もっと平坦なところにあるのかと思いましたが、山裾にあるという感じでしょうか。
車で参拝するのがおススメのように思いました。
信濃善光寺の賑わいとはうって変わって、静かな参拝となりました。
甲斐善光寺では、信濃善光寺同様にお戒壇巡りができます。
さて、甲斐善光寺で見ておくべきは、源頼朝の木像です。
文保三年(1319)の修理銘があるため、源頼朝像として日本最古の彫像として知られ、もっとも頼朝の面影を伝えているのではないかと言われている木像です。
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の紀行でも紹介された木像です。
甲斐善光寺の歴史
甲斐善光寺は、武田信玄が川中島の合戦の折に、信濃善光寺の焼失を恐れ、御本尊である善光寺如来像等を奉遷したことに始まります。戦国時代の永禄元年(一五五八)の事とされます。
川中島は信濃善光寺の目の前ですので、戦線が拡大すれば、戦に巻き込まれる可能性は高かったと思います。
甲斐善光寺の歴史
当山は、開基武田信玄公が、川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558)、御本尊善光寺如来像をはじめ、諸仏寺宝類を奉遷したことに始まります。板垣の郷は、善光寺建立の大檀那本田善光公葬送の地と伝えられ、善光寺如来因縁の故地に、開山大本願鏡空上人以下、一山ことごとくお迎えいたしました。その後、武田氏滅亡により、御本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々といたしましたが、慶長三年(1598)信濃に帰座なさいました。甲府では新たに、前立仏を御本尊と定め、現在に至っております。
江戸時代には、本坊三院十五庵を有する大寺院として浄土宗甲州触頭を勤め、徳川家位牌所にもなっておりました。豪壮な七堂伽藍は、一度焼失いたしましたが再建され、東日本最大級の伽藍として広く知られております。また、重要文化財五件・県指定文化財四件、市指定文化財八件をはじめとする文化財の宝庫として著名で、その一部は宝物館等で公開しております。
http://www.kai-zenkoji.or.jp/history.html
甲斐善光寺の見どころ
山門
金堂・山門は、寛政八年(1796)に再建されたものです。
五間三戸の楼門で、入母屋造の構造を示すこの山門は、江戸時代中頃の宝暦四(一七五四)年の大火により、本堂とともに焼失したが、本堂に先立って再建され、明和四(一七六六)年に上棟式がおこなわれた。
昭和六十三年三月 甲府市教育委員会
両脇に仁王像を安置し、二階部分は手すり付きの板廊下がめぐらされ、内部には仏壇が置かれている。巨大な朱塗の丸柱と白壁、銅板葺の屋根などからかもしだされる雰囲気は本堂の壮大な建築によく調和した山門ということができる。
お咳婆さんの石
この大きな石は、「お咳婆さんの石」と呼ばれています。いつの時代からか、百日咳などに苦しむ者が、全快したら飴を奉納する約束をして祈願すれば、効験が著しいと言われておりました。同様に信仰されてきた石は、甲府市千塚など各所にもあるといわれております。
立て看板
境内・参道
山門をくぐって本堂までの参道の風景です。
お堂
手水舎
仏像
鐘楼堂銅鐘と境内社
境内鐘楼堂の銅鐘(県指定文化財)は、信州から引きずって運んだ「引き摺りの鐘」として知られ、現在でも時を告げております。
歴代上人墓所の隣には、ケヤキの巨木に挟まれて、豊臣秀吉配下の戦国大名加藤光泰の墓(市指定史跡)があり、金堂裏の阿闍梨の井戸など、伝説に彩られた史跡も、周囲に点在しております。
http://www.kai-zenkoji.or.jp/syoro.html
金堂
金堂・山門は、寛政八年(1796)に再建されたものです。
善光寺建築に特有の撞木造(しゅもくづくり)とよばれる形式で、総高27メートル、総奥行49メートルという、日本有数の木造建築として有名で、重層建築の山門とともに重要文化財に指定されております。
http://www.kai-zenkoji.or.jp/kondo.html
金堂下には、「心」の字をかたどる、お戒壇廻りもあり、鍵を触れることによって、御本尊様と御縁を結んでいただけます。
金堂の扁額。
甲斐善光寺の概要
項目 | 内容 |
---|---|
山号 | 定額山 |
院号 | ― |
正式名 | 定額山 浄智院 善光寺 |
開基 | 武田信玄 永禄元年(1558年) |
宗派 | 浄土宗 |
本尊 | 善光寺如来 |
別称 | 甲斐善光寺、甲州善光寺、甲府善光寺 |
札所 | 甲斐百八霊場1番 |
場所と地図
〒400-0806 山梨県甲府市善光寺3丁目36−1