一「承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱」
- 本郷和人「承久の乱 日本史のターニングポイント」
- 本郷和人「北条氏の時代」
- 本郷和人「乱と変の日本史」
- 高橋典幸編「中世史講義【戦乱篇】」
- 高橋典幸、五味文彦編「中世史講義ー院政期から戦国時代まで」
- 田家康「気候で読む日本史」
- 山本博文「歴史をつかむ技法」
- 山本みなみ「史伝 北条義時」
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政治史
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- 古墳時代から大和王権の成立まで
- 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
- 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
- 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
- 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
- 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
- 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
- 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
- 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで) 本ページ
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