海音寺潮五郎氏は、兵法書の「孫子」を解説しているわけではありません。
本書はあくまでも「孫子」と呼ばれた二人の人物、孫武(そんぶ)と孫臏(そんぴん)を主人公にした小説です。
二人の生きた時代が異なるため、実質的に二巻建てで話が進みます。
このそれぞれに復讐者が存在するのがこの小説の特徴です。復讐劇でもあるのです。
孫武の巻では伍子胥、孫臏の巻では孫臏本人が復讐者となります。
同じ「孫子」であっても孫武と孫臏では大分個性が違います。
隠者的な資質を持ち合わせているのは、孫武・孫臏共に同じですが、学究肌の秀才・孫武に対して、孫臏は天才肌の兵法家です。
もうひとつ共通する点があります。
それは、二人とも権力に対する執着を感じていない点です。
孫武はいやいやながらも断り切れずに将軍となりましたが、ある時点でスパッとその職を辞しています。
孫臏にいたっては元もと仕官する気なぞゼロだったのが、裏切られ復讐のために仕官し、それが果たされるとスパッとその職を辞しています。
二人とも権力には淡泊なのです。
さて、世には七種の兵書が伝えられています。
孫子、呉子、六韜、三略、尉繚子、司馬法、李衛公問対です。
海音寺氏は孫子こそが根本的なもので、あとは孫子の註釈と見てよいとさえ考えているようです。
その応用面の広さは、戦術がそもそも読心術的面が多いからと述べています。現在においても通用すると言うことでしょう。
兵書としての「孫子」ですが、長いこと孫武が書いたのか孫臏が書いたのかが議論の的となっていました。
一説では孫武は架空の人物で孫臏が書いたのではないかといわれ、本書でもこうした疑問が呈されています。
ですが、1972年に中国の山東省で、漢代の墓が二つ並んで発掘され、竹簡形式の中に孫臏兵法が発見されることによって、孫武と孫臏が別々に書物を書いたことが裏付けられました。
ちなみに、本書が発表された時には、まだ発掘されていませんでした。
孫武が生きた時代の兵役というのはイメージがつきづらいです。
「乗」という単位が登場しますが、戦車一乗に甲士三人、車士二十五人、歩率七十二人の計百人がつくのだそうです。別の数え方もあるようで、百人でないこともあります。
最後に。個人的には海音寺潮五郎の作品の中で最も好きな作品です。
書籍 孫臏(そんぴん)については宮城谷昌光の孟嘗君にも登場します。
内容/あらすじ/ネタバレ
孫武の巻
楚の荘王から五代目の平王の時代。太子は建である。これが十五になり、秦の王女を妃として迎える話が出た。迎えに行ったのは費無忌であった。
この費無忌が平王に告げ、秦の王女を自ら娶ってしまった。建がおもしかろうはずがない。
これを不安に思ったのは費無忌である。費無忌は平王に讒言をし、ついには建が謀叛を企てているとまで述べた。建の太傳伍奢を呼び尋問した。伍奢は根も葉もない噂といい、平王をいさめたが、怒った平王は伍奢を牢獄に投じた。
この隙に建は国を脱出し、宋に身を寄せた。これを悔しがった費無忌は今度は伍奢を恐れその息子たちを呼んで殺そうと考えた。息子は二人いる。子尚と子胥だ。
兄の子尚は殺されることを知りながらも呼出に応じたが、弟の子胥は楚を出奔した。
男は役人の布告で聞いた伍子胥のことを考えていた。伍子胥は呉にやってくる。そして、呉と楚の間は多事なると結論づけた。男は姓を孫、名を武、字を長卿といった。
呉は揚子江下流にある国である。孫武は、戦史を研究するのが大好きである。戦の跡地を訪れ、つぶさに観察してそこから得られて考察をまとめるのを趣味としている。そして、勝つには勝つだけの理由があり、負けるには負けざるを得ない理由のあることを知った。
呉・楚の間に再び戦が始まったのは僚が呉王となって二年目であった。孫武がしきりに研究しているのは両国の戦闘だった。
