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海音寺潮五郎の「幕末動乱の男たち」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

本書に収録されている人物で、山岡鉄舟を除くと、いずれも斬死、刑死などで不幸な最期を遂げている。壮絶な時代だったのだ。

幕末もの小説を読む前、読んだ後に本書を一読すると、相関関係がすっきりするだろうと思う。作者の最初の意図では、ここに収録されている人物以外にも、高杉晋作、久坂玄瑞、坂本龍馬、中岡慎太郎、真木和泉、橋本左内、近藤勇、土方歳三らを執筆する予定だったようだ。

諸種の事情で書かれなかったのは残念なことである。これらの人物が加わると、さらに幕末の人物関係をすっきりとまとめることができたように思われる。

なお、小説は、司馬遼太郎を筆頭にした他の作家をあたられると良いと思われる。

さて、清河八郎が海音寺潮五郎の好みでないことは読む前から推測できる。海音寺潮五郎は清廉な人物を好み、傲慢で権謀に過ぎる人物を嫌っているからである。

戦国時代で言えば、武田信玄や真田昌幸は彼の好みではない。当然清河八郎にも手厳しい。清河八郎は傲慢に過ぎ、権勢に対する飢餓感がありすぎた。権謀に生きる人間は人の警戒心を呼ぶだけで、危険千万である。そのために彼は死んだと、同情の余地のない判断を示している。

対して、武市半平太を一流中の一流の維新志士と評している。惜しむらくは、彼が暗殺に手を染めたことであるとも言っている。

武市半平太に関係する暗殺者としては、薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵がいる。いづれも人斬りと呼ばれた人間である。

幕末・維新に人斬りの異名をとったのは四人いる。田中新兵衛、岡田以蔵、河上彦斎、中村半次郎(桐野利秋)。この中で中村半次郎は戦争や喧嘩、辻斬りで多数の人を斬ったのでこの異名が付いた。他は暗殺でこの名が付いた。

維新時代の多数の暗殺の中で、井伊直弼と吉田東洋の暗殺以外は是認することができないという。この二つの場合、のぞくより他に新しい時代を開くことができなかったのだから、必要悪として認めるが、他はその必要がなかったという。

幕末の幕臣を二人扱っている。一人は山岡鉄舟で、もう一人が小栗上野介である。

小栗上野介は幕末において出色の人物であるのは間違いないが、言われるほどの人物ではないように思われるというのが海音寺潮五郎の評である。

勝海舟が、小栗を評して、幕末の一人物であり、精力が人に優れ、計略に富み、世界の大勢にもほぼ通じ、誠忠無二の徳川武士で、一言で言えば三河武士の長所と短所とを両方そなえていた。これが最も納得のいく評であるとも言っている。

内容/あらすじ/ネタバレ

有馬新七

薩摩藩の有馬新七は生来、激烈・純粋の性質の人であった。そこに時代の思潮に尊皇賤覇の傾向があったので、これに激しく傾倒している。そして、朱子学の中でも最も大義名分を重んじ、学風の激烈で純粋な崎門学の洗礼を受けることになる。

新七が維新運動の舞台に登場するのは、井伊直弼が大老になってからしばらくしてからである。安政五年に三十四であった。

彼は井伊を排除しようと藩主・島津斉彬の上洛を待っていたが、その斉彬が思いがけず死んでしまう。

平野国臣

筑前黒田家の平野国臣は、その生涯を通観すると本質的には芸術家だったように思われる。その国臣が国粋主義者の富永漸斎に国学を学ぶ。

二十四の時に薩摩人の北条右門と親しくなる。門弟のようになり、北条も西郷隆盛から聞いたことを国臣に語った。しぜん、中央の政情に通じることになり、薩摩に親しみを持つことにもなった。

清河八郎

出羽国田川郡清川村に斎藤という富豪がいた。その長男として生を受けたのが八郎である。本名・元司。八郎は後年彼が作った名前である。

斎藤家には旅の文人、学者、画家などが滞在したが、八郎が十七の時に藤本真金がやってきた。後に天忠組の大和挙兵の際の総帥の一人である。この人物が八郎に強い感化を与えたようだ。やがて、八郎は実家を飛び出し、維新運動の中へ身を投じることになる。

長野主膳

天保十年。三重県飯南郡滝野村に年頃二十五、六歳の端正な若者が現れた。芝居で美男子の悪人を「色悪」というが、その色悪的相貌である。名を長野主膳義言といった。彼がどんな素性で、どこで生まれ、どういう風に生きてきたかは一切雲霧の中である。

この長野主膳は維新史上の大怪物である。

井伊直弼の大老就任から始まった維新の騒乱。周到な計画をめぐらして井伊を大老にしたのが彼であり、井伊が大老として行ったことのほとんどすべてを彼の方寸に出たことである。

