覚書/感想/コメント
イタリア・バロックの画家カラヴァッジョの真作「キリストの捕縛」に関連するノンフィクション。
ノンフィクションなのだが、読んでいる最中度々「これは本当にノンフィクションなのか?」と思いたくなるほどドラマチックに事柄が展開する。まさに、事実は小説より奇なりである。
そのため、ノンフィクションではあるが、歴史ミステリー小説を読んでいるような楽しさがある。
さて、カラヴァッジョは、一五七一年~一六一〇年まで生きたイタリアのミラノ生まれのバロックの天才画家である。
ミケランジェロ・メリージ(Michelangelo Merisi)が名であるが、カラヴァッジョ(Caravaggio)の通称の方が有名である。
逸話にも事欠かない人物で、喧嘩は日常茶飯事、逮捕されたことも度々で、ついには知人を刺し殺してしまう。
このカラヴァッジョの人生についても、「キリストの捕縛」探しに絡んで随時語られている。
本作で書かれているが、カラヴァッジョが無名の存在から一躍蘇ったのは、一九四一年に美術史家のロベルト・ロンギが「カラヴァッジョはイタリア美術の中でもっとも知られていない巨匠のひとり」と宣言したことに負うところが大きいという。
カラヴァッジョは独特のリアリズムで当初人々を魅了し、多くの追随者が出て、カラヴァッジェスキと称されるほどだったが、当時の批評家たちは粗野で俗悪なものとして認めなかった。「自然の下劣な模倣」にすぎないとされ、十七世紀末には知名度の低い二流画家の一人に過ぎなくなっていたそうだ。
そして一九五一年にロベルト・ロンギがカラヴァッジョ展をミラノで催し、この展覧会から数年のうちに、突如としてカラヴァッジョ学とでもいうものが大きく花開く。
現在イタリア十七世紀美術に関心を抱く美術史家であれば、誰でも業績の中にカラヴァッジョ関連の論文をものにし、カラヴァッジョを一、二点しか所蔵していなくても、どの美術館も彼の名を冠した展覧会をやたら催したがる。
カラヴァッジョはあらゆる芸術家の中で、もっとも模写された画家の一人であり、「キリストの捕縛」はもっとも頻繁に模写された作品の一つだった。
一点だけ質のいい模写がロシアのオデッサに姿をあらわした。一九五六年のことである。一八七〇年にロシアの伯爵がパリで入手したという触れ込みだが、それ以前の来歴は一切不明である。
来歴というのは、その作品が真作であるということを示す一つの情況証拠である。それが一切不明というのは、より来歴が明らかな作品が出てきた時に不利となる。
カラヴァッジョの多くの傑作はいまもって散逸したままだそうだ。
アスドルバーレ・マッティが一時所蔵していた聖セバスティアヌスを描いた絵は、三百年前にフランスの某所に持ち去られたという記述があり、いまだに発見されていない。
カラヴァッジョに限らず、散逸している傑作というのは数多い。もちろん、それは日本の画家に関しても同じことがいえる。
そして、本作を読めば分かるが、古い記録をトレースすることによって、真実にたどり着くこともあるのだ。
日本には、古い記録を保有しながら、その全部を公開していない古い家柄の家系というのはそれなりにあるようである。
もしそうした家柄の人で、本書に登場するアンナマリア・アンティーチ=マッティ侯爵夫人のような方がいるのなら、記録類全部を研究者に開放してはどうだろうか?日本美術史上の大発見があるかもしれないのだから。
もしかして、日本美術史上どころではなく、日本史史上の大発見があるかもしれない…。
内容/あらすじ/ネタバレ
二〇〇一年。九十一才の英国紳士がローマの広場を横切った。老人はデニス・マーン。サー・デニスともいう。
サー・デニスはテーブルでもっぱらミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョという名の四百年前の画家が話題となる。