この時代、戦を始める前に占うことが当たり前だった。孫武にはこれが不思議に思われてならない。勝敗が事前にきまっているということがあるのだろうか。戦にはそうしたこと以外の駆け引きなどがあるはずである。それに、百戦百勝することが最上の戦上手ではない。戦わずして敵を屈服させるのが最上の戦上手と言える。
伍子胥は楚を落ちるにあたり、建のいる宋を目指した。この途中で申包胥にであう。
建と共にするつもりの伍子胥だったが、建が殺されてしまい、その遺児・勝を連れて呉へ向かった。
伍子胥はやっと呉につき、呉王僚に目通りかなった。孫武が予想した時から七ヶ月が過ぎていた。
伍子胥が呉王の元から身をひいたという。伍子胥は呉王に楚を討つべきだと力説したのだが、かえってこれがために疎んじられるようになった。それに気がついた伍子胥は考えを巡らした。
問題は太子の光である。呉の王位継承には問題があり、光には叛逆の意志があるはずだと伍子胥はにらんだ。そして、光に面謁を乞い、光の世話になることになった。
伍子胥は光のために人材を集めることとし、ほとんどを旅で過ごした。越では天下の名工といわれる刀鍛冶の欧冶子を訪ねた。他に伍子胥が交わったのが専諸と要離である。
そしてついに伍子胥は孫武の前に現われた。
孫武には世に出たいという思いがあるわけではないが、心の奥底には世に認められたいという願望がある。それが伍子胥がきて、自分の価値を誤りなく知ってもらいたいと思ってしまう。
伍子胥は何も言わずに辞去した。孫武はほっとした気持ちであった。
その年、呉・楚の平和が破れ、公子光が大将軍となって楚を攻めた。これが大敗し、公子光は重傷を負って逃げ帰った。
孫武は早速研究にかかった。敗因は公子光が相手に裏をかかれたことだった。そして最後に断じた。この合戦は、両軍共に拙劣である。
前回の訪問から一年。伍子胥が突然訪ねてきた。
孫武は伍子胥にある策を授けた。これを伍子胥は公子光に授けることになる。そして翌月行われた呉・楚の戦いで公子光は勝った。
伍子胥は孫武のたてた策の切れ味の鋭さに舌を巻いた。
その後、呉・楚の不和は続いたが格別のことがなく二年が過ぎた。だが、些細なことで戦が起きてしまう。伍子胥は再び孫武に相談した。
楚の平王が死んだ。伍子胥は焦った。公子光に楚を討つことを進言したが聞き入れてもらえない。そこではたと思った。公子光の念願を叶える必要があると。伍子胥は一計を案じた。
そしてついに公子光は呉王となった。呉王闔廬である。
伍子胥は闔廬に孫武を起用することをすすめた。その前に孫武にあって、兵法の書を著してくれないかと頼んだ。孫武は喜んで十三篇に及ぶ兵書を著した。これを読んだ闔廬は孫武を幕下に招致したいといった。
実際に会ってみた闔廬は孫武に多少の失望感を味わった。そこで試すことにした。後宮の女中を勇敢な兵にせよと命じたのだ。
孫武は闔廬に仕えることになった。身分は客卿、職は将軍だ。孫武は将軍としての仕事を熱心に始めた。
そして闔廬は一切の準備ができたと判断し、楚を討つための会議を開いた。孫武はこれに反対した。だが、五年以内には討つことができると判断していた。そのために、まずは楚を驕慢ならしめ、油断させることだ。
孫武の奇策はあたり、数名の死傷者を出しただけで一つの城市を手に入れた。
その頃、楚の王宮では不思議なことが起きた。これによって楚の昭王は非常な自身を得、呉を侮り軽んずるようになった。
一方であまりにも鮮やかに孫武が勝ったため、周囲はそれを実力とは考えなかった。そのためもう一度楚に勝つ必要があった。最上は知られず、人の目に立つのは常に次位のものだということである。
豫章の戦いで勝った闔廬は諸侯の覇となることをあせった。だが、孫武は難しいと判断した。その代わり二年まってもらうことにした。
