柳沢吉保が活躍した第五代将軍・徳川綱吉の時代は政治的に安定した時代でした。
この時期については、高埜利彦「天下泰平の時代」に詳しいです。
この小説において重要な登場人物は多くはありません。
柳沢吉保はもちろん登場するのですが、題名ほどには重要な役回りではありません。
そのため、あとがきでも次のように書かれています。
僕のこの小説は「柳沢騒動」という題名ではあるが、俗説を書いたものではない。俗説のモトとなっていることを書いたものである。だから、あるいは失当の題名かもしれない。むしろ、「元禄徳川騒動」とか、「水戸黄門」とか、した方が適当だったかも知れない。
海音寺潮五郎 柳沢騒動 あとがき
このようにあとがきでは書かれているのですが、題名としては適切のように思いました。
俗説「柳沢騒動」はこうである。
柳沢吉保は、その妻を将軍綱吉の枕席に侍せしめたところ、吉保夫人は妊娠し吉里を生んだ。吉保は、吉里をして徳川家の大統を継がしめんとして、綱吉を籠絡し、事成らんとした時、綱吉夫人鷹司氏が、一身を挺して綱吉を閨中に刺し、徳川家の社稷をすくい、みずからは自殺した云々。
海音寺潮五郎 柳沢騒動 あとがき
内容/あらすじ/ネタバレ
貞享三年正月の柳営年賀の日。
紀州の徳川綱教に対する水戸の徳川光圀の態度が五代将軍徳川綱吉の逆鱗に触れた。
徳川綱教の北の方は娘・鶴姫である。
娘婿に対する仕打ちに怒った側面もあったが、これまでの世子問題で散々徳川光圀にやり込められていることが原因である。
綱吉を怒らせた話は、母・桂昌院、第一の側室お伝の方(小谷の方)から聞かされた。
二人から話を聞いた綱吉は牧野備後守成貞を呼んだ。
牧野成貞を呼びに行ったのは柳沢弥太郎だった。
ことの次第を聞いた牧野成貞は途方に暮れたが、柳沢弥太郎が対処法を伝えた。
綱吉は怒りを覚えながらも、牧野成貞の考えを採ることにした。
成貞に当たり散らしてしまった綱吉は後悔し、成貞の屋敷を訪ねることにした。成貞はこれを聞いて感激した。
牧野成貞は綱吉の初御成を妻・阿久里、娘・安子、養子・成時に伝えた。阿久里はかつて桂昌院の女中であった。
御成の日は2月21日と決まった。
牧野成貞の屋敷に来た徳川綱吉は、成貞の妻子にも会い、上機嫌だった。
酔いの回った綱吉を阿久里が介抱した。
屋敷の周りを騎馬の武士が廻っていた。その武士が徳川光圀であることを知ると、成貞は綱吉に報告せねばと考えた。
綱吉が休んでいる部屋から阿久里が出てきたのを見て成貞は阿久里が将軍の寵を受けたことを知った。
綱吉は不愉快だった。成貞を慰め喜ばせるための行事が、かえって悲哀と憂悶のどん底に叩き込んだからだ。
一方で阿久里のことを考え続けた。
徳川光圀は不安だった。将軍自ら臣下の屋敷に行ったばかりか、わずか中三日で母公、小谷の方、紀州侯夫人も行かせたからだ。
こういうことが階段となり、どういう無法な事が生ずるのか。
すると綱吉が再び牧野成貞の屋敷を訪ねたというではないか。
付家老の中山備前守信治が心配して光圀を諌めにやってきた。
老中の阿部豊後守正武は光圀からの手紙を見るとすぐに水戸家に向かった。
正武は光圀が同じ憂いを持っていることにひかれていた。それは側用人政治への反感である。
職制の乱れは世の乱れのもとである。
知足院の権僧正隆光は、男子ご懐妊の祈願がうまく行っていないことに心が焦っていた。
大奥は二派に分かれている。桂昌院派と御台所派である。隆光は桂昌院派の庇護を受けていた。
その隆光を牧野成貞夫妻が忍びで訪ねてきた。成貞は甥の秀寿丸の出家の相談だった。だが様子がおかしい。
桂昌院は綱吉が御台所に最近になり心惹かれているのは才色兼備の左衛門佐がいるためと考えていた。
こちら側に綱吉の心を戻すにはどうしたら良いか。桂昌院はお伝の方と相談した。
牧野成貞が桂昌院とお伝の方に呼ばれて、ふさわしい者を探して欲しいと頼まれた。
だが、綱吉と阿久里の一件があり、成貞はその気になれない。
代わりに推挙したのが柳沢出羽守弥太郎だった。
そして桂昌院が京都から招いたのが大典侍局だった。今では北の丸殿と呼ばれている。
柳沢出羽守は加増され一万石の大名、お側用人になった。
大奥に呼ばれた隆光は男子が生まれないことを責められた。だが桂昌院を言いくるめ、新寺建立まで説きつけたのだった。
隆光はかねてから新しい寺院を興し、寛永寺や増上寺に並ぶ格を得たいと考えていた。その寺院の場所として神田橋付近を狙っていた。
隆光が鷹狩の鷹の餌になる犬の姿を見て、すぐさま桂昌院、小谷の方に告げた。