サー・デニスはイタリアきっての美術史学者のロベルト・ロンギが亡くなった今、世界で並ぶものなきカラヴァッジョの権威である。
一九五一年。ロンギがそれまでに知られていたカラヴァッジョの全作品を一同の集めた最初の展覧会を開いた。
その中にローマのドーリア・パンフィーリ家から出展された「洗礼者ヨハネ」があった。だれひとりその絵の真正性を疑う者はいなかったが、サー・デニスは見れば見るほど疑念が生じた。
一方で、ローマ国立記録文書館の資料から、その絵に酷似する作品が存在することを知った。サー・デニスがその絵を自分の目で確かめたのは、一九五二年の冬のことだった。場所はローマ市長室である。カピトリーニ版と呼ばれる作品だ。
これ以来、サー・デニスはカラヴァッジョの失われた絵の探索に何度も手を染めた。「キリストの捕縛」もそうした作品だった。
時は一九八九年。フランチェスカ・カッペレッティは二十四歳。ローマ大学を卒業したばかりの院生だった。ジャンパオロ・コッレアーレのバイトに遅れた。
彼はカピトリーニ美術館が収蔵している絵画の調査を行っていた。他には大学の同期のラウラ・テスタら三人の女性がスタッフである。
コッレアーレは「洗礼者ヨハネ」のドーリア版とカピトリーニ版の出所来歴を跡づける文献調べの作業をフランチェスカとラウラにゆだねた。
フランチェスカとラウラはその年の冬いっぱいと翌春にかけて「洗礼者ヨハネ」の絵画二点の来歴を調べる調査に追われた。
ふたりともローマ大学の履修科目を最優秀の成績で卒業し、卒論はいずれも権威のある美術評論紙「ストーリア・デラルテ」に掲載され、ともに修士号課程にすすんでいた。
二人が取りかかったのはドーリア版の絵の方であった。早い時期の来歴に不明な点が多いので、驚く新発見につながる可能性が大きいと踏んだからである。
最初の所有者だったチリアコ・マッティに関連して、マッティ家古文書書庫に手がかりがある可能性がある。場所はリカナーティである。
フランチェスカとラウラは、しぶるアンナマリア・アンティーチ=マッティ侯爵夫人を上手く説得して書庫にはいることができた。二人がもっとも期待していたのは、チリアコの財産目録だ。
そして、あるページの最下段でラウラが「カラヴァッジョの筆になるサン・ジオ・バッティスタとその小羊が描かれた絵。金箔の額縁つき。」の一行を見つける。「洗礼者ヨハネ」の絵にまつわる、もっとも早い時期の記述が陽の目を浴びたのだ。
他にもカラヴァッジョに関する記述というものが見つかった。そうした記述の中に、一六〇三年一月二日の支払い記録があり、そこには「キリストが庭園にて陥れられたる一幅の絵に百二十五スクード。」と書かれていた。「キリストの捕縛」に関する記載だ。
だが、二人が目指す「洗礼者ヨハネ」にまつわる具体的な記載は見あたらなかった。
フランチェスカは「キリストの捕縛」のことがずっと心にかかっていた。そしてロベルト・ロンギの小論文を思い出していた。
一八〇二年二月一日にマッティ家の絵画六点がスコットランド人に売却された。売却リストの冒頭にはオランダの画家ヘラルト・フォン・ホントルストのものと思われる「キリストの投獄」という絵がでていた。
だが、ロンギはこのことに合点がいかなかった。ホントルストがそんな主題で描いた絵を聞いたことがなかったのだ。
カラヴァッジョならチリアコ・マッティのために同じようなテーマで絵を制作している。ひょっとして、作者名を間違えて記載された可能性はないだろうか?そのスコットランド人はカラヴァッジョの筆になる失われた真作を手にしたのではないか?
もしそうなら、オリジナルの「キリストの捕縛」はいまもなおイギリス諸島のどこかにあるのかもしれない。
ロンギはそう推理したのだった。
だが、とフランチェスカは思った。どうしてその絵の作者がホントルストというオランダの画家に誤伝されたのだろうか?
