略歴
家系
勝海舟は江戸幕末から明治時代の武士、政治家。江戸生まれ。
文政6年(1823)1月30日-明治32年(1899)1月19日死去。77歳。
旗本小普請組・勝左衛門太郎(勝惟寅(これとら)、勝小吉)の長男。勝左衛門太郎は自伝「夢酔独言」で知られます。
勝家は石高41石余の貧乏旗本でした。勝家は、勝左衛門太郎が婿養子になる形で同家の旗本株を買ったものです。
勝左衛門太郎の生家である旗本男谷(おたに)家も、祖父・男谷検校(けんぎょう)が、金貸しを営んでいた小吉の勝左衛門太郎の父のために買ったものでした。
従兄に剣術家の男谷信友(精一郎)がいます。男谷信友とは血縁上は又従兄で、信友が海舟の伯父に当たる男谷思孝(彦四郎)の婿養子に入ったことから系図上は従兄になります。
勝左衛門太郎は無役で、市井で無頼の生活を送っていたため、勝家の周辺は庶民の雰囲気がありました。
通称麟太郎(りんたろう)、名は義邦、昇進して安房守(あわのかみ)を称しましたが、維新後は安芳(やすよし)と改称し、これを戸籍名としました。
海舟は号。佐久間象山直筆の書、「海舟書屋」からとったものです。
幼少期
幼少の文政12年(1829)、男谷の親類・阿茶の局の紹介で第11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(後の一橋慶昌、12代将軍徳川家慶の五男)の相手をつとめました。
9歳の頃、狂犬に睾丸を噛まれて70日間生死の境をさまよいます。
これがトラウマとなり犬が大の苦手となります。
一橋家の家臣になる可能性がありましたが、一橋慶昌が天保9年(1838)に早世したためその望みは絶たれます。
剣術を従兄の男谷信友の道場、後に信友の高弟・島田虎之助(島田見山)に直心影流を学び、直心影流の免許皆伝となり、その代稽古を勤めるほどでした。
続けて島田のすすめで西洋兵学を究めるため永井青崖について蘭学を修業。その勉強ぶりは有名で、入手しにくい蘭書を所有者の家に半年間通って書写したといわれます。
本所に育ちましたが、蘭学修学の便のため赤坂に移ります。
蘭学者・佐久間象山の知遇も得て、象山の勧めもあり西洋兵学を修め、嘉永3年赤坂田町に兵学塾をひらきます。
ペリー来航時にはしばしば上書してその識見を幕府有司に知られ、江戸で有数の蘭学兵術家でした。
出仕から咸臨丸での渡米まで
安政2年(1855)、大久保忠寛(一翁)に推挙されて蕃書翻訳所に出仕します。
同年、海防掛視察団に加わって伊勢および大坂湾一帯の防備体制を調査、おなじく同年、長崎の海軍伝習所で航海術をペルス=ライケンやカッテンデイケらに教わり習得しました。
安政5年(1858)3月と5月に海舟は薩摩を訪れて斉彬と会っています。
斉彬が藩主になる前に江戸で交流していたこともありました。
安政6年(1859)、江戸に戻ると軍艦操練所教授方頭取となります。
万延元年(安政7年)(1860)日米修好通商条約批准使節の新見正興に随従して、遣米使節の随行艦・咸臨丸(かんりんまる)の事実上の艦長として太平洋を横断します。
幕府使節の中に福沢諭吉がいましたが、この時の様子を福沢諭吉は痛烈に批判しています。
神戸海軍操練所
帰国後、文久2(1862)年幕政改革の一環で軍艦奉行並に抜擢されました。
文久3年4月には第14代将軍・徳川家茂の大坂湾視察を案内して神戸海軍操練所設立許可を取り付けます。
幕府と西南諸藩「一大共有之海局」に仕立て、欧米の侵略に抵抗する東アジアの拠点に育て上げようとの構想を持ちました。
神戸海軍操練所では広く人材育成に努め、幕臣だけでなく坂本竜馬ら脱藩志士も門人として育成しました。
元治1(1864)年5月、神戸操練所発足とともに正規の軍艦奉行に昇格します。
元治1年7月の禁門の戦争以降の、幕権保守路線に抵触して10月に江戸へ召還されます。罷免されて寄合入り。操練所は閉鎖されます。
元治元年9月11日の大坂において西郷隆盛と初めて会いました。この神戸海軍操練所があった期間に、木戸孝允らとも接触がありました。
江戸無血開城
慶応2(1866)年、第2次征長戦争の際に跡始末のために軍艦奉行に復任し、会津・薩摩間の調停や長州との停戦交渉に当たります。フランスと手を組む幕府の小栗忠順ら主戦的な流れから孤立していきます。
慶応4年(明治1年)(1868)鳥羽伏見で敗れた徳川慶喜が江戸に戻ってきた後は、陸軍総裁、若年寄となりました。
戊辰戦争で官軍が駿府城にまで迫ると、早期停戦と江戸城無血開城を主張しました。
江戸が新政府軍に囲まれたとき、幕府側代表として江戸総攻撃予定日の前夜に池上本門寺で西郷隆盛と談判して、江戸無血開城を実現します。
大政奉還にも尽力します。
維新後
維新後は、新政府の誘いを断ってしばらく徳川家と共に駿府(静岡)に移りましたが、新政府の相談に与って東京に出ることが多かったようです。
第13代将軍徳川家定の御台所だった天璋院篤姫のところに御機嫌伺に行っていました。
明治2年(1869)兵部大丞に就任、明治5年には新政府の海軍大輔となります。
明治6年(1873)10月の政府大分裂のあとは海軍卿兼参議となりますが、明治7年の台湾出兵に不満で辞任。
明治6年には不和だった福澤諭吉らの明六社へ参加。
明治10年代にかけては在野で西郷隆盛復権の運動などにかかわりました。
明治20年伯爵。
明治21年枢密顧問官。
旧幕臣で新政府に出仕したため、折り合いが悪かった福沢諭吉に「痩我慢の説」で非難されました。
晩年
官位辞職ののちは徳川家の後見と旧幕臣の生活救済につとめました。
徳川慶喜には幕末の混乱期に何度も意見が対立し疎まれていましたが、明治政府に赦免させることに尽力しました。
慶喜は明治2年9月28日に謹慎解除され、明治31年(1898)3月2日に公爵を授爵しました。
明治25年(1892)に海舟は長男小鹿を失い、溝口勝如を通して慶喜に末子・精を勝家の養嗣子に迎え、小鹿の娘伊代を精と結婚させることを希望し慶喜と和解しました。
明治政府の欧米寄りを批判し続けて清国との提携を説き、日清戦争には反対でした。
興亜会(亜細亜協会)を支援。
足尾鉱毒事件を手厳しく批判し、田中正造を支援しました。
哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力しています。
山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末三舟の一人。
著作「まがきのいばら」「亡友帖」「断腸の記」「幕府始末」「外交余勢」「海軍歴史」「陸軍歴史」「吹塵録」など。
談話の筆記に「氷川清話」「海舟座談」。
明治32年(1899)1月19日没。墓所は、別邸「洗足軒」のあった東京都大田区洗足池畔。