機会は熟した。今度の戦いには闔廬の弟夫概も出陣した。これが独断専行して鮮やかに勝ったのだが、孫武は危うい所だと思っていた。何よりも心配なのは、夫概が軍律を無視したことであり、功をほこって人もなげなことをすることである。
孫武は自分の権威を立て直すべく動き始めた。
やがて、夫概が王宮を占領して呉王を名乗った。孫武は夫概の性格、素質などから対策を練っていた。
楚の水陸軍を撃破したことによって、呉の国威を大いにあげた。あとは斉だけである。
孫武は戦わずして斉を屈服させようと考えた。それは斉の姫君をいただくことであった。
その後、夫差が太子に取り立てられると、孫武は致仕を願い出た。
孫臏の巻
孫臏は孫武の子孫であるが、何代目かの子孫かはっきりしない。また臏の元来の名もわからない。「臏」とはひざがしらの意味で、延用してひざきりの刑の意味にも使われる。ここでは仮に「繽」としておく。
孫繽は十七になる。数代の家族はみな読書人だったが、繽は違う。学問が嫌いで狩猟などが大好きである。
ある時、兵法を勉強する龐涓という若者が孫家を訪ねてきた。孫武の書を読んで学びたいというのだ。
繽は龐涓の相手をすることになり、好きな狩りができなくなって不満である。だが、龐涓に付き合っている内に、おれも一つ読んでみるかという気になった。繽の読書が始まった。
繽から見れば、龐涓は議論倒れに堕していると思われることが多かった。変通の才に乏しいのだ。
その龐涓が楚の呉起将軍のところへ行くという。繽もふらりと心が動き、龐涓と共に楚にいくことにした。そして二人で呉起のところで兵法を学ぶことになった。
その呉起が殺され、二人はそれぞれの故郷へと戻った。
龐涓がやってきた。助力を仰ぎにきたという。そして龐涓は魏につかえることになった。
龐涓は将軍に拝せられて趙との戦いに出た。そして大いに趙軍をやぶり名声を上げた。だが、翌々年、今度は趙が韓と連合して魏を攻めてきた。これに龐涓は大いに苦しむことになる。みかねた繽が一計を案じて龐涓の窮地を救った。
繽が龐涓を訪ねた。逗留している間に繽は魏に仕えたいと考えるようになる。その斡旋を龐涓に頼んだが、酒の席で思わぬことを口走ってしまう。
ある日、龐涓に誘われて繽は狩りに出たが、禁制の山に入って捕らえられてしまう。いくら龐涓の知り合いだと言っても聞き入れてもらえない。
繽はひざきりの刑に服し、臏と名乗ることにした。
臏は龐涓への復讐を誓い、魏を脱出した。ついた先は斉である。ここで臏は田忌将軍の世話になった。
一年後、田忌は斉王に臏を推薦した。斉王の威は臏に感服して、自らの兵法の師と仰ぐことにした。
龐涓がしきりに趙を攻めた。趙からの使者がやってきて、斉に援けをもとめた。斉王は田忌を将軍とし、臏を軍師として援軍をだした。
臏が田忌に進言したのは、魏に入って大梁をつくというものだった。これに龐涓はあわてた。そして斉は魏軍を痛破することになる。惜しむらくはこの時に龐涓を取り逃がしたことであった。
十年が経ち、臏も六十となった。臏にもあせりがある。そしてついに時が来た。魏の連合軍に攻められた韓からの救援の使者がやってきたのだ。
書籍 孫臏(そんぴん)については宮城谷昌光の孟嘗君にも登場します。
本書について
海音寺潮五郎
孫子
講談社文庫 約六三〇頁
中国 春秋時代末期
目次
孫武の巻
孫臏の巻
登場人物
(孫武の巻)
孫武
牛吉…孫武の召使い
伍子胥
闔廬(公子光)…呉王
専諸
要離
伯嚭
夫差…闔廬の子
夫波…闔廬の子
夫概
僚…呉王
慶忌…僚の子
季札
平王…楚の王
費無忌
建…楚の太子
勝…建の子
昭王
子常
沈尹戌
申包胥
風胡子
(孫臏の巻)
孫臏(孫繽)
紅奴…女奴隷
田忌
田良
威王…斉王
龐涓
呉起…楚の将軍