再びリカナーティに行ったフランチェスカとラウラは財産目録をひもとき、「キリストの捕縛」にまつわる記載を探し始めた。
記載に変化が生じたのは一七五三年からで、寸法が小さくなっている。そして一七九三年の目録では「キリストの捕縛」の作者が突如カラヴァッジョからゲラルド・デッラ・ノッテに変わっていた。
カラヴァッジョの絵については、同一の絵であっても、財産目録のなかで記載がくるくる変わるのが特徴だった。こんな事態の元凶は枚挙にいとまなく誤りのある「役に立つローマ旅行案内」と称する一冊のガイドブックだった。
フランチェスカはロンドンのウァールブルグ研究所に留学することになっていた。ここで一九二一年のドーウェル社のオークションの記録を調べることにしていた。「キリストの捕縛」を競り落としたのは何者なのか?
ローマではラウラがマッティ家の絵画六点のたどった運命を調べ始めていた。絵画を国外に持ち出すには教皇庁当局のお墨付きが必要だ。その国外持ち出し許可書を調べたのだ。そして、一つのカラクリが見えてきた。
フランチェスカとラウラはコッレアーレのシンポジウムでデニス・マーンの知遇を得ることとなる。
デニス・マーンの協力を得ながら、フランチェスカはドーウェル社のオークションの記録を調べたが、記録は失われていた。ここで足取りが途絶えた。だが、一月後、アイルランドで新たな展開を迎えようとしていた。
一九九〇年八月。ナショナル・ギャラリ・オブ・アイルランドの修復士・セルジョ・ベネデッティにイエズス会からの絵の洗浄依頼がきた。
絵の一つは間違いなく十七世紀のものだった。銘板には「裏切られしキリスト」と書かれ、下にヘラルト・ホントルストの名前があり、括弧つきで「夜のジェラード」と記されていた。
ベネデッティは以前に読んだロンギの小論文と、そこで展開された推理を思い出していた。
そして、修復作業に取りかかり、ベネデッティはこの絵を描いたのはカラヴァッジョ以外にはあり得ないという確信に至った。
ベネデッティは裏打ちの素材を待つ間、エディンバラを旅した。それは偶然にもフランチェスカがたどったものと一緒だった。
一九九一年十月。ベネデッティはデニス・マーンに自分の発見を告げる。そして、デニス・マーンからフランチェスカとラウラのことを聞かされ、連絡を取ることにした。
ベネデッティにしても情報交換が必要なのだ。それは、自分の発見したものの来歴を裏付けることができるのはフランチェスカとラウラの二人だったからである。
そして、デニス・マーンが現物を見ることになり、彼はベネデッティに「おめでとうをいわせてくれ。セルジョ。」と片手を差し出したのだった。
ダブリンで「キリストの捕縛」が公開されてから十年後の二〇〇三年ローマ。マリオ・ビゲッティがダブリン版の「キリストの捕縛」よりも大きい作品を見つけた。サンニーニ版「キリストの捕縛」である。
本書について
消えたカラヴァッジョ
ジョナサン・ハー
訳:田中靖
岩波書店 約三〇〇頁
目次
第一部 ローマのイギリス人
第二部 フランチェスカとラウラ
第三部 アイルランドの修復士
第四部 パーティ
第五部 カラヴァッジョという病い
登場人物
フランチェスカ・カッペレッティ…院生
ラウラ・テスタ…院生
セルジョ・ベネデッティ…修復士
デニス・マーン…美術史家
ジャンパオロ・コッレアーレ…美術史家
アンナマリア・アンティーチ=マッティ侯爵夫人
カルヴェージ教授…美術史家
ルチアーノ
ロベルト・ペゼンティ
ファビオ・イスマン…記者
アンドリュー・オコーナー…修復士
レイモンド・キーヴェニー…ナショナル・ギャラリ・オブ・アイルランド館長
マイケル・オローハン…館の専属カメラマン
ノエル・バーバー…修道士
マリオ・ビゲッティ…美術商兼修復業
マリア・レティツィア・パオレッティ…美術史家
(ロベルト・ロンギ)…美術史家