男子が生まれぬ理由は綱吉にあり、戌年生まれの綱吉が犬を鷹の餌にしていることにあると言ったのだ。
他にも干支に関係する将軍家の不思議を語った。
こうして生類憐憫令、愛犬令が出された。
十幾度目かの牧野家御成の日。
綱吉は成貞の娘・安子から目が離せないでいた。ことの次第を悟った安子は夫の成時を見た。成時は蒼白な顔をして睨んでいた。
その夜、成時は自殺した。まもなく安子も死んだ。
元禄三年の九月。
徳川光圀は外桜田の甲府屋敷を訪ねた。外は神田明神の祭礼で賑わっていた。
平川門のあたりに桟敷が設けられていた。桂昌院が神田祭の練物が丸の内を通行するので、それを見るためのものだった。
小石川の水戸屋敷では中山備前守が藤井紋太夫を呼んで、今日の下馬先での光圀の所業を話した。
話の中で中山備前守は藤井紋太夫に、光圀に隠居を勧めるように促した。だが、紋太夫は分かっていながら黙った。
綱吉は憂鬱だった。牧野成貞が養子を決めぬからだ。自分が殺したに等しい成時と安子を考えるからだ。
桂昌院もここに来て綱吉が牧野家にしたことを知った。
養子に秀寿丸をとるように桂昌院からも牧野成貞を説得したが、頑として受け付けない。成貞にとっては婿と娘の弔い合戦のつもりだ。
一方で綱吉は光圀狼藉の話しを聞き、今度こそ隠居を命じようと心を決めた。
このことを成貞に相談した。成貞よりほかに相談できるものがいなかったからである。
成貞は隠居を願い出た。そして成貞は秀寿丸を養子とせざるを得なくなった。秀寿丸は成春と改めた。
光圀を隠居させる算段を柳沢出羽守に命じた。柳沢出羽守には自信があった。
側用人になってからあらゆる家の調査をしていた。水戸家もその一つだった。
藤井紋太夫。その名が柳沢出羽守の目に留まった。
柳沢出羽守は藤井紋太夫と話をした。
藤井紋太夫は光圀に史記の留侯世家にある詩の解釈を求めた。紋太夫の問いかけを理解した光圀は隠居することにした。
水戸家の家督相続が済んだ元禄三年十一月。光圀は甲府宰相綱豊を訪ねた。
柳沢出羽守の屋敷を綱吉が御成することになった。
柳沢出羽守は隆光を屋敷に呼んで、京都仁和寺の覚彦僧正を知っているか聞いた。御台所が江戸に呼んでいるというのだ。それを聞いた隆光は腹の底まで冷えた。
綱吉は柳沢の屋敷に行って、くさぐさの物を下賜した。吉里も可愛がった。
柳沢家への御成は、これを最初として一年間に三回も繰り返された。
柳沢時代が来かかっていた。
隆光は覚彦を高輪の大木戸まで出迎えた。敵手を見るためだった。
御台所派の右衛門佐が懐妊した。お伝の方は隆光を呼んだ。修法に敗れたと知った隆光は新たな修法を始めることになった。程なくして、左衛門佐が流産した。
左衛門佐の流産で隆光が最も得をした。お伝の方の一層の信仰を集めたばかりか、綱吉の信仰を更に篤くした。護持院はますます栄えた。
民衆は元も迷惑を被った。生類憐憫、犬愛護の法令が苛烈に励行されたためだ。
元禄六年十二月。柳沢出羽守保明は側用人老中格になっていた。
隠居した徳川光圀から贈り物が届いた。それは犬の皮だった。
藤井紋太夫は取るものを取りあえず柳沢邸に急いだ。
柳沢保明はこたびの所業を光圀が病気になったからだとすることにした。
年が明けて元禄七年三月。
徳川綱吉は徳川光圀を召した。光圀は犬の皮の件だと思った。待っていたのだ。
藤井紋太夫は柳沢保明の染井の下屋敷を訪ねた。六義園である。
四月。光圀は登営した。
光圀は自分に病の噂がたっていることを知らなかった。そして綱吉がそれを確かめるために呼び出したことも知らなかった。
それを光圀に教えたのは甲府綱豊であり、その家臣の間部右京、のちの間部詮房であった。
光圀は小石川の屋敷に戻り、国許から連れてきた家臣と深夜に物語をしていた。そして家中に能楽を見せるので、全員来るようにふれを出した。
元禄七年、八年。新しい寺院が続々と建立され、幕府の財政は窮乏していった。
荻原重秀による貨幣改鋳が行われたのはそうした時期だった
元禄九年。小石川の水戸屋敷で矢で射られた鴨の死骸が見つかった。藤井紋太夫手討の件以来幕府と水戸家の関係は悪化していた。
光圀は隠居してからは父・頼房の廟所瑞龍山の近く西山に隠居所をこしらえていた。仕えるのは佐々助三郎らだった。
中山備前守信成が鴨の一件を報告に水戸へやってきた。
目次
席次
急所
陰晴
初御成
家門光輝あり
今様風流踊
射垜
護持院隆光
大奥両党
才女
妖僧
妙案天来
臣道
神田祭
憎悪
金液
光圀隠居
時代の太陽
修法争い
光圀発狂
六義園
羽衣
鴨
鷹
榾火
深夜