覚書/感想/コメント
前作で倒れてしまった夏木権之助。中風、つまりは脳卒中などの脳血管障害である。中は「あたる」と読むので、つまりは「風にあたる」ということになる。が、なんで「風にあたる」と脳血管障害を起こすのかわからないが、東洋医学ではそういうのだろう。
さて、倒れてからようやく目を覚ました夏木権之助。奇跡的に言語障害も記憶障害もないが、左半身が全く言うことを聞かなくなってしまっている。
もどかしい気持ちを抑えながら、懸命に左手や左足の復帰に努める。
夏木権之助がこのような状況なので、初秋亭に持ち込まれる事件は藤村慎三郎と七福仁左衛門の二人でこなすことになってしまう。
もっとも、夏木が活躍する場面はあるのだが…。
さて本書は、というより、このシリーズは藤沢周平の名作「三屋清左衛門残日録」を彷彿とさせる。
本作では夏木権之助が中風で倒れる。「三屋清左衛門残日録」を読まれた方なら、途中で清左衛門の旧友・大塚平八が中風で倒れたことを覚えているかもしれない。そして、中風で倒れた旧友の大塚平八が歩行訓練をしている圧巻の場面を思い出すだろう。
本作では、この「三屋清左衛門残日録」程の名場面とはなっていないが、違った趣があって、それはそれでよい。
前作の最後で、藤村慎三郎が隠居して最も必要なのは友じゃないかと叫んだのをちゃんと踏襲して、夏木権之助を藤村慎三郎と七福仁左衛門の二人が励まし、友の快復を支えている。
このシリーズのテーマの一つは隠居後の友情だろう。「三屋清左衛門残日録」でもそのテーマはあったが、表には出ていなかった。このシリーズではそれを前面に出している。
前作では夏木権之助の身に大変なことが起きて終わった。本作では、七福仁左衛門の身に災難が降りかかったようである。本書内で伏線が色々と張り巡らされているが、正確なことは次作へ持ち越しである。一体何が起きたのか?
内容/あらすじ/ネタバレ
中風に倒れた夏木権之助は目を覚まさないでいる。奥方の志乃が付きっきりで看病をし、医者の寿庵が診察をしていた。
藤村慎三郎と七福仁左衛門は隠れ家遊びが夏木の病気を引き起こしたと思い、やめようと考えていたが、志乃がそれはやめてくれという。夏木が目を覚ました時にそれを知ったら残念がるだろうからというのだ。
隣の番屋に詰めている番太郎の源さんが藤村たちに用事があってやって来た。一昨日、昨日と、家の者を縛って猿轡をしただけでいなくなる、変な出来事が起きているのだという。物取りではないらしい。
倅の康四郎たちは伝説の泥棒・荒海新五郎を追っている。この程度事件なら、藤村たちで充分だった。
入った男は畳に耳をつけていたという。まさか。藤村はもぐらといわれる手法を思った。そうしているうちに、もう一件入られた家がある。
その三軒を結んだ真ん中に一件の仕舞屋があった。荒海新五郎が狙っていると言われる千秋屋の妾の家だった。
夏木が目を覚ました。だが、左半身がまるで動かない。
藤村と仁左衛門は海の牙で飲んでいた。私設の飛脚である十七屋・良太と知り合い、面白い話を聞く。
北町にある仕舞屋に住む女が良太にわざわざ頼むのはおにぎりなのだという。芝口にあるおやじのところに運ぶのだ。
その話を聞いたある日、良太が傷だらけになって海の牙に入ってきた。おにぎりを運んでいる時に襲われたのだという。一体、何の秘密がおにぎりに隠されているというのか?
八百屋若松屋の主・多兵衛が初秋亭に頼み事に来た。裏にある蔵の中から古ぼけた甲冑が見つかったのだという。先祖の中には侍はいなかったといい、そうしたものを集める好事家もいなかったという。
夏木の倅・洋蔵を連れて、若松屋にいった。洋蔵は全く値打ちのないものだという。だとすると、一体何でそんなものが蔵にあるのだ。
表を歩いていると藤村は気がついたことがある。質屋があり、その裏は若松屋と隣り合っているのではないか。
藤村康四郎が番屋に詰めていると、男が入り込んできて、おたまが殺されると呟いた。あたしが殺してくれと頼んでしまったともいった。おたまとは弁慶屋のおたまだという。知らないがと首とひねっていると、男の首に矢が刺さって、男は死んでしまった。
屋の羽根から殺し屋の黒羽錦二郎と思われる。依頼主を殺しても、依頼された殺しは遂行する。でなければ、次の仕事が来ないからだ。
岡っ引きの鮫蔵は竹二郎という男を怪しいと睨んでいた。だが、竹二郎は鮫蔵に見張られているのを承知しているらしい。
そんな中、竹二郎の住む目の前の矢場で体中に矢が刺さって死んでいる女が発見された。竹二郎をしょっ引こうと思ったが、竹二郎の所からでは目の前に障害物があって矢は打てないことがわかった。それに弓矢が見あたらない。
行き詰まった中、弓の名人の夏木に相談することにした。
夏木と藤村、仁左衛門は年内に夏木が初秋亭まで歩けるかどうかの賭けをした。
辻番をしている弥平という老人が藤村たちに相談に来た。半月ほど前から三日おきくらいに、目の前を助六が通りすぎるのだという。芝居で人気のある役柄だ。一体何のためにやっているのかを知りたいという。でないと気味が悪いのだ。
なるほど、そうしたのが通りすぎた。だが、男は老人、女の格好もして一人三役をこなしているらしい。どうやら、傑作狂言「助六所縁江戸桜」の役を演じているらしい。その男が殺されて見つかった。
そもそも、男はなぜそのような格好をしていたのか。藤村は男をまねて助六の格好をして、殺された男が歩いていた道を歩いてみた。
本書について
風野真知雄
大江戸定年組3 起死の矢
二見文庫 約二八〇頁
江戸時代
目次
第一話 猿轡の闇
第二話 立待の月
第三話 尚武の影
第四話 起死の矢
第五話 鎌鼬の辻
登場人物
藤村慎三郎…元北町奉行所定町回り同心
夏木権之助…旗本の隠居
七福仁左衛門…町人の隠居
加代…藤村慎三郎の女房
藤村康四郎…倅
おさと…仁左衛門の若い女房
鯉右衛門…仁左衛門の倅
志乃…夏木権之助の女房
洋蔵…夏木の三男
小助…夏木権之助の妾、深川芸者
寿庵…医師
入江かな女…俳諧の師匠
安治…「海の牙」の主
鮫蔵…深川佐賀町の岡っ引き
長助…下っ引き
菅田万之助…町回り同心
源…番太郎
おふみ
荒海新五郎…泥棒
良太…飛脚
おたね
多兵衛…八百屋若松屋
おしん…娘
丈吉…手代
黒羽錦二郎…殺し屋
竹二郎
おたま…弁慶屋
弥平…辻番
大野木万五郎