紀州慶福を将軍世子に決定したこと。勅許なくして条約を結んだこと。大獄をおこしたこと。和宮降嫁の運動に着手したこと…。

武市半平太

土佐の郷士・武市半平太。江戸に出て、鏡心明智流の桃井春蔵道場に入った。同じ頃に坂本龍馬も江戸におり、こちらは桶町の千葉貞吉の桶町千葉道場にいた。やがて、半平太は塾頭となる。帰国後、道場で指導をした。この中に、後年人斬り以蔵の名で知られる岡田以蔵もいた。

半平太が帰ってきた翌年、安政五年は維新史が激動期に移る最初の年であった。波紋は土佐にも及んだ。そして、半平太が直面することになるのは土佐の参政吉田東洋である。

小栗上野介

徳川の旗本で小栗を名乗る家に二系統ある。一つは平氏系統。もう一つが、松平系統。この松平系統に七家あり、上野介忠順はこの系統の総本家で二千五百石を世襲する家である。

小栗は列強と相対する外国奉行になる。幕末にあっては要職中の要職であり、その人物才幹を認められていた。ヒュースケンが斬られた事件や、対馬問題などの重要問題に直面したのも彼である。

この外国奉行の後は、勘定奉行勝手方になる。勝手方とは同じ勘定奉行でも財務方の奉行である。このようにして、彼は生涯に七十余度も辞職したり免職になったりしている。

吉田松陰

長州の吉田松陰は数え年三十で死んだ人である。温和で品行のよい青年であるが、烈火のような激しい面を持ち、維新史上の巨人となった男である。

一家そろって学者の家に生まれ、山鹿流兵学の師範家吉田家をついだ叔父・大助が若くして死んだため、松蔭は五歳で家督を継いだ。

その後、父の元で勉強に励み、九つのときから家学教授見習として出勤することになった。明倫館での彼の門人には、益田右衛門介、桂小五郎、斎藤弥九郎、斎藤栄蔵らがいる。

彼は天性の教育家であった。長州藩で獄に入れられた際にも囚人たちに教え、獄の雰囲気を変えた。獄から出され、江戸に出ると佐久間象山と親しく交わるようになり、日本の置かれた立場を理解するようになる。

後年、わずか一年半の松下村塾で教えた門人には高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎、入江杉蔵、伊藤利介(博文)、山県小輔(有朋)、山田市之充(顕義)、品川弥二郎らがいた。

山岡鉄舟

徳川の三河以来の旗本で小野家というのがある。この家に生まれたのが鉄舟である。彼は器用ではないが、闊達自然で、大成する人間であり、そうした生き方をしてきた人間である。ぶきっちょだが、鍛錬に鍛練を重ね、真っ直ぐに伸びる太い鉄棒を見る感がある。

彼は、二十の時に旗本の山岡静山に槍を学ぶために入門した。その後すぐに静山が死んでしまい、縁あってこの家に婿入ることになった。静山のすぐ下の弟・精一は母の実家高橋家を継いでいた。この精一は後年伊勢守となり、号を泥舟といった。これに勝海舟とあわせ、幕末の三舟と呼ばれることになる。

大久保利通

西郷隆盛が自然と誠忠組の首領的なものになっていたが、西郷が幕府の追捕を逃れるために奄美大島に移住すると、首領と目されるようになったのが、大久保であった。

島津斉彬の死により、誠忠組の活動が止まりそうになり、壮士らが脱藩して浪人として働こうと決意しているのを思いとどまらせた。その一方で、新藩主忠義の実父・久光に目をつけ、これに時勢を教え込み、引きずり出させることを画策する。

三刺客伝

人斬り新兵衛こと田中新兵衛は一人稽古による示現流である。彼の素性は資料が乏しく、地元薩摩でも簡単な伝承しかない。その彼が、藩をぬけ京に上る。島田左近という人物を斬って名を知られるようになり、土佐の武市半平太の義兄弟となる。

岡田以蔵は武市半平太の門弟のようなものである。武市半平太の率いる土佐勤王党には暗殺者がずいぶん多かった。だが、人斬りの名を冠せられて呼ばれたのは以蔵一人である。

河上彦斎は田中新兵衛、岡田以蔵とは異なり、一通りの学問をした人物である。彼が、維新刺客中の大物といわれるのは佐久間象山を斬ったからである。そのほかは誰を斬ったのかも分かっていない。

本書について

海音寺潮五郎
幕末動乱の男たち
新潮文庫 計約六七〇頁
江戸末期

目次

有馬新七
平野国臣
清河八郎
長野主膳
武市半平太
小栗上野介
吉田松陰
山岡鉄舟
大久保利通
三刺客伝
 田中新兵衛
 岡田以蔵
 河上彦斎