覚書/感想/コメント
収録されている人物は、源平盛衰の時代に生きた人物たちである。多くの人物が様々な小説となっているので、馴染みのある人物が多いことだと思う。
この中で馴染みが薄いとすると、悪源太義平こと源義平であろうか。
「悪源太義平」。悪には叔父を殺したという道徳上の悪の意味もあるが、それより、猛々しい、強烈なという意味合いが強い。つまり、この場合、勇猛な源氏の長男・義平となるわけである。死なずにいれば、清和源氏の嫡流となっていたはずの人物である。
さて、この巻での前提となる事柄が幾つかある。それは、当時の武士の立場である。戦国時代以降の武士とは異なり、専門軍人ではない。本質は在所の地主である。
王朝時代に創設された常備軍は撤廃され、弱体化したのが警察力である。その警察力の維持のため、地方の地主等が自分の生命と財産の維持のため、自ら武力を持つようになった。これが当時の武士たちの姿である。
また、この当時はまた兵農分離ができていない。つまり、農繁期には農民であり、戦の時は兵士となる。さらには、商と兵農の区別も曖昧である。
商人でもあれば兵士でもある、商人でもあれば農民でもあるという具合であったのだ。江戸時代以降の士農工商の区分で読み進めていくと解らなくなることがあるので、注意が必要である。
面白いのは結婚式についての記述である。結婚式が始まったのは鎌倉時代あたりらしく、儀式として確立したのは武家の式法である伊勢流、小笠原流が始まった室町時代である。つまり結婚式というものは武家のものであったのだ。
海音寺潮五郎の作品群の中で重要な作品群が、史伝ものである。
史伝は、歴史として伝えられてきた記録や伝記のことであるが、中には文学的な要素がふんだんに盛り込まれているものもある。この文学的要素を排除し、他の史料とも照らし合わせ、科学的手法によって歴史を浮かび上がらせるのが学問である。
対して、この文学的要素を排除せずに、さらに他の史料や戯画的要素を取り入れ、不足部分を作家の想像力で埋めていく作業が歴史小説であるといえる。
とすると、海音寺潮五郎の史伝は、この中間に位置するものということができると思う。学問的な厳密さはないものの、小説的なデフォルメやフィクションもほとんどない。ほどよい感じの読物となっているのである。
だから、海音寺潮五郎の史伝を読み、同じ人物について語られている歴史小説を読むと、その歴史小説の面白さに新たなスパイスが加わると思う。取り上げている人物も、短編で語られており読みやすいと思う。
本書を読んで、その人物に惹かれたのであれば、研究家による他の史伝や他の小説家による小説を読むのもよいだろうと思う。本書は歴史ものを楽しむ足がかりになる作品群だと思う。
また、この史伝で、海音寺潮五郎の好みの一端がうかがい知れる。
概して、竹の割ったようにスッキリとした人間が好きなようである。有り体に言えば、直情的な側面があり、潔い人物が好みのようである。その反対に、策謀がすぎ、執着心の強すぎる人間は嫌いなようである。
前者に相当するのが蒲生氏郷やこの史伝では扱われていないが上杉謙信だろう。そして、後者の代表が武田信玄であり真田昌幸である。こちらは、はっきりと”好きではない”と書いている。
こうした海音寺潮五郎の好みを知るのは、他の海音寺作品を読む上で、なぜ海音寺潮五郎がこの人物を取り上げ、小説としたのかといった点において参考になるのではないかと思う。
「楠木正成」は「楠」「楠木」の両方の書き方が行われてきており、太平記では「楠」で書かれている。だが、当時の古文書や記録には「楠木」で書かれているので、「楠木」と書くのが正しいようだと解説されている。
だが、この楠木正成は信頼できる史料がほとんどない。史実としてはあてにならないものの、太平記に多くを依らざるを得ない人物らしい。
海音寺潮五郎の史伝
- 武将列伝 源平編 本書
- 武将列伝 戦国揺籃編
- 武将列伝 戦国爛熟編
- 武将列伝 戦国終末編
- 武将列伝 江戸編
- 悪人列伝 古代編
- 悪人列伝 中世編
- 悪人列伝 近世編
- 悪人列伝 近代編
- 江戸城大奥列伝
- 列藩騒動録
- 江戸開城
- 幕末動乱の男たち
- 日本名城伝
中国の史伝
内容/あらすじ/ネタバレ
悪源太義平
父は源義朝、母は三浦ノ大介義明の娘、永治元年(一一四一)に坂東で生まれる。源義朝の長男である。弟には源頼朝や義経らがいる。
久寿二年(一一五五)、義平十五の年に、叔父・義賢(木曾義仲の父)を攻め殺している。この叔父との争いはいかにして起きたかは不明であるが、幾つかの可能性が考えられる。
所領の争い、家来の喧嘩を主人が買って出たこと、または家来の争奪など。この時以来、悪源太の異名で呼ばれることになる。
さて、この義平、保元の乱には京に上っていない。恐らく坂東にとどまっていたようである。これは、父・義朝から坂東を守るようにという指示があったのだろう。
平治の乱。義平は十九歳になっている。この乱の契機となったのは、父・義朝と権中納言藤原信頼の不平である。結局、この乱のおかげで源氏は没落していくのだが、この時、義平は坂東から馳せ上ってくる。
が、父・義朝が殺され、一族の凋落を目の当たりにしながら、京に潜伏して隙をうかがっていたが、意志果たせず捕まり、殺される。
平清盛
平氏には大別して四つの系統がある。桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏である。中でも有名なのが、桓武平氏である。桓武平氏も四系統あり、最も栄えたのが葛原親王の流れで、これが高棟王の系統と、高見王の系統に分かれる。
