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海音寺潮五郎の「伊達政宗」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

本書は伊達政宗が家督を継いでから、豊臣秀吉の甥・豊臣秀次が自決するまでの時期が書かれています。

伊達政宗は、小田原に死人装束で遅参したり、はたまた秀吉に言い訳をするため金の磔柱を掲げながら上洛するなど、奇抜な恰好をすることが知られていますが、これは秀吉の派手好みに沿って行っている演出だと海音寺潮五郎は述べています。

なるほど、確かに何事も派手好みだった秀吉を考えると頷ける部分もあり、後年、徳川政権になってからの政宗にはこの様な行動が聞かれないところを考えるとそうなのだろうと頷けます。

また、このように権力者の好みに合わせる能力と同時に、用心深い性格を端的に表す話しとして、政宗が花押の鶺鴒(せきれい)をかたどったものの目に当たるところに針で目に付かぬ程度の穴をあけるという話しを入れているのは面白いです。

こういう伊達政宗を海音寺潮五郎は「横着者」と評しています。「横着」には、なまけるという意味とずうずうしいという意味がありますが、この場合、後者のずうずうしいを意味しています。なるほどと思う表現です。

雑学的な内容になるのですが、本書には「武」の意味や「伊達もの」の起源も書かれています。

「武」は戈(ほこ)を止の意味で、軍制を定めたのは、戦をするためのものではなく、備えがあれば戦が起こらぬからであるといいます。

また、「伊達もの」の「だて」はこの伊達政宗から来ているのではなく、すでに鎌倉時代の初期にある古い言葉で男を立てるというところから始まったのだそうです。

戦国時代の武士の礼儀もところどころに散りばめられており、なるほどと思うことがあります。

一例として、政宗が馬上から秀吉に挨拶をする場面ですが、この場面で、政宗は片あぶみをはずして式体しています。

片あぶみを外すのは馬上で不安定になるので、相手に敵意がないことを示すことにもなる正式な作法です。この作法は江戸時代にも続いています。

伊達政宗が活躍した時代は次にまとめていますので、ご参照ください。

伊達政宗を描いた小説

伊達政宗ゆかりの地

仙台城(青葉城)

仙台城(青葉城)の訪城記・宮城縣護國神社の参詣記-歴史と見どころ紹介(宮城県仙台市)[国の史跡]
仙台城(青葉城)と宮城縣護國神社の紹介と写真の掲載。こんなに高台にあるとは思わなかった。驚いた。いやぁ、仙台市内が一望できる。

瑞鳳殿(仙台藩租伊達政宗公御廟)

内容/あらすじ/ネタバレ

政宗は若くして家督を継いだが、領民の評判も重臣達からの評判も良くはなかった。というのも、まずには母である最上ご前が政宗を評価していなかったためである。このことが領民達にも聞こえ漏れていたのである。

だが、政宗を高く評価している者たちもいた。それは父・輝宗であり、政宗の傅役でもあった片倉小十郎であった。二人とも政宗の中にある英明の資質を見抜いていたのである。

政宗が母・最上ご前から疎まれるのは、その相貌にある。幼い頃、重い疱瘡にかかり、顔中に黒あばたにうずめられ、疱瘡の毒が右目に入り失明してしまったのである。

最上ご前は政宗を疎んじるようになり、やがて弟の小次郎が生まれると、ますます政宗を疎んじ、果ては憎むようにすらなる。このこと以来、政宗は内にこもるような性格となった。だが、気質は変わるものである。

家督を継いで早々に、塩ノ松の領主・大内定綱が帰順を申し出た。これには芦名家で起きている家督相続が絡んでいることを政宗は見抜いたが、その上で帰順を許した。

だが、この大内定綱は、すぐさま政宗を裏切ることになる。これに激怒した政宗は大内定綱に使者を送ったが、返事が馬鹿にしている。それもそのはずで、大内定綱の後には芦名家と佐竹家がついているのだった。

政宗は芦名討伐の軍を動かした。苦戦の末、大内定綱の居城を陥すことに成功する。

戦いの後、大内定綱を泊めたことが判明した畠山義継は弁明を伝えてきたが、政宗はこれを退ける。このことは後すぐに父・輝宗の死を招くことになってしまう。

この事件の後に、再び政宗を佐竹・芦名の連合軍が襲いかかる。だが、これを退けた政宗はやがて奥州に覇権を築いていく。

しかし、中央の時勢は豊臣秀吉を中心に回っていた。政宗のところにも秀吉から書状が届いた。北条を討伐するので、すぐに小田原に来るようにと。

政宗は横着にもなかなか出発しなかったが、諸事情により慌てて出発することになる。その出発の前日、政宗は母・最上ご前を訪ねる。そして、ここで事件が起きる。

北条征伐後、秀吉の手により奥州の諸大名は大きく入れ替えられた。そして、会津に入ったのが蒲生氏郷であった。

氏郷は奥州全体を監視する役目がおわされていた。その中で、奥州に一揆が起きた。氏郷は政宗に鎮圧の要請をしたが、政宗は表面上は氏郷の要請に従う恰好を見せるものの、裏では一揆を煽り立てるようなことをしていた。

結果としてこのことが氏郷を通じて秀吉に報告され、窮地に陥るが、そこは最初から逃げの一手を仕組んでいた。

本書について

海音寺潮五郎
伊達政宗
学陽書房 約七〇〇頁
人物文庫
戦国時代

目次

この母この子
初の処世智
天性の野気
城攻めの法
悲劇の胚胎
玉石共に焚く
摺上ガ原合戦
地獄の炎
犠牲者
演出くらべ
心さびしき人
小鷹狩
恋と功業
黒白道中
陥穽(おとしあな)
召喚命令
金の磔柱
聚楽の裁き
飴をねぶる
弓の妊娠
関白朱印
伊達勢伊達姿
一有半年
危機一髪

登場人物

伊達政宗(藤次郎)
伊達輝宗…父
最上ご前(義姫)…母
伊達小次郎正道…実弟
愛子…正室
弓…側室
伊達実元…大叔父
伊達成実…実元の息子
留守政景…一族重臣
片倉小十郎景綱…重臣
大森勘七…忍び
大内定綱…塩ノ松小浜城主
豊臣秀吉
徳川家康
前田利家
蒲生氏郷