有名なのは高見王の系統で、子の高望王が坂東に下り土着した。高望王の子に国香、良兼、良将、良文、良茂等がいた。国香の息子が貞盛、良将の息子が将門である。
この貞盛が将門を討ち、この貞盛の子・維衡が伊勢平氏の祖となる。維衡の子が正度、その子が正衡、その子が正盛、その子が忠盛、その子が清盛となる。ただし、清盛には白河法皇の落胤説がある。
平氏の運命が決定的に開けたのは、藤原氏の専権から院政へ権力交代である。藤原氏専権の時代の爪牙となっていたのは源氏である。その対抗馬として院政の爪牙となったのが平氏である。
以後、武将としての才覚はあまりないものの、政治力を遺憾なく発揮し、平氏一門繁栄の礎を築いたのである。
源頼朝
頼朝には男兄弟が八人ある。その兄弟のうち母が同じなのは、末の今若、乙若、牛若であり、残りは皆母が違う。その中で、頼朝の母の門地が最も高い。
これをもって頼朝が源氏の嫡男だとするむきがあるが、間違いである。結果的にそうなっただけの話であり、源平盛衰記の諸本や吾妻鏡などは、頼朝が天下を取った後につくられたので、都合の良いように書かれている節があることを見逃してはいけない。
頼朝はかなり難儀して清和源氏の嫡流となっている。頼朝には競争相手が多かった。木曾義仲、源頼政など。だが、結果として頼朝が弟・義経らの協力の下天下を取ることが出来た。
だが、この頼朝は異常に猜疑心の強い男であった。ことごとく一族を死に追いやっている。結果として、頼朝自ら清和源氏の力を弱める結果にしてしまった。
木曾義仲
義仲の父・義賢は悪源太義平に攻め殺されている。この時、駒王丸と呼ばれていた義仲は信州木曾の住人中原ノ兼遠に預けられている。これに関しては他にも伝説がある。
諏訪の下社の大祝(宮司)の金刺盛澄に託したというものである。ちなみに、この金刺のわかれとして、後世有名なのが新陰流・上泉伊勢守信綱である。
さて、義仲が挙兵したのは、頼朝の挙兵を聞いた後のことである。挙兵したはよいが思うようには兵が集まらなかったようである。だが、やがて勢力を大きくして京への進撃が始まる。
この進撃の中で、有名な倶利伽羅峠の戦いが行われている。この戦いが有名なのは、火牛の計を用いたとされたからであるが、これを信ずるわけにはいかない。恐らく、平家物語や盛衰記の作者が史記の田単列伝から借用したものであろう。
義仲が勢力が京に入ってからは至って評判が悪い。兵士たちの狼藉が止らないのである。だが、義仲は軍規を厳正にすることは出来なかったのであろう。
というのも、義仲についてきたのは彼の一族郎党ではないのである。いわゆる寄せ集めの烏合の衆である。ここに義仲の悲劇がある。
源義経
義経が助命され、鞍馬寺に預けられたのは、幼名を牛若といった頃のことである。義経記に描かれている内容はあまりにも小説的フィクションが多くてあてにならないが、六、七歳頃に鞍馬に入ったのは確実のようである。
その牛若も遮那王と名を変え、陸奥の平泉の藤原氏にいくことになったのは十六の時のことである。これ以外のことで語られてきていることは伝説である。
その際たるのが、武蔵坊弁慶との出会い。むろん、橋でのやり合いがあったはずもなく、恐らくは遮那王として陸奥に行った折りに知り合ったのが本当ではないだろうか。
頼朝挙兵のうわさが陸奥に聞こえてくると、待ちに待ったように義経は行動する。だが、この時期の義経は後年から考えると出足が遅い。恐らく、この時期に義経は藤原秀衡に兵を貸してくれるように交渉していたのではないか。
そのため、出足が遅くなったのではないかと推測される。だが、結局は断わられ、わずかな供を連れて出発せざるを得ない状況になった。このことが後年の義経には不利な要素となったようである。
少ない手勢でしか馳せ参じることが出来なかったばかりに、頼朝の陣中で軽んじられたのではないか。少ない手勢しか集められない能力の持ち主として。
だが、義経の軍事的天才はすぐに発揮されることになる。だが、あまりにも軍事的天才であったため、猜疑心の強い兄・頼朝の不興を買ってしまう。天才であるがゆえんの悲劇である。
楠木正成
楠木正成が歴史の表にあらわれるのは、太平記巻の三、「主上御夢の事、付けたり楠の事」のくだりからで、元弘元年のことである。後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐の計画していたときである。正成は父の名すらはっきりしない無名の土豪だった。
その正成が鎌倉幕府軍を相手に縦横無尽の活躍をみせる。周辺の住民と強く結びつき、パルチザン的な戦術をもって大いに幕府軍を苦しめた。
楠木勢がわずか四、五百の兵をもって百倍に相当する大軍の攻撃を四、五日こらえた戦いなどもあった。だが、検討むなしく、後醍醐天皇は隠岐に流される。
その後、正成は千早城を築き、再び幕府軍を相手に健闘をみせる。その間に後醍醐天皇は隠岐を脱出することを得る。足利尊氏や新田義貞らの軍も味方につき、幕府を倒し、王政復古が成る。
だが、すぐに新政府の足許がぐらつく。その中、正成は終始一貫して天皇側について戦った。
本書について
海音寺潮五郎
武将列伝 源平篇
文春文庫 約二八五頁
平安時代末期~鎌倉時代初期
目次
悪源太義平
平清盛
源頼朝
木曾義仲
源義経
楠木正成
登場人物
悪源太義平
源義平
平清盛
平清盛
源頼朝
源頼朝
木曾義仲
源義仲
源義経
源義経
楠木正成
楠木正成